◆ 戦役後精神障害の理解と治療
以下は現在の記述である。名称の制定より後に整えられた理解と手順によっており、ヴェルダ戦争の当時、これを持つ者はなかった。
◇ 現在の理解
症状は、意志の弱さによるものではない。体内に残留した魔力によるものでもない。生命の危険に際して生じた心身の反応が、危険が去った後にも持続した状態として理解される。危険の下では有用であった働きが、危険の外へ出ても止まらない。
反応を引き起こす契機は、患者ごとに異なる。音、匂い、光、接触、静寂、姿勢、時刻。同じ戦場に同じ期間あった者どうしでも、契機は一致しない。症状の組み合わせも、退く順序も、要する年数も一致しない。
従軍時の年齢、捕虜であった期間、性別、いずれの陣営に属したか。これらによって症状の型を定めることはできない。発症の見込みを測る目安として参照されることはあるが、治療の手順を決める根拠には用いない。手順は、目の前の患者の契機と反応に従って組む。
発現の時期についても一定しない。除隊の直後から症状が現れた例のほか、数年を平穏に過ごした後に現れた例が記録されている。後者は、生活が落ち着いた時期、あるいは近親者の死や転居といった変化の後に現れることが多い。危険が去ってから長い時間を経たことを、症状が生じない根拠とはしない。
◇ 治療の原則
現在の課程は、次の五つを原則として置く。
・安全の確保。現在いる場所が安全であることを、言葉ではなく手続きで示す。座る位置を患者に選ばせ、出口の見える椅子を与え、面談の時間と回数を予め示す。
・選択権の返還。話す順序と、話さないことと、途中で止めることを、患者が決める。治癒師の側から体験の詳細を求めない。
・契機の把握。何が反応を呼ぶのかを、患者と治癒師が共に書き出す。除去できる契機は除去し、除去できない契機については対処の手順を用意する。
・現在へ戻る手順。反応の最中に用いる身体の動作を、平時のうちに習得しておく。
・記憶の置き直し。断片となった記憶を、本人が耐えられる範囲で時系列に並べ直す。
治癒師は、忘れさせる者ではない。過去と現在を区別する道具を渡す者として定義される。渡した道具を用いるか否かは患者の判断に属し、効果の有無を治癒師が採点することはしない。
◇ 用いられる方法
現在へ戻る手順として広く用いられるのは、次のものである。息を長く吐く。足の裏で床の硬さと温度を確かめる。目に見える物を数え上げる。いずれも、頭が過去にあるあいだ、身体は現在の場所に接しているという事実に依っている。
これらは反応の最中に初めて試みても働かない。朝の起床時、食事の時、授業や作業の合間といった平時に反復し、身体に覚えさせておく必要がある。習得までに要する期間は一定しない。
面談の場の設えについても、教本に記載がある。患者には出口の見える椅子を与え、治癒師は扉に背を向けて座る。出される茶はぬるくする。熱い器は両手で持たねばならず、患者の手を塞ぐためである。声は低く、量を抑える。聞き取るために患者の側が身を寄せる程度の量が適当とされ、これは患者に主導を残すための工夫として記録されている。
記憶の置き直しは面談によって行う。一度に扱う範囲を限り、その日どこまで進むかを患者が決める。中断した箇所は記録し、次の面談で同じ箇所から始めるか、別の箇所から始めるかを、また患者が決める。
経過は、生活の項目によって記す。眠れた時間、食事に要した時間、選んだ座席、他者との距離、荷物を手放せたか。症状の強さを数える欄は置かない。
家族および同居者に対しては、反応の最中の関わり方を教える。背後から触れないこと。名を呼ぶこと。答えの選べる問いを渡すこと。何があったのかを問わないこと。指導を受けた家では、反応から現在へ戻るまでの時間が短い旨の記載が、複数の治癒院に共通して現れる。反応の最中に触れ、あるいは押さえた例では、その後の面談で患者が同居者を避けるようになった記載がある。
◇ 回復の定義
