「速いわ」
ヘルミーネ先生の声で、五語目を飲み込んだ。
午後の訓練場には、冬の日が低い角度から入っている。
並んだ的の足元だけが明るく、奥の石壁はもう影の中だ。
右手の人差し指と中指を立て、左の掌で包んでいる。
教本どおりのつもりだったが、薬指に力が入っていた。
「詠唱も、指も」
「指も速いですか」
「指は急いでいる、のほうが近いわね」
ヘルミーネ先生が自分の手で印を作った。
わたしの手には触れず、胸の前でゆっくり指を動かして見せる。
「四語目で対象を定めるでしょう。その間に親指が外へ逃げているの。五語目へ急ぐから、薬指も一緒に曲がる」
自分の親指を見る。
教本の線より、爪半分くらい外にある。
「本当だ」
「自分で見つけられたなら、直せるわ」
親指を内側へ入れる。
薬指を伸ばすと、硬い関節の奥が引っ張られた。
授業の初めには、全員で同じ練習をした。
一語目から十語目までを唱え、的の布を揺らす。
ミラは六語目と二語目の音が似ていると文句を言い、三度目でようやく最後まで行った。
ルチアの水は的の前で丸くまとまり、布の下半分だけを濡らした。
ナタルは遅いが、一語も飛ばさなかった。
わたしの風は、的に当たった。
その横の的にも当たった。
石壁までは切らなかったので、入学した頃よりはずっといい。
ただ、今日の課題は「隣を壊さない」ではない。
一本の的に巻かれた布だけを揺らすことだ。
みんなが次の課題へ移ったあと、わたしだけ同じ的の前に残った。
ヘルミーネ先生は特別扱いをしない。
だから、できていない課題はできるまで残る。
「もう一度、最初から」
「はい」
息を吸う。
「集まれ。巡れ。開け。定めよ」
ここまでは全属性で同じだ。
五語目は風の形を作る言葉。
前は、ここから先が口に入らなかった。
唱える。
親指を見る。
内側。
六語目。
「廻れ」
範囲を決める。
二語目と音が似ているが、指の動きは違う。
「繋げ」
七語目まで来た。
二か月前は、ここがいちばん長かった。
七語まで伸ばしても、風の端は的の外へ残った。
先生に親指を直され、次の週も同じところを直され、その次も直された。
八語目へ進む。
九語目。
最後の一語まで、省かない。
十語を唱え切った。
風が出た。
的の布が鳴る。
中央が押され、端が後ろへ回り込んだ。
隣の布は動いていない。
地面の砂も上がらなかった。
奥の石壁から粉も落ちない。
目の前の一枚だけが、冬の日の中ではためいている。
「止めないで」
振り返りかけた顔を戻す。
「印をほどくところまでが詠唱よ」
親指を急に外さない。
薬指の力を抜き、立てていた二本を下ろす。
風が細くなった。
布の揺れが小さくなり、最後に下の端だけが一度動いて止まる。
終わった。
隣の的を見る。
動いた跡はない。
「全力じゃなくても、ちゃんと飛ぶんですね」
口から出た。
前にも、弱い風は出した。
練習用の魔法石を倒さず、表面を撫でた日もある。
それでも、どこかで腕を抑え込んでいる感じが残っていた。
振り下ろす剣を筋肉で止めるのと同じだ。
今の風は、最初からあの強さで出た。
強いものを途中で押さえたのではない。
「飛ぶわよ」
ヘルミーネ先生が笑った。
「あなたの魔力は、強く撃たなければ消えるものではないもの」
「戦場では威力だけあればよかったので。狙ったところには当たるし、それで足りると思ってました」
的の布に切れ目はない。
「範囲とか、出力とか、考えたこともなかったです」
「考えなくてよかったのではなく、考える時間がなかったのね」
低い声の詠唱を思い出す。
二語。
速くて、次の朝にはいなくなった人の声だ。
あの人は十語を知ってから短くした。
わたしは短いものを拾い、そこから使い始めた。
「じゃあ、今度は出力の調整から覚えましょう」
ヘルミーネ先生は、最初の授業で言ったことを、もう一度言った。
あのときは五語だった。
的は倒れ、布に切れ目が残った。
今日は十語ある。
「もう一回やっていいですか」
「もちろん。ただし今と同じ速さで」
「もう少し速くても」
「同じ速さで」
「はい」
教本を開き直す。
順番は覚えている。
それでも頁を開く。
もっと前に習うはずだったことを、十六でやっている。
前なら、遅れたぶんを早く埋めようとした。
戦場では、知らないまま一日過ごすと次の日がない。
見て覚え、できなければ死ぬ。
