窪地へ逃げ込んでから、しばらく誰も動かなかった。
遠くでは、まだマグマチャッピーの低い咆哮が響いている。
声が聞こえるたび、周囲の岩壁までわずかに震えたような気がした。
実際に揺れているのか。
それとも、身体がまだ恐怖を引きずっているだけなのか。
今の俺には判断できなかった。
ひまわりは岩壁へ背を預け、膝を抱えている。
呼吸は落ち着き始めていたが、顔には疲労が濃く浮かんでいた。
ローズは塞がった裂け目の前へ立ち、向こう側の気配を探っている。
「まだいるのか?」
俺が尋ねると、ローズは耳を澄ませたまま頷いた。
「いる。」
「近くを歩いてる。」
「俺たちが出てくるのを待ってるのか。」
「分からない。」
短い返事だった。
マグマチャッピーが、どれほど賢い生き物なのかは分からない。
ただ、簡単に諦める性格ではないらしい。
人間でも、妙に執念深い相手ほど厄介なものだ。
配送先で担当者が不在だった時より面倒だった。
あちらは電話をすれば済む。
こちらは電話番号どころか、言葉が通じる可能性すらない。
俺は立ち上がり、窪地の中を改めて見回した。
周囲は黒い岩壁に囲まれている。
逃げ込んできた裂け目は、一部が崩れて塞がっていた。
完全に通れないわけではない。
だが、戻ればマグマチャッピーの縄張りへ出る。
今は選びたくない道だった。
反対側には、斜めに伸びる細い坂がある。
人一人なら登れそうだ。
その先までは見えない。
「上を確認する。」
俺は荷物を置き、坂へ近付いた。
するとローズがすぐに振り返る。
「私が行く。」
「いや。」
俺は首を横へ振った。
「まず俺が見る。」
「危ない。」
「お前はさっきまで最後尾を守ってた。」
「少し休め。」
ローズの眉がわずかに動く。
「平気。」
「平気でも休む。」
俺は足元へ荷物を置いた。
「倒れてからじゃ遅い。」
するとローズは、俺の顔をじっと見た。
「それは、オリマーも同じ。」
言い返された。
もっともだった。
俺も足が重い。
肩も痛い。
喉も乾いている。
説得する側が今にも倒れそうでは、あまり格好がつかない。
ひまわりが俺とローズを見比べる。
「じゃあ。」
「みんなで少し休んでから行けばいいんじゃない?」
俺とローズは同時に彼女を見た。
「……それがいいな。」
俺が言うと、ローズも小さく頷く。
「うん。」
ひまわりは得意そうに胸を張った。
「私、賢い。」
「今のところ本日一番だ。」
「もっと褒めていいよ。」
「調子に乗るからやめておく。」
「もう乗ってる。」
ローズが淡々と言った。
「ひどい!」
ひまわりの声が窪地へ響く。
思わず口元が緩んだ。
さっきまで命からがら逃げていたとは思えない。
だが、その明るさに助けられているのも事実だった。
俺は荷物から水を取り出す。
残量を確認する。
果皮の器は二つ。
そのうち一つは、すでに半分以下まで減っていた。
三人で分ければ、今日を越えられるかどうかも怪しい。
「一口ずつだ。」
「また?」
ひまわりが悲しそうな顔をする。
「今度は本当に少しだけだ。」
「この先に水がある保証はない。」
ひまわりは器を受け取ると、名残惜しそうにほんの少しだけ飲んだ。
ローズは受け取ろうとしない。
「ローズ。」
「私はいらない。」
「飲め。」
「平気。」
「命令。」
そう言うと、ローズが目を細めた。
「命令?」
「ああ。」
「先頭を歩く人間が倒れたら困る。」
「だから飲め。」
しばらく睨み合う。
やがてローズは器を受け取り、本当に一口だけ飲んだ。
「これでいい?」
「よし。」
「偉い。」
「子ども扱いしないで。」
「さっき、ひまわりにも同じことを言った。」
「私はひまわりじゃない。」
「分かってる。」
ローズは器を押し返しながら、少しだけ不満そうな顔をした。
ひまわりが横で笑っている。
「ローズも子ども扱いされた。」
「笑わない。」
「でも、ローズの方が小さいよね。」
「関係ない。」
ひまわりは自分の頭の上へ手を置き、ローズと比べるような仕草をした。
「背は私の方が高い。」
「黙って。」
騒がしい。
だが、悪くない。
この森へ来てから、静かな場所ほど危険だと学んだ。
こうして声が聞こえているうちは、少なくとも三人とも生きている。
それだけで十分だった。
少し休んだ後、俺たちは斜面へ向かった。
先頭はローズ。
結局、そうなった。
どうやら譲る気はないらしい。
俺がその後ろ。
ひまわりが最後に続く。
坂は見た目以上に急だった。
黒い岩は乾いているが、ところどころ表面が脆くなっている。
手を掛けた場所が、そのまま崩れることもあった。
「足元、気を付けて。」
上からローズが声を掛ける。
「右側は弱い。」
俺は右手側の岩を軽く叩いた。
