*今回からタグにAI利用を追加しました。本作はAIを資料調査・設定整合性の確認・誤字修正と文章調整の補助に利用しています。後出しになってしまって申し訳ありません。これからも楽しんでもらえたら、嬉しいです。
消灯の鐘が鳴って、ランプを消した。
「おやすみ、リーネちゃん」
「おやすみ」
暗くなった部屋で、布団にもぐる。今日も一日が終わった。授業二つ、実技一つ、夕食、お風呂。歴史の年号は相変わらず頭に入らなかったけど、焼き菓子は今日もおいしかった。
目を閉じる。体が重い。いい感じに疲れている。あと十秒もすれば落ちると思う。
隣のベッドで、リーネが寝返りを打った。
リーネは面白い子だ。
友達になってよかったと思っている。
入学初日のことを覚えている。教室で、出席簿順に隣になった亜麻色の髪の子。ヴェルダ公国出身だと聞いた。周りの何人かが微妙な顔をした。戦争のこと。属国のこと。わたしはあんまり詳しくないけど、空気が変わったのはわかった。
だから聞いた。
「ヴェルダ出身? ふーん、で、甘いもの好き?」
あの子は目を丸くした。
それから笑った。
嬉しそうに。
あの笑顔を見て、友達になろうと思った。理由はそれだけ。政治とか戦争とか、わたしにはよくわからない。よくわからないまま、友達になった。
リーネは面白い。よく笑う。冗談が多い。
食堂で趣味を聞いたとき、「生存」と答えた。
わたしは笑った。冗談だと思ったから。
でも、笑ったあとに、少しだけ残った。
冗談で「生存」って言葉、出てくるかな。
引っかかりはあった。
でも、リーネがあんまり楽しそうに笑うから、そっちの方が本当だと思いたかった。
同じ部屋で暮らし始めると、思いたいだけでは済まなくなってくる。
リーネの棚には、ほとんど何も入っていない。
引き出しを開けると、制服の替えと下着と、あの袖の短い私服が一枚。
それだけ。
わたしの棚には母さんから届いた焼き菓子の袋や手紙や、実家から持ってきた裁縫道具やお守りが詰まっている。
リーネの棚は、入学したときのまま、がらんとしている。
「荷物少ないね」と言ったら、「包み一つで来たから」と笑った。
包み一つ。
着替えと入学許可証だけで、この学院に来た子。
毎晩、寝る前に窓を確認する。
布団に入る前に、必ず窓のところに行って外を見る。
何を見ているのか、わからない。
星でも見てるのかなと最初は思った。
でも星を見る顔じゃない。
何かを確かめている顔だ。
確かめ終わると、少しだけ肩が下がって、布団に入る。
ベッドの壁際に寄って寝る。
初日からそうだった。
ベッドの真ん中じゃなくて、壁にぴったりくっついて寝る。
「寒いの?」と聞いたら「うーん、癖かな」と笑った。
癖。
窓の確認も癖。
笑って流すのも癖。
この子は癖が多い。
変な子だなと思った。
変な子だけど、嫌じゃない。
だから深追いしなかった。
今夜、着替えのときに見てしまった。
リーネが寝巻きのボタンを留めていた。
一番上のボタンに指をかけたとき、襟の隙間から、鎖骨のあたりが見えた。
皮膚が白っぽく引きつれていた。
大きかった。
掌じゃ覆えないくらい、鎖骨から首の付け根まで広がっていた。
聞きたかった。
口が開いた。
「それ」の「そ」まで、たぶん出かかった。
リーネの手が動いた。
襟元を押さえた。
顔は笑っていたけど、指だけが速かった。
あの指は「聞くな」と言っていた。
だからわたしは口を閉じて、棚の上のシャンプーを指差した。
「ねえ、リーネちゃん、シャンプーどっち使う?」
他に何を言えばよかったのか、今もわからない。
「大丈夫?」は違う。
「どうしたの?」はもっと違う。
リーネが自分で隠そうとしたものを、わたしが引き出す権利はない。
でも、シャンプーの話をしたとき、リーネの肩が少しだけ下がった。
ほんの少し。
気のせいかもしれない。
でも、力が抜けた顔に見えた。
大浴場では他の子に見られていたらしい。ひそひそ声が聞こえていたらしい。リーネは何も言わなかったけど、お風呂から戻ってきたとき、いつもより長く襟を押さえていた。
あの子の体には、わたしの知らない跡がある。指の関節が硬くて太いことも、腕に力を入れると筋が浮くことも、お風呂のときにちらっと見えた。十六歳の体じゃない。何をしたらああなるのか、わたしにはわからない。
暗い部屋で、天井を見ている。
もう眠れるはずなのに、目が冴えている。
リーネが寝返りを打った。
また。
さっきからずっと打っている。
昨日の夜もこうだった。
一昨日も。
わたしは寝つきがいい。横になれば二分で落ちる。母さんに「あんたは頭が空っぽだから眠れるのよ」と笑われたことがある。否定できなかった。
でも今夜は、起きている。
リーネのことが気になって、眠れない。
寝返りの音がする。
