放課後、本館二階の廊下を歩いていると、生徒会室の扉が開いた。
紙の束が先に出てきた。
その向こうから金髪が見え、ユリウスさんが束を顎で押さえながら横向きに廊下へ出てくる。
「危ないですよ」
「見えているよ」
「前が?」
「扉までは見えていた」
出たあとは見えていなかったらしい。
わたしが紙の端を押さえると、いちばん上の一枚が床へ落ちる前に止まった。
「半分持ちましょうか」
「助かる」
束を分けてもらう。
紙は見た目より重く、両腕に載せると乾いた匂いがした。
扉の横にかかっていた「生徒会」の札は同じだが、その下にあった会長の名前は新しいものへ替わっている。
ユリウスさんの名前を書いた札は、室内の机に置かれていた。
「まだここに来てるんですね」
「引き継ぎが終わっていないからね。昨日まで僕が持っていた書類を、今日から持つ人間へ渡している」
「選挙の次の日にもやってましたよね」
「一日で終わる量ではなかった」
抱えた束を見る。
これで半分なら、終わらないのもわかる。
「会計の名簿は見つかりました?」
ユリウスさんが足を止めた。
「なぜ知っているんだ」
「この前、廊下で足りないって言われてたから」
「聞かれていたのか。見つかったよ。別の箱に入っていた」
「よかったですね」
「よくはない。僕が入れた」
会長でなくなっても、紙を探して運ぶ仕事は残るらしい。
壇上で話すより、いまのほうが忙しそうに見えた。
「この束はどこですか」
「生徒会室の奥の棚だ。右から二つ目」
一緒に室内へ戻る。
東向きの窓から夕日は入らない。
廊下の西側の窓から伸びた光だけが、開いた扉を通って床の途中まで差していた。
机は前と同じ四つある。
ただ、置かれている物が違う。
新しい役員の名札、まだ中身の少ない書類挟み、何度も開かれた規程集。
前にここへ来たとき、ユリウスさんは紅茶を淹れた。
砂糖を少し多めに入れてくれた。
わたしは入学試験のことと、教科書のことと、帰省届のことを順番もなく話した。
話し終わったとき、紅茶から湯気は消えていた。
今日は湯を沸かす道具も茶葉の缶も、棚の端へまとめられている。
「茶葉も引き継ぐんですか」
「備品だからね」
「新しい会長も甘い紅茶を出すんでしょうか」
「それは本人に聞いてくれ」
わたしの持っていた束を、言われた棚へ入れる。
紙の角を押すと、隣の束との間にちょうど収まった。
ユリウスさんは自分の分を別の棚へ置き、一枚だけ抜いて戻ってきた。
「カルヴァス」
「はい」
差し出された紙を受け取る。
上に、ヴェルダ戦争の記述改訂について、と書いてある。
前に見た議題提出書と同じ題だ。
下には知らない日付と、新しい生徒会長の名前があった。
「選挙のあと、一つ動いた」
「教科書が?」
声が思ったより大きくなった。
廊下に人がいないのを確かめてから、もう一度紙を見る。
文字は変わらない。
今使っている教科書も、今日の歴史の授業まで同じだった。
「教科書そのものは変わっていない」
ユリウスさんは、先にそこを切った。
「改訂に何年かかるかもわからない。検定をするのは学院だけではないし、生徒会に教科書を直す権限はない」
「じゃあ、何が動いたんですか」
「次の生徒会が、引き継ぎ事項として受け取った。最初の役員会で扱う議題として、正式に記録された」
紙の下にある新しい名前を見る。
選挙で会長になった人だ。
演説は聞いたが、何を話していたかは少ししか覚えていない。
自分の順番を待ちながら出口と原稿ばかり見ていた。
「続けてくれるんですか」
「続けると約束したわけではない」
「あ」
「最初の役員会で、続けるか、止めるか、調べ直すかを話す。棚に置くとしても、一度は机へ出して、置く理由を記録に残す」
前は、次の会長が束を棚に置いたままにすることもできると言っていた。
いまは、棚へ置く前に一度開かれる。
「一回、みんなで見るんですね」
「そうだ」
「ユリウスさんも、その話し合いにいたんですか」
「引き継ぎをする人間としてはいた。決める側には入っていない」
「何を聞かれました?」
「なぜ、教科書の改訂を生徒会の議題にするのか」
「何て答えたんですか」
ユリウスさんが、わたしの持つ紙の下を指した。