乾いた空洞音が返ってくる。
「中が空洞なのか。」
「たぶん。」
「重いものが乗ったら崩れそうだな。」
ローズは少し考え、岩肌を見下ろした。
「人なら平気。」
「チャッピーなら?」
ローズはもう一度、空洞音のした場所を見る。
「崩れるかも。」
俺はその場所を目へ焼き付けた。
使えるかもしれない。
今すぐ何に使うかは分からない。
だが、危険な地形は敵にとっても危険だ。
仕事でも、道路の幅や高さ制限を知らずに大型車で突っ込めば立ち往生する。
身体が大きいことは、いつでも利点になるわけではない。
マグマチャッピーほど巨大な生き物なら、通れる道は限られる。
通れる道が限られるなら、動かせる場所も限られる。
俺たちはゆっくりと斜面を登った。
上へ出ると、細長い岩棚が続いていた。
窪地を囲む岩壁の中腹に、自然に作られた道らしい。
幅は狭い。
俺たち三人なら通れる。
マグマチャッピーは無理だろう。
下を見ると、赤い花道が遠くまで広がっている。
その中に、黒く焼け焦げた一本の道があった。
マグマチャッピーが歩いた跡だ。
花々が左右へ押し分けられ、岩肌が剥き出しになっている。
「高いね。」
ひまわりが下を覗き込む。
「落ちるなよ。」
「落ちないよ。」
「そう言う奴ほど落ちる。」
「オリマー、心配しすぎ。」
「心配しなさすぎる奴がいるからだ。」
ひまわりは頬を膨らませたが、すぐに岩壁へ身体を寄せた。
注意は聞いているらしい。
素直で助かる。
俺は岩棚から周囲を観察した。
ここからなら、マグマチャッピーの縄張り全体を見渡せる。
足跡は一方向だけではない。
黒い道がいくつも交差している。
中央には広い岩場。
その周囲を囲むように、赤い花の群れが広がっていた。
さらに奥には、黒い岩壁が立ち上がっている。
道は、その岩壁の間へ続いていた。
おそらく、俺たちが進むべき方向だ。
だが、その手前をマグマチャッピーが徘徊している。
完全に道を塞いでいるわけではない。
しかし、気付かれずに通り抜けるには距離が近すぎる。
「向こうだな。」
俺が岩壁の隙間を指差す。
ローズも頷く。
「あの先から、空気が変わる。」
「灼熱花道の出口か?」
「たぶん。」
たぶん。
ここでは、その言葉に何度も命を預けてきた。
確かな案内板などない。
地図もない。
あるのは風と植物と、ローズの感覚だけだ。
それでも、何もないよりはずっといい。
「問題は。」
ひまわりが小さく言った。
「あの前に、あの子がいることだね。」
彼女が指差した先。
黒い道の向こうで、炎が揺れていた。
マグマチャッピーだった。
ゆっくりとこちらへ近付いている。
俺たちは反射的に身を伏せた。
岩棚の縁から、慎重に様子を窺う。
マグマチャッピーは焼けた道を歩いていた。
背中の炎が風に煽られ、赤く大きく揺れている。
一歩進むたび、足元の花が焦げていく。
だが、よく見ると無秩序に歩いているわけではなかった。
一定の場所を巡っている。
中央の岩場。
火吹き花の群生。
黒い岩壁の隙間。
そして、また中央へ戻る。
「同じ道を歩いてる。」
俺は小声で呟いた。
「見張ってるのかな?」
ひまわりが尋ねる。
「縄張りを回ってるのかもしれない。」
ローズは黙ってマグマチャッピーを見つめていた。
俺は地図代わりの葉を取り出した。
木炭で簡単に線を引く。
マグマチャッピーが通った道。
立ち止まった場所。
向きを変えた位置。
時間までは分からない。
それでも、動きに規則があるなら記録する価値はある。
「また地図?」
ひまわりが覗き込む。
「今度は道じゃなくて、あいつの動きだ。」
「何周するか見る。」
「どうして?」
「いつ、どこを通るか分かれば。」
俺は岩壁の隙間を指差した。
「見つからずに抜けられるかもしれない。」
ひまわりの顔が明るくなる。
「じゃあ、倒さなくてもいいの?」
「倒さずに済むなら、それが一番いい。」
するとローズがこちらを見た。
「でも。」
「難しい。」
「どうして?」
俺が尋ねると、ローズはマグマチャッピーの進路を指差した。
「出口の前で、必ず止まる。」
確かに。
マグマチャッピーは黒い岩壁の隙間へ近付くと、その場で長く留まっていた。
鼻先を地面へ近付け、周囲の匂いを確かめている。
その時間が、他の場所より明らかに長い。
出口を守っているようにも見える。
「通ろうとしたら気付かれるか。」
「うん。」
「別の道は?」
ローズは首を横へ振った。
「見えない。」
俺も周囲を確認した。
左右は高い岩壁。
岩棚は途中で切れている。
花道の出口へ進むには、どうしても中央の縄張りを通らなければならない。
やはり、楽には帰してくれないらしい。
俺はマグマチャッピーの動きを地図へ書き込み続けた。
一周。
二周。