布団がこすれる音。
体を丸めたり、伸ばしたり。
壁の方にごそごそ寄っていく音。
ときどき、息が変わる。
規則正しかった呼吸が、急に浅くなる。
速くなって、止まって、また速くなる。
しばらく続いて、戻る。
わたしは目を閉じたまま聞いている。
寝息を合わせている。吸って、吐いて。ゆっくり。安定したリズムで。起きていることを悟られないように。
布団の中で手を握った。爪が掌に食い込む。何もできない手を、何もできないまま握っている。
起き上がって「大丈夫?」と聞くべきだろうか。
聞いたら、リーネはきっと「大丈夫だよ」と笑う。
あの笑顔で。
暗闇の中でも、たぶんあの笑顔を作る。
そしてわたしが起きていたことを気にして、もっと気を遣って、もっと眠れなくなる。
リーネはそういう子だ。
自分のことより先に、周りを気にする。
それが優しさなのか癖なのか、わたしにはまだ判断がつかない。
だから寝たふりをしている。
寝息を立てて、聞こえていないふりをしている。
壁の方から、また布団の音がした。
リーネが壁際に寄っている。
背中を壁にくっつけようとしている音だ。
まるで壁に守ってもらおうとしているみたいに。
誰から守ってもらうんだろう。
この部屋にはわたしとリーネしかいないのに。
息が荒くなった。
止まった。
長い沈黙。
また、浅い呼吸が始まった。
暗闇の中で、リーネの息の音だけが聞こえる。わたしの鼓動がうるさい。こっちの心臓の音が聞こえたら、起きていることがばれる。体を動かさない。瞼を閉じたまま。寝息を続ける。
わたしは布団の中で、自分の手を握った。
何もできない。
何をすればいいかわからない。
友達が隣で眠れずにいる。
わたしは寝たふりをしている。
これが正しいのかわからない。
友達なのに。
ルームメイトなのに。
でも、聞いたら、リーネはわたしに気を遣わせたことを申し訳なく思う。
聞かないでいたら、リーネは明日も笑って「おはよう」と言う。
どっちがいいのかわからない。
どっちもなんか違う気がする。
お風呂のときと同じだ。
聞きたくて、聞けなくて、シャンプーの話をした。
今は聞きたくて、聞けなくて、寝たふりをしている。
聞かないことが優しさなのか、臆病なのか。
たぶん、両方だ。
わたしの家では、困ったことがあったら母さんに言えばよかった。「どうしたの」と聞いてくれた。聞かれたら答えた。答えたら、一緒に考えてくれた。
リーネには、聞いてくれる人がいるんだろうか。
「いないよ」と言っていた。家族はいないと。
じゃあ、この子が困ったとき、誰が「どうしたの」と聞くんだろう。
わたしが聞けばいいのかもしれない。
でも聞き方がわからない。聞いても「大丈夫だよ」と笑うだけだ。あの笑顔の向こう側に、わたしの手は届かない。
届かないなら、せめて隣にいよう。それしか思いつかない。
しばらくして、リーネの寝返りが止まった。
呼吸が深くなった。
やっと眠れたのかもしれない。
わたしはまだ起きている。
ポケットの中に、母さんの手紙が入っている。
今日届いた。
夕方、教室で読んだ。
店の客が減っている。
今月の仕送りは少し遅れる。
でも奨学金だけは切らさないで。
何度も書き直した跡のある字だった。
母さんは字が丁寧な人だから、書き直しの跡が残るのは珍しい。
何回も消して、何回も書いて、それでも消しきれなかった跡が残っていた。
奨学金は成績で決まる。
実技は苦手だ。剣術は構えるだけで腕が震えるし、魔法は詠唱の途中で舌がもつれる。実技で点を取れる気がしない。筆記で稼ぐしかない。だから年号を覚えなきゃいけない。ラウル暦三三四年。リーネと二人で「全然覚えられない」と笑った、あの年号。
笑えるリーネがうらやましかった。わたしにとっては、笑いごとじゃない。
リーネは笑っていた。
わたしも笑っていた。
でもわたしにとっては、あの年号を覚えられないことは冗談じゃない。
覚えられなかったら成績が落ちて、奨学金が減って、学費が払えなくなるかもしれない。
リーネはそんなこと知らない。
知らなくていい。
リーネの火傷。
リーネの眠れない夜。
それの隣に、わたしの奨学金の話を並べたら、小さすぎて笑えてくる。
小さい。
でも、小さいからって消えるわけじゃない。
お金がないのは明日も怖い。
母さんの手紙は、明日も返事を書かなきゃいけない。
この「小ささ」を、リーネには言えない。
あの子の隣に並べたら、小さすぎて、言葉にする気になれない。
言ったら「そんなことないよ、ミラの悩みも大事だよ」とあの笑顔で言うだろう。
優しくて、たぶん本気で。
でもその優しさを受け取ると、自分が情けなくなる。
消灯前に、途中まで書いていた手紙のことを考える。
便箋に「元気だよ」と書いた。その先が続かなかった。
