襟のいちばん上のボタンが、今日は一度で穴を通った。
留めた指で布を引き上げると、鏡の中から左の鎖骨に残った跡が見えなくなった。
右、左、後ろと確かめても、制服の襟に折れたところはなく、学院章も曲がっていない。
昨日と同じ制服だった。
向かいのベッドでは、ルチアが水色のリボンを髪へ結んでいる。
鏡を使っていたわたしの肩越しに目が合うと、ルチアは結び目を直してから振り向いた。
「おはよう、リーネ」
「おはよう」
声が少し掠れたのは、昨日の演説で叫びすぎたせいだ。
水を飲んで寝たのに、喉の奥に薄い傷が残っている。
ルチアはわたしの顔を見て、喉のことを聞くのかと思ったが、先に自分の襟を示す。
「後ろ、入ってない?」
栗色の髪の下で、白い襟の端が少し折れていた。
「入ってる」
「やっぱり」
ルチアが後ろを向く。
手を伸ばせば直せる距離だったが、指は襟へ届く前に肩の近くで止まった。
「右側。髪の下」
「ここ?」
「もう少し下。うん、そこ」
ルチアが自分で布を引き出して鏡へ向き直ると、襟はまっすぐになっていた。
「ありがとう」
「見てただけだよ」
「見てくれたでしょ」
そういうものらしい。
ルチアは机の上の鞄を持ち、わたしはベッドの脚に立てかけていた鞄を肩へかけた。
窓の留め金は起きたときに確かめ、下の木立も見たから、あとは掛け金を外せば部屋を出られる。
いつもの朝だ。
扉を開けると、隣の部屋も同じところだった。
ミラが後ろ手に扉を押さえながら廊下へ飛び出し、片方のおさげを肩の前、もう片方を背中に垂らしている。
「おはよう、リーネちゃん!」
「おはよう」
「ルチアも、おはよう!」
「おはよう、ミラ」
ミラの後ろから出てきたナタルは、扉が戻らないよう手を添え、ミラが廊下へ出たのを確かめてから掛け金の側を見た。
「朝から声がでかい」
「朝だからだよ」
「意味がわからない」
「ナタルもおはよう」
「……おはよう」
四人で階段へ向かうと、ミラがわたしの横へ並んだ。
二段下りるあいだ黙っていたので、ずいぶん長く我慢したほうだと思う。
「昨日の演説、ほんとかっこよかったよ」
「それ、昨日も聞いた」
「今日になってからは初めて」
「日が変わったら数え直すの?」
「そう」
迷いのない返事に、後ろでルチアが笑ったらしく、小さく息を漏らした。
わたしも口元が動いた。
昨日、講堂で泣いたときに出たものとは違い、困らせないために先に出す形でもない。
ミラが朝から変なことを言うので、その分だけ遅れて出た。
喉が少し痛かった。
食堂の壁際には、今日も四人ぶんの席が空いていた。
出口に近く背中を壁につけられる席へわたしが座ると、ルチアが隣に盆を置き、ミラとナタルが向かいへ回った。
いつもの配置だ。
ミラは座りきる前にパンをちぎった。
「待てないんだな」
ナタルが汁物の器を置く。
「だって冷めるじゃん」
「パンは冷めてる」
「気持ちの話」
「もっとわからない」
わたしもパンをちぎると、手はいつもの速さで動いた。
昨日、壇上で、今も気づくと先に食べ終わっていると話した。
話した翌日でも、体は急がなくていい食べ方を覚えていない。
二口目を飲み込んだところで、通路の向こうにヴィクトルが見えた。
黒い髪と広い肩は人の間でも見つけやすく、ヴィクトルは盆を片手に、同じ組の男子とこちらへ歩いてくる。
この先の席へ行くなら、わたしたちのテーブルの横を通る。
反対側にも通路があり、少し遠回りになるが、そちらからも同じ場所へ行ける。
前なら、ヴィクトルはそちらへ曲がった。
誰かと一緒にいるときは、わたしの近くを通りたくないことが見えないくらい早く進む向きを変え、別の通路を選んでいた。