三周。
多少のずれはある。
だが、大まかな道順は同じだった。
途中で火吹き花の群生へ近付く。
すると火吹き花が一斉に炎を噴き上げる。
しかし、マグマチャッピーは気にする様子もない。
炎を浴びたまま通り過ぎていく。
「火は効かないな。」
「当たり前。」
ローズが言う。
「燃えてるから。」
「分かってたけど、確認だ。」
火吹き花を直接攻撃へ使うのは難しい。
同じ炎なら、相手をさらに元気にするだけかもしれない。
だが、使い道がないとは限らない。
火吹き花は、何かが触れた時に反応する。
距離が離れていても、振動や熱に反応する個体がある。
それを利用すれば、注意を逸らせるかもしれない。
「火吹き花は、どのくらいの距離で反応する?」
俺が尋ねる。
ローズは少し考えた。
「近付いた時。」
「触れなくても?」
「大きく動けば。」
「音は?」
「分からない。」
俺は落ちていた小石を拾った。
岩棚から火吹き花へ投げるには遠すぎる。
途中で届かないだろう。
それでも、反応条件を知る価値はある。
「もう少し近くから試したい。」
ローズが顔をしかめる。
「危ない。」
「分かってる。」
「だから、あいつが離れてからだ。」
「何をするの?」
ひまわりが尋ねる。
「火吹き花が何に反応するか調べる。」
「それが分かれば、遠くから動かせるかもしれない。」
「動かす?」
「マグマチャッピーを。」
ひまわりが目を丸くした。
「そんなことできるの?」
「分からない。」
「でも、正面から殴るよりは可能性がある。」
ローズは不満そうにマグマチャッピーを見た。
「私は殴れる。」
「殴れるのと、倒せるのは別だ。」
「……分かってる。」
その声には悔しさが滲んでいた。
ローズにとって、力で押し切れない相手は珍しいのだろう。
だが、力だけで勝つ必要はない。
俺たちの目的は戦うことではない。
帰ることだ。
敵を倒したという実績が欲しいわけでもない。
表彰状も賞金も出ない。
無事に通り抜けられれば、それでいい。
マグマチャッピーは三周目を終え、中央の岩場へ戻った。
そこで身体を低くする。
眠るのかと思った。
しかし、完全には目を閉じない。
炎を揺らしながら、周囲の気配を探っている。
「休んでる。」
ローズが小さく言う。
「今なら動ける?」
「近くは無理。」
「でも、反対側なら。」
俺は地図を見下ろした。
火吹き花の群生は、マグマチャッピーから離れた場所にもある。
岩棚を少し戻れば、下へ降りられそうな傾斜が見えた。
あそこなら、中央から死角になる。
「行ってみよう。」
俺が言うと、ローズはすぐに首を横へ振った。
「私だけで行く。」
「三人で行く。」
「危ない。」
「だから三人だ。」
ローズはひまわりを見る。
「ひまわりは?」
ひまわりが自分を指差した。
「私?」
「ああ。」
俺は頷く。
「耳がいい。」
「マグマチャッピーが動いたら、俺たちより早く気付ける。」
ひまわりの表情が少し引き締まる。
「できる。」
「足音を聞けばいいんだね。」
「ああ。」
「近付いたら、すぐ知らせてくれ。」
「任せて。」
ローズはまだ納得していない顔だった。
「オリマーは?」
「俺は花を調べる。」
「触るの?」
「触らない。」
俺はひまわりへ視線を向けた。
「ひまわりじゃないからな。」
「どういう意味?」
ひまわりが抗議する。
「経験者を参考にしただけだ。」
「失礼!」
ローズが小さく息を吐いた。
呆れているのか。
少し笑っているのか。
その中間の顔だった。
三人は岩棚を戻り、下へ続く傾斜を探した。
道と呼べるほど整ってはいない。
だが、手を掛けられる岩がいくつかある。
ローズが先に降り、安全な場所を確認する。
俺が続く。
最後にひまわりが軽やかに飛び降りた。
「着地。」
「静かに。」
「はい。」
声だけは小さくなった。
俺たちは岩壁沿いに身を低くしながら進んだ。
中央の岩場は見えない。
その分、マグマチャッピーの姿も見えない。
姿が見えない相手へ近付くのは気分が悪い。
見えていれば怖い。
見えなければもっと怖い。
人間は面倒だ。
しばらく進むと、火吹き花が一輪だけ離れて咲いている場所へ出た。
周囲に他の花は少ない。
実験するには都合がいい。
俺は少し離れた場所へしゃがみ込んだ。
「ひまわり。」
「聞こえるか?」
ひまわりは目を閉じ、耳を澄ませる。
「……まだ動いてない。」
「遠くで火がぱちぱち鳴ってる。」
「たぶん、寝てる。」
「よし。」
俺は小石を一つ拾った。
火吹き花の根元から少し離れた地面へ投げる。
石が岩へ当たった。
カツン。
花は反応しない。
「音だけじゃ駄目か。」
次に、少し大きな石を投げる。
今度は花の茎の近くへ落ちた。
地面がわずかに揺れる。