ルームメイトが夜眠れていないみたい、とは書けない。理由がわからないのに書いたら、母さんが心配する。
母さんは心配する人だ。店が傾いて、仕送りが減って、自分のことだけで精一杯のはずなのに、わたしの心配までする人。余計なことを書いたら、母さんの皿の上にわたしの皿が重なる。それだけは避けたい。
奨学金のことも書けない。「成績が不安」と書いたら、母さんはもっと働こうとする。もっと無理をする。それだけは絶対に嫌だ。
書けないことばかりだ。
火傷の跡のことも。夜の息のことも。奨学金のことも。店のことも。
全部書けない。全部、誰かが心配するから。
明日、続きを書こう。
「元気だよ。友達ができたよ。焼き菓子おいしかったよ」。
全部本当のことだ。
書かないことの方が多いけど。
朝になった。
目が覚めたのはわたしの方が先だった。
窓の外がうっすら明るい。
鳥が鳴いている。
隣のベッドを見た。
リーネが眠っている。
やっと眠れたんだ。
顔が少し険しい。
眠っているのに、眉間にしわが寄っている。
力が抜けていない顔。
枕を握りしめている。
右手の指が、枕の布を掴んでいる。
指が白い。
爪の下まで白くなるくらい、強く握っている。
何を握っているんだろう。
枕じゃない。
枕を握っているけど、枕じゃないものを握っている。
眠っている間も、何かを掴んで離さないでいる。
わたしは黙ってベッドを降りた。
音を立てないように。足裏を床にそっと置く。板が軋まないように、体重をゆっくりかける。
リーネの毛布が肩からずれていた。
引き上げようとして、手を止めた。
触ったら起きるかもしれない。
やっと眠れたのに。
毛布の端を持って、触れないように、そっと肩のあたりまで引き上げた。
リーネは動かなかった。
眉間のしわが、少しだけ緩んだ気がした。気のせいかもしれない。
この子は眠っている間も、力を入れている。
寝ている人って普通、もっと力が抜けているものだと思う。母さんの寝顔は、いつもゆるゆるで、口が半開きで、ちょっと間抜けだった。
リーネの寝顔は、眠っているのに起きているみたいだ。
制服に着替えた。静かに部屋を出た。
廊下は朝の光が差していて、空気が冷たかった。深呼吸した。胸の中の、もやもやした何かが、少しだけ薄くなった。少しだけ。
食堂に向かう。
廊下の窓から朝日が差している。石の壁が白く光っている。昨日と同じ廊下。昨日と同じ光。でも足が重い。夜中ずっと起きていたせいだ。
目の下にくまができていないか、窓ガラスに映った顔を確認する。大丈夫、たぶんばれない。
食堂はまだ人が少ない。
厨房から焼きたてのパンの匂いが流れてくる。温かい匂い。おなかが鳴った。
席を選ぶ。
壁際。
出入り口の近く。
背後に壁がある場所。
リーネがいつも座る場所。
なんでそこに座るのか、わたしは知らない。
聞いたこともない。
でも毎回同じ場所に座るから、覚えた。
窓際の方が明るくていいのに、リーネは絶対にそっちに座らない。壁を背にしないと落ち着かないみたいだ。それも癖なんだろう。
盆を二つ取って、二人分の席を確保した。
リーネが来たとき、いつもの場所に座れるように。
パンを一つ、リーネの盆に乗せておいた。
今日のパンは胡桃入りだ。
リーネは胡桃入りが好きかどうか知らない。
好きな食べ物を聞いたとき「わからない」と言っていたから。
でもまあ、乗せておく。
嫌いだったら、わたしが食べればいい。
食堂の入り口が見える席に座って、待つ。
リーネが来るのを。
いつもの笑顔で。
昨日の夜のことは、聞かない。
枕のことも、息のことも、壁際に寄ることも。
聞いても、あの子は「大丈夫だよ」と笑うだけだから。
わたしにできるのは、ここにいることだ。
朝ごはんの席を取って、パンを乗せて、待っていること。
それしかできない。
それでいいのかわからない。
でもそれしか思いつかない。
入り口に人影が見えた。
亜麻色の髪。
小さい体。
少し目をこすりながら、食堂に入ってくる。
わたしの顔を見て、笑った。
「ミラ、おはよう。早いね」
「おはよう、リーネちゃん。パン取っといたよ、胡桃入り」
「ありがとう。胡桃、好きかわかんないけど食べてみる」
リーネが向かいに座った。
いつもの壁際の席。
パンをちぎって、口に入れた。
「おいしい。胡桃、好きかも」
笑っている。
いつもの笑顔。
昨日の夜、息が荒くなって、壁際に寄って、枕を握りしめていた人の笑顔。
わたしはスープを飲みながら、笑い返した。
「でしょ。明日も取っとくね」
何も聞かない。
何も言わない。
パンを取っておく。席を確保する。おはようと言う。
それだけ。
友達って、それでいいのかな。
わからない。
わからないまま、今日も隣にいる。
胡桃入りのパンをちぎりながら。