最後の候補が壇を降りると、講堂の扉が閉められた。
さっきまで外へ開いていた三つの出口のうち、後ろの扉と左手奥の扉に上級生が立つ。
逃げ道を塞いだわけではなく、投票が終わるまで出入りを止めるためだ。
わかっているのに、目が先に壇の右の通用口が開いていることを確かめた。
壇の脇に一列で並ぶ、四人ぶんの候補者用の椅子へ戻った。
隣の候補は、さっき読んだ演説原稿を膝の上できれいに揃えていた。
わたしの原稿はまだポケットの中にあり、座ると四つ折りの角が脇腹に当たる。
ユリウスが壇上へ出た。
「これより投票を行う。投票用紙には、副会長候補四名のうち一名の氏名を記入してほしい。無記名だ。候補者以外の氏名、複数名の氏名、判読できない記載は無効票とする」
講堂の前から回ってきた小さな投票用紙が、列ごとに後ろへ送られていく。
候補者には来ず、自分へ入れることはできない決まりらしい。
まあ、来ても困るし、自分の名前を自分で書くのは立候補届だけで十分だ。
生徒たちは膝の上で紙へ名前を書くと、伏せて二つに折る。
前の列から順に立ち、講堂の中央に置かれた木箱へ入れていく。
木箱は三つあり、貴族の家から入った生徒、平民枠で入った生徒、属国から送られた生徒にそれぞれ一つずつ割り当てられていた。
学院の名簿が最初から分けているので投票用紙も投票箱も別になり、名前は書かなくてもどの枠の票かは残る。
わたしとナタルは、いちばん小さな箱を見ることになる。
列が動き出した。
ミラは紙を握って歩いてくると、箱の前で一度こちらを見て口をぎゅっと結び、紙を落とした。
次の列にいるルチアの頬には、泣いた跡がまだ残っていた。
箱へ紙を入れる手は、いつものようにゆっくりだった。
ナタルは属国出身者の列にいたが、列といっても前後には誰もいない。
足音を立てずに歩いて小さな箱へ紙を入れ、戻る途中でわたしを見たが何も言わなかった。
ヴィクトルが中央の箱へ紙を落としたが、底へ当たる音は聞こえない。
マーレンも同じ箱へ二つ折りの紙を指から離して落とし、こちらを見ずに席へ戻った。
誰が何を書いたかは見えず、そのために折っている。
やがて最後の一人が席へ戻ると、上級生が投票箱の蓋を閉める。
開票は、壇上で行われた。
生徒会の役員が二人ずつ箱につき、一人が紙を開き、一人が名前を読み、もう一人が石板へ線を足す。
候補者本人と教員が見ている前で数えることになり、最初は貴族の箱だった。
「エーリヒ・ベルガー」
石筆が鳴る。
「エーリヒ・ベルガー」
また一本。
「ハンナ・ロート」
別の欄に一本。
「エーリヒ・ベルガー」
「オスカー・ハイム」
「エーリヒ・ベルガー」
名前が続く。
自分の名がなかなか来ないが、来なくてもおかしくはなかった。
わたしは壇上で投票してくださいとも、副会長になったら何をするかとも言わなかった。
人を殺したことと、教科書が嘘を書いていることと、眠れない夜のことを話した。
選挙で選びやすい候補ではない。
「リーネ・カルヴァス」
石筆がほんの一拍だけ止まり、数えている上級生がわたしを見てから、すぐ石板へ一本引く。
あった。
貴族の箱から、わたしの名前が出た。
誰だろうと思ったが、すぐに考えてもわからないと気づいた。
折られた紙には名前が一つだけあり、書いた人の顔はない。
次にわたしの名が出るまで、ずいぶん長くかかった。
貴族の箱が空になったとき、わたしの欄に引かれた線は二本だった。
二本。
少ない。
でも一本ではなかった。
次に開けられた平民枠の箱は、貴族の箱よりずっと小さい。
それでも、わたしの名前はさっきより多く出た。
「リーネ・カルヴァス」
「ハンナ・ロート」