花弁が開いた。
俺たちは身構える。
だが、炎は出ない。
「まだ。」
ローズが小さく言う。
俺はもう一つ石を拾う。
今度は茎へ直接当てた。
ボッ。
火吹き花が炎を噴いた。
熱風がこちらまで届く。
ひまわりが顔を庇う。
「やっぱり、触らないと駄目?」
「いや。」
俺は花を見つめる。
石が当たる前。
地面が揺れた時にも、花は開いていた。
反応はしていた。
炎を吐くほどではなかっただけだ。
「大きな振動なら、触らなくても反応するかもしれない。」
「大きな振動?」
ひまわりが首を傾げる。
俺は、マグマチャッピーが歩く姿を思い出す。
一歩ごとに地面が揺れていた。
火吹き花の群生へ近付けば、それだけで一斉に炎を噴く。
あの炎自体は、マグマチャッピーには効かない。
だが。
炎を噴く瞬間、火吹き花は大きく膨らむ。
茎が地面からせり上がり、周囲の岩を押し退ける。
群生なら、さらに大きな動きになる。
「花だけじゃない。」
俺は周囲の地面を見る。
火吹き花の根元には、細い亀裂が走っていた。
炎を噴くたび、亀裂が少しずつ広がっている。
この辺りの岩は熱で脆い。
斜面で見つけた空洞も同じだ。
「地面が壊れてる。」
ローズが俺の視線を追う。
「花が動くたびに。」
「ああ。」
「これが群生してる場所なら、もっと脆いはずだ。」
俺は地図を広げた。
マグマチャッピーの通り道。
火吹き花の群生。
空洞になった斜面。
それぞれの位置を思い返す。
まだ繋がらない。
だが、何かが見え始めている。
その時。
ひまわりが突然、顔を上げた。
「動いた。」
俺とローズが同時に彼女を見る。
「足音。」
「こっちへ来てる。」
遠くから。
ドン。
地面が揺れた。
続けて、もう一度。
ドン。
「戻るぞ。」
俺は地図をしまい、すぐに立ち上がった。
三人は来た道を引き返す。
走らない。
音を立てれば気付かれる。
だが、足音は少しずつ近付いてくる。
ドン。
ドン。
岩壁の向こうで炎が揺れる。
赤い光が花の隙間から見えた。
「急いで。」
ローズが小声で言う。
傾斜まであと少し。
ひまわりが先に登る。
俺も岩へ手を掛けた。
その時だった。
足元の岩が崩れた。
ガラッ。
乾いた音が響く。
身体が傾く。
「オリマー!」
ローズが俺の腕を掴んだ。
強い力で引き上げられる。
俺は岩棚へ身体を乗せた。
その直後。
岩壁の角から、炎をまとった巨大な頭が姿を現した。
マグマチャッピー。
青い目がこちらを向く。
距離はある。
だが、見つかったかもしれない。
「伏せて!」
三人は岩棚へ身体を伏せた。
マグマチャッピーが鼻先を上げる。
匂いを探している。
炎の揺れる音が近い。
熱風が岩棚まで届いた。
俺は息を殺した。
ひまわりも口元を押さえている。
ローズだけが、すぐに身を起こせる体勢を取っていた。
飛び掛かられたら、自分が前へ出るつもりなのだろう。
俺はその腕を掴んだ。
ローズがこちらを見る。
声には出さず、首を横へ振った。
行くな。
今はまだ。
ローズはしばらく俺を見つめていた。
やがて、わずかに頷く。
マグマチャッピーはしばらく周囲を探った。
やがて興味を失ったように、ゆっくりと向きを変える。
足音が離れていく。
誰もすぐには動かなかった。
完全に聞こえなくなってから、ようやくひまわりが息を吐いた。
「……怖かった。」
「ああ。」
俺も同じだった。
ローズが俺の腕を見る。
「怪我。」
見ると、先ほど岩へ擦った場所から少し血が出ていた。
深くはない。
ただの擦り傷だ。
「これくらい平気だ。」
ローズの表情が険しくなる。
「平気って言わないで。」
思わず言葉に詰まった。
ついさっき、俺が彼女へ言ったのと同じことだった。
ひまわりが小さく笑う。
「同じだね。」
「何が?」
俺が尋ねると、ひまわりは俺とローズを交互に指差した。
「二人とも。」
「自分の怪我は平気って言うのに。」
「相手が言うと怒る。」
俺とローズは顔を見合わせた。
言い返せない。
こういう時だけ、ひまわりは妙に鋭い。
「似てない。」
ローズが先に否定した。
「そこまで強く否定しなくてもいいだろ。」
「似てない。」
二度言われた。
少し傷付く。
腕より、そちらの方が痛い。
ひまわりは楽しそうに笑っていた。
俺は葉を裂き、傷口へ巻き付ける。
「これでいい。」
「戻ろう。」
「まだ観察は終わってない。」
ローズが眉をひそめる。
「また行くの?」
「今日はもう行かない。」
「でも、使えるものは見つかった。」
俺は火吹き花の群生がある方角を見る。
地面の亀裂。
脆い岩。
決まった巡回路。
狭い出口。
そして、炎へ耐えられるローズ。
それぞれ単独では、マグマチャッピーを越える方法にはならない。
だが、組み合わせれば。