回復の定義そのものは、名称の制定に先立って実践者のあいだで用いられていたものが、そのまま課程へ引き継がれている。現在の教本が加えたのは、これを日々の記録と、面談の終期の判断へどのように適用するかの部分である。
症状が残ることと、治療が失敗したことを同一視しない。治療の期間は一定せず、停滞と再発を含む。季節、匂い、周囲の出来事によって、以前の水準へ戻ることがある。これも経過の一部として記録し、治療の打ち切りの根拠には用いない。
回復と認めるか否かの判断は、患者の側にも置かれる。治癒師が回復と記した後にも、本人が同意しない例がある。逆に、症状の記載が続いているにもかかわらず、本人が既に足りていると述べて面談を終える例がある。いずれの場合も、本人の申し出をもって終期とすることが原則とされる。
◇ 大陸巡回治癒団
複数の治癒院と、従軍を経た治癒師とが設立した組織である。いずれの国の軍にも属さない。
国籍、従軍した陣営、恩給の資格を、診療の条件としない。戦地および旧占領地へ小規模な班を送る。班は現地の言葉を話す補助員と組む。患者を大きな治癒院へ移送するよりも、その土地の治癒師を育てることを先とする。移送は費用を要し、家と仕事を離れさせ、続けて通うことができないためである。
補助員の役割は通訳にとどまらない。旧占領地では、外から来た者に症状を述べること自体が難しい。誰の家の者であるかを介して人を紹介する土地では、紹介の経路がなければ面談が成立しない。班は、まずその経路を持つ者を補助員として置く。
現地の治癒師の育成には長い年数を要する。教本は整えられたが、実地の課程を修めるまでの期間は短縮されていない。班が一つの土地に留まれる期間との差が、この組織の現在の課題として報告書に挙げられている。
診療の記録を軍および行政へ渡さないことが、設立の際に定められた。現在も条文にある。
◇ 活動の限界
設立は、ヴェルダ戦争の終結から数十年の後である。戦争の直後に症状を抱えた者の多くには、間に合っていない。当時この状態を扱える実践者は大陸の全体で数えるほどであり、その一人に届いた者と、届かなかった者とを隔てたのは、症状の重さではなく、伝手と費用と居住地であった。
班が訪れた土地においても、診療を受けなかった者がある。症状を申し出れば従軍の経歴が知られ、あるいは収容の期間に何があったかが知られるとの懸念による。婚姻および就業への影響を理由に挙げた記載が多い。旧占領地では、王国の様式の書面を用いること自体を拒んだ例が報告されている。
したがって、この組織の記録に現れる人数を、生存者の数とみなすことはできない。記録は、診療を受けることを選べた者の数である。
◇ 記録の様式
記録の様式も変わった。以前の様式は、軍への復帰の可否と、恩給の支給の可否を判ずるために作成された。項目は「任務に復帰したか」であった。復帰した者は回復と記され、復帰しない者は本人の意思に問題があると記された。
現在の様式が問うのは、眠れたか、誰かに背を向けて座れたか、自分で中断を選べたか、行きたい場所へ行けたかである。復帰の可否の欄はない。
これらの項目は、名称の制定より前の時期に、少数の実践者が各自の手帳へ記していたものである。当時それは個人の工夫であり、他の者には通じなかった。現在は教本と実地の課程にまとめられている。
◆ ヴェルダ諸谷の文化
◇ 一つではないヴェルダ
戦前のヴェルダは、公爵を頂点としたが、文化の均質な国ではなかった。氏族が谷ごとに強い自治を持ち、言葉、歌、埋葬の作法、衣服の合わせ、人の呼び方が谷ごとに異なった。
衣服の作りにも差があった。上着の合わせを左とする谷と右とする谷があり、袖口を紐で締める形は山側の谷に多い。埋葬の作法も一様でなく、同じ公国の内に、石を一つ用いる谷と、木の標を毎年立て替える谷とがあった。後年、これらは「ヴェルダの民俗」として一括して記述されたが、当時の住民は、隣の谷の作法を自分たちのものとは考えていない。
