わたし、壊れてるらしいです   作:まいまいつむり

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休日

学院に来て、初めての休日。

 

授業がない。実技もない。朝起きて、制服じゃなくて私服を着ていいと知ったとき、少し困った。私服が一枚しかない。入学するとき持ってきた着替えが一枚。それを着た。

袖が少し短い。半年前に収容所で支給されたものだから、体に合わなくなっている。

 

ミラが「今日どうする?」と聞いてきた。

「うーん、特に予定ないかな」

「わたし、手紙書かなきゃいけないから部屋にいるけど。ルチアと出かけたら? 誘われてなかった?」

 

そういえば昨日、ルチアが「休日、よかったら王都を散歩しない?」と聞いてきた。

断る理由がないので「いいよ」と答えた。

散歩。

目的のない外出。

前線では移動は任務だった。

目的地があって、時間制限があって、途中で襲撃される可能性を計算しながら歩いた。

散歩というのは、そのどれもない移動のことらしい。

 

 

 

寮の入り口でルチアと合流した。

 

ルチアは白いブラウスに紺のスカートを着ていた。シンプルだけど仕立てがいい。布の質が違う。わたしの袖が短い私服とは、別の世界のものだ。

 

「おはよう、リーネ」

 

「おはよう。ルチア、かわいい格好だね」

 

「ありがとう。リーネも……えっと、その服、一枚しかないの?」

 

「うん」

 

ルチアが何か言いかけて、飲み込んだ。

「行こうか」と笑った。

 

学院の門を出ると、王都の通りが広がっていた。石畳の道。両側に赤い屋根と白い壁の建物が並んでいて、窓の下に花を飾っている家がある。洗濯物が二階の手すりに干してある家もある。

 

人が多い。休日だから、買い物に出ている人たちだろう。家族連れ、子供を連れた母親、腕を組んで歩いている男女、荷車を引く商人。

 

人の流れを読む。この通りは幅が広い。左側に路地が一本。右側に大通りへの抜け道が一本。背後に学院の門。

何かあったら右の抜け道が一番速い。

 

わたしは通りの端を歩いていた。壁に近い側。建物の影に体を寄せている。

 

「リーネ、もう少しこっちに来ない? 端っこだと人にぶつかるよ」

 

ルチアが通りの真ん中を歩いている。まっすぐ前を見て、堂々と歩いている。この子は通りの真ん中を歩ける人だ。壁に寄る必要がない人。背後を気にしない人。

 

「あ、ごめん。癖で」

 

ルチアの隣に寄った。

通りの真ん中は落ち着かない。背中がむき出しだ。

でもルチアの隣にいると、少しだけましだ。理由はわからない。

 

日差しが強い。石畳が熱を吸って、足元がほんのり温かい。風が吹くと、どこかのパン屋の匂いが流れてくる。焼きたての小麦の匂い。前線のパンの匂いとは違う。前線のパンは匂いがなかった。灰色で、硬くて、匂いなんて消えてしまうくらい乾いていた。

 

子供が通りを走り抜けていった。母親が「走らないの!」と後ろから叫んでいる。子供は笑いながら走っている。

走る子供。追いかける母親。

前線では、走る子供は見なかった。子供は走らなかった。走ると目立つ。目立つと撃たれる。

 

ここの子供は走れる。撃たれないから。

 

 

 

市場は学院から歩いて十五分くらいの場所にあった。

 

広場に屋台がずらりと並んでいる。布を張った天幕の下に、色とりどりの商品が並べてある。果物、野菜、干し肉、パン、布地、革製品、陶器、アクセサリー。声が飛び交っている。「安いよ、安いよ」「今日は新鮮だよ」「奥さん、こっちこっち」。

 

匂いが層になっている。焼いた肉の匂い。甘い果物の匂い。革のなめし剤の匂い。香辛料の匂い。全部が混じって、人の体温と一緒に立ち上っている。

 

人が多い。さっきの通りの比じゃない。ぎゅうぎゅうではないけど、常に誰かが視界に入る。体がぶつかる距離。

 