「検定記録に、最初の草稿から削られた村名と民間人の死者数が残っている。現在の教科書を使って学ぶ生徒に関わることだから、生徒会で扱うと答えた」
「わたしの演説は?」
「添えていない」
顔を上げる。
「聞いた人がいるって、言わなかったんですか」
「僕が聞いた。新しい役員の中にも、講堂にいた者はいる。だが君の演説は、教科書を直すための証言として話したものではない」
ユリウスさんの指が、紙から離れた。
「君は、ここが自分にとって何なのかを知ってほしいと言った。検定をする人間へ渡していいとは言っていない」
壇上で話した言葉は、自分の口から出た。
講堂にいた人の耳へ届き、誰がどこまで覚えているかは選べない。
それでも、紙に写して別の場所へ運ぶのは、聞いたこととは違う。
「じゃあ、何を根拠にしたんですか」
「僕が文書庫で見た記録だ。消した側が、自分で線と理由を残していた。改訂を求めるなら、まず僕たちの側にある紙を出すべきだ」
「演説のほうが、わかりやすくないですか」
「わかりやすい。だから使わなかった」
返事に迷いがなかった。
前なら、わたしが壇上へ立つことには強い意味があると、先に使い道を見た人だ。
応援文を書き、出さないでほしいと言われて書類挟みへしまった人でもある。
「使えるものでも、使わないことがあるんですね」
「君に教わった」
「教えた覚えはないです」
「僕が勝手に学んだ。それなら君の許可はいらないだろう」
「それは、いらないかも」
紙の下にあるのは、わたしの演説を書き取った言葉ではない。
検定で消された行の写しと、それを調べた人の記録だ。
わたしの話を使わなくても、問題はそこにある。
「見て、やらないって決めることもある」
「ある」
「それでも、動いたんですか」
ユリウスさんはすぐに頷いた。
「動いた。議題を出したのは僕だが、受け取ったのは次の生徒会だ。僕の手から離れたあとに、一つ先へ進んだ」
紙を持つ指を少しずらす。
新しい会長の名前の横に、小さな判がある。
わたしが選挙で負けたあとも、紙は別のところで進んでいた。
負けたこととは別に。
九票だったことを大きくするためでも、壇上へ立ったことを勝ったことにするためでもない。
「……本当に?」
「本当だ」
「教科書がすぐ変わるわけじゃないんですよね」
「変わらない。君たちが卒業するまでに変わらない可能性も高い」
「わたしがいるあいだ、同じ教科書かもしれない」
「そうだ」
嬉しいのかと聞かれると、すぐには決められない。
次の授業でも一二八頁を開く。
正当な領土回復と書き、試験には掃討作戦と答える。
わたしの村の名前は載らない。
それでも、この紙を初めて見たときにはなかった名前と判が、下に一つ増えている。
「すごいですね」
「すごくない」
返事が早かった。
「帰省届と、教科書の議題。二つだけだ」
前にも聞いた数え方だ。
「二つとも紙はたくさんありますけど」
「紙の枚数ではなく、やったことの数だよ」
「覚えてます」
「そうだったな」
ユリウスさんが口元を少し緩めた。
前なら、そこからもっと大きな話が続いた気がする。
属国と王国が対等になる日や、融和政策の理想や、素晴らしい未来の話。
いまは紙を一枚持って、二つだけだと言う。
「でも、二つともゼロじゃない」
声は小さかった。
廊下の端まで届かせる必要のない声だ。
「帰省届は、わたしが止まっただけですよ」
「止まった理由を話した」
「教科書も、ずれてるって言っただけです」
「僕はその話を聞いた」
「動いたのはユリウスさんです」
「君がいなければ、僕は帰省届をいつもどおり書き、検定記録を開かないまま任期を終えていた」
紙の端が指へ当たる。
わたしは、制度を変えようと思って話したわけではなかった。
同じ教室にいるのに同じじゃない気がすると、うまく説明できないまま事実を並べた。
最後には笑顔を出して、パンがおいしいと話を終わらせた。
あれを聞いた人が、書式を変え、文書庫へ行き、消された行を見つけた。
「お互い様、ですかね」
「何がだい?」
「わたしはユリウスさんに先に変わってもらいました。帰省届を変えてもらったから、壇上に立ってもいいかもしれないって思えたんです」