「リーネ・カルヴァス」
「エーリヒ・ベルガー」
名前が読み上げられるたび、石板に白い線が増える。
五本目が引かれたところで、箱が空になった。
属国出身者の箱には紙が三枚だけ入っており、わたしとナタルを除いて学院にいる属国出身の生徒は三人だ。
同じ国の出身とは限らず、話したことのない上級生もいる。
「リーネ・カルヴァス」
一本。
「オスカー・ハイム」
一本。
「リーネ・カルヴァス」
二本。
合計は九票になった。
一位のエーリヒ・ベルガーは八十七票だった。
二位は五十一票。
三位は二十四票。
わたしは九票。
無効票が一票。
僅差ではない。
数え直しても、順番はひっくり返らない。
わたしの票を全部一位へ足しても、何も変わらないくらい離れていた。
ユリウスが結果を書いた紙を受け取り、壇の中央へ立った。
「副会長当選者、二年B組、エーリヒ・ベルガー」
拍手が起きた。
今度は講堂のほとんどから、揃って響いた。
演説のあとに起きた拍手より大きく、迷いがない。
当選した人が立って深く頭を下げ、膝の上に揃えていた原稿を椅子へ置いて壇上へ向かう。
わたしが拍手をすると、手のひらがぶつかる。
痛くはなく、右手の甲の白い痕が叩くたび見えたり隠れたりした。
ちゃんと負けた。
壇上で話した言葉が届いたのかもしれない、という逃げ方ができないくらい、ちゃんと負けた。
拍手と票は同じではなく、演説を聞いて手を叩いた人の全部がわたしの名前を書いたわけではない。
聞いてよかったと思うことと、副会長にしたいと思うことが同じではないのは当たり前だ。
頭ではきれいにわかるのに、胸の下だけがきれいに並ばなかった。
息を吸うと、肋骨の内側に硬いものが当たる。
喉は昨日から痛いままで、目の奥も熱くなった。
負けても死なない。
罰はなく、食事も出るし部屋にも戻れる。
なのに、痛かった。
聞かなければと思いながらも、ユリウスがほかの役職について読み上げる名前と票数は耳を通り抜けていく。
膝の上で組んだ手の指が冷たい。
笑えばいいと思った。
九票も入ったんですよ、と言えば、たぶんみんなもわたしも困らない。
口の端を上げようとしても、うまく上がらなかった。
先に喉の奥が狭くなって息が鼻へ抜けたが、それでも頬は少し動いた。
笑顔になったのかは、自分ではわからない。
全部の結果が読み終わり、扉の前にいた上級生が横へ退くと、講堂の空気が一度に動く。
椅子が鳴り、生徒たちが立ち、当選者の周りへ人が集まった。
わたしも立ち、一歩踏み出したところでミラが列の間を走ってきた。
「リーネ、かっこよかったよ!」
声が大きく、まだ講堂に残っている人が何人もこちらを見た。
「うん。負けちゃった」
声に出すと変な音になり、笑っているのに泣く直前みたいに喉が震えた。
ミラはわたしの前で止まり、何か言い返そうと口を開いて閉じ、それからもう一度開く。
「それとこれとは別! 演説は、ほんとに、ほんとにかっこよかった!」
「二回言った」
「二回じゃ足りないもん!」
その後ろから来たルチアは演説のときから泣いていたので、もう目の周りまで赤い。
「ルチア、まだ泣いてる」
「誰のせいだと思ってるの」
「わたし?」
「そうだよ」
返事は怒っているみたいなのに、声が途中で崩れた。
ルチアは手を伸ばしかけて胸の前で止め、掌を上に向けて、わたしが決められる距離で待っている。
今日は指先を置けたが、握るところまではいかなかった。
触れた指が震え、ルチアの手の上で小さく跳ねる。
ルチアは追わず、掌をそのままにしてわたしの指先だけを受けた。
「残念だったね」
「うん」
「勝ってほしかった」
「わたしも」
