夕方の大浴場は、湯気が天井まで立ち込めていた。
脱衣所で制服を脱ぐ。ボタンを一つずつ外して、上着を畳んで、棚に入れる。シャツを脱ぐ。スカートを脱ぐ。下着を取る。
服を脱ぐたびに、隠せるものが減っていく。
制服を着ていれば、わたしの体はたぶん普通に見える。小柄で、細くて、どこにでもいる十六歳の女の子。襟を正せば、鎖骨の跡も見えない。
全部脱ぐと、そうはいかない。
鏡がある。脱衣所の壁に、大きな姿見が取り付けてある。見たくなくても目に入る。
鎖骨から首にかけて、皮膚がひきつれている。火傷の古い跡。赤くはない。
もうとっくに治って、白っぽく引きつった肌が残っているだけだ。でも形が大きい。掌で覆えないくらいの範囲で、鎖骨の左端から首の付け根まで広がっている。
腕は細いが、力を入れると筋が浮く。肩も背中も、十六歳の女の子がつける筋肉じゃない。
走り込みと剣振りと、荷物を担いで夜通し歩いたことでできた体。両手の指の関節が硬くて太い。剣のタコ。柄を握り続けてできた硬い皮が、指の付け根と掌に残っている。
鏡に映っている体は、わたしの体だ。見慣れている。二年間ずっとこの体で過ごしたのだから、見慣れていないわけがない。
手ぬぐいを持って、浴場に入った。
湯船は広い。二十人くらいが同時に入れる大きさで、石造りの縁が低くて、入りやすい。床と壁は石造りで、天井が高い。湯は火属性の魔法石で温めている。
床下に魔法石が埋め込んであって、水路に流した水が浴槽に届くまでに温まる仕組みだと、入学初日に寮の案内係が説明していた。
薪で大量の湯を沸かせば森が丸裸になる。魔法石なら燃料がいらない。
だから王都にはこういう大浴場がある。水道と魔法石のある都市だけの贅沢だ。
ヴェルダにはなかった。魔法石のインフラを敷けるような金も技術もなかった。
体を洗うのは川か、雨水を桶に溜めるかだった。冬は濡れた布で体を擦るだけのこともあった。湯に浸かるなんて、山奥の温泉でも見つけない限り、ありえないことだった。
窓がないから湯気が逃げなくて、視界が白い。湯の匂いと石鹸の匂いが混じっている。
数人がすでに湯に浸かっていた。同じクラスの子もいる。顔は覚えているけど、名前はまだ全員分覚えていない。
体を洗う場所に腰かけて、湯を汲んだ。手ぬぐいで体を拭いていると、視線を感じた。
右斜め後ろ。
湯気の向こうから、誰かがこちらを見ている。
顔を上げたら、目が逸れた。二人組の女の子。一人がもう一人の耳元に何か囁いて、そちらも視線を逸らした。
背中を洗う手を止めない。
止めたら、気づいていることが伝わる。
もう一つ。
左の湯船の端にいる三人組が、こっちを見ていた。
見ているというか、見えてしまったという顔をしていた。
火傷の跡に目が行って、それから腕の筋肉に目が移って、顔を伏せた。
ひそひそ声が湯気に紛れて聞こえる。
「あの子、ヴェルダの……」
「戦争で……」
「あんなに……」
語尾が湯気に溶けていく。全部は聞こえない。でもだいたいわかる。傷のこと。体のこと。どうしてあんな体なのか。
わたしは体を流して、湯船に入った。
肩まで沈む。
お湯が温かい。
鎖骨の跡が水面に沈んで、見えなくなる。
温かさが、肩から背中に染みていく。力を入れっぱなしだった筋肉が、お湯の中でゆるゆると解けていく。肩甲骨のあたりが特に硬い。剣を振ると肩甲骨に負荷がかかる。前線ではそれを解す暇がなくて、ずっと硬いまま走り続けていた。
今、湯がそこに入っていく。硬い場所に温かさが届く。体の内側が、じんわりと温まる。
気持ちいい。
お風呂は好きだ。
毎日お湯に浸かれるのは、この学院の一番いいところかもしれない。
前線ではお湯なんて出なかった。川で体を洗った。春と秋は水が冷たくて、歯を食いしばりながら頭から水を被った。流れが速い日は足元を取られそうになりながら、片手で岩を掴んで、片手で体を擦った。冬は川に入れないから、濡れた布で体を拭いただけだった。
水浴びの間は無防備だ。裸で川にいるときが一番危ない。だから必ず見張りを立てた。見張りがいないときは、一人で水に入って、周囲の音を聞きながら急いで洗った。体を洗うのに安心したことは、一度もなかった。
ここでは違う。壁に囲まれて、湯気に包まれて、敵の気配を気にしなくていい。湯に浸かっているだけでいい。
それだけのことが、贅沢だ。
視線くらい安いものだ。
見られるのは仕方がない。隠せるものじゃない。風呂も、着替えも、実技もある。体は見られる。見られて、噂になる。それはもう、ここに来た時点でわかっていた。
わたしが隠せるのは、傷の理由だけだ。
どこで。
どうやって。
この体になったのか。
鎖骨を触った。お湯の下で、指先が引きつれた肌をなぞる。もう痛くない。とっくに治った傷だ。
