わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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ルチア視点




窓から入る光が、机の端まで届いている。

 

冬のあいだは、この時間でも床の途中で切れていた。

今日は白い。

白い、というより、温かい。

 

季節が変わっている。

 

枝の先に乗っていた閉じた芽が、薄緑を見せ始めている。

中庭の土はまだ硬いが、風の匂いが違う。土と水の匂いだ。雪の匂いではない。

 

新学期が始まる朝だ。

 

黒板の端に、新しい時間割が貼ってある。紙の角がまだ平らで、糊の匂いが微かに残っている。冬のあいだの紙は端が上がっていた。貼り替えたのだ。

 

教室には、まだ人が少ない。

前の列に男子が二人、黒板の下で新しい時間割を写している。

窓際の席に、わたしは先に座った。

隣は空けてある。

 

入り口は、斜め前に見える。

扉が開くたびに、廊下の光が一瞬だけ床を走る。

 

机の木は、冬のあいだと変わらない。

角が丸くなっていて、前の学年の誰かが刻んだ小さな傷が、窓側の縁に残っている。指でなぞると、冷たい。春の光は白いのに、木はまだ冬の温度を持っている。

 

自分の髪を耳の後ろへ寄せる。水色のリボンは今朝、リーネが窓を見ているあいだに結んだ。鏡の前で結ぶ順番は、入学のときからあまり変わっていない。変わるのは、隣に人がいるかどうかだ。今朝もいた。窓の留め金に触っている背中が、洗面所から戻ったときに見えた。確認の時間は、同室になってから少し短くなった。短くなった分だけ、髪を結ぶ手が急がなくて済む。

 

隣の椅子は、まだ冷たい。

座面に手を置くと、自分の体温が移る前の木の硬さがある。空けてある、というより、置いてある。あの子が来て、鞄を脚のそばに置いて、壁を背にする角度へ体をずらす。そのための席だ。

 

先に教室へ来たのは、わたしのほうだ。

食堂を出たあと、リーネは隣室の扉を叩いてナタルを呼ぶと言った。ミラも追いかけてくる、と。

「席、取っとくね」と言ったら、「うん。すぐ行く」と、廊下の向こうで手を振った。

 

席を取る、というのは建前だ。

本当は、少しだけ一人で行きたかった。

リーネが来る前に、少しだけ考える時間が欲しかった。

 

怖いものは、まだある。

あの子の剣を持った目も、抱きしめようとして壊した夜も、自分が触れてまた壊すかもしれない朝も。消えていない。消えないものを抱えたまま、空いている席の隣に座っている。

入学式の夜、天井を見て泣いた。理由がわからなくて泣いた。今は理由がわかる。わかるから楽になった、というほど単純ではない。わかるほうが、重い夜もある。重い夜の翌朝は、先に教室へ来る。

 

入学式の日のことを、思い出す。

 

講堂だった。

名前も知らなかった。隣に座ったのは、亜麻色の髪の、わたしより小さな女の子だった。

後ろで扉が鳴った。遅刻した生徒が、重い木の扉を勢いよく閉めた。

隣の子の右手が、腰に伸びた。

何もない腰に。

指が空を掴んで、すぐに戻った。

 

あのとき、見間違いだと思おうとした。

緊張で体が動いただけだと。

そう処理して、数日のうちに薄れていった。

 

薄れなかった。

あの手は剣を探していた。

大きな音がしたとき、体が勝手に武器を探す。講堂で。誰も攻撃してこない場所で。

体だけが、まだ別の場所にいた。

 

今は知っている。

あの手が探したものの名前も、なぜ腰に伸びたのかも。

 

あの頃のリーネの笑顔は、きれいだった。

速度が同じで、角度が同じで、何を言われても同じ明るさで出てきた。

よくできていた。よくできすぎていた。

どこまで覗いても、何もなかった。明るくて、温かくて、誰にでも向けられて、誰にも届いていなかった。

 

底がなかった。

 

次の日も、隣に座った。

「おはようございます。昨日、隣の席でしたよね」

自分から言った。言ったあと、この子の腰に手が伸びる理由も、笑顔の下も、何もわかっていなかった。わからないまま、隣がいいと思った。理由は、まだ、なかった。

 