息を吸った。肩の力を抜こうとした。

抜けない。

 

「すごい人だね」

 

「休日だからね。ルチア、よく来るの?」

 

「たまに。母と来たことがあるの。あそこの布屋さんが母のお気に入りで」

 

ルチアが屋台を指差した。きれいな色の布が並んでいる。紫、青、金。日差しを受けて光っている。

 

「父はあまり来なかったけど、母は市場が好きで。弟を連れて、よく三人で来たの」

 

「弟がいるんだ」

 

「うん。五つ下。生意気だけど、かわいいよ」

 

ルチアの声が柔らかくなる。

家族の話をするとき、声が変わる人がいる。

ルチアはそういう人だ。

 

「リーネは……家族は?」

 

ルチアが少しためらってから聞いた。

声のトーンが下がった。

聞いていいかどうか迷った顔をしていた。

 

「いないよ」

 

軽く答えた。

 

「でもまあ、そういう人多かったから。珍しくないよ」

 

ルチアが口を開いた。

何か言おうとして、やめた。

 

わたしは気にしていない。

いないものはいない。

前線にいた頃は、家族がいない方が普通だった。

いる方が珍しかった。

 

「ルチアの弟、何歳?」

 

話を戻した。

 

「十二。今年から学校に通い始めたの。剣も魔法もやりたいって張り切ってるんだけど、手紙の字がまだぐちゃぐちゃで」

 

「字がぐちゃぐちゃなのはわたしも同じだよ。軍の報告書しか書いたことないから、丁寧な字の書き方を知らない」

 

「報告書……」

 

ルチアがまた少し黙った。

 

「でもリーネの字、味があっていいと思うよ」

 

「味って言ってくれるの、ルチアだけだよ」

 

ルチアが笑った。わたしも笑った。

ルチアの家族の話を聞いている方が楽しい。自分の話をするより、人の話を聞く方が好きだ。聞いているとき、自分のことは考えなくていいから。

 

わたしは屋台の商品を見ている。同時に、周囲の人の動きを見ている。右斜め後ろに体格のいい男がいる。左前方で子供が走り回っている。荷車が一台、通路を横切ろうとしている。全部の位置を、勝手に把握している。

 

楽しい。

市場は楽しいと思う。

色が多くて、匂いが多くて、ヴェルダの村の市にはこんなにたくさんの商品はなかった。ヴェルダの市は月に一度で、並ぶのは野菜と干し肉と布くらいだった。アクセサリー屋なんてなかった。花のブローチを売っている人なんて見たことがなかった。

ここは毎日市が立っている。毎日こんなに並ぶ。それだけの人が、毎日ものを買いに来る。それだけの余裕が、この街にはある。

 

楽しいのに、体だけがずっと仕事をしている。

 

ルチアが布屋の前で立ち止まった。

薄い水色のリボンを手に取って眺めている。

 

「かわいい」

 

「似合いそうだね、ルチア」

 

「リーネも何か見てみたら? 何か気になるものない?」

 

屋台を見回した。

 

革の手袋があった。

手に取ってみる。

厚くて丈夫だ。

柄を握っても破れなさそう。

いい手袋だと思う。

でもそれは「使える」であって、「欲しい」じゃない。

戻した。

 

花のブローチが並んでいる。

赤い花と青い花。

細かい細工がきれいだ。

きれいだと思う。

でも「きれい」の次に、何も来ない。

きれいだと思って、そこで終わる。

欲しいにならない。

 

リボン、髪留め、レースの手袋。

全部きれいだ。

全部、きれいだと思って、終わる。

 

「きれい」と「欲しい」の間に、何かが抜けている。

何が抜けているのかはわからない。

まあいいか。

 

ルチアがこちらを見ていた。

わたしが屋台を見て回って、何も手に取らないのを、横で見ていた。

 

「うーん……」

 

「何か買う?」

 

「買い物って、何を買えばいいの?」

 