荷物を運ぶ時も同じだ。
一つの道具だけで、何でも解決できるわけではない。
台車。
固定具。
迂回路。
時間。
人員。
全部を組み合わせて、初めて無理な荷物を動かせる。
「何か思い付いた?」
ひまわりが尋ねる。
「まだ形にはなってない。」
「でも。」
俺は地図を軽く叩いた。
「ただ殴るよりは、ずっとましな方法がありそうだ。」
ローズが地図を見る。
「どうするの?」
「まずは、あいつの道を全部調べる。」
「次に、火吹き花の群生と、脆い地面の場所を確認する。」
「それから。」
俺は岩棚の下を見た。
熱で空気が揺れている。
赤い花道の奥では、マグマチャッピーが再び巡回を始めていた。
「俺たちが戦う場所を決める。」
「戦う場所?」
「ああ。」
「向こうが強い場所で戦う必要はない。」
「俺たちが勝てる場所まで、あいつを運ぶ。」
ローズが目を瞬かせる。
「運ぶ?」
「運転手だからな。」
俺はマグマチャッピーの巨体を見つめた。
「荷物だけじゃない。」
「危険だって、動かし方を考えればいい。」
マグマチャッピーは大きい。
重い。
炎をまとっている。
正面からぶつかれば勝ち目はない。
なら、正面からぶつからなければいい。
地形を使う。
植物を使う。
動きを読む。
俺たち三人が持つものを、全部使う。
それでようやく、勝負になる。
ローズはしばらく俺を見つめていた。
やがて、静かに頷く。
「分かった。」
その声には、さっきまでの焦りがなかった。
「準備する。」
「ああ。」
「今度は、逃げるためじゃない。」
遠くでマグマチャッピーが咆哮する。
炎が揺れ、赤い花々が一斉に伏せた。
俺は地図を広げる。
まだ空白ばかりだ。
足りない情報も多い。
水もない。
食料も少ない。
時間に余裕もない。
条件は最悪だった。
だが、何も分からず追われていた時とは違う。
今度はこちらが、あいつを見る番だ。
俺は木炭を握り直し、マグマチャッピーの巡回路へ新しい線を引いた。
灼熱の番人を越えるための準備が、ようやく始まった。
灼熱花道を吹き抜ける風が、赤い花々を大きく揺らした。
俺は木炭を握ったまま、地図へ視線を落とす。
マグマチャッピーの巡回路。
火吹き花の群生。
熱で脆くなった岩盤。
それぞれは、まだ別々の情報だった。
だが、無駄なものは一つもない。
配送の仕事でも同じだった。
積み荷だけ見ていても、安全には運べない。
道路の幅。
橋の高さ。
天候。
交通量。
荷物の重さ。
使える人員。
全部を合わせて考えて、ようやく一つの道が決まる。
この森でも、やることは変わらない。
「……もう一回見る。」
俺が呟くと、ローズが頷いた。
「うん。」
ひまわりも岩棚の縁へ近付き、慎重に下を覗き込む。
「まだ歩いてる。」
マグマチャッピーは相変わらず、同じ道を巡回していた。
中央の岩場を一周。
火吹き花の群生を通過。
出口の前で停止。
周囲の匂いを確認した後、再び中央へ戻る。
四周目。
五周目。
細かなずれはある。
しかし、大まかな順番は変わらない。
「本当に同じところを歩いてる。」
ひまわりが感心したように呟いた。
「ああ。」
「縄張りを見回ってるんだろうな。」
「見張り番みたい。」
「そんな感じだ。」
俺は地図へ新しい線を書き足す。
一定の動きを繰り返す相手なら、次にどこへ来るか予測できる。
予測できるなら、動かす方法も考えられる。
もちろん、紙の上で線を引くほど簡単ではない。
あれは地図の記号ではなく、俺たちを一口で食える巨大な生き物だ。
だが、何も知らず追われていた時よりはましだった。
「ローズ。」
「何。」
「この巡回、前から同じなのか。」
ローズはマグマチャッピーの動きを目で追った。
「うん。」
「いつも同じ。」
「中央を回って。」
「火吹き花の前を通って。」
「最後に出口を確かめる。」
ひまわりが首を傾げる。
「ずっと見てたの?」
「前に、この辺を通ったことがある。」
ローズは静かに答えた。
「その時も同じだった。」
「一人で?」
俺が尋ねると、ローズは少しだけ間を置いて頷く。
「うん。」
「どうやって通った。」
「通ってない。」
「近付いたけど、引き返した。」
それを聞いて、少し意外に思った。
ローズなら、無理にでも進もうとしたのではないか。
そんな考えが顔へ出たのか、彼女がこちらを見る。
「何。」
「いや。」
「引き返すこともあるんだなと思っただけだ。」
ローズは少しむっとした顔をした。
「私だって考える。」
「それは失礼した。」
「馬鹿だと思ってた?」
「そこまでは言ってない。」
「思ってた顔。」
面倒なところだけ鋭い。
ひまわりがくすくす笑っている。
「ローズ、根に持つよ。」
「余計なこと言わない。」
