わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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それでも朝は来る
手


目が覚めると、窓がまだ薄暗かった。

 

鐘は鳴っていない。

廊下にも足音はなく、壁の向こうからミラの寝言も聞こえない。

 

枕を握っていた右手を開くと、指の跡が布に残った。

関節を一本ずつ伸ばし、壁際から起き上がる。

 

向かいのベッドでは、ルチアが眠っていた。

栗色の髪が枕の上に広がり、いつも髪に結んでいる水色のリボンは、畳んだ制服と一緒に棚の上へ置いてある。

寝ているときのルチアは髪を結んでいないので、起きているときより少し幼く見える。

 

毛布から出ているのは顔と片手だけだった。

白い指が枕の端に乗り、何も握っていない。

 

ベッドから足を下ろした。

床は冷たく、足の裏から朝の温度が上がってくる。

 

先に窓へ行く。

鍵はかかっている。

開けて外を見ると、木立の枝に人影はなく、真下の草地にも踏まれた跡はない。

地面までの高さと、左へ出たときに屋根へ届く距離も、昨日と変わっていなかった。

 

後ろで、毛布が擦れた。

 

振り向く。

ルチアが目を開けていた。

 

「おはよう、リーネ」

 

「おはよう。起こした?」

 

「ううん。いつもの時間」

 

ルチアはまだ少し眠そうな目で、開いた窓を見た。

入学したころなら、何を見ているのか聞かれた。

同じ部屋になったばかりのころは、わたしより先に鍵を確かめてくれる日もあった。

 

今は何も聞かない。

 

「寒くない?」

 

「ちょっと寒い」

 

「じゃあ閉めようよ」

 

言われて窓を閉める。

確認は終わっていた。

 

いつもならもう一度開け、身を乗り出して建物の角まで見る。

今朝はそこまでしなくても、窓から離れられた。

 

ルチアがいる朝は、確認が少しだけ短い。

短くしようと決めたわけではない。

後ろで毛布の音がして、名前を呼ばれると、続きが途中でも部屋へ戻れる。

 

ルチアがベッドから出て、制服を抱えた。

 

「洗面所、空いてるかな」

 

「まだ早いから空いてるよ」

 

「昨日もそう言って、三人いたよ」

 

「三人なら空いてるほうじゃない?」

 

「鏡が二つしかないの」

 

それは空いていないのかもしれない。

 

二人で廊下へ出る。

部屋の掛け金は内側にしかないので、出たあとは閉めるだけだ。

隣の部屋はまだ静かだった。

 

洗面所には誰もいなかった。

鏡は二つとも空いている。

 

「今日は本当に空いてたね」

 

「ほら」

 

「昨日は外れたけどね」

 

ルチアが水を汲み、隣の台をわたしへ渡した。

二人で歯を磨く。

 

鏡に並ぶと、ルチアの頭がわたしより少し高い。

身長は入学してから変わっていない。

ルチアは髪を下ろしているぶん、いつもよりさらに大きく見えた。

 

歯を磨き終えると、ルチアが櫛を取り出した。

長い髪を肩の前へ寄せ、毛先から少しずつ梳いていく。

わたしはその横で制服の襟を立て、上からボタンを留めた。

 

一つ目。

二つ目。

三つ目。

 

小さい穴へ入れるのが最初は面倒だった。

軍服には、こんなにたくさんボタンがなかった。

急いで着ると途中を一つ飛ばし、最後で左右が合わなくなったこともある。

 

今日は最後まで一度も外さなかった。

 

「今日のボタン、速くなったね」

 

鏡越しにルチアが言った。

 

「慣れた。軍服より楽」

 

答えてから、櫛の音が一度止まった。

 

ほんの一度だけだった。

ルチアはまた髪を梳き、水色のリボンを口にくわえて両手で髪をまとめた。

 

「最初は、毎朝どこかずれてたものね」

 

「そんなに?」

 

「一つずつ飛ばして、下だけ二つ余ってた日があった」

 

「あったかも」

 