口から出てきた。

本気で聞いていた。

 

ルチアが動きを止めた。

リボンを持った手が、一瞬だけ固まった。

すぐに動き出したけど、あの間は見えた。

 

「欲しいものを買うの」

 

「欲しいもの」

 

繰り返してみた。

欲しいもの。

何だろう。

 

二年間、「必要なもの」だけで暮らしていた。

水。食糧。武器。弾薬。包帯。

全部「要るもの」であって、「欲しいもの」じゃなかった。

「欲しい」と「要る」の区別が、いつの間にかなくなっていた。

 

「ルチアは何が欲しいの?」

 

「わたし? さっきのリボンかな。髪につけたらかわいいかなって」

 

「かわいいから欲しいんだ」

 

「そうだよ」

 

「必要じゃなくても?」

 

ルチアが少し黙った。

それから「そうだよ。必要じゃなくても欲しいの。それが、買い物だよ」と言った。

声が柔らかかった。

 

必要じゃなくても欲しい。

その感覚が遠い。

遠いけど、わかりたい気はする。

 

ルチアがリボンを買った。

水色の、細いリボン。

店主に銅貨を渡して、リボンを受け取って、嬉しそうに笑った。

「つけてみていい?」と聞いてきた。

「いいよ」と答えた。

 

ルチアが髪のハーフアップの結び目に、リボンを巻いた。

水色が栗色の髪に映えている。

 

「どう?」

 

「似合ってる」

 

本心だ。似合っている。ルチアの髪に水色は合う。

 

「リーネも何か探そう」

 

「うーん、わたしは見てるだけでいいよ。何が欲しいかわからないし」

 

「じゃあ、わたしが見つけてあげる」

 

ルチアが市場の中を歩き出した。

わたしはその後ろをついて歩いた。

 

果物屋の前で止まった。りんご、梨、葡萄、桃。知らない果物もある。赤くて小さくてつやつやしているもの。黄色くて細長いもの。

 

「あ、これ」

 

ルチアが一つの屋台の前で立ち止まった。

小さな瓶がずらりと並んでいる。

瓶の中に、透明な液体に浸かった果物が入っている。

色が鮮やかだ。

橙、赤、黄、紫。

 

「果物の砂糖漬け。食べたことある?」

 

「ない」

 

「一つ買おうか」

 

ルチアが店主と話して、小さな紙の器に砂糖漬けを取り分けてもらった。

橙色の果物が三切れ。

砂糖の結晶がきらきら光っている。

 

「はい」

 

受け取った。

指先が少し濡れた。

蜜が果物の表面についている。

 

一切れ、口に入れた。

 

甘い。

 

ミラの焼き菓子の甘さとは、別のものだった。

焼き菓子は粉砂糖の、さらっとした甘さ。おいしい。好きだ。

でもこれは違う。

果物の酸味が最初に来て、そのあとに砂糖の甘さが追いかけてくる。

噛むと果肉がとろける。

歯ごたえがほとんどない。

舌の上で溶けていって、蜜が絡んで、じわじわ広がっていく。

甘さが喉の奥まで届く。

体の内側が、甘さで満たされていく。

 

こんなに甘いものを食べたのは、いつ以来だろう。

母さんの菓子パン以来かもしれない。

あれは何年前だ。

四年か、五年か。

 

口の中にまだ甘さが残っている。

舌の上に、蜜の膜が残っている。

 

「おいしい」

 

声に出た。

出すつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。

 

好きだ。

これ、好きだ。

焼き菓子も好きだけど、これはもっと好きだ。

好きだと思った。

好きだと思えた。

 

ルチアがこちらを見た。

 

「こういうのって、いいな」

 

何がいいのか、自分でもうまく説明できない。

甘いものを食べて、おいしいと思えること。

それが嬉しい。

おいしいと思えたことが、嬉しい。

 

変な話だ。

おいしいものを食べて「おいしい」と思うのは、普通のことだろう。

普通のことが嬉しいというのは、たぶん普通じゃない。

 

