窓から差す光は、床の途中で切れていた。
細長い四角の中だけ石が白く、その外はいつもの灰色をしている。
わたしは白いところを抜けて、次の窓から伸びる白いところへ入った。
壁には寄らなかった。
寄らずに歩けるようになったのは今日が初めてではなく、夏の終わりには、もう中庭の通路の真ん中を歩いていた。
最初は広い場所だけで、人が向こうから来れば端へ戻り、足音が増えれば肩が石に触れるまで寄り、今もそういう日はある。
だから、今日のこれは新しくない。
壁から離れている。
足音は消したまま。
一つは前から変わっていて、もう一つは変わらない。
本館の窓が途切れるところで曲がり、渡り廊下を抜けて教官棟へ入ると、外から来た冬の光がなくなり、石の色が均一になった。
廊下の奥には、札のない扉がある。
約束の時刻より早いので、扉まで行かず、階段が見える位置で止まった。
誰もおらず、上の階で椅子を引く音が一度して、廊下の向こうで紙を重ねる音がしたが、どちらも近づいてこない。
右手の人差し指が、左手の親指の爪の縁を一周し、もう一周なぞっていた。
扉が内側から開いた。
「フォルケさん」
エーデルは三歩ほど離れたところで止まった。
髪は後ろで一つに結ばれ、今日も色のない服を着ている。
目尻の皺も、小さくて通らない声も、最初の日と同じだった。
「少し早いですね」
「すみません」
「謝ることではありません。入りますか。それとも、時刻までここで待ちますか」
どちらでもいいとは言わない。
選べと言われている。
「入ります」
エーデルが先に部屋へ入り、わたしはあとから入った。
机と椅子が二脚あり、棚を外した跡が壁に四本残り、窓と扉は一つずつだ。
わたしに渡される椅子からは扉が見え、エーデルは扉へ背を向ける。
リーネも同じ向きに座らされているらしい。
前に椅子の話だけしたが、面談の中身について、わたしたちは話さない。
椅子へ座ると、片手で持てる温度のぬるい茶が出てきた。
両手を塞がないためだと、最初の日に説明された。
最初の日も、されたことや前線の中身は聞かれなかった。
「眠れますか」
最初に聞かれたのは、それだった。
眠れると答えかけると、一晩のうちに何度起きるか、横になるのか座っているのか、朝に顎や手のひらが痛むかを聞かれた。
答えていくと、眠れるという言葉の中身がなくなった。
その次に聞かれた。
「背中を、誰かに向けられますか」
背中、と言われて、食堂でも教室でも石壁のそばを選び、廊下で止まれば肩を壁につけ、寝るときも壁側にいる自分を初めて見た。
敵だけを警戒していたはずなのに、近い側の人間が敵で、それから見えない側を作れなくなった。
「今週は、眠れましたか」
今日のエーデルの声で、最初の日が終わった。
湯呑みの縁に親指を置いても、茶は揺れない。
「三日は、朝まで」
「途中で一度も起きずに」
「一日は、一度起きました」
「残りの三日は」
「二回と、三回。あとの一日は、横になれませんでした」
エーデルは良かったとも、増えましたねとも言わず、机の上の紙に何かを書いてペンを置いた。
「朝まで眠れた三日のうち、夢を覚えていた日は」
「一日」
「起きたとき、どこにいましたか」
「ベッドです」
「壁にもたれてはいなかった」
「はい」
「顎は」
舌で奥歯の内側を触ったが、痛くなかった。
「痛くなかったです」
「では、今週、顎が痛かった日は」
「二日」
三日眠れた一方で、二日は噛み、一日はベッドへ横になれなかった。
エーデルは、眠れた三日で噛んだ二日を隠さず、噛んだ二日で眠れた三日も消さない。
「ミラさんは、夜、何をしていますか」
「寝ます」
「その前です」
「喋ってます」
「どんなことを」
「授業のこととか。食堂のパンのこととか。昨日は、靴下が片方なくなった話をしてました」
「見つかりましたか」
「枕の下にありました」
エーデルの目尻が少し動いた。
「なぜ枕の下に」
「本人もわからないと言ってました」
ミラは寝る前、返事がなくても喋り、途中で眠くなると話の順番が崩れる。