今日は曲がらなかった。
こちらを見たヴィクトルと視線が合うと、その顎はいつもの高さに戻っていた。
何も言わずテーブルの横を通り過ぎるあいだに、盆の上の匙が器へ当たり、軽い音を立てた。
肩に力が入り、右手の指がちぎったパンを潰す。
金属の皿が床に落ちた音ではない。
ヴィクトルも立ち止まらない。
遠ざかった背中はわたしたちの二つ先の席で止まり、同じ組の男子が先に座ると、ヴィクトルは廊下側の椅子を引いた。
そこからならわたしの横顔くらいは見えるが、別の席を探さなかった。
それだけだった。
パンを口へ入れると、指で潰れたところは薄く固まっていた。
「リーネちゃん、汁物こぼした?」
ミラがわたしの盆を覗いた。
「こぼしてないよ」
「パンがへこんでる」
「持ったらへこんだ」
「力入れすぎ」
ミラは自分のパンをちぎり、丸い端のほうをわたしの盆へ置いた。
「交換」
「そっちのほうが大きくない?」
「気のせい」
「いや、大きいよ」
「気持ちの話」
さっきと同じ言葉を使う。
向かいでナタルが汁物を飲んだ。
「便利だな、それ」
ミラが笑い、わたしも笑って潰れたパンをミラの盆へ置いた。
二つ先の席から、椅子を引き直す音はしなかった。
一コマ目は、ドルフ先生の歴史だった。
先生はいつもと同じ時刻に教室へ入り、教卓へ出席簿と教科書を置いてから、黒板の右端に日付を書く。
白墨の細い音が同じ長さで三度鳴った。
「前回は、ヴェルダ南部における王国軍の進駐まで扱いました。本日は山岳部の秩序回復について続けます。教科書の一二八頁を開いてください」
机の上で紙が動き、三十人ぶんの教科書が開かれるなか、わたしも一二八頁を出した。
何度も読んだ頁なので角が少し丸くなっており、試験にも出たところだった。
正当な領土回復、動員範囲の拡大、掃討作戦、秩序ある統治。
昨日、講堂で口にした言葉が、同じ形で紙に並んでいた。
教科書は一晩では変わらない。
「王国軍は長期化する抵抗に対し、山岳部の治安を回復するため掃討作戦を実施しました。抵抗勢力の拠点を除き、街道の安全を確保することで、地域への秩序ある統治を」
ドルフ先生の声も変わらなかった。
ドルフ先生が黒板へ「掃討作戦」と書くと、白墨の線はまっすぐで、昨日までと同じ字だった。
前の席の男子は肩越しにこちらを見て、すぐ教科書へ目を戻した。
左の列で紙が止まり、名前を知らない女子が頁を押さえたままわたしを見ていたが、目が合うと慌てたように俯いた。
後ろでも椅子が小さく鳴ったが、振り向かなかったので、音だけでは誰がこちらを見たのかわからない。
「抵抗勢力は民間の集落へ紛れ込み、補給と情報を得ていました。そのため王国軍は」
先生は一度言葉を切って教室を見回し、わたしのところでも一瞬止まった。
でも教科書へ目を落とすと、続きを読んだ。
「周辺集落から抵抗勢力を切り離す必要がありました」
焼かれた村とは言わない。
人が住めなくなったとも、そこに子供がいたとも書いておらず、先生の口から出る言葉も同じだった。
斜め前の生徒が、一二八頁の端へ指を置いた。
昨日、講堂で拍手をしていたかは覚えていないし、投票箱のどれへ紙を入れたかも見ていない。
その指が、「周辺集落」の行をゆっくりなぞる。
前までは試験に出る場所を追う指で、今日もそうかもしれないが、一度、行の途中で止まった。
顔がこちらへ向く。
わたしの村は焼かれました。
昨日の声を覚えているのかは聞けず、何を考えているのかもわからない。
見られたことだけがわかる。
もう一人がこちらを見て、それから別の一人も、教科書とわたしの間で目を動かした。
