わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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剣と魔法、もう一度

「速いわ」

 

ヘルミーネ先生の声で、五語目を飲み込んだ。

 

午後の訓練場には、冬の日が低い角度から入っている。

並んだ的の足元だけが明るく、奥の石壁はもう影の中だ。

 

右手の人差し指と中指を立て、左の掌で包んでいる。

教本どおりのつもりだったが、薬指に力が入っていた。

 

「詠唱も、指も」

 

「指も速いですか」

 

「指は急いでいる、のほうが近いわね」

 

ヘルミーネ先生が自分の手で印を作った。

わたしの手には触れず、胸の前でゆっくり指を動かして見せる。

 

「四語目で対象を定めるでしょう。その間に親指が外へ逃げているの。五語目へ急ぐから、薬指も一緒に曲がる」

 

自分の親指を見る。

教本の線より、爪半分くらい外にある。

 

「本当だ」

 

「自分で見つけられたなら、直せるわ」

 

親指を内側へ入れる。

薬指を伸ばすと、硬い関節の奥が引っ張られた。

 

授業の初めには、全員で同じ練習をした。

一語目から十語目までを唱え、的の布を揺らす。

ミラは六語目と二語目の音が似ていると文句を言い、三度目でようやく最後まで行った。

ルチアの水は的の前で丸くまとまり、布の下半分だけを濡らした。

ナタルは遅いが、一語も飛ばさなかった。

 

わたしの風は、的に当たった。

その横の的にも当たった。

石壁までは切らなかったので、入学した頃よりはずっといい。

 

ただ、今日の課題は「隣を壊さない」ではない。

一本の的に巻かれた布だけを揺らすことだ。

 

みんなが次の課題へ移ったあと、わたしだけ同じ的の前に残った。

ヘルミーネ先生は特別扱いをしない。

だから、できていない課題はできるまで残る。

 

「もう一度、最初から」

 

「はい」

 

息を吸う。

 

「集まれ。巡れ。開け。定めよ」

 

ここまでは全属性で同じだ。

五語目は風の形を作る言葉。

前は、ここから先が口に入らなかった。

 

唱える。

 

親指を見る。

内側。

 

六語目。

 

「廻れ」

 

範囲を決める。

二語目と音が似ているが、指の動きは違う。

 

「繋げ」

 

七語目まで来た。

 

二か月前は、ここがいちばん長かった。

七語まで伸ばしても、風の端は的の外へ残った。

先生に親指を直され、次の週も同じところを直され、その次も直された。

 

八語目へ進む。

九語目。

最後の一語まで、省かない。

 

十語を唱え切った。

 

風が出た。

 

的の布が鳴る。

中央が押され、端が後ろへ回り込んだ。

 

隣の布は動いていない。

 

地面の砂も上がらなかった。

奥の石壁から粉も落ちない。

 

目の前の一枚だけが、冬の日の中ではためいている。

 

「止めないで」

 

振り返りかけた顔を戻す。

 

「印をほどくところまでが詠唱よ」

 

親指を急に外さない。

薬指の力を抜き、立てていた二本を下ろす。

 

風が細くなった。

布の揺れが小さくなり、最後に下の端だけが一度動いて止まる。

 

終わった。

 

隣の的を見る。

動いた跡はない。

 

「全力じゃなくても、ちゃんと飛ぶんですね」

 

口から出た。

 

前にも、弱い風は出した。

練習用の魔法石を倒さず、表面を撫でた日もある。

それでも、どこかで腕を抑え込んでいる感じが残っていた。

振り下ろす剣を筋肉で止めるのと同じだ。

 

今の風は、最初からあの強さで出た。

強いものを途中で押さえたのではない。

 

「飛ぶわよ」

 

ヘルミーネ先生が笑った。

 

「あなたの魔力は、強く撃たなければ消えるものではないもの」

 

「戦場では威力だけあればよかったので。狙ったところには当たるし、それで足りると思ってました」

 

的の布に切れ目はない。

 