昨日は靴下を探していた話から、朝のパンの端が焦げていた話へ行き、そこから母親が焦がした焼き菓子の話へ行った。
最後は何の話をしていたのかわからないまま、声が止まった。
横になれば二分で眠るのは、最初の夜から変わらない。
「ミラさんが眠ったあと、あなたは彼女を見ますか」
「見ます」
「何を確かめますか」
「手。毛布の外に出ていれば。あと、呼吸」
「武器を持っていないか」
「はい」
即答した。
「今も」
「今もです」
「毎晩」
答える前に、親指が湯呑みの縁を半分進んだ。
最初の夜はミラの手をずっと見ており、菓子を棚に置く指が震えていた。
眠ってからは、あの手が動けば自分も動けるよう、枕の横に投げ出された手を見た。
しばらくは、毎晩だった。
「毎晩では、ないです」
「見ない夜がありましたか」
「あったと思います」
「覚えている範囲で構いません。いちばん最近は」
昨夜。
ミラの声が途中で止まり、寝息へ変わったとき、わたしは壁側のベッドに横になっていた。
向かいを見ればミラの顔があり、片手は毛布の中だった。
見える手は一本だけだった。
もう一本を確認しようと思ったところまでは覚えている。
次に目を開けたときは、窓が白かった。
「昨夜です」
「手を確かめずに眠った」
「片方は見ました」
「もう片方は見なかった」
「……はい」
エーデルが紙へ一行書いた。
「今、どう思いますか」
「危なかったと思います」
「何が起きる危険がありましたか」
近い側にいる人間を見ないことまでは出たが、ではミラが何をするのかと考えると、何も続かなかった。
毎晩くだらない話をして返事を待たずに眠り、朝になれば自分で蹴った毛布のせいで寒いと文句を言うミラしか出てこない。
「……わかりません」
「わからない」
「ミラが何をするのかは、出てこないです。でも、確認しなかったのは危ない」
「体はそう覚えているんですね」
エーデルは、そんな危険はないとも、ミラを信じなさいとも言わない。
「ミラさんに、背中を向けたことは」
「ありません」
答えてから、昨夜の起き方を思い出した。
窓が白かった。
顔の前に壁があった。
わたしのベッドは壁側だ。
壁を見ていたなら、背中は部屋へ向いていた。
向かいのベッドへ。
「……ありました」
「いつですか」
「昨夜。起きたとき、壁を向いてました」
「眠るときは」
「ミラのほうを見てました」
寝ているあいだに寝返りを打ち、自分で決めてもいないのに体が動いた。
音がすれば固まり、扉が軋めば息を止め、夢を見れば奥歯を噛む体が、昨夜はミラを見ない向きを選んだ。
「それは、良くなったということですか」
聞くと、エーデルはすぐに答えなかった。
「私が決めることではありません」
机の上で両手を組む。
「昨夜、あなたは朝まで眠った。起きたとき、ミラさんへ背中を向けていた。顎は痛くなかった。確認できるのはそこまでです」
「はい」
「今夜は同じ向きで眠れないかもしれません」
「戻ることもある」
「あります」
「壁にも」
「もちろん」
即答だった。
「壁へ戻ってはいけない、と決めたら、壁から離れることが新しい命令になります。あなたは命令を守るのが上手すぎる」
湯呑みを持つ指に力が入った。
命令なら、窓際に座れと言われれば座り、背中を向けろと言われれば怖くても動けるが、それでは前線と同じだ。
「壁は背後を一つ塞ぎます。筋の通った選び方ですから、捨てる必要はありません」
エーデルは窓へ目を向けた。
「ただ、壁の代わりに信じられるものを背中に置けるといい。窓でも、人でもいい」
わたしが黙ると、エーデルは閉じた窓を指した。
「窓は人のように勝手に近づきません。留め金を自分で確かめられ、振り向けば外が見えます」
「割れます」
わたしが言うと、エーデルは頷いた。
「割れます」
「外から何かが来るかもしれない」
「来るかもしれません」
「試すかどうかは、あなたが決めてください。だめなら壁へ戻っていい」
「戻っていいんですね」
「戻っていいです」
「今日は、ここまでにしましょう」
エーデルが紙を揃えた。
立ち上がる前に茶を飲み切ると、ぬるかった茶は、もう少し冷たくなっていた。