言ってから、自分の声に驚いた。
勝ってほしかった、と言われたから合わせたのではなく、勝ちたかった。
九票より八十七票がよく、壇上で当選者として名前を呼ばれたかった。
ポスターに書いたことを生徒会へ持っていきたかったし、負けてもいいと思って立ったわけではなかった。
「うん。勝ちたかった」
二度目は喉の震えが少し減り、ミラが鼻をすすった。
「わたし、入れたからね」
「無記名」
「いま自分で言ったから、もう記名!」
「そういうものかな」
「そういうものなの!」
ミラは投票箱へ入れたあとで、自分から紙に顔を描いた。
ルチアは言わず、わたしも聞かなかった。
触れている指先へ少し力が返ってきたので、それで十分だった。
「九票だった」
後ろからナタルの声がして、振り向く。
ナタルは椅子の列の端に立っており、人の間を抜けてきたのにやっぱり足音がしなかった。
「うん」
「ゼロじゃない」
「うん」
「負けは負けだ」
「うん」
そこで会話が終わると、ナタルの口元がほんの少しだけ上がった。
笑ったのか、そう見えただけなのかはわからず、次に瞬きをしたときにはいつもの顔へ戻っていた。
ミラが振り返る。
「ナタル、それ慰めてる?」
「事実を言った」
「もうちょっとこう、あるでしょ」
「何が」
「よくやった、とか!」
ナタルはわたしを見た。
「よくやった」
「言わせた! わたしが言わせた感じになった!」
「お前が言えと言った」
「そうだけど!」
喉の奥から出た短い音は、今度は笑顔ではなく笑いだった。
笑うと喉が痛いのは、昨日叫びすぎたせいだ。
痛いのに、もう一度出た。
人の輪の外から、当選者への挨拶を終えたらしいユリウスが、進行表を脇に抱えて近づいてきた。
「カルヴァス」
「はい」
「票は届かなかった。でも、来年は」
「来年は来年で考えます」
言葉を重ねると、ユリウスが口を閉じた。
「今日は今日です」
今日の負けを来年の準備にされるのは嫌だったし、来年に立つかどうかも決めていない。
今日、九票で負けたことは、来年の途中ではない。
ユリウスは少し黙ってから頷いた。
「そうだな。今日は今日だ」
進行表を持ち直す。
「悔しいか」
「はい」
「僕もだ」
ユリウスはそれだけ言い、制度の話も次の機会の話もしなかった。
講堂の前では教員たちが固まって話しており、ドルフはこちらを見たが近づいてこなかった。
演説の途中から動かなかった顔が、まだ同じ形をしている。
隣の教員が何か言うと口元を硬く結び、別の二人は「選挙で扱う話ではない」「学院の場で教科書を嘘と呼ぶとは」と声を抑えながらこちらへ背を向けた。
わたしの名前が二本しか出なかった大きな箱を、上級生たちが運び出していく。
貴族の家から来た生徒のほとんどはわたし以外の名前を書き、教員席には演説のあとも拍手をしなかった手があった。
大勢は動かなかった。
話せば全部変わるとは思っていなかったが、それでも九という数は思っていたより小さかった。
小さいものは、小さい。
ゼロではないと言って、大きくしてはいけない。
講堂の後ろの壁には、演説の日だけ普段の廊下から移された候補者全員の選挙運動用ポスターが並んでいた。
当選した人のポスターの前には、さっそく何人か集まっていた。
わたしのポスターにも、ミラが清書した三行が見えた。
決まりからこぼれた困りごとを聞かせてください。
選ばれたら、生徒会へ持っていきます。
できない約束はしません。
約束の二つ目は、選ばれなかったからできなくなった。
それは嘘をついたことにはならないが、もう壁に残しておく言葉でもなかった。
「あとで、あれ剥がしておくね」
ミラがポスターを見上げた。
「一緒にやるよ」