「でも、引き返したから今ここにいるんだよね。」
ひまわりの何気ない言葉に、ローズは黙った。
それから、もう一度マグマチャッピーへ視線を戻す。
「……うん。」
短い返事だった。
だが、その声は少しだけ柔らかかった。
無理に進まない。
生きて戻る。
当たり前のようで、危険な場所では難しい判断だ。
引き返したことを失敗だと思う人間もいる。
だが、生きていれば次を考えられる。
俺にとっては、それで十分だった。
「なら、癖じゃない。」
俺は地図へ目を戻す。
「決まった巡回だ。」
木炭で、マグマチャッピーの通り道をなぞる。
「予定通りに動く相手なら。」
俺は出口前の岩場へ印を付けた。
「予定通りに誘導できる。」
ひまわりが首を傾げる。
「誘導?」
「歩く道が決まってるなら。」
「少しだけ、その道を変えられるかもしれない。」
「どうやって?」
俺は火吹き花の群生へ目を向けた。
「あれを使う。」
ローズも同じ方向を見る。
「火吹き花?」
「ああ。」
「火そのものじゃない。」
「花が動く時の力だ。」
ひまわりは難しそうに眉を寄せた。
「花が動く力?」
「炎を吐く時、茎が地面から持ち上がってただろ。」
俺は先ほど調べた一輪の火吹き花を思い出す。
花弁が開く。
茎が膨らむ。
根元の岩が押される。
それを何度も繰り返した結果、周囲には細い亀裂が走っていた。
一本なら小さな変化だ。
だが、群生なら。
「花が一斉に動けば、地面も動く。」
「それが何度も続けば、岩盤はさらに脆くなる。」
ローズが地図を覗き込む。
「崩すの?」
「まだ分からない。」
「場所を見ないと決められない。」
「でも、可能性はある。」
ローズは火吹き花の群生と、その近くの岩場を見比べた。
「マグマチャッピーを、そこへ連れていく。」
「ああ。」
「重いからな。」
「俺たちが歩いても崩れない場所が、あいつなら崩れるかもしれない。」
ひまわりがぱっと顔を明るくする。
「落とし穴!」
「まだ穴にはなってない。」
「じゃあ、穴にする。」
言うのは簡単だ。
自然の地面へ、巨大な生き物が落ちる穴を作る。
人間の町なら重機が必要になる。
ここにあるのは、木の枝と蔦と石。
そして、炎を吐く花だけだ。
相変わらず設備環境がひどい。
労働基準監督署へ連絡したい。
電話が通じれば、だが。
「まずは場所を調べる。」
俺は立ち上がった。
「火吹き花の群生の下が、本当に脆いか確認する。」
ローズも立ち上がる。
「私が行く。」
「三人で行く。」
「また?」
「まただ。」
「ひまわりは足音を聞く。」
「ローズは火吹き花を調べる。」
「俺は地面を見る。」
それぞれの役割を伝える。
ローズは不満そうだったが、反対はしなかった。
一人で全部を背負おうとするより、少しはましになったらしい。
ほんの少しだが。
俺たちは岩棚の上を移動し、火吹き花の群生へ近い場所を探した。
下へ降りられそうな斜面は二つ。
一つはマグマチャッピーの巡回路に近すぎる。
もう一つは遠回りになるが、岩壁の陰を進める。
「こっちだな。」
俺は遠い方を指差した。
「時間はかかるけど、見つかりにくい。」
ローズが頷く。
「うん。」
「走らなくて済む。」
それが一番大事だ。
追われてから考えるのでは遅い。
追われないように動く。
三人は慎重に斜面を下りた。
先頭はローズ。
俺。
ひまわり。
足元の岩は乾き切っている。
少し力を掛けるだけで、表面が砂のように崩れた。
「ここも弱いな。」
俺は岩壁へ手を当てる。
中から熱が伝わってくる。
太陽の熱だけではない。
地面の奥に、別の熱源があるようだった。
「下が熱い。」
ローズが言う。
「前から?」
「うん。」
「この辺りはずっと。」
「火吹き花が増える場所ほど熱い。」
俺は足元を見る。
岩の亀裂から、白い湯気が細く立ち上っていた。
地下に空洞がある。
そこへ熱い空気が流れ込んでいるのかもしれない。
あるいは、もっと別の何か。
考えても答えは出ない。
世界の仕組みを解くのは、今の俺の仕事ではない。
使えるかどうか。
それだけ分かればいい。
「ひまわり。」
「足音は?」
ひまわりは目を閉じる。
風で揺れる花の音。
遠くで弾ける火。
岩の中を抜ける空気。
その全部から、必要な音だけを拾い上げているようだった。
「遠い。」
「出口の方にいる。」
「今なら大丈夫。」
「よし。」
三人は岩壁の陰を進んだ。
火吹き花の群生が見えてくる。
十本どころではない。
背丈ほどの大きな花が、狭い範囲へ密集していた。
どれも濃い赤色をしている。
風に揺れているだけなのに、花弁の奥から赤い光が漏れていた。
地面には無数の亀裂。
一部は手の指が入りそうなほど広がっている。
「近付きすぎるな。」