扉へ手をかける。
「フォルケさん」
振り返る。
「今夜、何かを試す必要はありません」
命令にしないためだ。
「はい」
返事をしてから、それも命令への返事と同じ音だったと思った。
部屋へ戻ると、ミラが床に膝をついていた。
ベッドの下へ上半身を入れて足だけを出し、靴下は両方履いている。
「何してる」
「石筆が逃げた」
「逃げない」
「転がったの」
ベッドの下から声が返ってくる。
机の上には教科書が三冊重なり、開いたノートの上に石板が置かれ、石筆が一本なくても棚に予備が二本ある。
「予備を使えばいい」
「あれ、書きにくいんだもん。先が丸いから字が太くなる」
ミラの足が動き、かかとが床を擦った。
「あった」
床から起き上がると、おさげの片方に埃がつき、手には石筆があった。
「ほら」
「あったな」
「ナタル、いま絶対ないと思ってたでしょ」
「あるなら探さないだろ」
「正しいけど、言い方が冷たい」
ミラは口を尖らせ、石筆を机へ置いた。
その拍子に積んでいた教科書の一番上が滑り、床へ落ちる。
重い音がした。
肩が上がった。
右手が腰へ行きかけ、途中で止まる。
武器はない。
教科書。
床。
ミラの靴。
三つ。
ミラは落ちた教科書を拾い上げた。
「ごめん」
「いい」
「びっくりした?」
「した」
答えると、ミラは教科書を胸へ抱えた。
前なら、していないと言った。
言えば話が終わる。
終わったほうが楽だった。
「気をつけるね」
「落とさないのは無理だろ」
「無理かな」
「お前は昨日も匙を落とした」
「あれは落としたんじゃなくて、置く場所を間違えたの」
「床に置いた」
「だから間違えたんだよ」
何が違うのかわからない。
ミラは教科書を今度こそ机の真ん中へ置き、椅子に座った。
「面談だった?」
「うん」
それ以上は聞かない。
最初のころは、聞かないために別の話を探しているのが、急に飛ぶ話題と少し高くなる声でわかった。
今は、聞かないまま普通に次へ行く。
「今日の歴史のノート、見せて」
「同じ授業にいただろ」
「ナタルのほうが後ろだから、黒板の下のところ見えたでしょ。わたし、前の人の頭で最後の一行見えなかったの」
「お前の字のほうが読みやすい」
「見えなかったら書けないじゃん」
ノートを渡すと、ミラは自分のものと横に並べ、最後の一行を書き写した。
丸い字は行の高さが揃い、一文字ずつの間隔も同じだ。
わたしの字は標準語の形に慣れておらず、読むのも書くのも遅い。
教科書をめくると、ほかの生徒より一頁遅れる。
「ここ」
ミラがわたしのノートを指した。
「何」
「この字、線が一本足りない」
「読める」
「読めるけど、試験で減点されるよ」
石筆で足りない線を示し、直そうとして手を止めた。
「これ、わたしが書き足したら、ミラの字になっちゃう」
「一本だけだろ」
「一本でも。ナタルが自分で書いたほうがいい」
渡された石筆を受け取って線を一本足すと、元の字より少し長くなった。
「長い」
「長いけど、ある」
「それでいいのか」
「ないよりは」
ミラは自分のノートへ戻った。
何をされたかは知らず、知っているのは、夜に叫ぶことと眠れない日があることくらいだ。
屋根の上で聞いた話のどこまで覚えているのかも知らない。
知らないから線が一本足りない字の話をし、知らないまま同じ部屋にいて、石筆を拾い、教科書を落とす。
リーネの隣では、あいつが聞かなくてもわかるから黙っていられる。
同じ天幕の匂いと同じ夜の足音を知り、言わなくても、言わないところの形までわかる。
それは今も楽だ。
でもリーネと二人で夜を過ごせば、どちらかが起き、片方が眠れば、もう片方が見張る。
寝息の間を数え、外の足音を分け、朝まで交代の時刻を待つ。
ミラは見張らず、わたしが起きていても勝手に眠り、朝になれば起きて片方の靴下を探す。
ミラは、夜には何も起きないということを、何も説明せず毎晩繰り返した。
消灯の鐘が鳴るまで二人でノートを広げ、ミラは年号を覚えるための語呂をいくつも作ったが、三つ目から自分でも混ざり始めた。