「一枚だけだよ」
「一枚でも」
「じゃあ、あとで」
そう答えたところで、前の扉から別の上級生がミラを呼んだ。
投票用紙を配るのを手伝った人らしく、返すものがあるらしい。
ルチアも当選した会計候補へ挨拶を頼まれ、ナタルは人が増えた入口を見て壁際へ一歩寄る。
「先に戻ってていいよ」
ミラがすぐに眉を上げた。
「でも」
「ポスターは逃げないから。わたしも、すぐには剥がさない」
閉会後の講堂にはまだ人が多く、脚立もポスターを留めた紐を切る小刀も、上級生が片付けに使っている。
今すぐ一人でやるとは言っていないのに、ミラは何度もこちらとポスターを見比べた。
「絶対待っててね」
「うん」
「勝手にやったら怒るから」
「わかった」
三人がそれぞれ呼ばれた方へ行くと、わたしは候補者の椅子へ戻り、ポケットから四つ折りの原稿を出した。
開くと、右へ倒れた字が並んでいる。
最後まで読まなかった原稿は、持って帰ることにした。
講堂を出ると、廊下の窓から冬の光が入っていた。
放課後の鐘まではまだ少しあり、授業は選挙のために休みになっていたが、寮へ戻るには早い。
人の流れを避けて歩き、階段の手前で止まると、赤い髪が窓のそばにあった。
マーレンが一人で立っている。
通り過ぎるなら廊下の反対側に十分な幅があるが、そうしようと思ったとき、マーレンがこちらを向いた。
「カルヴァス」
足を止める。
「うん」
マーレンは窓から離れて、わたしの前へ立った。
腕は組まず、手を体の横へ下ろしたままにしている。
「あんたの演説、聞いた」
「うん」
同じ講堂にいたので知っているが、そういう返事を求めているのではない気がした。
「兄のことも話した」
「うん」
「自分が殺したことも」
「うん」
窓の外で枯れた枝が風に揺れ、ガラスへ細い影が動く。
マーレンの目は演説のあとと同じように少し赤いが、泣いたのか寒いからなのかはわからない。
「もう、許すとも許さないとも、言わない」
「うん」
その言葉が何を意味するのか、全部はわからなかった。
前に放課後の教室で向き合ったとき、マーレンは兄を殺したのはわたしの仲間だと言い、わたしはそうかもしれないと答えた。
許してほしいとも、許さないでほしいとも言わなかった。
マーレンがそのあいだに何を考えたのか、わたしは知らない。
食堂でヴィクトルへ言い返した理由も、演説を聞いて何を決めたのかも知らない。
見えるのは、目を逸らさず立っていることだけだ。
「ただ、あんたが逃げなかったのは、わかった」
マーレンの声は硬かった。
「それだけ」
「うん」
ありがとうと言うのは違う気がしたし、嬉しいと言うのも許されたみたいで違う。
言葉を探しているうちにマーレンは横を通り過ぎ、背中へ声をかけることはできなかった。
足音は一定の速さで階段を下りていき、途中で止まらない。
和解ではない。
マーレンの兄が死んだことは何も変わらない。
わたしが人を殺したことも、あの人の仲間がわたしたちに殺されたかもしれないことも変わらない。
背を向けられる前に正面から言われても、それ以上の意味をわたしが勝手に足してはいけない。
人がいなくなるのを待ってもう一度講堂へ戻り、後ろの扉を押す。
重い木が石の枠から離れると、中には誰もいなかった。
椅子はまだ演説のときと同じ向きに並んでいる。
壇上の演台だけが端へ寄せられ、投票箱のあった中央には四角い跡が残っていた。
石の床を歩く自分の足音が、天井から遅れて返ってくる。
静かな講堂で、足が止まりかけた。
壇の右の通用口。
正面の入り口。
左手奥の扉。
三つとも見えるが、誰もいない。
足の裏に靴底の硬さがあり、ここは講堂だ。