俺が言う前に、ローズが前へ出た。
「私が見る。」
「炎は平気でも、地面が崩れたら落ちるぞ。」
「分かってる。」
「本当に?」
ローズが振り返る。
「しつこい。」
「心配性なんだ。」
「知ってる。」
それだけ言って、ローズは火吹き花へ近付いた。
炎へ耐えられる彼女なら、俺たちより安全に調べられる。
だが、無敵ではない。
その区別を、本人がどこまで理解しているかは少し怪しい。
ローズは花の外側を回り、足元を確かめる。
拳で岩を軽く叩く。
乾いた音。
もう一度。
少し場所を変える。
今度は、低く響く空洞音が返ってきた。
「ここ。」
ローズが地面を指差す。
「下が空いてる。」
俺は安全な場所まで近付き、持っていた枝を伸ばした。
先端で岩を叩く。
確かに軽い。
薄い板を叩いているような音だった。
「広さは?」
「分からない。」
ローズが亀裂へ耳を近付ける。
「でも、奥まで続いてる。」
俺は枝を亀裂へ差し込んだ。
かなり深い。
途中で何かに当たる感触はない。
「空洞の上に、薄い岩盤が乗ってるのか。」
ひまわりが恐る恐る近付く。
「落ちたらどうなるの?」
「分からない。」
「底があるかも分からない。」
「マグマチャッピーが落ちても、死なないかもしれない。」
ローズが言う。
「でも、動けなくはなる。」
「あの身体なら、狭い穴から出るのは難しい。」
それで十分だ。
倒す必要はない。
通り抜ける時間が作れればいい。
俺たちの目的は、灼熱花道を越えることだ。
「問題は。」
俺は周囲を見回す。
「どうやってここへ誘導するかだ。」
マグマチャッピーの巡回路は、群生のすぐ横を通っている。
だが、空洞の真上は避けている。
偶然とは思えない。
地面が弱いことを知っているのか。
あるいは、本能的に避けているのか。
どちらにせよ、普段の巡回だけでは踏み込まない。
「匂い。」
ローズが言った。
「匂い?」
「あいつは、私たちを匂いで探してた。」
確かに。
見失った後も、鼻先を上げて何度も空気を嗅いでいた。
「誰かがおとりになる。」
ローズが続けた。
「ここまで連れてくる。」
「駄目だ。」
俺は即座に答えた。
「まだ誰がやるか言ってない。」
「お前がやる顔をしてる。」
ローズは黙る。
図星だったらしい。
「炎に強い。」
「だからって、食われないわけじゃない。」
「速く走れる。」
「ひまわりの方が速い。」
今度はひまわりが自分を指差す。
「私?」
「名乗り出なくていい。」
「まだ何も言ってないよ。」
「おとりは最後の手段だ。」
俺は地図を開いた。
「できるだけ、人が走らなくて済む方法を考える。」
「匂いを使うなら、残せばいい。」
ローズが眉を寄せる。
「残す?」
俺は自分たちの荷物を見る。
使い古した布。
汗を吸った葉。
食べ物の果皮。
動物ほど鼻が利く相手なら、俺たちの匂いが染み付いた物へ反応するかもしれない。
「これを使う。」
俺は汗を拭くために使っていた布を取り出した。
ひまわりが顔を近付け、すぐに離れる。
「くさい。」
「正直だな。」
「すごく働いた人の匂い。」
「言い方を変えても同じだ。」
ローズも布を見る。
「これを置くの?」
「ああ。」
「巡回路から少しずつ、匂いを繋げる。」
「最後に、この空洞の上まで誘う。」
「気付くかな。」
「分からない。」
「だから試す。」
何もかも一度で成功するとは思っていない。
小さく試す。
反応を見る。
駄目なら直す。
仕事でも同じだった。
いきなり本番へ突っ込む人間は、だいたい何かを壊す。
「でも、匂いだけだと途中で見失うかもしれない。」
ひまわりが言う。
「風もあるし。」
「ああ。」
俺は花の揺れを見る。
風は出口側から中央へ向かって吹いている。
この向きなら、空洞の上へ置いた匂いは巡回路側へ流れる。
使える。
「火吹き花も使う。」
俺は群生を見上げる。
「花を一斉に反応させれば、音と熱で気を引ける。」
ローズが首を傾げる。
「どうやって反応させるの。」
「石を落とす。」
俺は岩棚を見上げた。
群生の上には、大きな岩がいくつも引っ掛かっている。
蔦を結び、下から引けば落とせるかもしれない。
岩が群生へ落ちる。
花が一斉に炎を吐く。
地面が揺れる。
そこへ匂いを流す。
興奮したマグマチャッピーが踏み込めば、脆い岩盤へ負荷が掛かる。
成功する保証はない。
だが、一つの形にはなってきた。
「役割を決める。」
俺は地図へ三つの印を付けた。
「ひまわりは岩棚の上。」
「足音を聞いて、合図を出す。」
「それと、蔦を引いて岩を落とす。」
ひまわりが力強く頷く。
「任せて。」
「ローズは、空洞の向こう側。」
「マグマチャッピーが踏み込まなかった時だけ、姿を見せて誘導する。」
ローズが口を開く。