「範囲とか、出力とか、考えたこともなかったです」

 

「考えなくてよかったのではなく、考える時間がなかったのね」

 

低い声の詠唱を思い出す。

二語。

速くて、次の朝にはいなくなった人の声だ。

 

あの人は十語を知ってから短くした。

わたしは短いものを拾い、そこから使い始めた。

 

「じゃあ、今度は出力の調整から覚えましょう」

 

ヘルミーネ先生は、最初の授業で言ったことを、もう一度言った。

 

あのときは五語だった。

的は倒れ、布に切れ目が残った。

 

今日は十語ある。

 

「もう一回やっていいですか」

 

「もちろん。ただし今と同じ速さで」

 

「もう少し速くても」

 

「同じ速さで」

 

「はい」

 

教本を開き直す。

順番は覚えている。

それでも頁を開く。

 

もっと前に習うはずだったことを、十六でやっている。

 

前なら、遅れたぶんを早く埋めようとした。

戦場では、知らないまま一日過ごすと次の日がない。

見て覚え、できなければ死ぬ。

 

ここでは、同じところを何度やっても次の授業が来る。

親指を二か月直されても、先生は三か月目の位置を見ている。

 

遅れていることは、なくならない。

遅れたまま、最初からやればいい。

 

一語目を唱える。

 

今度は、急がなかった。

 

二度目の風も、一枚の布だけを揺らした。

 

「では、的を替えましょう」

 

ヘルミーネ先生が、隣の列から細い木枠を運んできた。

枠の中には、指一本ほどの幅に切った布が五本、横へ並べて吊ってある。

 

「右から二本目だけ」

 

「一本ずつ分けるんですか」

 

「いまの風が偶然広がらなかったのか、自分で絞ったのかを確かめます」

 

一枚の的に当たっただけでは、まだ足りないらしい。

でも、できたことを取り上げられた感じはしなかった。

次に何を確かめるかが、見える形で出てきただけだ。

 

木枠の前に立つ。

 

五本は近い。

布と布の間は指二本ぶんしかなく、前までの風なら全部が同じ方向へなびく。

 

右から二本目を見る。

 

十語を最初から唱える。

四語目で対象を決め、親指を内側へ置く。

六語目で幅を絞るとき、薬指が曲がりかけた。

 

伸ばす。

 

最後まで唱え切る。

 

風が出た。

 

右から二本目が、まっすぐ後ろへ上がる。

両隣も、端の二本も動かない。

 

細い布は一度だけはためき、ゆっくり垂れた。

 

「できた」

 

「ええ」

 

ヘルミーネ先生が木枠の前へ行き、五本を順に確かめた。

切れ目はない。

 

「今のどこが、さっきと違ったかわかる?」

 

「六語目で薬指が曲がりそうになったので、戻しました」

 

「それから?」

 

「右から二本目を、最後まで見てました」

 

「そう。自分で調整できているわ」

 

当たった、ではない。

調整した。

 

戦場の風も狙った相手には当たっていた。

問題は、当たったあとも外へ刃が残ることだった。

 

いまは、どこまでを動かし、どこから先を動かさないかを、自分の指で決めた。

 

「次の授業では、同じ幅で出力を一段上げます」

 

「今日は上げないんですか」

 

「上げません」

 

「できそうです」

 

「できそうなところで終えるのも練習よ」

 

少しだけ不満だった。

 

それも顔に出たらしく、ヘルミーネ先生が眼鏡の奥で目を細める。

 

「急がないことまで含めて、基礎からやり直すのでしょう?」

 

「……はい」

 

印をほどく。

 

五本のうち、動いた布は一本だけだった。

 

 

 

次の実技は、剣術だった。

 

魔法実習の的が片付けられ、訓練場の土に木剣の打ち合う音が戻る。

日がさらに傾き、息を吐くと少しだけ白く見えた。

 

今日は攻撃の型を三つずつ続けて打ち、最後に相手の面へ当てず止める。

止める位置は、面から木剣一本ぶん前だ。

 