後年「ヴェルダ語」と総称されたものは、複数の谷語のまとまりである。谷を隔てれば、同じ語の発音が変わり、意味の範囲も変わった。谷と集落の名の付け方にも規則があり、水場に近い谷と風の抜ける谷とで頭の音が異なった。峠に近い側の集落の名は三音になる傾向があり、峠から離れた側では二音が多い。この規則も、谷ごとに一様ではない。
人を指す際、母の名に「〜のところの」を付けて特定する言い方が、いくつかの谷で用いられた。誰の家の子であるかによって人を示す方式である。王国の登録は家名と住所によって人を特定したため、この方式は登録の様式に対応しなかった。用いられなかったため、後年の文書に現れない。
◇ 担い手
文化の担い手は、国の官庁ではなかった。氏族、家、村の年長者、歌い手、石を彫る者である。文字に残されたものは少なく、大半は口と手によって受け継がれた。
したがって、失われ方も中央から始まらなかった。中央の公文書が失われたのは敗戦の時点であるが、それとは別に、村が一つ焼けるたび、その谷でしか使わない語と、その家でしか知らない歌が失われた。焼失した集落の数と、失われた語および歌の数を対応させる資料はない。
分散していたことは、戦時には抵抗の継続を可能にした。中央が潰れても、谷ごとに指揮が生きた。戦後の保存においては、同じ分散が困難となった。全体を代表して記録を渡せる者が、存在しなかったためである。採録に応じた者は、いずれも自分の谷のことしか語れなかった。
◇ 離散
戦死、捕虜化、集落の焼失、王都および南部への移住、融和政策による若年層の移送により、話者は大陸各地に散った。
移住先では、王国語の登録名と王国語の教育が用いられた。子へ谷語を伝えない家が増えた。聞き取りには、訛りが職と住居を得る際の妨げとなった旨の記載が多い。伝えなかったことを、文化への無関心として記すべきではない。差別を避けるための選択であったことが、記録から示される。
ただし、同じ谷の出身者が近くに集まって住んだ区画では、語が比較的よく保たれた。後年の採録が成果を挙げたのは、こうした区画と、山中に残った少数の集落である。散らばった先で単独の家として暮らした者からは、ほとんど採録できていない。
◇ 言語の現状
後年の言語調査は、ヴェルダの谷語を、消滅の恐れがあるものとして区分した。区分の内訳は一様でない。日常の会話に用いられている谷語がある。祭礼の歌のなかにだけ残っている谷語がある。地名と親族の呼称しか採録できなかった谷語がある。話者を一人も見いだせなかった谷語がある。
話者の数は、ヴェルダ出身者の人口と一致しない。出身者が生存していても、その者が幼少期の語を用いうるとは限らない。移送された年齢が低い者ほど、この差が大きい。聞き取りには、語を聞けば意味がわかるが自分では話せないと述べた例が多く記録されている。
◇ 感謝と親愛の語
三音の同じ語が、感謝と親愛の双方を担う用法が、いくつかの谷で確認されている。ヴェルダ語の全体の特徴として一般化することはできない。他の谷には、両者を別の語で言い分ける例がある。
語義は、文脈と、長音をどこに置くかによって変わる。一音目を長く伸ばし、以下の二音を短く詰める言い方と、三音を平らに置く言い方とで、受け取られ方が異なった。王国語の文字は、この差を書き分ける手段を持たない。近似した綴りを当てるほかなく、辞書の見出しは一つに統合されている。
後年の辞書は、この語の用例を、王都の教育機関へ移された若年の話者から採録したものとして記載する。採録の時点で、その者は谷を離れて数年を経ていた。
◇ 歌
歌は楽譜を持たず、口伝によった。旋律も節の数も谷ごとに異なり、同じ題の歌が別の旋律で歌われる例が確認されている。歌う場も定まっており、婚礼の歌、埋葬の歌、荷を運ぶ道中の歌が、それぞれ別に伝えられた。
保存の活動の初期に採録されたのは十九曲である。記録には、前年に死去した一人が五十曲以上を知っていた旨の付記がある。その差にいくつの歌があったのか、あるいは同じ歌の別の節であったのかを、確かめる手段はない。