ここでは、同じところを何度やっても次の授業が来る。
親指を二か月直されても、先生は三か月目の位置を見ている。
遅れていることは、なくならない。
遅れたまま、最初からやればいい。
一語目を唱える。
今度は、急がなかった。
二度目の風も、一枚の布だけを揺らした。
「では、的を替えましょう」
ヘルミーネ先生が、隣の列から細い木枠を運んできた。
枠の中には、指一本ほどの幅に切った布が五本、横へ並べて吊ってある。
「右から二本目だけ」
「一本ずつ分けるんですか」
「いまの風が偶然広がらなかったのか、自分で絞ったのかを確かめます」
一枚の的に当たっただけでは、まだ足りないらしい。
でも、できたことを取り上げられた感じはしなかった。
次に何を確かめるかが、見える形で出てきただけだ。
木枠の前に立つ。
五本は近い。
布と布の間は指二本ぶんしかなく、前までの風なら全部が同じ方向へなびく。
右から二本目を見る。
十語を最初から唱える。
四語目で対象を決め、親指を内側へ置く。
六語目で幅を絞るとき、薬指が曲がりかけた。
伸ばす。
最後まで唱え切る。
風が出た。
右から二本目が、まっすぐ後ろへ上がる。
両隣も、端の二本も動かない。
細い布は一度だけはためき、ゆっくり垂れた。
「できた」
「ええ」
ヘルミーネ先生が木枠の前へ行き、五本を順に確かめた。
切れ目はない。
「今のどこが、さっきと違ったかわかる?」
「六語目で薬指が曲がりそうになったので、戻しました」
「それから?」
「右から二本目を、最後まで見てました」
「そう。自分で調整できているわ」
当たった、ではない。
調整した。
戦場の風も狙った相手には当たっていた。
問題は、当たったあとも外へ刃が残ることだった。
いまは、どこまでを動かし、どこから先を動かさないかを、自分の指で決めた。
「次の授業では、同じ幅で出力を一段上げます」
「今日は上げないんですか」
「上げません」
「できそうです」
「できそうなところで終えるのも練習よ」
少しだけ不満だった。
それも顔に出たらしく、ヘルミーネ先生が眼鏡の奥で目を細める。
「急がないことまで含めて、基礎からやり直すのでしょう?」
「……はい」
印をほどく。
五本のうち、動いた布は一本だけだった。
次の実技は、剣術だった。
魔法実習の的が片付けられ、訓練場の土に木剣の打ち合う音が戻る。
日がさらに傾き、息を吐くと少しだけ白く見えた。
今日は攻撃の型を三つずつ続けて打ち、最後に相手の面へ当てず止める。
止める位置は、面から木剣一本ぶん前だ。
一本目は上段。
二本目は胴。
三本目は踏み込んでからの突き。
どれも、相手が受けるとわかっている動きだ。
ルチアと組んだ。
「いくよ」
「うん」
ルチアが正眼に構える。
背筋が伸び、木剣の先がわたしの喉より少し下を向いている。
上段から振る。
ルチアの受けへ当たる手前で力を抜く。
木剣同士が軽く鳴った。
胴。
受けられる。
突き。
面の前で止める。
「できてる」
「型が決まってればね」
打つ場所も、受ける場所も、終わる場所も決まっている。
その中なら、手加減はできる。
入学した頃は、上段から下ろすだけの練習でも、受けが遅れたルチアの首へ手首が回った。
いまは同じ相手に、同じ距離で木剣を止められる。
それでも模擬戦になると違う。
相手が何をするかわからない。
隙があれば、体がいちばん早い終わらせ方を選ぶ。
倒れれば、次の敵へ行く前にとどめを入れる。
「交代」
グレン先生の声が響く。
ルチアの攻撃を三本受けた。
最後の突きを横へ流すと、体が半歩踏み込みかける。
止まった。
手首へ返さない。
喉へ入らない。
決められた練習なので、できる。
全員が三度ずつ交代すると、先生が解散を告げなかった。
「カルヴァス」
「はい」
「模擬戦をやるか」
訓練場に残った声が静かになる。
聞き方だった。
やれ、ではない。
木剣の柄を握り直す。
やらないと答えることもできる。
今日の三本は全部止まった。
それで終えても、授業の課題はできている。
「やります」
グレン先生が返却台から木剣を取った。
「相手は俺だ」
ルチアが一歩下がる。
ミラとナタルも訓練場の端へ寄った。
先生は防具をつけない。
わたしも面を外すよう言われた。
「防具なしですか」
「あると、お前は防具のない場所を探す」