間違ったものまで覚えそうなのでやめさせた。
大浴場から戻って窓の留め金を確かめると、内側から下りている。
窓の下には木立があり、その向こうは冬枯れの草地だ。
ドアの掛け金を下ろしたのはわたしで、部屋に一枚しかない扉へ、二つ目の鍵はない。
ミラが窓側のベッドへ入り、毛布を顎まで引き上げた。
「おやすみ」
「おやすみ」
最初の夜には返せなかった言葉が、今は何かを考える必要もなく出る。
壁側のベッドへ横になると、柔らかいマットレスは今でも沈み、最初ほどではないが、背中が沈むと一度肩が硬くなる。
足を床へ下ろせばすぐ立てる位置を探し、体を端へ寄せた。
ミラは話し始めた。
「明日の朝、食堂で冬の果物出るかな」
「知らない」
「この前のやつ、固かったんだよね。歯が折れるかと思った」
「果物で歯は折れない」
「ナタルの歯ならね。わたしの歯は繊細なの」
「同じ歯だ」
「違うよ。わたしのは王都育ち」
「歯に出身があるのか」
「あるかも」
ないと思う。
ミラは朝食の話から、食堂の窓際は朝の光が眩しいという話をした。
東向きの窓から、晴れた日は盆へ光が当たり、汁物の表面が光って見えにくい。
「だからみんな壁側から埋まるんだよね」
「眩しいなら、そっちに座らなければいい」
「でも窓際、外見えるよ。鳥とか」
「鳥」
「冬になると灰色のが来るの。パンの欠片を落とす人がいるから」
「餌をやってるのか」
「落としてるだけ。わざとじゃないよ。たぶん」
最後の言葉が少し遅くなった。
「ミラ」
返事がない。
二分もかかっていない。
寝息が始まる。
深くて、規則正しい。
最初の夜から何度も聞いた音だ。
天幕の誰にも似ていない。
収容所の房の誰にも似ていない。
ミラの右手は毛布の外にある。
左手は見えない。
確認しようと思えば、起き上がればいい。
向かいのベッドまで三歩。
毛布をめくる必要はない。
位置を変えれば、枕の横にあるかどうか見える。
右手は力が抜けている。
指は少し曲がり、何も握っていない。
左手は見えない。
目を閉じた。
耳が廊下の音を拾う。
寮監の足音。
遠くの扉が閉まる音。
隣室で水差しを置く音。
リーネとルチアの部屋だ。
音を数える。
三つ。
四つ目は、ミラの寝息。
目を開ける。
左手はまだ見えない。
壁のほうを向くことはできなかった。
エーデルの言葉を命令にしたくない。
試して戻れなくなるのも嫌だった。
向かいを見たまま毛布を胸まで引く。
背中には壁がある。
壁へ戻った。
戻っていいと言われた。
肩の力が少し落ちた。
落ちたことに気づく前に、ミラの寝息が遠くなった。
朝、声で起きた。
「ナタル、起きて。鐘鳴るよ」
目を開けると、染みのない白い壁が、手を伸ばさなくても届くところにあった。
背中が冷えた。
振り向く。
ミラが自分のベッドの脇に立っている。
制服のいちばん上のボタンを留めながら、こちらを見ていた。
「おはよう」
「……おはよう」
壁を向いて寝ていた。
昨夜は向かいを見たまま眠った。
壁に背中をつけていた。
眠っているあいだに体が返り、背中を部屋へ向けた。
ミラへ向けた。
左手はどうしていた。
毛布の中にあった。
朝になれば、それだけだった。
顎を動かしても痛まず、手のひらにも爪の跡はなかった。
「今日、食堂の窓際に座る」
声が先に出た。
ミラがボタンを留める手を止めた。
「窓際?」
「嫌なら、壁際でいい」
「嫌じゃないけど、眩しいよ」
「知ってる」
昨夜聞いた。
「あ、鳥見る?」
「見るとは言ってない」
「でも窓際なんでしょ」
「座るだけだ」
ミラは少し考えた。
「じゃあ、早く行かないと取られる」
おさげの片方を結び終わっていないまま、鞄へ手を伸ばす。
「髪」
「あとでやる」
「今やれ」
「席なくなる」
「窓際は眩しいから最後まで空いてるんじゃなかったのか」
「今日は晴れてるから、鳥が来るかもしれないでしょ」
やはり何が違うのかわからない。
着替えて部屋を出るために掛け金を外すと、廊下へ出たところで隣の扉も開いた。
ルチアが先に出て、その後ろからリーネが来た。