「襟の裏に学年章をつけた日も」

 

「表から見えれば同じだよ」

 

「見えてなかったよ」

 

鏡の中でルチアの目が細くなった。

わたしも少し遅れて笑う。

 

軍服と言ったことには、もう驚かない。

前みたいに顔を固くして続きを待つことはなくなった。

 

それでも櫛は一度止まる。

 

止まることと、朝の続きを始めることは、どちらも本当だった。

 

ルチアがリボンを結び終わった。

いつもの形になった髪の横で、わたしは最後のボタンに触れた。

 

「今日は全部合ってるよ」

 

「毎日合ってるよ」

 

「昨日、上から二つ目だけ裏返ってた」

 

「穴には入ってたでしょ」

 

「入ってればいいって、リーネはすぐ言う」

 

「ボタンは入れるものだからね」

 

ルチアが笑い、わたしも笑った。

 

廊下の向こうで、朝の鐘が鳴り始めた。

 

 

 

その日の放課後、ルチアと中庭を歩いた。

 

空は白く曇り、冬枯れの植え込みには葉がほとんど残っていない。

石の道を踏む靴音が、わたしたちの後ろへ二つずつ落ちていく。

 

午後の魔法実習では、二人一組で印を確かめた。

ルチアがわたしの親指を直すとき、先に「触るね」と言った。

右から触れるのか、左から触れるのかも見えていた。

 

それでも指が固くなった。

 

印は最後まで組めた。

風も出た。

練習用の魔法石を倒さず、表面を撫でるくらいの弱い風で止められた。

 

授業としては、ちゃんとできた。

 

でもルチアの指が離れたあとも、手のひらの中に力が残った。

指を振っても、関節の奥に引っかかったままだった。

 

中庭の隅にある石のベンチまで来る。

背後に壁があり、植え込みの向こうに出口が見える、いつもの場所だ。

 

「座る?」

 

ルチアが聞いた。

 

「今日は歩きたい」

 

「うん」

 

道をもう一周する。

噴水は冬のあいだ止められ、水のない底に枯れ葉が溜まっていた。

風が吹くたび、葉が石の上を一枚ずつ滑る。

 

話すことがなくても、ルチアは無理に話題を探さない。

わたしも、黙っているのをごまかすために笑わなくていい。

 

噴水の反対側まで来たところで、ルチアが足を止めた。

 

「リーネ」

 

「うん」

 

ルチアはわたしの正面ではなく、斜め横に立っていた。

道の先も、中庭の出口も見える。

 

「手、どう?」

 

右手を開く。

指の震えは見えなかった。

曲げても痛くない。

 

「動くよ」

 

「そうじゃなくて」

 

「わかってる」

 

ルチアの灰青色の目が、わたしの手から顔へ上がった。

 

前なら、わからないと言った。

怖いのかどうかもわからず、体が勝手に動くだけで、癖みたいなものだと思っていた。

 

今は違う。

 

「怖かった」

 

口にすると、右の肩が少し上がった。

 

「授業で触られたとき。ルチアだってわかってたけど、怖かった」

 

ルチアは目を逸らさなかった。

 

「うん」

 

「前は、怖いって思ってることにも気づけなかった。体が動いても、怖くないと思ってた」

 

自分の指を一本ずつ見る。

剣を握りすぎて硬くなった関節。

掌には、変なところにタコがある。

 

「今は怖いってわかる。それだけで全然違う」

 

違うから平気になるわけではない。

怖いとわかったぶん、触れられる前から体が固くなる日もある。

昨日できたことが今日はできず、先に言ってもらってもだめなことがある。

 

でも、わからないものに体だけ持っていかれるのとは違う。

怖いなら、だめだと言える。

 

ルチアが右手を上げた。

肩の高さより低く、わたしたちの間へ差し出す。

掌は上を向いている。

 

「今日は?」

 

細くて白い手。

魔法の印を直す指。

手紙の折り目を何度もなぞる指。

わたしの肩に触れ、わたしに突き飛ばされても、次から先に声をかけるようになった手。

 