理由ができたあとも、隣に座っている。

理由は、きれいなものだけではなかった。凍らせた夜も、助けてと言った朝も、手を繋げない午後も、理由の中に入っている。入ったまま、隣がいい。

 

わたしは戦争を知らない。

今も知らない。

知らないまま、隣にいる日が、一年近く続いた。

 

 

 

廊下に足音が聞こえる。

 

二つではない。

三つだ。

一つは意識して鳴らしている音。石に靴底を置く音が、少しだけ遅い。

一つは鳴っていない。足音を消した歩き方だ。明るい廊下でも消える。

一つは走っている。鞄の中で何かが紙に当たる音がしている。

 

扉が開く。

 

リーネが入ってくる。

ナタルと並んで。

後ろからミラが、紙に包んだものを片手に持って追いかけている。

 

「待ってよ、リーネちゃん! これ、朝の!」

 

リーネは振り向かない。

振り向かないまま、片手を後ろへ出して、包みを受け取っている。

受け取って、歩いている。

その間も、入り口の左右を一度だけ見ている。癖だ。教室の扉でも、まだやる。

 

胸の学年章が、二年のものになっている。

わたしの胸にも、同じ章がついている。今朝、棚から出してつけた。針の位置を一度間違えて、リーネに直してもらった。あの子の指は、細かい作業が速い。軍の報告書を畳む指だ。

 

制服の襟が、少し開いている。

 

一番上のボタンが外れている。

左の鎖骨から首の付け根まで、白っぽく引きつった跡が見えている。掌では覆えない大きさだ。赤くはない。とっくに治って、形だけが残っている。

 

隠していない。

 

部屋では見える。寝巻きの襟は浅いし、着替えのときも、隠そうとして隠せるものではない。

教室では違った。朝、ボタンを留めるとき、あの子はいつも一番上まで閉めた。鎖骨の跡が襟の内側に消えるまで閉めた。

 

今日は、閉めていない。

 

なんとなく、という顔をしている。なんとなくで襟を開けられる朝が、この子に来るとは思っていなかった。

 

ナタルは壁に寄っていない。

通路の真ん中を、リーネの半歩後ろで歩いている。肩は下がっている。目の下のくまは残っている。口は結んだままだ。

それでも、壁には寄っていない。

 

ミラが追いついて、包みの端をつまんでいる。

「半分こ、ね。母さんからの、新しいの」

 

「授業の前に食べろよ」

 

「いま食べる。だから半分こ」

 

ナタルが、席のほうを見た。

後ろの列の、窓から二番目。いつもの並びだ。学年が変わっても、取る場所はあまり変わらない。

ナタルは何も言わず、先に自分の席へ向かった。足音は、まだしない。

 

リーネが、こちらを見た。

 

目が合う。

 

遅れて、笑う。

 

口の端が先に上がらない。目が細くなって、それから口が動く。

少し不器用だ。前みたいにきれいじゃない。前みたいに速くない。

底がある。浅くて、不格好で、でも底がある。

 

手を振る。

リーネがこちらへ歩く。机と机のあいだは狭い。鞄を下げたまま、人の肩に当たらない距離を取っている。取る距離の幅は、入学した頃より少しだけ狭い。狭い、と言っても、触れて歩くようにはならない。触れない幅を、自分で測っている。

 

隣に来る。

鞄を椅子の脚のそばに置いて、壁を背にするほうへ体をずらしてから座る。窓際でも、出口の見える角度を残している。そこは、変わっていない。

 

座ると、開いた襟の分だけ、鎖骨の跡が近くなる。

匂いはいつものだ。花のシャンプーと、石けんと、朝の食堂のパンの匂い。開いている。開いているものは、見ていい。

 

「おはよう」

 

「おはよう、ルチア」

 

声が近い。

朝の声だ。少し低い。廊下で手を振ったときの声より、起きている。

 

リーネが窓の外を見る。

朝日が、中庭の石を白くしている。噴水の水が、冬より高い音を立てている。氷はもうない。

 

「今日もいい天気だな」

 