一本目は上段。

二本目は胴。

三本目は踏み込んでからの突き。

 

どれも、相手が受けるとわかっている動きだ。

 

ルチアと組んだ。

 

「いくよ」

 

「うん」

 

ルチアが正眼に構える。

背筋が伸び、木剣の先がわたしの喉より少し下を向いている。

 

上段から振る。

 

ルチアの受けへ当たる手前で力を抜く。

木剣同士が軽く鳴った。

 

胴。

受けられる。

 

突き。

面の前で止める。

 

「できてる」

 

「型が決まってればね」

 

打つ場所も、受ける場所も、終わる場所も決まっている。

その中なら、手加減はできる。

 

入学した頃は、上段から下ろすだけの練習でも、受けが遅れたルチアの首へ手首が回った。

いまは同じ相手に、同じ距離で木剣を止められる。

 

それでも模擬戦になると違う。

 

相手が何をするかわからない。

隙があれば、体がいちばん早い終わらせ方を選ぶ。

倒れれば、次の敵へ行く前にとどめを入れる。

 

「交代」

 

グレン先生の声が響く。

 

ルチアの攻撃を三本受けた。

最後の突きを横へ流すと、体が半歩踏み込みかける。

 

止まった。

 

手首へ返さない。

喉へ入らない。

 

決められた練習なので、できる。

 

全員が三度ずつ交代すると、先生が解散を告げなかった。

 

「カルヴァス」

 

「はい」

 

「模擬戦をやるか」

 

訓練場に残った声が静かになる。

 

聞き方だった。

やれ、ではない。

 

木剣の柄を握り直す。

 

やらないと答えることもできる。

今日の三本は全部止まった。

それで終えても、授業の課題はできている。

 

「やります」

 

グレン先生が返却台から木剣を取った。

 

「相手は俺だ」

 

ルチアが一歩下がる。

ミラとナタルも訓練場の端へ寄った。

 

先生は防具をつけない。

わたしも面を外すよう言われた。

 

「防具なしですか」

 

「あると、お前は防具のない場所を探す」

 

「先生も、よくわかってますね」

 

「何度見たと思ってる」

 

先生が木剣を片手に下げた。

 

構えていない。

 

わたしは低く構える。

半身になり、木剣を体の横へ引く。

 

入学して初めて模擬戦をした日と同じ構えだ。

 

「始め」

 

踏み込む。

 

先生の木剣が上がる。

正面から受けるように見えた。

 

途中で角度が変わった。

 

受けずに流す。

 

開いた脇へ入る。

 

木剣の先が先生の上着へ触れる手前で、体を止めようとした。

 

遅い。

 

先生が半歩引き、わたしの剣は空を通った。

 

手首を返す。

首の横へ行く。

 

先生の木剣が下から当たり、軌道を外へ弾いた。

 

空いた胴へ肩から入った。

 

体当たりで先生の重心が崩れる。

倒れない。

 

足を払う。

 

先生が自分から膝をついた。

 

倒れた。

 

木剣を上げる。

 

振り下ろす。

 

喉。

 

先生の木剣が横から入り、わたしの剣を止めた。

 

乾いた音が訓練場へ響く。

 

「一本目」

 

息を吐く。

 

木剣を下ろした。

 

止めようとはした。

脇へ入るところでは、止める場所を考えていた。

 

でも相手が倒れたら、とどめまで行った。

 

「もう一度」

 

「続けられるか」

 

「はい」

 

構え直す。

 

二本目。

 

今度は先生が先に来た。

肩へ木剣が下りる。

 

受ける。

 

重い。

腕だけでは返せない。

 

左へ流し、先生の手首を取る。

柄を握る指へ木剣を当てれば落とせる。

 

当てない。

 

そう思ったのに、手首が返った。

 

先生の指へ木剣が下りる。

 

先生が柄を離す。

落ちた木剣が土へ当たった。

 

武器がなくなった。

 

先生の胸へ踏み込む。

 