温かいことは知っている。

 

右手を伸ばす。

 

指先と指先の間に、あと少しだけ空間がある。

半歩動けば届く。

 

手首が固まった。

 

ルチアは動かない。

近づけず、引かず、掌を開いたまま待っている。

 

人差し指が震えた。

次に中指が揺れ、手のひらの中で何かが縮む。

 

触れればいい。

今日は背後からではない。

囲まれない。

出口も見える。

ルチアの顔も見えている。

 

全部わかっているのに、あと少しがなくならない。

 

右足が半歩後ろへ下がった。

 

「ごめん、今日はだめ」

 

声は思ったより普通に出た。

 

ルチアは「うん」と答えた。

差し出していた手を、自分の体の横へ戻す。

 

「じゃあ、歩こう」

 

それだけだった。

 

残念そうな顔を隠して笑うことも、わたしを安心させるために大丈夫と言うこともない。

できなかったことを、できたことにしない。

 

わたしも笑顔を出さなかった。

 

「うん」

 

もう一度、並んで歩く。

 

靴音は二つに戻った。

ルチアの右手はわたしの左側にあり、歩くたびに制服の袖が揺れる。

 

さっきより少しだけ間が空いている。

わたしが下がった半歩ぶんだ。

 

噴水を一周してベンチへ戻るころには、右手の震えは止まっていた。

 

でも手は繋がなかった。

 

止まったから、もう一度やってみようとも言わなかった。

今日はだめだと言った日は、だめなまま寮まで帰った。

 

 

 

夕食を終えて部屋へ戻ると、ルチアは机に魔法理論の教科書を広げた。

 

わたしも向かいの机へ座り、今日の実習で使った頁を開く。

親指の角度を示す図の横には、前にルチアが書いてくれた小さな矢印が残っていた。

 

矢印どおりに印を組む。

人差し指と中指を立て、左の掌で包む。

親指を内側へ入れると、薬指が少し内へ曲がった。

 

「ここ?」

 

聞くと、ルチアは椅子から立たずにこちらを見た。

 

前なら机の横まで来て、指を一本ずつ直した。

今日は自分の両手で印を組み、わたしから見えるよう胸の前へ上げる。

 

「薬指を、もう少しだけ伸ばして」

 

「これくらい」

 

「もう少し」

 

曲げる。

 

「そう。親指はそのまま」

 

触らずに教える。

ルチアが近づかなかったのは、わたしが今日はだめだと言ったからだ。

 

正しい。

だめな日に触れないのは、正しい。

 

それでも二つの机の間が、いつもより広く見えた。

 

「できた?」

 

「できてるよ」

 

「じゃあ覚えた」

 

手をほどくと、ルチアは教科書へ戻った。

紙をめくる音がする。

 

わたしも同じ頁を読もうとしたが、古語の詠唱が三行続いたところで、どこを読んでいたのかわからなくなった。

もう一度、最初の語から追う。

 

「集まれ、巡れ、開け、定めよ」

 

五語目は風の形。

六語目は範囲。

七語目は繋げ。

 

口の中で順番を確かめていると、ルチアが顔を上げた。

 

「今日は間違えないね」

 

「手のほうが難しいから」

 

「前は言葉のほうが難しいって言ってたよ」

 

「言葉は覚えた」

 

「六語目は?」

 

「廻れ」

 

「七語目」

 

「繋げ」

 

全部出た。

ルチアが少し笑う。

 

「本当に覚えた」

 

「毎日やったからね」

 

「最初は七語目と八語目が逆になってたのに」

 

「似てるから」

 

「似てないよ」

 

「どっちも最後にやる言葉でしょ」

 

「最後は十語目だよ」

 

話しているうちに、二つの机の間は同じ幅へ戻った。

距離が狭くなったわけではない。

ルチアは向かいの椅子に座ったまま、わたしもこちらにいる。

 

鐘が一度鳴り、消灯までの時間を知らせた。

 