入学式の日、わたしは後ろの壁際に座り、正面の入り口までの距離、壇の脇の通用口、左手奥の扉を見た。
隣の人の手、斜め前の人の肩、腰に武器がないことを順番に確かめた。
誰が敵になりうるか。
どこから出られるか。
何があれば隠れられるか。
あの日の講堂は座る前に生き残り方を決める場所だったが、今日はあの壇上で負けた。
後ろの壁へ向かうと、ポスターはほかの候補のものと並んだままだった。
当選者の紙の右下には結果を示す小さな札が留められているが、わたしの紙には何もない。
壁の高いところへ上下二本の紐で留められているが、椅子を一脚借りれば届く。
近くの椅子の背へ手をかけた。
後ろで、扉が鳴った。
肩が上がり、椅子を引く手へ力が入って、脚が石の床を擦った。
振り向くと、入口に女の子が立っていた。
一年生の学年章。
顔は見たことがあるが、同じ教室ではない。
投票のとき、平民枠の列から箱へ紙を入れていた。
名前は知らない。
女の子は扉を閉めずに片手で押さえたままこちらを見て、わたしが振り向くと肩を小さくすぼめる。
右手に何も持っていない。
左手も見える。
武器はない。
そこまで見てから、自分がまた数えていたことに気づいた。
「どうしたの?」
できるだけ普通の声で聞くと、女の子は口を開いてすぐ閉じ、廊下を振り返る。
逃げるなら扉は開いており、わたしからではなく、この子のための出口みたいだった。
「あの」
小さな声が、広い講堂に吸われそうになった。
「うん」
「わたし、あなたに入れました」
椅子の背を掴んだまま、動けなくなった。
九票のうちの一つ。
平民枠の箱に入っていた五枚のどれかだが、あのときは顔まで覚えるつもりで見ていなかった。
いまは、耳の下で切り揃えた淡い茶色の髪まで見える。
「演説、聞いて」
女の子の指が、扉の縁を撫でた。
「うまく言えないんですけど。わたし、戦争のこと、よく知りません。教科書に書いてあることしか」
「うん」
「でも、聞いてよかったって思って」
目が一度だけ合い、すぐに逸れる。
「それだけ、言いたくて」
扉から手が離れた。
「あ」
ありがとう、と言おうとした。
女の子はもう廊下へ出ており、追いかけるほどの距離ではないのに足が動かなかった。
扉がゆっくり戻って石の枠へ当たると、重い音がして、講堂にまたわたし一人になった。
名前を聞けず、ありがとうも言えなかった。
でも、顔は見た。
一年生の学年章。
耳の下で切り揃えた淡い茶色の髪。
扉の縁を何度も撫でていた指。
声を出す前に、二回口を閉じた。
九票という数字の中に、その子がいる。
石板に引かれた五本の線のどれかが、さっきの指で折られた紙だった。
胸の奥が痛んだが、負けたと呼ばれたときの硬い痛みとは違う。
同じ場所が内側から少し熱く、痛いのか温かいのか、すぐにはわからなかった。
目の奥がまた熱くなり、今度は喉だけではなく鼻の奥まで詰まった。
勝ちたかった。
九票しかなくて、悔しい。
八十七票と呼ばれた人の隣で拍手をしたとき、本当は自分の名前を呼ばれたかった。
それと一緒に、嬉しかった。
名前も知らない人がわたしの話を聞き、副会長として何をするかも話さなかったわたしの名前を紙へ書いた。
聞いてよかったと言うためだけに、空になった講堂まで戻ってきた。
悔しいのと嬉しいのが同じところにあり、片方ずつではない。
悔しいから嬉しくないわけでも、嬉しいから負けてよかったわけでもなく、両方が一度に来て胸の中でぶつかっている。
前ならどちらも遠く、仲間が死んでも泣かなかった。
砂糖漬けを食べるまで好きというものを自分の中に見つけられず、負けても生きているならいいと笑えた。