木剣を横へ払われた。

落としたはずの剣を、先生は左手で拾っている。

 

その柄が、わたしの喉へ触れた。

 

「一本」

 

木剣を下ろす。

 

「止めようとはしました」

 

「体は止まらなかったな」

 

「はい」

 

考えたことと、できたことは別だ。

 

最初の一瞬に当てないと思った。

それでも体は相手の武器を落とし、そのまま次の動作へ進んだ。

 

先生が拾わなければ、胸まで入っていた。

 

「三本目、お願いします」

 

先生が木剣を構えた。

 

今度は正眼だ。

教本どおりの形をしている。

 

わたしは低いまま動かない。

 

先生の足が前へ出る。

 

剣が来る。

 

半歩沈む。

木剣の下を抜け、懐へ入った。

 

先生の肘を左手で押す。

体が回る。

 

背中が見えた。

 

膝の裏へ足を入れる。

 

先生の体が土へ落ちた。

 

木剣を両手で持ち直している。

 

上げる。

 

振り下ろす。

 

止める。

 

腕に命じる。

 

止まらない。

 

肩が下がる。

肘が伸びる。

木剣の先が先生の首へ近づく。

 

止める。

 

両手で柄を引く。

背中へ力を入れ、足で土を押す。

 

木剣が止まった。

 

先生の喉から、指二本ぶん。

 

腕が震えている。

肩の奥が痛い。

振り下ろした力と、引き戻す力が腕の中でぶつかっている。

 

先生は木剣を上げなかった。

土に片膝をついたまま、わたしの剣先を見た。

 

訓練場が静かだ。

 

息を吐く音まで聞こえる。

 

「下ろせ」

 

木剣を下ろした。

 

指が柄から離れにくい。

一本ずつ開く。

 

「全然だめですね」

 

笑いが出た。

 

うまくできなかったのがおかしいわけではない。

三回やって、二回は先生に止められ、最後も腕で引き戻した。

きれいな止め方ではなかった。

 

でも、隠すための笑顔ではない。

できなかったところを、できなかったまま見られている。

 

「今日はここまでだ」

 

グレン先生が立ち上がり、膝についた土を払った。

 

「はい」

 

「カルヴァス」

 

返却台へ向きかけた足を止める。

 

「入学した頃と何が違うか、わかるか」

 

「手加減は前よりできてます」

 

「それもある」

 

「先生を三回倒せなかった」

 

「倒す授業じゃない」

 

周りで小さく息が漏れた。

ミラだと思う。

 

先生はわたしの手を見た。

まだ少し震えている。

 

最初の模擬戦を思い出す。

倒れたヴィクトルの喉へ、木剣を振り下ろした。

止まってから、ここで終わりですよねと聞いた。

 

止まろうとしたことは、あのときにもあった。

先生は全員の前で、止めようとして止めたのだと言った。

 

ただ、止まったあとにも、なぜ止めなければならないのかをわかっていなかった。

 

「あの頃のお前は、剣が止まってから終わりを確かめた」

 

先生の言葉が続く。

 

「今日は、始める前から止めようとしていた」

 

「でも止まりませんでした」

 

「体は止まらなかった」

 

先生の声は短い。

 

「腕で止めただけです」

 

「そうだ」

 

否定されなかった。

 

「あれはまだ、止める剣じゃない」

 

「はい」

 

「だが、お前は止めたかった」

 

木剣を持つ手を見る。

 

止まらない体に、止めろと命じた。

命令は間に合わず、最後に腕力で引いた。

 

できたことにするつもりはない。

次も同じように止められるとは限らない。

先生より軽い相手なら、引く前に当たるかもしれない。

 

それでも、止めたかったのは本当だ。

 

「止めたいだけでも、違いますか」

 

「違う」

 

先生はすぐに答えた。

 

「振ることしか入っていない体に、お前が別の命令を足した」

 

木剣の先に、先生の喉はもうない。

 

「今日は、それを覚えて帰れ」

 