ルチアが教科書を閉じる。

わたしは頁の端を折りかけ、前に怒られたのを思い出して、細い紙を挟んだ。

 

「今日は早く寝ようか」

 

「うん」

 

いつもの順番で着替える。

ルチアが髪から水色のリボンを外して棚へ置き、櫛を入れる。

わたしは窓の鍵を確かめ、外の木立を見る。

 

部屋へ戻ると、ルチアはもう窓側のベッドへ入っていた。

毛布の上に両手が出ている。

 

「おやすみ、リーネ」

 

「おやすみ」

 

灯りを消す。

 

暗くなると、机二つぶんの距離は見えなくなった。

窓側からルチアの呼吸が聞こえる。

 

眠ったのかと思ったころ、寝返りの音がした。

 

「ルチア」

 

「うん」

 

起きていた。

 

何か言おうとして、言葉が見つからなかった。

今日はだめだった。

明日はできるかもしれない。

できないかもしれない。

 

どれも、いま言っても同じだった。

 

「呼んだだけ」

 

「そっか」

 

ルチアはそれ以上聞かなかった。

 

しばらくすると、呼吸が浅く長い寝息へ変わった。

わたしはその音を聞きながら目を閉じた。

 

夜中に二度目を覚ました。

一度目は窓を確かめ、二度目は天井を見たまま、隣の寝息だけを聞いた。

 

泣く声は、一度も聞こえなかった。

 

 

 

次の朝、ルチアの目が腫れていた。

 

わたしが起きたときには、もう鏡の前に座っている。

栗色の髪は半分までまとめてあるのに、リボンを結ぶ手が止まっていた。

 

窓の外は明るい。

いつもより遅くまで眠ったらしい。

わたしは先に鍵を見てから、ルチアの顔をもう一度見た。

 

瞼が赤い。

目の下も少し暗く、鏡の前には水で濡らした布が置いてある。

 

「どうしたの、目」

 

ルチアが鏡の中でまばたきをした。

 

「寝不足」

 

口元が少し上がる。

 

返事が速かった。

 

昨日、寮へ戻ってから、ルチアはいつもと同じ時間に寝た。

消灯前に教科書を閉じ、髪をほどき、窓側のベッドへ入った。

わたしが目を覚ました二度とも、寝息は聞こえていた。

 

朝まで眠れたかはわからない。

でも寝不足だけなら、濡れた布を目に当てる必要はない。

 

「……嘘でしょ」

 

ルチアの手から、水色のリボンが落ちた。

 

「え」

 

「わたし、嘘は得意だから。嘘はわかるよ」

 

言ってから、あまり自慢にならないことに気づいた。

 

ルチアは落ちたリボンを拾わなかった。

鏡の中で目を伏せる。

 

「寝不足なのも、本当だよ」

 

「ほかもあるんだ」

 

「ある」

 

声が小さくなった。

 

わたしは窓から離れ、壁側のベッドに腰を下ろした。

ルチアとの間には机と椅子がある。

 

「何があったの」

 

ルチアは膝の上で両手を組んだ。

何度か指を組み替え、最後に右の親指を左手で包む。

 

「泣いてた。昨日の夜」

 

「何で?」

 

聞くと、ルチアの肩が少し揺れた。

 

「怖かったの」

 

昨日、わたしが手を伸ばして止まったときの顔が浮かぶ。

開いた掌。

引かれた手。

 

「わたしが?」

 

ルチアはすぐには答えなかった。

 

「リーネが、というより」

 

そこで言葉を探す。

 

「リーネの手が繋げない日、わたしのせいなのかなって」

 

「ルチアのせいじゃないよ」

 

声が低くなった。

 

いつもの軽い言い方では足りなかった。

笑えば、ルチアはまた嘘だと思う。

 

「ルチアのせいじゃない」

 

もう一度言った。

 

「でも、わたしが触ろうって言わなければ、だめにならなかったでしょう」

 

「それは違うよ」

 

「昨日、前は怖いことにも気づけなかったって言ったでしょう」

 

ルチアの組んだ指に力が入った。

 