十九曲が残った、と記すのは正確でない。十九曲までしか間に合わなかった。
◇ 家の墓石
山地では、掘れる土の場所が限られた。どこであれば掘れるかを、村は代々把握していた。家ごとに場所が定まり、死者を横に並べて増やさず、同じ穴へ順に加える方式が用いられた。石は一つで、腰より低い。正面のみを削り、名を同じ石へ彫り足した。
彫りは浅い。刃物で苔を削れば、字も削れて消える。このため、苔は爪の先で落とすものとされた。手入れは家の者が行い、墓へ来るたびに落とした。
墓石は家系の記録でもあった。誰がいつ加えられたかが、石の面に順に残る。家が途絶えれば、手入れと読み方が同時に失われる。現存する墓石のうち、字を判読できるものは少ない。判読できないものについて、どの家のものであるかを示す資料はない。
◇ 十四枚の石板
戦後の初期に、焼失し、または登録の上で抹消された集落の名を刻んだ石板が作られた。十四枚である。彫ったのは一人で、材は現地の石、道具は石を彫る手道具のみであった。
刻まれているのは土地の名だけである。死者の名はなく、戦果の記載もなく、日付もない。王国の地図に載らないヴェルダ語の音を、王国語の文字で近似して刻んだため、現在も読みの確定しないものが三枚ある。近似の綴りから元の音を復元する手段は、その谷の話者が絶えた時点で失われている。
十四は、消えた集落の総数ではない。名を拾えた集落の数である。名を伝える者が既になかった集落について、石板は作られていない。その数は確定していない。
◇ 石碑への変化
十四枚は当初、集会所の跡の壁へ立てかけられていた。持ち運びのできる大きさであり、公式の慰霊のための設備ではなかった。所在も一定せず、彫った者が持って移した記録がある。
のちに文化の保存運動の資料として一か所へ集められ、再配置された場所が「十四谷の碑」と呼ばれるようになった。移設の際、新しい一枚へまとめて刻み直すことは行われなかった。欠けと、綴りの揺れと、途中で彫り方が変わっている面を含めて、元の石板がそのまま並べられている。
碑の名は十四を数える。保存されたのは、完全な名簿ではない。
◇ 保存運動の評価
子供への谷語の教育、歌の採録、石板の作成は、後世の研究と復興の基礎となった。現在の辞書と歌集の大半は、この時期に採られた記録に依っている。
ただし、これを文化が救われた証拠として記すことはできない。この種の活動が必要になった時点で、家と村のなかで自然に受け継がれる状態は、すでに失われていた。教えなければ伝わらない語は、すでに日常の語ではない。
保存は、消滅を止める営みであると同時に、何が失われたかを数える営みであった。採録の記録には、採れた数の隣に、採れなかったものへの言及が並ぶ。歌の数、谷の名、字の読み。数えられたのは、数える者が間に合った範囲である。
◆ 二つの経過について
治療と文化の保存を、同じ「回復」の語でくくることはできない。
人は、過去を抱えたまま、現在を選び直すことができる。反応は残る。契機も残る。それでも本人が気づき、現在へ戻り、次の行動を選べるならば、それを回復と呼ぶ。この定義は、症状が消えることを要件としない。
言語はそうではない。最後の話者が死ねば、その語はその者とともに失われる。後から手を伸ばしても戻らない。石に近似の綴りを刻むことはできるが、読みは戻らない。歌の題を記すことはできるが、旋律は記せない。
後年の制度は多くを救った。ただし、間に合わなかった者を救ったのではない。記録されなかった語を取り戻したのでもない。
傷に名が与えられた後も、傷は残った。
石に名が刻まれた後も、谷は戻らなかった。
後世にできたのは、残ったものを、今度は失わないようにすることだけであった。
これにて3章が完結になります。
次章がエピローグになります。今後とも読んでいただけると嬉しいです。