襟で隠しているのは、傷そのものじゃない。
聞かれることだ。
「どうしたの?」と聞かれて、何て答えればいいのかわからないから、見せないようにしているだけだ。
でも、お風呂では隠せない。
まあ、いいか。
見たい人は見ればいい。
聞いてこなければ、何も困らない。
お湯が温かい。
それだけで、今は十分だ。
部屋に戻ると、ミラがベッドの上に座っていた。
おさげを解いて、髪を乾かしている。ミラは先にお風呂に入って戻ったらしい。
「おかえり、リーネちゃん。長湯だった?」
「うん、気持ちよくて出られなかった」
「わかる。わたしも最初の三日くらい、お湯から出たくなかった」
ミラが笑った。
わたしも笑った。
タオルで髪を拭きながら、寝巻きに着替える。シャツのボタンを留めていく。寝巻きは制服より薄い。襟が浅くて、鎖骨の跡が少しだけ見える。
ミラの方を見た。
ミラはベッドに座ったまま、髪を梳かしている。
大丈夫だ。
見ていない。
寝巻きのボタンを上まで留めようとした。
一番上のボタンに手をかけたとき、ミラが顔を上げた。
目が合った。
ミラの視線が、わたしの手元に移った。
襟元に。
ボタンを留めかけた指の隙間から覗いている、鎖骨の引きつれた跡に。
ミラの目が、傷の上を走った。
止まった。
戻った。
聞きたい顔をしている。
口が開きかけた。
閉じた。
わたしは襟元に手をやった。
隠す癖。
でも今さら遅い。
見られた。
一秒。
二秒。
ミラが口を開いた。
「ねえ、リーネちゃん、シャンプーどっち使う? わたし花のやつが好きなんだけど、リーネちゃんはどっちがいい?」
棚の上に並んでいるシャンプーの瓶を指差している。花の絵が描いてあるのと、柑橘の絵が描いてあるの。二つ。
わたしは目を瞬いた。
大浴場の連中は、目を逸らすか、噂するか、聞きたがるか、どれかだった。
ミラはどれでもなかった。
「……花のやつ」
「やった! おそろい!」
ミラが嬉しそうに笑った。おさげを解いた髪が揺れている。シャンプーがおそろいなだけで、こんなに喜べる人がいる。
拍子抜けした。構えていた自分が、馬鹿みたいだ。聞かれたら何て答えようかと、考えていた自分が。
なんだか、楽だった。
ミラは焼き菓子の袋を取り出した。
「はい、寝る前のやつ」
「まだあるの、それ」
「母さんが大量に送ってくれたの。リーネちゃんにも食べてほしいって書いてあったよ」
「お母さんに会ったこともないのに」
「手紙で『ルームメイトの子にもよろしく』って。母さん、そういう人なの」
粉砂糖のついた焼き菓子を受け取った。口に入れると、甘い。いつもの甘さ。ミラの母さんの甘さ。
「おいしい」
「でしょ」
ミラが自分の分を頬張って、教科書を開いた。歴史の年号と格闘している。ぶつぶつ呟きながら、暗記カードをめくっている。
「ねえリーネちゃん、ラウル暦三三四年って何があったか覚えてる?」
「全然」
「だよね! わたしも!」
二人で笑った。
「明日ブラント先生の小テストでしょ。やばいよ、わたし」
「わたしも。暗記科目は苦手なんだよね」
「リーネちゃんは実技で稼げるからいいよ。わたしなんか実技も筆記もだめだったら終わりだよ」
ミラの声が一瞬だけ硬くなった。すぐに戻ったけど、聞こえた。冗談で言っているようで、冗談じゃない声。
聞き流した。ミラが話したくないことを引き出す気はない。さっきミラがわたしにそうしてくれたように。
「じゃあ一緒に覚えよう。ラウル暦三三四年は……」
「何?」
「……わかんない。一緒にわかんないから、一緒に覚えよう」
「それ、何の意味もないじゃん」
ミラが笑った。今度はさっきの硬さがない笑い声だった。
ミラの笑い声は大きい。消灯前なのに、隣の部屋に聞こえそうな声で笑う。前線にいた頃は、大きな声を出す人間は真っ先に狙われた。でもここは前線じゃない。大きな声で笑っても、誰も狙ってこない。
消灯まで、二人で暗記カードをめくった。結局、ラウル暦三三四年が何だったかは思い出せなかった。
「明日朝イチで教科書見よう」とミラが言った。「うん」と答えた。明日の朝、焼き菓子を食べながら教科書を開く。たぶんそれでも覚えられないけど、まあいいか。
消灯の鐘が鳴った。ミラが教科書を閉じて、ランプを消す。
「おやすみ、リーネちゃん」
「おやすみ」
暗くなった。
しばらく経った。
ミラの寝息が聞こえる。早い。横になって二分くらいで寝ついた。寝つきのいい人間は、安全な場所で育った人間だ。暗くなったら寝る。起きたら朝。それが当然の人生を送ってきた人間の体。
わたしの体は、そうなっていない。
ベッドに入って、目を閉じている。
まだ眠れない。