「先生も、よくわかってますね」
「何度見たと思ってる」
先生が木剣を片手に下げた。
構えていない。
わたしは低く構える。
半身になり、木剣を体の横へ引く。
入学して初めて模擬戦をした日と同じ構えだ。
「始め」
踏み込む。
先生の木剣が上がる。
正面から受けるように見えた。
途中で角度が変わった。
受けずに流す。
開いた脇へ入る。
木剣の先が先生の上着へ触れる手前で、体を止めようとした。
遅い。
先生が半歩引き、わたしの剣は空を通った。
手首を返す。
首の横へ行く。
先生の木剣が下から当たり、軌道を外へ弾いた。
空いた胴へ肩から入った。
体当たりで先生の重心が崩れる。
倒れない。
足を払う。
先生が自分から膝をついた。
倒れた。
木剣を上げる。
振り下ろす。
喉。
先生の木剣が横から入り、わたしの剣を止めた。
乾いた音が訓練場へ響く。
「一本目」
息を吐く。
木剣を下ろした。
止めようとはした。
脇へ入るところでは、止める場所を考えていた。
でも相手が倒れたら、とどめまで行った。
「もう一度」
「続けられるか」
「はい」
構え直す。
二本目。
今度は先生が先に来た。
肩へ木剣が下りる。
受ける。
重い。
腕だけでは返せない。
左へ流し、先生の手首を取る。
柄を握る指へ木剣を当てれば落とせる。
当てない。
そう思ったのに、手首が返った。
先生の指へ木剣が下りる。
先生が柄を離す。
落ちた木剣が土へ当たった。
武器がなくなった。
先生の胸へ踏み込む。
木剣を横へ払われた。
落としたはずの剣を、先生は左手で拾っている。
その柄が、わたしの喉へ触れた。
「一本」
木剣を下ろす。
「止めようとはしました」
「体は止まらなかったな」
「はい」
考えたことと、できたことは別だ。
最初の一瞬に当てないと思った。
それでも体は相手の武器を落とし、そのまま次の動作へ進んだ。
先生が拾わなければ、胸まで入っていた。
「三本目、お願いします」
先生が木剣を構えた。
今度は正眼だ。
教本どおりの形をしている。
わたしは低いまま動かない。
先生の足が前へ出る。
剣が来る。
半歩沈む。
木剣の下を抜け、懐へ入った。
先生の肘を左手で押す。
体が回る。
背中が見えた。
膝の裏へ足を入れる。
先生の体が土へ落ちた。
木剣を両手で持ち直している。
上げる。
振り下ろす。
止める。
腕に命じる。
止まらない。
肩が下がる。
肘が伸びる。
木剣の先が先生の首へ近づく。
止める。
両手で柄を引く。
背中へ力を入れ、足で土を押す。
木剣が止まった。
先生の喉から、指二本ぶん。
腕が震えている。
肩の奥が痛い。
振り下ろした力と、引き戻す力が腕の中でぶつかっている。
先生は木剣を上げなかった。
土に片膝をついたまま、わたしの剣先を見た。
訓練場が静かだ。
息を吐く音まで聞こえる。
「下ろせ」
木剣を下ろした。
指が柄から離れにくい。
一本ずつ開く。
「全然だめですね」
笑いが出た。
うまくできなかったのがおかしいわけではない。
三回やって、二回は先生に止められ、最後も腕で引き戻した。
きれいな止め方ではなかった。
でも、隠すための笑顔ではない。
できなかったところを、できなかったまま見られている。
「今日はここまでだ」
グレン先生が立ち上がり、膝についた土を払った。
「はい」
「カルヴァス」
返却台へ向きかけた足を止める。
「入学した頃と何が違うか、わかるか」
「手加減は前よりできてます」
「それもある」
「先生を三回倒せなかった」
「倒す授業じゃない」
周りで小さく息が漏れた。
ミラだと思う。
先生はわたしの手を見た。
まだ少し震えている。
最初の模擬戦を思い出す。
倒れたヴィクトルの喉へ、木剣を振り下ろした。
止まってから、ここで終わりですよねと聞いた。
止まろうとしたことは、あのときにもあった。
先生は全員の前で、止めようとして止めたのだと言った。
ただ、止まったあとにも、なぜ止めなければならないのかをわかっていなかった。
「あの頃のお前は、剣が止まってから終わりを確かめた」
先生の言葉が続く。
「今日は、始める前から止めようとしていた」
「でも止まりませんでした」
「体は止まらなかった」
先生の声は短い。
「腕で止めただけです」
「そうだ」
否定されなかった。
「あれはまだ、止める剣じゃない」
「はい」
「だが、お前は止めたかった」