褒められたのかは、よくわからない。

先生は褒めるときも顔が変わらない。

 

ただ、最初の授業では自分が何を言ったかもわからず、先生が全員の前で意味をつけた。

 

今は、自分で止めたかったと言える。

先生は、そうだと答えた。

 

「はい」

 

木剣を返却台へ置く。

 

手の震えは残っていた。

 

 

 

放課後、中庭の石のベンチへ座った。

 

背後に壁があり、植え込みの向こうに出口が見える。

何度も座った場所だ。

 

冬枯れの枝の間を風が通るたび、細い先が擦れて鳴った。

 

ルチアは隣にいる。

一人ぶん空けるほど遠くなく、肩が触れるほど近くもない。

 

「今日の実技、どうだった?」

 

「魔法は十語、最後までできたよ」

 

「見てた。的だけ揺れてたね」

 

「うん。最初から弱い風が出た」

 

「嬉しそう」

 

「そう見える?」

 

「見えるよ」

 

口元に触る。

笑顔は出ている。

 

授業が終わってから、ずっと残っていたらしい。

 

「剣は?」

 

「三回振って、一回だけ止まった。全然だめ」

 

「一回止まったんでしょ?」

 

「腕で無理やり」

 

「それでも一回だよ」

 

ルチアがこちらを見る。

 

「すごいじゃん」

 

「すごい?」

 

「前よりできてるんでしょう」

 

「前は、止まってから、ここで終わりか聞いたから」

 

あの頃のルチアは、わたしの木剣が首の横で止まったとき、手を白くしていた。

それでも次の一本へ頷いた。

 

いまも剣を持ったわたしが怖いと、この子は言った。

怖くなくなったから隣にいるのではない。

 

「まあ、進歩なのかな」

 

「うん」

 

返事がすぐに来た。

 

二人で前を見る。

 

噴水は止まったままだ。

底に溜まった枯れ葉が、風で端へ寄っている。

一枚だけ石の縁へ引っかかり、裏返っても落ちない。

 

何か話そうとして来た。

 

ベンチへ座れば言える気がしていた。

座る前は、もう少し簡単な順番があった。

 

魔法の話。

剣の話。

それから。

 

魔法と剣は話せた。

最後のところで、口が動かない。

 

ルチアは待っている。

 

急かさない。

何を言うのとも聞かない。

 

膝の上に置かれた手を見る。

 

細い指。

手紙を折る指。

わたしの印を直す前に、触るねと言う手。

 

目の前にあれば、好きかどうかはわかる。

 

砂糖漬けは、食べれば好きだとわかった。

胡桃のパンも、盆にあれば選べる。

自分の中へ手を入れて、何が好きか取り出そうとすると空のままだ。

 

ルチアは、目の前にいる。

 

隣にいると落ち着く。

いないと探す。

泣くなら隣にいたい。

手が怖い日にも、繋ぎたいと思う。

 

一つずつなら、もう見た。

 

右手を膝から上げる。

 

先に声をかけようとして、やめた。

触るのは、わたしからだ。

 

ルチアの手の上へ重ねる。

 

指先が触れた瞬間、腕の内側が固くなった。

それでも掌を載せた。

 

ルチアが息を止める。

 

横を見ると、灰青色の目が大きくなっていた。

 

いつもはルチアが手を差し出す。

わたしが取るか、今日はだめだと言う。

 

今日は、最初からわたしの手が上にある。

 

「ルチア」

 

「うん」

 

声が小さい。

 

「馬車の中で、ヴェルダの言葉を一つ教えたよね」

 

「うん」

 

「隣に掛けるものを寄せてくれたとき」

 

「覚えてる。ありがとう、でしょう」

 

ルチアが、あの三音を言った。

 

一音目を長くし、あとの二つを短く置く。

最初に教えたときより、ずっと近い。

 

「上手になったね」

 

「何度も練習したから」

 

「誰にも使ってないって言ってなかった?」

 

「声に出さなくても練習はできるよ」

 