「立候補を決めたのは、君だ」
「決めたのはわたしです。でも、最初に紙が変わるところを見せたのはユリウスさんです」
あの新しい帰省届には、「帰省する」と「学院に残る」が同じ大きさで並んでいた。
帰る家がない生徒だけの特別な欄ではなかった。
わたしも全員と同じところへ印をつけられる。
紙の四角が一つ増えただけだった。
それでも、ずっとなかった選び方だった。
「壇上で話したとき、帰省届のことは一言も言いませんでしたけど」
「僕の原稿を読ませるつもりはなかったと言っただろう」
「自分の原稿も読みませんでした」
「それは予定外だった」
「副会長になったら何をするかも言いませんでした」
「それも予定外だった」
「それで九票です」
「耳が痛いな」
「ユリウスさんが頼んだんですよ」
「頼んだ。だから僕も悔しかった」
ユリウスさんは笑わなかった。
負けた日に言ったのと同じだった。
来年の話へ変えず、自分も悔しいとだけ言った。
廊下の向こうで、誰かが階段を上がってくる。
二人分の足音が近づき、新しい生徒会の書記と会計が姿を見せた。
「レーゲンハルト先輩、倉庫の鍵はどれですか」
「いま行く。鍵の札が古いから、先に説明する」
ユリウスさんが返事をし、わたしの持つ紙へ目を落とした。
「それは戻しておいてくれるか」
「右から二つ目?」
「いや、教科書の議題は左端だ。新しい役員が先に開けるよう、場所を替えた」
棚へ戻る。
左端には、ほかより少し空いた場所があった。
紙を差し込むと、束の背に書かれた題が外から読める。
棚のいちばん奥ではない。
振り向くと、ユリウスさんは二人の役員へ鍵を見せていた。
似た形の鍵を三本並べ、一つずつ札の字を読ませている。
「ユリウスさん」
呼ぶと、三人がこちらを見た。
「君が壇上で話したことを、僕は忘れない」
先に言われた。
「あの演説は、選挙では負けた」
「はい。ちゃんと負けました」
「だが、聞いた人間は変わった。少なくとも僕は変わった」
新しい役員の二人も聞いている。
ユリウスさんは声を大きくしなかったが、隠す言い方もしなかった。
「わたしは、ユリウスさんに先に変わってもらいました」
「では、お互い様だ」
今度は笑った。
大きな演説を終えた人の顔ではない。
鍵を間違えないよう札を確かめ、紙を棚の手前へ置き直した人の顔だった。
わたしは生徒会室を出る。
廊下の西の窓から、夕日が石の床へ長く差していた。
光の上を歩くと、自分の影が前へ伸びる。
前には、鍵を三本持ったユリウスさんがいる。
新しい役員の二人へ歩幅を合わせ、倉庫のほうへ向かっていた。
壇上にいたときより少し背中が丸く、腕にはまた書類が増えている。
それでも、わたしより先を歩いていた。
帰省届に「学院に残る」の四角が増えたのと同じ週、ナタルと中庭にいた。
いつもの石のベンチではない。
植え込みの陰にあるあそこは背後が壁で、出口が見える。
今日は中庭の真ん中に近い木のベンチへ、ナタルが先に座った。
背後には何もない。
振り向けば本館の窓があり、右には止められた噴水、左には冬枯れの木がある。
人が来ればどの方向からでも見える代わりに、背中を守る壁もなかった。
ナタルはベンチの端を選ばず、真ん中に座っている。
わたしも隣へ座った。
一人ぶんの間を空ける。
「ここでいいの?」
「座ったあとに聞くな」
「いつものところ、空いてたよ」
「見た」
「じゃあ、ここがよかったんだ」
「今日はな」
それ以上は聞かなかった。
冬の昼にしては日差しが温かい。
風もなく、木の座面は日が当たったところだけ少しぬるかった。
制服越しなので、手で触るまでわからない。
掌を置くと、板の筋に沿って細いささくれがある。
「ここ、温かいよ」
「座ってるから知ってる」
「手でも温かい」
「尻で足りる」
ナタルは前を見たまま言った。
目の下のくまは今日も消えていない。
午後の授業までは時間がある。
中庭を横切る生徒は少なく、噴水の底に溜まった枯れ葉も動かない。
雲が一つ、校舎の屋根の上を流れていく。
白くて薄い雲だった。
雨を持つ色ではない。
学院に残ることは、紙へ印をつければ選べるようになった。