空を見ている。

本当に見ている。

何かを測る目ではない。高い、とだけ言いたくて、見ている目だ。

 

机の上に、リーネの手が置かれる。

指の関節にタコがある。剣を握ってきた手だ。掌を下にして、机の傷の隣に並ぶ。震えてはいない。今日は、震えていない。明日はわからない。今日は震えていない、ということだけが机の上にある。

 

襟の開きから、鎖骨の跡に朝の光が落ちている。空を見ている。見られても、眉を寄せない。

 

わたしにはわかる。

 

あの子はまだ夜中に目が覚める。

昨夜も一度、毛布の音がした。枕を握る指の関節が、薄い月明かりの中で白くなっていた。わたしは声をかけなかった。かけないほうが戻れる夜がある。しばらくして、呼吸が落ちた。また眠れた。前は、一度起きると朝まで目が開いたままだった。

 

まだ、わたしの手を握れない日がある。

中庭で掌を差し出して、あと数センチのところで止まった午後がある。指先が震えて、届かない。

「ごめん、今日はだめ」

責めなかった。待った。翌日、あの子のほうから握ってきた。震えたまま、握り返してきた。

だめな日と、握り返せる日が、両方ある。

 

全部知っている。全部知った上で、隣にいる。

夜中の毛布の音。握れない日の数センチ。開いた襟。笑いにかかる、あの短い間。

入学した頃の全部には、これがなかった。

 

隣の肩までの距離は、手を伸ばせば届く。

届く距離に、届かない日がある。今日は、届くかどうかを試さない。空を見て、包みを膝に乗せて、午後の実技の話をする。それで、隣だ。

 

ミラが後ろの席に鞄を落とす音がした。

「新学期なのに、席同じなのだるくない?」

 

「楽だろ」

 

ナタルの声だ。短い。否定していない。

 

「ナタルはそれでいいんだ。わたしは、たまには前のほうがいいな。黒板、近いし」

 

「近いと、当てられる」

 

「それはやだ」

 

ミラが包みを開けて、中の菓子を二つに割っている。粉が机に落ちる。丸い焼き菓子で、表面に粉砂糖がついている。ミラの家のだ。仕送りが届くと、教室まで持ってくる。

リーネは受け取った半分を、まだ食べていない。膝の上に置いたまま、窓を見ている。

 

「先に食べなよ」

 

「授業の鐘、まだだろ」

 

「鐘を待たなくてもいいよ。甘いものは」

 

リーネが横を見る。

それから、小さいほうを口に入れる。噛む。目が細くなる。遅れて、口の端が上がる。入り口の笑いと同じ種類だ。感じてから、動いている。

 

「ルチア、今日の午後の実技、一緒にやろう」

 

「うん」

 

「剣のほう」

 

「わかってる」

 

「この前の、グレン先生の」

 

「三回振って、一回止まったやつ?」

 

「うん。あれ、わたしが見てた」

 

「見てたのに、一緒にやろうって言う?」

 

「見てたから言う」

 

リーネの手が、菓子の上で止まる。

止まって、それから残りを指で折る。粉が制服の膝に落ちる。払わない。

 

「手、加減するから」

 

「加減しすぎないで。わたし、受ける側なんだから」

 

「受ける側が、加減するなって言う?」

 

「されすぎると、練習にならないでしょ」

 

リーネの目が細くなる。

今度の笑いは、さっきの入り口の笑いより少し早い。まだ反射ではない。聞いて、それから動いている。

 

「わかった。ちょっとだけ」

 

「ちょっと、の幅が広いの、リーネ」

 

「広い?」

 

「戦場のちょっとと訓練場のちょっとが、混ざる」

 

「混ざらないようにする」

 

言って、自分で頷く。

 

横顔を見る。

亜麻色の髪は、今朝も雑に束ねてある。結び目が少し高い。自分では見えない位置だ。入学した日の講堂でも、この高さだった。当時は、雑な結び目の下に何があるのかわからなかった。今は、結び目の下に鎖骨の跡がある。開いている。雑なままで、開いている。

 