「おはよう」
ルチアが言う。
「おはよう」
「おはよう! 今日、窓際取るよ!」
ミラがわたしより先に言った。
リーネがこちらを見る。
「食堂?」
「うん。ナタルが座るんだって」
「ミラ」
「何」
「声がでかい」
「朝だからだよ」
昨日と同じ返事だ。
四人で階段を下り、リーネは手すり側でルチアがその隣におり、ミラは二段先から振り向いてこちらを急かす。
わたしは壁側ではなく階段の幅の真ん中を下りたが、足音がしないことは前から変わらない。
食堂には、いつもの壁際の席が空いていた。
出口に近く、背中に石があり、入口と厨房への通路が両方見える。
ミラはそこを通り過ぎた。
東の窓に近いテーブルが一つ空いている。
窓へ背中を向ける椅子と、食堂へ背中を向ける椅子。
左右の椅子からは、窓も入口も半分ずつ見える。
立ち止まった。
窓は閉まっている。
留め金は内側。
窓の向こうには食堂脇の植え込みと、人が通れる道が見える。
背中を窓へ向ければ、入口が正面に来る。
食堂にいる人間の手が見える。
外の道を人が通っても、窓を開けなければその手は食堂の中まで届かない。
窓は割れる。
外から何かが飛んでくるかもしれない。
鳥がぶつかるかもしれない。
壁ではない。
「ここ?」
ミラが聞く。
「ここ」
盆を置いた。
窓へ背を向ける椅子を引く。
椅子の脚が石を擦った。
音がしたが、手は腰へ行かなかった。
座る。
背中に壁がない。
制服の布の向こうに椅子の背があり、その向こうに空気があり、さらに向こうに窓がある。
石の冷たさは来ない。
肩甲骨の間に壁がないことを、体が何度も知らせてくる。
振り返った。
窓。
留め金。
外の道。
灰色の空。
誰もいない。
もう一度正面を向く。
「大丈夫?」
ルチアが聞いた。
「わからない」
「じゃあ、だめになったら移ろう」
壁際の席はまだ空いている。
戻る場所が見える。
「うん」
リーネはわたしの左隣へ座った。
窓を横に見る位置だ。
ルチアは右隣。
ミラは向かいへ回る。
四人とも、いつもの配置とは違う。
「眩しい」
リーネが目を細めた。
「だから言ったじゃん」
「ミラが座ろうって言ったんでしょ」
「ナタルが言ったの」
「ミラ」
「事実だよ」
「声がでかい」
「それ今日三回目!」
三回数えているらしい。
盆の汁物へ朝の光が当たり、表面が白く光って、ミラの言ったとおり中身が見えにくい。
匙を入れると、豆が二つ入っていた。
「今日の、何」
ルチアが器を覗く。
「豆」
「見えない」
「匙を入れればわかる」
「それ、食べるまでわからないってことじゃない?」
リーネが匙を持ち上げると、玉ねぎが一切れ載っていた。
「玉ねぎもある」
「じゃあ豆と玉ねぎ」
ミラが決める。
「たぶん名前は別にあるよ」
「食べたら同じだよ」
リーネが言った。
ミラが匙を止める。
「出た」
「何が」
「リーネちゃんの、食べられればいいってやつ」
「食べ物は食べるものだよ」
「名前も大事なの」
「ミラ、昨日は靴下の場所もわからなかった」
「それはいま関係ないでしょ」
リーネの口元が動いた。
速くなかった。
ミラの言葉が終わり、靴下の話を思い出したらしい間のあとに、息が漏れた。
笑顔を先に出して、何が起きたかをあとから探す速さではない。
前のあいつなら、相手が話し終えるより前に口の端を上げ、もう笑っていた。
怒鳴られない形を先に作り、場が収まればその下を見ない。
今は遅れて、笑う。
選挙に負けたのは二日前で、九票は八十七票に届かなかった。
講堂で、あいつは負けたと言い、二日経った今朝も別のものにして流していない。
「まだ悔しいか」
聞くと、リーネは匙を器へ戻した。
「うん」
笑顔は出なかった。
「勝ちたかったから」
「そうか」
「うん」
それで終わった。
まあいっかとも、九票もあったとも、死なないからいいとも言わない。
負けを別のものへ作り替えず、負けた形のまま盆の横へ置いている。
それがどれだけ難しいかは、知っている。
噛んで殺せば形はなくなり、痛みにすれば、何を感じていたのか考えなくていい。