残って何をするのかといえば、授業を受け、食堂へ行き、寮で眠る。
毎日やっているのに、それを何と呼ぶのかは考えたことがなかった。
「普通の生活って、何だろうね」
言うと、ナタルがこちらを見た。
「急だな」
「いま暇だから」
「暇だと考えることか」
「前は、暇だと見張りしてたから」
「今もしてるだろ」
ナタルの目が、わたしの右後ろへ動いた。
振り向くと、渡り廊下から男子生徒が一人出てきたところだった。
こちらを見ずに訓練場のほうへ歩いていく。
わたしも見ていた。
足音が近づいたときから、だいたいの距離を数えていた。
「してるね」
「してる」
「でも、見張りしながら普通のことを考えられるようになった」
「それが普通か」
「わからない」
「わからん」
同じ答えだった。
「わからないよね」
「聞いたお前が言うな」
「前は、わからないことにも気づけなかったから」
ナタルが眉を少し寄せた。
「お前、最近それよく言うな」
「そう?」
「手が怖いことにも気づかなかった。負けて悔しいことにも気づかなかった。今度は普通がわからないことに気づいた」
「本当だ」
並べられると多い。
「治癒師の受け売りか」
「半分くらい」
「残りは」
「自分で気づいた」
「そうか」
ナタルは前へ向き直った。
褒めなかった。
まだ足りないとも言わない。
そうか、で置いた。
空を見る。
前線でも、空を見なかったわけではない。
低い雲が山のどちらへ流れるか。
夜までに雨が来るか。
雨が降れば斜面の土が緩み、足跡が消え、火を起こせなくなる。
尾根の向こうに火柱が上がれば、敵の火の魔法が届く場所を測った。
味方の火球が夜の雲を赤く照らせば、次に走る方角を決めた。
煙がまっすぐ上がる日は風がなく、風刃を使う兵が何度も向きを確かめた。
空はきれいかどうかを見るものではなかった。
「今日の雲、何に使えるかな」
「使わなくていいだろ」
ナタルの返事がすぐに来た。
「雨は降らない」
「それは見ればわかる」
「風もない」
「座ってるから知ってる」
「じゃあ、使い道ないね」
「ない」
使い道のない雲が、ゆっくり流れている。
役に立たないなら見なくてよかったものを、二人で見上げていた。
しばらく黙る。
前線でナタルと並んで黙るときは、互いに別の方向を見ていた。
一人が山側、もう一人が谷側。
同じ方向を二人で見るのは、片方が無駄になる。
いまは二人とも空を見ている。
それでも足音がすれば、目は別々に動く。
「ナタル、ミラとの部屋、どう?」
ナタルの指がベンチの端をなぞった。
板の筋を一本、途中まで追って止まる。
「急だな」
「普通の生活の話」
「あいつが普通だと決めるな」
「ミラは普通でしょ」
「靴下を枕の下へ入れる奴が?」
「それは普通じゃないかも」
「匙を床へ置いたのを、置く場所を間違えたと言う」
「それはミラだね」
「朝、片方の髪を結ばずに部屋を出る」
「それもミラ」
「寝る前に話し始めて、自分だけ途中で寝る」
「すごくミラ」
ナタルの指がもう一度動いた。
板の筋の続きを端までなぞる。
「どう?」
聞き直す。
「……悪くない」
声が少し遅れて出た。
「それ、ナタルが言う悪くないって、かなりいいってことでしょ」
返事はない。
否定もしない。
「何が楽なの」
ナタルは中庭の向こうを見た。
冬枯れの木の下を、ミラとルチアが歩いている。
二人ともこちらにはまだ気づかず、ミラが両手を使って何か話し、ルチアが笑っている。
ミラの話は遠くからでも大きい。
言葉までは聞こえないが、たぶん授業か食べ物か、なくした物の話だ。
「あいつは、肝心なことを何も聞かない」
ナタルが言った。
「うん」
屋根の上で聞かれた夜がある。
ナタルがされたことを、ミラは知らない。
何があったかは聞かず、夜に叫ぶことと、眠れない日があることを知っている。
「何も聞かない。ただ、くだらない話をして寝る」
ナタルの目はミラのほうを向いたままだ。
「昨日は、何の話?」
「食堂のパンに、端と真ん中で名前をつけるべきだと言ってた」
「どうして?」
「端のほうが固いから、別の食べ物だと」
「それで?」
「同じパンだと言った」
「ミラは?」
「気持ちが違うと言った」