慣れない場所だから、だと思う。学院に来て一週間も経っていない。もう少し経てば、慣れるだろう。
窓の外を見た。
二階。窓枠から地面まで四メートルくらい。飛び降りても骨は折れない。
窓の正面に木立がある。走り込めば隠れられる。
別に飛び降りる予定はない。
でも確認しないと落ち着かない。出口がどこにあるか。いざとなったらどう逃げるか。
確認するのは癖だ。癖。
部屋は暗い。
静かだ。
ミラの寝息と、窓の外の虫の声。
それだけ。
静かすぎる。
前線では夜も音があった。
風の音。遠くの砲声。見張りが交代する足音。
何かが聞こえていれば、何が起きているかわかる。
音があれば状況がわかる。状況がわかれば、対処できる。
ここには何の音もない。
何が起きているかわからない。
わからないことが、落ち着かない。
落ち着かないだけだ。
怖いわけじゃない。
ただ、体が力を抜かない。
ベッドが柔らかくて、体が沈む。
沈むと動けない。
動けないと逃げられない。
壁側に寄る。
背中が壁に触れると、少しだけ楽になる。
背中だけは守られている。
毛布を肩まで引き上げた。
目を閉じる。
暗闇の中に、戦場が来る。
順番はない。
脈絡もない。
ただ来る。
隣で寝ていた兵士の寝息が、夜中に止まった。
朝になっても動かなかった。
揺すったら、体が冷たかった。
顔は穏やかだった。
寝ている顔のまま死んでいた。
名前は覚えている。
顔も覚えている。
その日の任務も覚えている。
覚えていないのは、そのあと何を感じたかだけだ。
何も感じなかったのかもしれない。
夜通し動かなかった敵の足音が、夜明け前に聞こえた。
気配を殺して一晩中待っていた。
草の匂いと、土の湿り気と、自分の呼吸の音だけがあった。
足音が近づいてきて、止まって、また遠ざかった。
あのとき、止まった足音が近づいてきていたら、わたしは斬っていた。
結局来なかった。
来なかったから、わたしは寝ないまま朝を迎えた。
斬った相手の顔。
驚いた顔をしていた。
自分より年上だった。
名前は知らない。
斬る前に名前を聞く暇はなかった。
斬ったあとに名前を知る必要もなかった。
でも顔は覚えている。
驚いた顔。
まさか自分が死ぬとは思っていなかった顔。
火が回る建物の中を走った。
誰かが叫んでいた。
助けを求める声だった。
走った。
止まらなかった。
止まったら死ぬから。
助けなかった。
雨の夜。泥の中を這って移動した。膝と肘が泥に沈んで、重くなった体を引きずりながら前に進んだ。隣を這っていた仲間が、ぱたりと動かなくなった。声をかける余裕はなかった。追い越して、前に進んだ。振り返らなかった。振り返る余裕のある場所では、誰も死ななかった。
どれも、はっきり覚えている。思い出そうとして思い出すのではない。
目を閉じると来る。勝手に来る。呼んでいないのに、暗闇の中に並んでいる。
別に嫌だとは思わない。嫌だとか辛いとか、そういう感じはない。
ただの記憶だ。起きたことの記録。
なのに、体が起きている。頭は眠りたがっている。瞼は重い。疲れている。
なのに、体が許可を出さない。筋肉が緩まない。いつでも起き上がれるように、体が構えている。
ここは安全だ。鍵がかかっている。敵はいない。
砲声も聞こえない。ミラが隣で寝息を立てている。
わかっている。
頭ではわかっている。
体だけが、信じていない。
しばらくして、浅い眠りに落ちた。落ちたというより、意識の表面が薄くなった。眠りと覚醒の境目が曖昧になる。体は力を入れたまま、頭だけが沈んでいく。
夢を見た。
同じ断片だった。
寝息が止まった兵士。
足音。
驚いた顔。
火。
叫び声。
同じものが、夢の中でも繰り返された。少し歪んでいる。順番が入れ替わっている。でも同じだ。
目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。
「変な夢」
声に出して言ってみた。小さな声だ。ミラは起きなかった。
まあいいか。
夢は夢だ。明日も授業がある。もう少し寝よう。
目を閉じた。
また来るかもしれない。来たら来たで、別にいい。慣れている。慣れない場所に慣れるまでの、一時的なことだ。たぶん。
朝になったら、起きて、制服を着て、襟を正して、食堂に行く。
パンを食べて、授業を受けて、笑う。
それだけだ。それだけの毎日を、ここでやっていく。
枕に顔を押しつけた。
柔らかい枕。前線の枕は丸めた軍服だった。
ここの枕は羽毛で、ふかふかしていて、顔を押しつけると頬が沈む。
目を閉じた。
今度は何も来なかった。
来ないうちに、眠れるといい。
ミラの寝息が聞こえる。穏やかな呼吸。安全な場所で育った人の呼吸。
朝、目が覚めたとき、枕を握りしめていた手が白くなっていた。