木剣を持つ手を見る。
止まらない体に、止めろと命じた。
命令は間に合わず、最後に腕力で引いた。
できたことにするつもりはない。
次も同じように止められるとは限らない。
先生より軽い相手なら、引く前に当たるかもしれない。
それでも、止めたかったのは本当だ。
「止めたいだけでも、違いますか」
「違う」
先生はすぐに答えた。
「振ることしか入っていない体に、お前が別の命令を足した」
木剣の先に、先生の喉はもうない。
「今日は、それを覚えて帰れ」
褒められたのかは、よくわからない。
先生は褒めるときも顔が変わらない。
ただ、最初の授業では自分が何を言ったかもわからず、先生が全員の前で意味をつけた。
今は、自分で止めたかったと言える。
先生は、そうだと答えた。
「はい」
木剣を返却台へ置く。
手の震えは残っていた。
放課後、中庭の石のベンチへ座った。
背後に壁があり、植え込みの向こうに出口が見える。
何度も座った場所だ。
冬枯れの枝の間を風が通るたび、細い先が擦れて鳴った。
ルチアは隣にいる。
一人ぶん空けるほど遠くなく、肩が触れるほど近くもない。
「今日の実技、どうだった?」
「魔法は十語、最後までできたよ」
「見てた。的だけ揺れてたね」
「うん。最初から弱い風が出た」
「嬉しそう」
「そう見える?」
「見えるよ」
口元に触る。
笑顔は出ている。
授業が終わってから、ずっと残っていたらしい。
「剣は?」
「三回振って、一回だけ止まった。全然だめ」
「一回止まったんでしょ?」
「腕で無理やり」
「それでも一回だよ」
ルチアがこちらを見る。
「すごいじゃん」
「すごい?」
「前よりできてるんでしょう」
「前は、止まってから、ここで終わりか聞いたから」
あの頃のルチアは、わたしの木剣が首の横で止まったとき、手を白くしていた。
それでも次の一本へ頷いた。
いまも剣を持ったわたしが怖いと、この子は言った。
怖くなくなったから隣にいるのではない。
「まあ、進歩なのかな」
「うん」
返事がすぐに来た。
二人で前を見る。
噴水は止まったままだ。
底に溜まった枯れ葉が、風で端へ寄っている。
一枚だけ石の縁へ引っかかり、裏返っても落ちない。
何か話そうとして来た。
ベンチへ座れば言える気がしていた。
座る前は、もう少し簡単な順番があった。
魔法の話。
剣の話。
それから。
魔法と剣は話せた。
最後のところで、口が動かない。
ルチアは待っている。
急かさない。
何を言うのとも聞かない。
膝の上に置かれた手を見る。
細い指。
手紙を折る指。
わたしの印を直す前に、触るねと言う手。
目の前にあれば、好きかどうかはわかる。
砂糖漬けは、食べれば好きだとわかった。
胡桃のパンも、盆にあれば選べる。
自分の中へ手を入れて、何が好きか取り出そうとすると空のままだ。
ルチアは、目の前にいる。
隣にいると落ち着く。
いないと探す。
泣くなら隣にいたい。
手が怖い日にも、繋ぎたいと思う。
一つずつなら、もう見た。
右手を膝から上げる。
先に声をかけようとして、やめた。
触るのは、わたしからだ。
ルチアの手の上へ重ねる。
指先が触れた瞬間、腕の内側が固くなった。
それでも掌を載せた。
ルチアが息を止める。
横を見ると、灰青色の目が大きくなっていた。
いつもはルチアが手を差し出す。
わたしが取るか、今日はだめだと言う。
今日は、最初からわたしの手が上にある。
「ルチア」
「うん」
声が小さい。
「馬車の中で、ヴェルダの言葉を一つ教えたよね」
「うん」
「隣に掛けるものを寄せてくれたとき」
「覚えてる。ありがとう、でしょう」
ルチアが、あの三音を言った。
一音目を長くし、あとの二つを短く置く。
最初に教えたときより、ずっと近い。
「上手になったね」
「何度も練習したから」
「誰にも使ってないって言ってなかった?」
「声に出さなくても練習はできるよ」
ルチアらしい。
重ねた手の下で、指が少し動く。
握り返さず、わたしが次にどうするかを待っている。
「あれね。ありがとうって教えたけど、それだけじゃないんだ」
ルチアの目が、わたしの口元へ移った。
「わたしの谷と、近くのいくつかの谷では、同じ三音を、親しい人に言うときにも使うの」
「親しい人?」
「王国の言葉にすると、好き、が近い」
ルチアの指が止まった。
「同じ言葉なの?」