全員ではない。
ヴィクトルは教科書を開いて黒板を見ており、マーレンは先生から目を逸らさない。
ミラのペンは止まり、隣のルチアは一二八頁の「掃討作戦」の下へ細い線を引いていた。
頁をめくるのがほかの人より遅いナタルは、まだ一二七頁の最後を読んでいた。
いつもの教室で、ドルフ先生はいつもの教科書を、いつもの声で読んでいる。
それなのに、紙の上の言葉から顔を上げる人がいた。
先生が黒板へ次の年号を書くと、わたしもノートを開いて同じ年号を書いた。
試験では教科書にある答えを書かなければ、点は取れない。
右へ倒れた自分の字の下に「掃討作戦」と写し、その横へ何かを書き足そうとした。
村は焼かれた。
昨日ならそのまま書けた言葉だが、これは授業のノートで、いま先生が話していることを写す場所だった。
ペン先を離すと、余白が一行ぶん残った。
鐘が鳴るまで、その白いところは埋まらなかった。
昼は中庭の石のベンチへ行った。
背後に壁があり、植え込みの向こうに出口が見える。
冬のあいだは座面が冷たく、毎回「お尻が凍る」と文句を言うミラは、今日も同じことを言った。
「食べる前に立てなくなりそう」
「立てなくなったら運ぶよ」
「リーネちゃんが言うと、ほんとに運びそうで嫌」
「運べるよ」
「できるかどうかじゃないの」
ルチアがハンカチを二つ折りにして、ベンチへ敷いた。
「半分なら貸せるよ」
「ルチア、大好き」
ミラがすぐ横へ詰め、二人で一枚の布へ座ろうとしたので、肩がぶつかった。
「狭い」
「ミラが寄りすぎ」
「ルチアが真ん中使ってる」
「二人とも、少しずつ端に行けば?」
「リーネちゃんは冷たくないの?」
「冷たいよ」
前線の冬には、凍った地面へそのまま座った。
だから平気だと言いかけたが、昨日の演説でも前線の話をたくさんしたのでやめた。
いまは、ただ冷たい。
ルチアがこちらを見たので、言い直す。
「わたしのも敷けばよかった」
鞄から出す前に座ったのは自分で、立って敷き直すほどではない。
三人で包みを開く。
今日は固いパンに薄い肉を挟んだものと潰した芋で、朝からあまり時間が経っていないのに、ミラは最初の一口を大きくかじる。
「リーネちゃん、昨日の演説、ほんとかっこよかったよ」
「今日だけで二回目」
「何回言ってもいいの」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも負けたよ」
口にしても、昨日ほど声は震えなかった。
痛くないわけではない。
八十七票と九票は朝になっても縮まらず、当選者は今日から仕事を引き継ぐ。
わたしのポスターは、もう講堂の壁にない。
「うん。負けた」
ミラはすぐ認めた。
「負けたけど、かっこよかった。両方ほんとだから、別々に言ってるの」
「昨日のナタルみたい」
「えっ」
「ゼロじゃない。負けは負けだ、って」
「違うよ! わたしのほうがもっと温かいでしょ!」
「事実は同じだよ」
「言い方!」
ミラがパンを持ったまま空いた手を振りすぎて、肉が端からずれた。
ルチアが笑ったのでつられて口を開くと、声は出る前に喉の傷へ当たり、途中で咳になった。
「大丈夫?」
「大丈夫。昨日の喉」
「あれだけ叫んだら、そりゃ痛くなるよ」
ミラが自分の水筒を差し出す。
「わたしのあるよ」
鞄の横から水筒を持ち上げる。
「持ってるなら飲みなよ」
「いま飲もうと思ってた」
「絶対いま思った」
水を飲むと、冷たさが喉を通り、傷の場所がはっきりした。
ミラの言葉も、そこに残っている。
負けたけど、かっこよかった。
勝てなかったことを小さくせず、壇上へ立ったことを、勝てなかったから無かったことにもしない。