でもそこまでは考えなかった。

ただ甘くて、おいしかった。

 

二切れ目を口に入れた。

三切れ目。

全部食べた。

指先に残った蜜を舐めた。

 

ルチアが「よかったね」と言った。

笑っていた。

 

わたしも笑った。

 

笑ったとき、ルチアの目がわたしの顔に留まった。

一拍。

何かを見ている顔だった。

何を見ているのかは、わからなかった。

 

「もう一個食べる?」

 

「いいの?」

 

「いいよ。わたしも食べたいし」

 

ルチアがもう一つ買ってくれた。

今度は赤い果物の砂糖漬け。

二人で分けて食べた。

 

赤い方は橙色の方より酸味が強かった。

甘酸っぱい。

これもおいしい。

 

「ルチアはこういうの、よく食べるの?」

 

「うん。小さい頃から好き」

 

「小さい頃から好きなものがあるって、いいね」

 

ルチアが何か言いかけて、やめた。

口を開いて、閉じた。

目がわたしの顔から、手元に移って、また顔に戻った。

 

「……うん。いいことだよね」

 

声が少しだけかすれていた。

風邪かな。

最近、ルチアはときどきこういう声になる。

 

 

 

市場を一回りして、学院に戻った。

 

帰り道、夕日が通りを赤く染めていた。石畳が光っている。影が長く伸びている。

 

ルチアが隣を歩いている。

行きは通りの端を歩いていたけど、帰りは少しだけ真ん中に寄れた。ルチアの隣にいると、通りの真ん中でも少し平気になる。

 

「今日、楽しかった?」

 

ルチアが聞いた。

 

「うん。楽しかった」

 

本心だった。市場の色と匂いと、砂糖漬けの甘さと、ルチアの水色のリボン。全部楽しかった。

楽しいと思えたこと自体が少し不思議だ。前線にいた頃は、楽しいという感覚がいつの間にかなくなっていた。任務があって、飯を食って、寝て、起きて、また任務。感情を動かす余裕がなかった。余裕を持ったら、次の瞬間に死ぬかもしれなかったから。

 

「リーネ、黙っちゃったけど、何考えてるの?」

 

「ん? ああ、ごめん。砂糖漬けのことを思い出してた」

 

「さっき食べたばかりでしょ」

 

「うん。でもまた食べたいなって」

 

ルチアが笑った。柔らかい笑い方だった。

 

寮の前で立ち止まった。

 

「ルチア、今日ありがとう」

 

「こちらこそ。楽しかった」

 

「砂糖漬け、おいしかったなあ」

 

「また行こう。次はリーネが欲しいもの、見つけようね」

 

欲しいもの。

まだわからない。

でも砂糖漬けはおいしかった。あれが「欲しいもの」に入るのかどうかも、まだわからない。

 

でも、今日のことを思い返すと、嬉しかったことならいくつかある。

砂糖漬けが甘かったこと。ルチアのリボンが似合っていたこと。帰り道、通りの真ん中を少しだけ歩けたこと。

嬉しいと欲しいは、同じだろうか。違うだろうか。

まあ、また行けばわかるかもしれない。

 

「うん。また行こう」

 

ルチアが寮に入っていった。

わたしはもう少しだけ外に立っていた。

 

夕日が沈みかけている。空がだんだん暗くなっていく。

空の色が、橙から紫に変わっていく。風が少し冷たくなった。季節が動いている。

 

今日、初めて「散歩」をした。

目的のない外出。時間制限のない移動。襲撃の可能性を計算しなくていい歩行。

散歩。

悪くなかった。

 

口の中に、まだ砂糖漬けの甘さが残っている気がした。

残っていないのに、残っている気がした。

 

部屋に戻ったら、ミラに教えてあげよう。砂糖漬けっていうのがあってね、すごくおいしかったんだよ、と。

ミラはきっと「いいなあ、わたしも食べたい」と言うだろう。

今度は三人で行こう。ミラとルチアと。

 




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