「同じ三音。どこを伸ばすかと、誰に、どんなときに言うかで変わる。別の言葉を使う谷もあるよ」
言いながら、母の声を思い出す。
市の帰り道、荷を分けたあとに向けられた言葉。
感謝だけではなかったのだと、いまならわかる。
あの頃は分ける必要がなかった。
「王国の字だと、伸ばすところを書き分けられないんだって」
「じゃあ、馬車で教えてくれたのは」
「あのときは、ありがとう」
嘘にはしない。
あのとき口から出たのは、掛けるものを半分寄せてもらったことへの礼だった。
出た言葉を渡し、ルチアが四回練習して返した。
それだけでも本当だ。
「今日は?」
ルチアが聞いた。
逃げられる聞き方ではなかった。
でも、答えは目の前にある。
重ねた手。
冬の風で冷えた頬。
返事を待つ灰青色の目。
自分の中から探さなくていい。
「今日は、両方」
三音を言う。
急がず、一音目を長く置く。
あとの二音を短く詰める。
馬車で出たときと同じ音だ。
向ける相手と、置いた手が違う。
「隣にいてくれて、ありがとう」
一度、息を吸う。
「ルチアが好き」
言葉にすると、胸の奥から何かが出てくると思っていた。
何も出てこないかもしれないとも思っていた。
どちらでもなかった。
目の前にあるものを、そうだと決めただけだ。
ルチアの目から、涙が一つ落ちた。
「泣くの?」
「泣くよ」
「悲しい?」
「違う」
「じゃあ、嬉しい?」
「それだけでもない」
ルチアが空いている手で涙を拭った。
「リーネ、わたしたちに名前はつけないって言ったの、覚えてる?」
「覚えてる」
「変えなくていい?」
考える。
恋人という名前をつけられたら、正しいやり方を探す。
毎朝何を言うか、どこまで触るか、どんな手紙を書くか。
たぶん、教本がないか探す。
「変えなくていいよ」
「うん」
「でも、言ったことは変えない」
「うん」
「好きっていうのは、本当」
「うん」
ルチアの返事が、途中から泣き声になった。
「それで、いい」
しばらく、繋いだ手だけを見る。
「いつ、わかったの?」
ルチアが聞いた。
「いま」
「いま?」
「言う前」
「それ、ほとんどいまじゃない」
「うん」
目の前に出されればわかる。
前から何度も、ルチアは目の前にいた。
でも、そのたびに一つずつしか見ていなかった。
隣に座ると落ち着く。
手紙をもらうと胸のあたりが温かくなる。
いないと探す。
泣いていれば涙を拭いたい。
一つずつなら、どれも答えられた。
それを全部並べて、何というのかは出てこなかった。
「今日、ルチアを見たら、あの言葉が出てきた」
「探したんじゃなくて?」
「探すと出ないから」
「そうだったね」
ルチアは知っている。
何が好きかを自分の中から出せないことも、目の前にあればわかることも。
「だから、目の前にいるときに言った」
「うん」
「次に探したら、また出ないかもしれないし」
「それでも、今日言ったことはなくならないよ」
「うん。なくさないで」
「忘れない」
下にある手が、ゆっくり返る。
わたしの掌とルチアの掌が合う。
指が一本ずつ重なった。
震えが来る。
手の甲から腕へ上がり、肩の内側で止まらない。
「まだ怖い?」
「うん」
「離す?」
「もう少し」
自分で答える。
ルチアは強く握らない。
わたしも、離れないぶんだけ握る。
「わたしも言っていい?」
「王国の言葉で?」
「さっきの言葉で」
ルチアが三音を言った。
一音目が少し短い。
三音目が伸びている。
「惜しい」
「いま直すところ?」
「違う意味になったら困るでしょ」
「何て意味になったの」
「遠くにいる人を呼んでる感じ」
「リーネは隣にいるのに」
「だから、もう少し頭を伸ばして。あとの二つは短く」
ルチアが指で膝を三度叩く。
一つ目を長く置き、あとの二つを詰める。
馬車の中で教えたときと同じ練習だ。
もう一度、言った。
今度は合っている。
礼を言うだけの音にも、親愛を渡す音にも聞こえた。
どちらかを決めるのは、言葉の形だけではない。
ルチアはわたしを見ている。
「両方?」
聞くと、涙の跡が残ったまま笑った。
「両方」
手の震えは止まっていない。
噴水の底に引っかかっていた枯れ葉が、次の風で石の縁を越えた。
乾いた音を立てて道を滑り、ベンチの前で止まる。
その向こうでは、冬枯れの枝の先に、まだ閉じたままの小さな芽が並んでいた。