ルチアらしい。

 

重ねた手の下で、指が少し動く。

握り返さず、わたしが次にどうするかを待っている。

 

「あれね。ありがとうって教えたけど、それだけじゃないんだ」

 

ルチアの目が、わたしの口元へ移った。

 

「わたしの谷と、近くのいくつかの谷では、同じ三音を、親しい人に言うときにも使うの」

 

「親しい人?」

 

「王国の言葉にすると、好き、が近い」

 

ルチアの指が止まった。

 

「同じ言葉なの?」

 

「同じ三音。どこを伸ばすかと、誰に、どんなときに言うかで変わる。別の言葉を使う谷もあるよ」

 

言いながら、母の声を思い出す。

市の帰り道、荷を分けたあとに向けられた言葉。

 

感謝だけではなかったのだと、いまならわかる。

あの頃は分ける必要がなかった。

 

「王国の字だと、伸ばすところを書き分けられないんだって」

 

「じゃあ、馬車で教えてくれたのは」

 

「あのときは、ありがとう」

 

嘘にはしない。

 

あのとき口から出たのは、掛けるものを半分寄せてもらったことへの礼だった。

出た言葉を渡し、ルチアが四回練習して返した。

 

それだけでも本当だ。

 

「今日は?」

 

ルチアが聞いた。

 

逃げられる聞き方ではなかった。

 

でも、答えは目の前にある。

 

重ねた手。

冬の風で冷えた頬。

返事を待つ灰青色の目。

 

自分の中から探さなくていい。

 

「今日は、両方」

 

三音を言う。

 

急がず、一音目を長く置く。

あとの二音を短く詰める。

 

馬車で出たときと同じ音だ。

 

向ける相手と、置いた手が違う。

 

「隣にいてくれて、ありがとう」

 

一度、息を吸う。

 

「ルチアが好き」

 

言葉にすると、胸の奥から何かが出てくると思っていた。

何も出てこないかもしれないとも思っていた。

 

どちらでもなかった。

 

目の前にあるものを、そうだと決めただけだ。

 

ルチアの目から、涙が一つ落ちた。

 

「泣くの?」

 

「泣くよ」

 

「悲しい?」

 

「違う」

 

「じゃあ、嬉しい?」

 

「それだけでもない」

 

ルチアが空いている手で涙を拭った。

 

「リーネ、わたしたちに名前はつけないって言ったの、覚えてる?」

 

「覚えてる」

 

「変えなくていい?」

 

考える。

 

恋人という名前をつけられたら、正しいやり方を探す。

毎朝何を言うか、どこまで触るか、どんな手紙を書くか。

たぶん、教本がないか探す。

 

「変えなくていいよ」

 

「うん」

 

「でも、言ったことは変えない」

 

「うん」

 

「好きっていうのは、本当」

 

「うん」

 

ルチアの返事が、途中から泣き声になった。

 

「それで、いい」

 

しばらく、繋いだ手だけを見る。

 

「いつ、わかったの?」

 

ルチアが聞いた。

 

「いま」

 

「いま?」

 

「言う前」

 

「それ、ほとんどいまじゃない」

 

「うん」

 

目の前に出されればわかる。

 

前から何度も、ルチアは目の前にいた。

でも、そのたびに一つずつしか見ていなかった。

 

隣に座ると落ち着く。

手紙をもらうと胸のあたりが温かくなる。

いないと探す。

泣いていれば涙を拭いたい。

 

一つずつなら、どれも答えられた。

それを全部並べて、何というのかは出てこなかった。

 

「今日、ルチアを見たら、あの言葉が出てきた」

 

「探したんじゃなくて?」

 

「探すと出ないから」

 

「そうだったね」

 

ルチアは知っている。

何が好きかを自分の中から出せないことも、目の前にあればわかることも。

 

「だから、目の前にいるときに言った」

 

「うん」

 

「次に探したら、また出ないかもしれないし」

 

「それでも、今日言ったことはなくならないよ」

 