「それ、最近よく使うね」
「便利だからだろ」
ミラがこちらを見つけた。
遠くから腕を上げ、大きく振る。
ルチアも気づき、胸の高さで片手を振った。
ナタルは振り返さない。
逃げもしない。
「それが、楽だ」
声は低く、ミラたちには届かない。
「わかる。ミラはそういう子だよね」
何も知らないことを、いいことだけにはしない。
ミラは知らないまま怖がった夜もあり、聞いてしまって顔を白くした夜もある。
それでも聞かずに隣にいると決め、席を取り、ノートを並べ、教科書を落とす。
ナタルが驚いたと言えば、気をつけると答える。
次の日にはまた匙を落とす。
ルチアは触る前に聞く。
グレン先生は言葉を短くして待つ。
ヴァイスさんは選べる聞き方をする。
ミラはくだらない話をする。
やり方が違う。
違うまま、どれもここにある。
「リーネちゃん! ナタル!」
ミラの声が中庭を横切った。
「いた! 探してたんだよ!」
「見つかったね」
「そういう意味じゃないの!」
まだ遠いのに会話ができる。
「何の用?」
「午後の魔法実習、場所変わったって! 訓練場じゃなくて本館の小講堂!」
「知ってる」
ナタルが答えた。
「知ってたの!?」
「朝、掲示されてた」
「じゃあ教えてよ!」
「聞かれなかった」
「そういうとこ!」
ミラが両腕を下ろした。
そばまで来ると、息が少し上がっている。
ルチアは歩いてきたので息は変わらず、ベンチとわたしたちを見た。
「ここに座ってたんだ」
「今日はな」
ナタルが同じ答えをする。
ルチアは背後に壁がないことへ一度目を向けたが、何も言わなかった。
「二人で何話してたの?」
ミラが聞く。
「普通の生活について」
「すごい話してる」
「何が普通か、わからないって結論になった」
「じゃあ、すごくない話だった」
「ミラとの部屋が楽だって話もした」
ナタルの指が、板の上で止まった。
ミラが目を丸くする。
「え」
「リーネ」
「何」
「言うな」
「聞かれたから」
「わたしには聞いてない」
「二人で何を話したかを聞かれた」
「そうだけど」
ミラが口元を押さえた。
笑うのを我慢している顔だ。
「ナタル、わたしとの部屋、楽なの?」
「うるさい」
「楽?」
「声がでかい」
「それは朝だから」
「いまは昼だ」
「昼も元気な時間」
「一日中だろ」
「じゃあ楽?」
ミラは引かない。
ナタルが前を向く。
逃げるなら立てるし、答えなくてもミラはたぶん次の話をする。
右の口角が、ほんの少しだけ上がった。
すぐには戻らなかった。
目は笑っていない。
目の下のくまも、噛みしめたときに固くなる顎もそのままだ。
でも口元だけが、いつものまっすぐな線ではなくなった。
「……悪くない」
ミラが両手を叩いた。
「やった!」
音にナタルの肩が上がる。
上がったまま、口角はまだ少し動いていた。
「いま笑った?」
聞くと、ナタルはこちらを見た。
「笑ってない」
目は本当に笑っていない。
「でも口が」
「動いただけだ」
「前にも動いたことあったよね」
選挙で負けた日、九票はゼロじゃないと言ったあと。
前線の煮込みに入っていたものを、肉だと信じていたと話した夜にも、ほんの少し動いた。
どちらも次に見たときには消えていた。
今日はまだ残っている。
「じゃあ、また動いた」
「お前らがうるさいからだ」
「わたしも?」
ルチアが聞く。
「お前は違う」
「わたしとリーネちゃんだけ?」
「お前がいちばんうるさい」
「それ、いつものナタルだ」
ミラが嬉しそうに言った。
午後の鐘が一度鳴る。
小講堂へ移るなら、もう行ったほうがいい。
立ち上がると、ナタルもベンチから腰を上げた。
背後を振り向く。
本館の窓と、誰もいない道を見て、前へ戻る。
確認はする。
わたしたち四人は並んで歩き出した。
ミラが先に行き、場所が変わったなら教科書が要るのかと騒ぐ。
ルチアが、魔法実習だから持っていこうと答える。
ナタルは壁へ寄らず、中庭の真ん中を歩いた。
足音はしない。
口角は、もういつもの位置へ戻っている。
目も笑わないままだ。
それでも、さっきまでナタルが座っていた木のベンチには、背中を守る壁がないまま、二人ぶんの日向だけが残っていた。