「だったら、平気だって言って握ってくれた日も、本当は怖かったのかもしれない。リーネも気づかないまま、わたしが何度も手を出してたのかもしれない」

 

握れた日にも、震えはあった。

温かいとわかっていても、指の付け根から手首まで揺れた。

 

「怖くなかったわけじゃないよ」

 

ルチアの顔が固くなる。

 

「怖くても、握り返したかったの。できる日は、わたしが決めて握った」

 

「無理してたんじゃなくて?」

 

「無理はしてたよ」

 

簡単だったことは一度もない。

 

「でも、ルチアにさせられたんじゃない。わたしがしたかったからしたの」

 

「先に聞いたつもりだった。見えるところから手を出した。逃げられる場所も空けてた。でも、リーネの手は震えた」

 

ルチアは昨日の一つずつを覚えている。

わたしが怖くならないように考えて、それでもだめだったことを、自分の失敗みたいに数えている。

 

「あれは、ルチアのせいじゃない」

 

「じゃあ、何を変えたらいいの」

 

「変えなくていい」

 

「でも」

 

「ルチア」

 

名前を呼ぶと、ルチアが口を閉じた。

 

「わたしの手が震えるのは、ルチアのせいじゃない」

 

一語ずつ言う。

 

「ルチアの手が温かいのは知ってる。触っても痛くないのも、わかってる。わたしはルチアと手を繋ぎたい日もある」

 

昨日も、繋ぎたかった。

だから手を伸ばした。

 

「でも体が追いつかないだけ」

 

ルチアの目から涙が落ちた。

 

膝の上で組んだ手に当たり、指の間へ入る。

 

ルチアは慌てて手をほどき、顔を背けた。

 

「ごめん」

 

「なんで謝るの」

 

「だって、泣くつもりじゃ」

 

二つ目が頬を伝った。

 

前にも、ルチアが泣くところを見た。

家から来た手紙を畳めず、返事を書けないと言った夜。

あのときは自分の指で拭って、二つ目を落とさなかった。

 

今は拭う手が膝から上がらない。

 

机と椅子の間を通る。

ルチアの正面へは行かず、横に立った。

 

手を伸ばす前に、一度止める。

 

わたしから触るのは、触られるのとは違う。

どこへ触れるかも、いつ離すかも、自分で決められる。

 

それでも右手は少し震えていた。

 

人差し指の腹で、ルチアの頬に落ちた涙を拭う。

 

肌は温かかった。

濡れたところだけ少し冷たい。

 

指が触れた瞬間、肩に力が入る。

腰へ手は伸びない。

逃げたくならないわけでもない。

 

それでも離さず、二つ目の涙を親指で取った。

 

ルチアが顔を上げる。

 

灰青色の目が濡れていた。

驚いた顔のまま、動かない。

 

「ルチアが泣くのは、わたしの隣じゃなくていいよ」

 

声が少し震えた。

 

「でも、泣くなら隣にいたい」

 

ルチアの口元が歪んだ。

笑おうとしたのか、また泣きそうになったのか、どちらにもならない。

 

「それ、ずるい」

 

「何が?」

 

「隣じゃなくていいって言ってから、隣にいたいって言うの」

 

「だめ?」

 

「だめじゃない」

 

「じゃあ、いいでしょ」

 

ルチアが息を漏らした。

泣いている途中なので、笑い声は少し変だった。

 

わたしの指はまだ頬に触れている。

震えも止まっていない。

 

止まるまで待たず、手を離した。

長く触れていれば、できたことが増えるわけではない。

 

離れた指先に、涙の冷たさが残った。

 

「顔、洗う?」

 

「もう洗ったの」

 

「だから布が濡れてたんだ」

 

「うん」

 

「あんまり変わってないよ」

 

「知ってる」

 

「もう一回洗う?」

 

「リーネ、ひどい」

 

今度は少しだけ笑った。

泣いた跡は消えず、目も腫れたままだった。

 