授業が始まるまで、少し時間がある。

教室にはまだ人がまばらだ。

前の男子は黒板の前を離れて、自分の席へ戻り始めている。後ろでミラが菓子を食べ、ナタルがコップの縁を指でなぞっている。チョークの粉の匂いと、開けた窓から入る土の匂いが混ざっている。

 

リーネが、わたしのほうを向く。

 

体が椅子の上で止まる。

次の動作の手前で、一拍ある。

 

それから、両腕を広げる。

 

高さは、胸の前くらい。肘は伸びきっていない。輪は浅い。

腕が、少し震えている。下ろさない。

 

「ルチア、おいで」

 

あの夜と同じ形だ。

 

答案を持ってきた夜。赤点を越えた紙を、誇らしそうに差し出してきた夜。

わたしは考えるより先に腕を開いた。嬉しくて。あの子が嬉しそうにしているのが嬉しくて。椅子ごと体が傾いて、首の後ろに腕を回した。一番優しい形だと思っていた。家で、母がして、弟にして、されて育った形。囲って、視界を塞いだ。出口がなくなった。

 

椅子が倒れる音がした。

あの子の目は、わたしを見ていなかった。腕の中にいたのに、焦点がどこにもなかった。

突き飛ばされた。床に手をついた。掌がひりひりした。

それでも謝ったのは、突き飛ばされたわたしのほうだった。

 

今度は、リーネから。

 

「これ、ずっとやり直したかったの」

 

声が、いつもの軽口じゃない。

報告するときの声に近い。事実だけを置く声。

震えているのは腕だけで、言葉は落ちない。

 

立つ。

椅子の脚に鞄が当たって、小さく鳴る。

一歩だけ、隣へ寄る。机の角が袖に触れる。

 

リーネの腕が、背中に回る。

 

浅く、短い。

包むというより、触れるくらいだ。

肩甲骨まで届かない。届かせないように、肘の角度を自分で止めているのがわかる。輪は閉じきらない。左右から髪が落ちてこない。前が見える。後ろの窓も、光ったままそこにある。

 

わたしの腕は、下ろしたままにする。

回さない。閉じない。

あの夜は、わたしが輪をつくった。今日は、掌だけをリーネの袖の上に置く。触れるだけにする。布の下で、腕が震えている。震えたまま、下ろさない腕だ。

 

温かい。

震えている。

両方、背中と掌に来る。

 

数秒。

 

黒板の端の時間割が、見える。

前の列の男子の背中も、窓の外の枝も、見える。出口が、斜め前に残っている。あの夜は、何も見えなかった。栗色の髪と、腕の内側と、出口のない場所だけがあった。今日は、教室がそこにある。授業の始まらない教室が、全部見えている。

 

呼吸が、肩に当たる。早い。止めようとしている呼吸だ。肩の上がりを三つ数えてから、少し落ちる。

 

「……ここまで。今日は、ここまで」

 

腕が離れる。

離れる速度は、突然ではない。背中の温度が先に薄くなって、それから手が落ちる。自分で切っている。切れるところまで来て、切った。

 

目から、涙が出ている。

口元はゆるんだままだ。

止めようとすると、余計に熱い。

 

「うん。ここまでで、いい」

 

椅子に戻る。

膝が机の裏に当たる。自分の席の木は、さっきより少し温かい。座っていた跡が残っている。

リーネも座る。腕は膝の上で、もう閉じていない。開いたままでもない。中途半端な位置で、指先が自分の親指を探している。探して、止まって、また机の上へ戻す。

 

教室の音が、戻ってくる。

ミラが菓子の袋を畳む音。ナタルのコップの縁。前の列で、時間割を写していた男子が椅子を引く音。春の窓から入る風が、開いた襟の跡に当たっている。当たっても、リーネは襟を閉じない。

 

拭わない。

拭わせない。

あの子が指を上げかけるのが見えて、先に自分の袖で押さえる。震えている指で涙を拭かれた朝がある。今は、その逆はしなくていい。今日の分は、ここまでだ。

 

いつか、もっと長く抱きしめ合える日が来る。

今日じゃなくていい。

 

リーネが自分から腕を広げた。

自分で選んで、そこまで来た。

 

それが全部だ。

 

それが、確かだ。

 

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