わたしは今でもそうする。
ミラが匙で器の底を探った。
「豆、もうない」
「さっき二つあった」
「二つしかなかったの?」
「食べたなら、ない」
「最後に一つ残したかった」
ルチアが自分の器を覗き、豆を一つ匙に載せた。
「わたしの、まだあるよ」
「もらう」
ミラが器を寄せるより先に、リーネが言った。
「交換するものは?」
「玉ねぎ」
「それ、同じ汁物に入ってるよ」
「大きいやつ」
ミラが真顔で答え、ルチアの匙の豆と、自分の器から探し出した玉ねぎを交換すると、リーネは少し遅れて息を漏らした。
悔しさは消えていないが、笑っているあいだだけ無かったことにもしていない。
ミラが笑えば口元の動かし方はわかり、ルチアが息を漏らせば、今は笑うところだとわかる。
リーネが遅れて笑うのも見える。
わたしの顔は動かず、動かそうとも思わない。
「ナタル、眩しくない?」
ルチアが聞く。
「眩しい」
「壁際、まだ空いてるよ」
見る。
いつもの席は空いている。
背中に石があり、入口まで最短で動ける席。
今から盆を持って移っても、誰も止めない。
肩甲骨の間が冷たい。
窓の向こうに何もいないと、もう一度確かめたくなる。
「まだ、ここにいる」
「うん」
ルチアはそれだけ答えた。
ミラも何も言わず、パンを汁へ浸した。
部屋には、最初の夜には半分以上空いていたわたしの棚がある。
今は教科書とノートが入り、収容所でもらった書類の束は一番下に収まっている。
ミラの菓子がこちら側へはみ出すので、境目は何度直してもずれる。
同じ部屋には壁側のベッドがあり、扉には内側から下ろす掛け金が一つある。
夜になれば、ミラが喋って途中で勝手に眠る。
村は焼け、人は散り、残った名前は石に刻まれているが、あの石のそばに、わたしの棚もベッドもない。
ここにいる三人は何があったかを知らず、リーネだけは察しているが、全部を聞いたわけではない。
ミラとルチアは、知らないまま四人ぶんの席を取る。
今朝、わたしはミラが廊下へ出るまで扉を押さえ、隣室が開く音を待って、四人で階段を下りた。
背後で、小さな音がした。
硬いものが窓の桟を引っ掻く音。
肩が上がる。
匙を握る。
奥歯が噛み合った。
振り向く。
窓の外側の窓台に、灰色の鳥がいた。
丸い胴に細い脚が二本。
首を傾け、黒い目でこちらを見ている。
きれいだとは思わない。
羽は灰色で、腹のあたりは汚れている。
嘴の端に、乾いたパンの欠片がついている。
鳥だ。
それだけだ。
「来た!」
ミラが声を上げた。
鳥が跳ね、窓を嘴で一度つつく。
硬い音に、握った匙へもう一度力が入る。
「静かに。逃げるよ」
ルチアが声を抑える。
「パンあげていいかな」
「窓、開けるの?」
リーネが留め金を見る。
「開けない」
わたしが言った。
三人がこちらを見る。
「見るだけでいい」
窓を開ければ、背後に穴ができる。
今はできない。
ミラは少しだけ残念そうにしたが、パンを盆へ戻した。
鳥は窓の外で二度跳ねた。
細い爪が桟を擦るたび、背中の筋肉が固くなる。
顎は痛い。
手のひらに匙の柄が食い込んでいる。
息を吐く。
窓。
留め金。
灰色の鳥。
三つ。
まだ肩は下がらない。
ミラの手。
ルチアの水筒。
リーネの白い傷跡が残る右手。
六つになった。
数は余ったが、戻り切らない。
鳥がすぐ後ろにいる。
壁際の空席は、今も見える。
移ることはできる。
盆を持ち、四歩歩き、椅子を引けばいい。
鳥が羽を広げた。
灰色の羽の内側だけ少し白く、朝の光を一度遮る。
飛び立つ音に肩が跳ねた。
窓の向こうを横切り、食堂脇の木を越え、灰色の空へ小さくなる。
きれいではない。
追いかけたいとも思わない。
でも、見えた。
鳥がいた。
飛んだ。
いなくなった。
背中の窓は割れていない。
留め金も下りたままだ。
「行ったね」
ルチアが言う。
「行った」
答える。
匙を握っていた指を一本ずつ開く。
手のひらに赤い線が残り、顎の奥もまだ痛い。
壁際の席は空いたまま朝の影に沈んでいる。
手のひらに赤い線が残ったまま、わたしは窓を背にして椅子の背にもたれていた。