昨日、ルチアに「でも、立ったでしょ」と言われたときと同じだった。
意味を足して勝ったことにはせず、負けたまま別のものを隣へ置く。
「ありがとう」
言うと、ミラが大きく頷いた。
「どういたしまして」
「三回言われたぶん」
「まだ三回じゃないよ。昨日から数えたら、もっと」
「日が変わったら数え直すんじゃなかったの?」
ミラの口が止まる。
ルチアが今度は声を出して笑った。
「ミラ、自分で言ったよ」
「それは朝の挨拶のあとだけ!」
「決まりが増えた」
「いま作ったでしょ」
「うん」
ミラとルチアが笑うので、わたしも笑った。
悔しさはなくならず、笑っているあいだも、胸の下に硬いところが残っている。
でも三人ぶんの包み紙が風で飛ばないよう、石の上へ重ねて置いた。
わたしの上にミラのものを置き、ルチアが水筒で端を押さえた。
放課後、本館二階の廊下でユリウスとすれ違った。
腕には書類を抱え、胸には昨日までと同じ二年生の学年章がある。
互いに一歩ずつ避けて同じ側へ動き、もう一度避けると、また同じ側になった。
「すまない」
ユリウスが足を止める。
「わたしもです」
横を通れるようわたしが窓側へ寄っても、ユリウスは歩き出さなかった。
「……おつかれさま、カルヴァス」
「おつかれさまでした、会長」
ユリウスが書類の端へ指を置いた。
「もう会長じゃないよ。昨日で任期は終わった」
そうだった。
選挙で新しい役員が決まり、新しい会長の名前も開票のあとに聞いたはずだ。
副会長以外の票数が耳を通り抜けて、うまく残っていない。
「じゃあ、レーゲンハルト先輩」
「急に遠くなったな」
「二年生なので」
「昨日までも二年生だった」
「じゃあ、ユリウス先輩」
「まだ堅い」
「ユリウスさん」
口にすると、呼び慣れなかった。
ユリウスが少し笑う。
「さん、か」
「変ですか?」
「変ではない。僕が会長以外の呼ばれ方に慣れていないだけだ」
抱えている書類の一番上には新旧役員引き継ぎと書かれていたが、下の紙は文字が隠れている。
教科書のことかもしれないし、違うかもしれない。
ユリウスは書類を抱え直した。
「喉は?」
「少し痛いです」
「そうだろうな」
それ以上、昨日の演説については言わず、わたしも九票の話をしなかった。
今日は今日だと言ったのは、昨日の自分だ。
廊下の向こうから新しい生徒会役員らしい上級生が二人歩いてきて、片方がユリウスの姿を見つけ、書類を指した。
「レーゲンハルト、引き継ぎの名簿、会計の分が一枚足りない」
「いま持っていく」
ユリウスが答えたが、会長とは呼ばれなかった。
昨日まで会長だった人は、今日から名前で呼ばれて、足りない紙を運んでいる。
「カルヴァス」
「はい」
「また、話そう」
「はい」
何を話すかは決めず、教科書とも選挙とも言わなかった。
ユリウスさんは上級生たちのほうへ歩いていく。
呼び止められると抱えていた書類の中から一枚を抜き、二人で端を持って確かめ始めたところで、わたしは階段へ向かった。
踊り場の窓から、一年A組の教室がある棟の外壁が見える。
外壁は朝と同じ石の色で、その向こうの机の中には、授業で開いた一二八頁と一行だけ余白を残したノートが入っている。
ドルフ先生の字も、ヴィクトルの席も朝のままだ。
階段を下りると、一階の窓から中庭が見えた。
ナタルは一人で歩いており、いつもなら建物の壁に沿うところを、今日は窓の並ぶ側で立ち止まっていた。
窓越しに何を見ているのかは、ここからではわからない。
やがてナタルは壁へ戻らず、窓から差す細長い冬の光の中を、そのまま歩いていった。