今は、負けたことが痛い。
一票が温かい。
整理できないまま目から水が落ち、頬を拭くと口元が動いているのがわかった。
笑顔を作った覚えはなく、泣いているのに少し笑っていた。
「リーネちゃん!」
入口から声が響き、ミラが立っていた。
その横にルチアがいて、少し後ろにナタルがいる。
三人とも息が上がっており、ミラが講堂へ入ってくる。
「一人で片付けるつもりだったの?」
頬を膨らませている。
「待ってたよ」
「待ってない! もう椅子動かしてる!」
「まだ剥がしてない」
「そういう問題じゃないの!」
ルチアがわたしの顔を見て、泣いた跡に気づいたらしく、何があったの、と聞きかけるように口を動かす。
でも聞かず、代わりに壁のポスターへ手を伸ばした。
「上の紐、わたしが外すね」
「椅子に乗るなら、押さえるよ」
「リーネは乗らないで」
「どうして?」
「今、手が震えてるから」
見下ろすと、本当に震えていた。
投票のときのような冷たい震えではなく、指先が細かく動き、止めようとすると余計にわかる。
「じゃあ、お願い」
椅子を壁へ寄せてルチアが乗り、わたしとミラで左右から背を押さえた。
ナタルは壁際に立って、こちらを見ている。
まだ壁際で、人がいなくても背中を石につけられる場所を選ぶ。
でも、いる。
ルチアが上の紐を一つ外すと紙の右側が垂れ、ミラが慌てて受け止める。
「危ない危ない」
「紙は落ちても怪我しないよ」
「そういうことじゃないの。折れたら嫌でしょ」
「持って帰るの?」
「当たり前じゃん。わたしが書いたんだから」
「わたしのポスターだよ」
「字はわたしの!」
「二人の、でいいんじゃない?」
椅子の上からルチアが言うと、ミラは少し考え、紙を両手で支え直した。
「じゃあ三人の」
「ナタルは?」
わたしが聞くと、壁際から低い声が返った。
「わたしは書いてない」
「持ってもいない」
「いまから持つ」
ミラが当然みたいに言い、ナタルは答えなかった。
下の紐はわたしの肩より少し高いところにあるが、手を伸ばせば届く。
結び目へ指をかけた。
「……負けたなあ」
声が出ると、ミラが紙の端を持ったまま笑う。
「それ、もう百回言ってるよ」
「まだ五回くらいだよ」
「気持ちでは百回!」
ルチアが椅子から降りた。
「でも、立ったでしょ」
その短い言葉は、立ったから勝ちとも、立てたから負けではないとも言わなかった。
わたしは壇上に立った。
選ばれるために立って、選ばれなかった。
両方とも本当だ。
結び目を引くと紐がほどけ、ポスターの左側が壁から離れ、紙が一枚ぶんこちらへ倒れてくる。
ミラが右下を持っている。
ルチアが上の端を押さえる。
わたしは左下の紐を握っている。
ナタルは壁から背中を離し、音のない足で近づくと、何も言わず誰も持っていなかった左上の角を掴んだ。
四人で壁からポスターを外すと、紙の裏にこもっていた冷たい空気が指の間へ抜ける。
ポスターのなくなった壁には四角い跡が残り、周りの石は人の手や埃で少しくすんでいるのに、紙に隠れていたところだけが白い。
入学式の日、わたしはこの後ろの壁に背をつけ、講堂にいる人間の手と腰を一人ずつ見ていた。
今日は同じ壁の前で、ミラが右下を持ち、ルチアが右上を持ち、ナタルが左上を持っている。
わたしの手には、左下の紐がある。
名前も知らない女の子が開けた扉は、もう閉じていた。
それでも、耳の下で揃えた淡い茶色の髪と、扉を撫でていた指は、九という数字の中から消えない。
勝ちたかった。
負けて悔しい。
そのまま、四人で一枚の紙を持っている。
勝ち負けの外にあるものは、空になった講堂の後ろで、四つの手のあいだに残っていた。