「うん。なくさないで」

 

「忘れない」

 

下にある手が、ゆっくり返る。

わたしの掌とルチアの掌が合う。

 

指が一本ずつ重なった。

 

震えが来る。

 

手の甲から腕へ上がり、肩の内側で止まらない。

 

「まだ怖い?」

 

「うん」

 

「離す?」

 

「もう少し」

 

自分で答える。

 

ルチアは強く握らない。

わたしも、離れないぶんだけ握る。

 

「わたしも言っていい?」

 

「王国の言葉で?」

 

「さっきの言葉で」

 

ルチアが三音を言った。

 

一音目が少し短い。

三音目が伸びている。

 

「惜しい」

 

「いま直すところ?」

 

「違う意味になったら困るでしょ」

 

「何て意味になったの」

 

「遠くにいる人を呼んでる感じ」

 

「リーネは隣にいるのに」

 

「だから、もう少し頭を伸ばして。あとの二つは短く」

 

ルチアが指で膝を三度叩く。

 

一つ目を長く置き、あとの二つを詰める。

 

馬車の中で教えたときと同じ練習だ。

 

もう一度、言った。

 

今度は合っている。

 

礼を言うだけの音にも、親愛を渡す音にも聞こえた。

どちらかを決めるのは、言葉の形だけではない。

 

ルチアはわたしを見ている。

 

「両方?」

 

聞くと、涙の跡が残ったまま笑った。

 

「両方」

 

手の震えは止まっていない。

 

噴水の底に引っかかっていた枯れ葉が、次の風で石の縁を越えた。

乾いた音を立てて道を滑り、ベンチの前で止まる。

 

その向こうでは、冬枯れの枝の先に、まだ閉じたままの小さな芽が並んでいた。

 

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総合評価:2712/評価:8.24/連載:12話/更新日時:2026年08月02日(日) 19:32 小説情報

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毎日姉に添い寝をしてもらっている少女、花平希沙音は高校一年の夏、ついに「一人で眠れるようになりなさい」と姉の家を追い出されてしまう。▼一人で眠れる気がしなかった希沙音は、なんとか添い寝を頼めないかと転居先の女子寮で出会った親切な少女、伊咲深白にお願いをする。▼しかし、深白は何人もの少女を手篭めにしてきた悪女だった。▼案の定、希沙音も深白に美味しく頂かれるのか…


総合評価:2745/評価:8.89/連載:31話/更新日時:2026年07月14日(火) 12:05 小説情報

壊れかけの聖女に俺がインストールされたらしい(作者:あまぐりムリーパー)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

聖女ちゃんが、心を閉ざして動かなくなっちゃった、どうしよう!?▼せや、適当にそこら辺の魂突っ込んどけばええやろ!▼それで、俺が選ばれたってわけ▼んで、死なない体で化け物退治とかさせられてたんだけど、なんか聖女も狂信者も神官くんも、様子がおかしくない?▼※不定期更新▼カクヨム、小説家になろうにもマルチで投稿始めました


総合評価:3788/評価:8.18/完結:94話/更新日時:2026年08月11日(火) 20:15 小説情報

ニチアサ系世界に転生したTS魔法少女は悪の幹部をやりたくない(作者:なはた)(オリジナル現代/冒険・バトル)

▼フィジカルよわよわなTS銀髪魔法少女がクール系敵幹部を必死に装いながら魔法少女達と戦うお話。


総合評価:3531/評価:8.53/連載:14話/更新日時:2026年07月24日(金) 12:38 小説情報

鬱百合アニメの推しキャラ皆に幸せになってほしいTS転生百合厨魔法少女(作者:丹羽にわか)(オリジナル現代/冒険・バトル)

TS転生百合厨魔法少女(糸使い)が推しの幸せの為に沢山頑張るお話。百合厨美少女は百合に挟まれると良い出汁が取れる。


総合評価:4374/評価:8.75/連載:4話/更新日時:2026年08月21日(金) 22:25 小説情報


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