床に落ちていた水色のリボンを拾う。

ルチアへ渡そうとして、手が止まる。

 

物を渡すだけなら、机に置けば指は触れない。

前はそうしていた。

 

掌に載せて差し出す。

 

ルチアはすぐには取らず、わたしの顔を見た。

 

「取っていい?」

 

「うん」

 

指先が掌に触れる。

水色の布が引かれ、手から離れた。

 

震えは小さかった。

なくなってはいない。

 

ルチアは鏡へ向き直り、髪をまとめ直した。

さっき途中で止まっていた束をほどき、櫛を入れ、最初から結ぶ。

 

わたしは壁側のベッドへ戻り、制服のボタンを留めた。

 

一つ目で、穴の横を押した。

二つ目は入った。

三つ目を飛ばして四つ目へ行きかけ、戻る。

 

鏡の中でルチアが見ていた。

 

「今日のボタン、遅いね」

 

「慣れたはずなんだけど」

 

「手が震えてるから」

 

隠さず言われた。

 

「うん」

 

指先はまだ少し揺れている。

涙を拭った感触が残っている。

 

全部留めるまで、ルチアは自分の髪を結びながら待った。

 

廊下へ出るころには、朝の鐘まであまり時間がなかった。

隣の部屋の扉が開き、ミラが片方のおさげを結びながら飛び出してくる。

 

「おはよう! 遅いよ、二人とも」

 

後ろから出てきたナタルが、扉を押さえた。

 

「お前が早い」

 

「今日は窓際の席、取らないと」

 

「毎日取るの?」

 

「空いてたらね」

 

ルチアは目が腫れている。

ミラも気づいたらしく、一度だけ顔を見た。

 

「ルチア、目」

 

「昨日、少し泣いたの」

 

ルチアが自分で言った。

 

ミラの口が開き、すぐ閉じる。

 

「そっか」

 

それ以上は聞かず、先に階段へ向かった。

ナタルも何も言わない。

 

四人で廊下を歩く。

階段へ着く前に、ルチアの左手がわたしの右側へ来た。

 

掌は開いていない。

ただ体の横に下がっている。

 

今日は、と聞かなかった。

 

わたしから右手を伸ばした。

 

指先が触れる。

ルチアの手が止まる。

 

一本ずつ重ねると、細い指がわたしの指の間へ入った。

掌が合う。

 

温かい。

 

手の甲から腕へ震えが上がった。

指が勝手にほどけそうになる。

 

力を入れる。

強く握れば痛いので、指が離れないくらいだけ。

 

ルチアの手も、同じくらいの力で返ってきた。

 

「ごめんね、まだ震える」

 

「いいよ。握り返してくれるなら、それでいい」

 

ルチアの声も少し震えていた。

 

わたしの手だけではなかった。

 

「ルチアも怖い?」

 

前を歩いていたミラとナタルが階段を下り始める。

わたしたちは踊り場の手前で少し遅れた。

 

「怖いよ」

 

ルチアは握った手を見た。

 

「剣を持ったときのリーネの目も、また突き飛ばされることも怖い。わたしが触って、リーネを苦しめることも」

 

「ずっと」

 

最初の剣術実技で、わたしの木剣はルチアの首の横で止まった。

嬉しくて抱きついたとき、わたしはルチアを突き飛ばした。

そのあとも同じ部屋へ来て、隣に座り、触る前には声をかけ、手を差し出してきた。

 

怖くなくなったからではない。

 

「……ごめんね」

 

「謝らないで」

 

ルチアは顔を上げた。

目はまだ腫れている。

 

「怖いのと、ここにいたいのは、両方本当だから」

 

下の段からミラが振り向いた。

 

「二人とも、置いてくよ!」

 

「いま行く」

 

ルチアが答える。

 

歩き出すと、繋いだ手が少し揺れた。

階段を一段下りるたび、腕の角度が変わり、掌が擦れる。

 

怖い。

指は震えている。

ルチアの声も震えていた。

 

それでも、次の段へ下りるたびに、わたしは温かい指を握り返した。

 

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