「最初から私がおとりでいい。」
「よくない。」
「でも。」
「最初から危険な方法を選ぶ必要はない。」
俺は彼女の目を見る。
「物で済むなら、物を使う。」
「それで駄目なら、次を考える。」
「いきなりお前の命を賭けるのは準備とは言わない。」
ローズは何か言い返そうとした。
だが、言葉は出なかった。
代わりに、少しだけ視線を逸らす。
「……分かった。」
不満は残っている。
それでも、受け入れてくれた。
前なら勝手に一人で動いていたかもしれない。
そう考えると、少しだけ進んでいる。
「オリマーは?」
ひまわりが尋ねる。
「俺はここ。」
俺は火吹き花の群生から離れた岩陰を指差した。
「全体を見て、合図を出す。」
「それだけ?」
ローズが言う。
「それだけが一番難しい。」
「二人の位置。」
「マグマチャッピーの動き。」
「地面の状態。」
「全部見て、止めるか続けるか決める。」
俺は戦えない。
ローズのように殴ることも。
ひまわりのように高く跳ぶこともできない。
だから、見る。
判断する。
指示を出す。
それが俺の役目だった。
「今日は仕掛けを作る。」
「決行は明日。」
ひまわりが驚いた顔をする。
「今日じゃないの?」
「日が傾いてる。」
「暗くなれば、足元が見えない。」
「失敗した時の逃げ道も確認できてない。」
「焦るな。」
水も食料も残り少ない。
本当なら、今すぐにでも進みたい。
だが、焦って全てを失えば意味がない。
一日遅れても、生きて越える。
それが正解だ。
三人は仕掛け作りを始めた。
まず、空洞へ近付きすぎないよう目印を置く。
黒い岩では見分けにくいため、赤い花弁を束ねて並べた。
次に、岩棚から垂らす蔦を探す。
乾いた蔦は切れやすい。
まだ水分を残している太いものを選び、何本も編み込む。
結び目は二重。
途中で外れないよう、枝へ巻き付ける。
「細かい。」
ローズが俺の手元を見る。
「切れたら困るからな。」
「引くだけでしょ。」
「引く時に切れるのが一番困る。」
「荷物も同じだ。」
「固定が甘いと、走り出してから崩れる。」
ひまわりが蔦を持ち上げる。
「これ、重い。」
「三本まとめてるからな。」
「私が引けるかな。」
「一人で難しければ、身体を使え。」
「岩へ足を掛けて、後ろへ倒れるように引く。」
「腕だけでやるな。」
ひまわりは言われた通りに姿勢を取る。
「こう?」
「もう少し腰を落とす。」
「こう?」
「それでいい。」
ローズが横から見ている。
「私がやった方が早い。」
「ローズは下だ。」
「何かあった時、マグマチャッピーを止められるのはお前だけだからな。」
ローズは少しだけ黙る。
「……分かった。」
必要とされる役割がある。
そう伝えると、彼女は比較的素直になる。
扱いやすい、などと思ってはいけない。
顔に出れば面倒だ。
仕掛けが形になった頃には、太陽がかなり傾いていた。
赤い花道は夕日を浴び、昼間よりさらに濃い赤色へ染まっている。
遠くでマグマチャッピーが巡回を続けていた。
こちらには気付いていない。
俺は岩棚へ登り、蔦を最後に確認する。
引けば、岩が群生へ落ちる。
火吹き花が反応する。
その振動で、空洞の岩盤はさらに弱くなる。
後は、マグマチャッピーが踏み込むかどうか。
風向き。
匂い。
距離。
条件は揃っている。
足りないのは、確信だけだった。
だが、危険な仕事に完全な確信などない。
あるのは、準備したという事実だけだ。
俺たちは窪地へ戻った。
焚き火は小さくする。
食事も最低限。
残った水を三人で分ける。
明日、失敗すれば水も尽きる。
成功して出口を越えても、その先に水がある保証はない。
それでも進むしかなかった。
ひまわりは蔦を引く動きを何度か確認している。
ローズは拳を握り、開く。
それぞれ、自分の役割を頭の中で繰り返しているのだろう。
俺は地図を広げ、最後の確認をする。
「ひまわり。」
「足音を聞いて、巡回路へ入ったら知らせる。」
「うん。」
「早すぎても駄目だ。」
「遅すぎても駄目。」
「火吹き花の横へ来た時。」
「分かった。」
「ローズ。」
「マグマチャッピーが空洞へ踏み込むまでは出るな。」
「……うん。」
少し間があった。
「勝手に前へ出るなよ。」
「分かってる。」
「本当に?」
「しつこい。」
「大事だからな。」
ローズは俺を睨んだ。
だが、怒ってはいなかった。
「オリマーも。」
「何だ。」
「勝手に前へ出ないで。」
今度は俺が黙る番だった。
ひまわりが笑う。
「やっぱり似てる。」
「似てない。」
ローズは即座に否定した。
俺はもう反論しなかった。
二度傷付く趣味はない。
遠くでマグマチャッピーが咆哮する。
三人の表情が引き締まった。
明日。
あの巨体を、俺たちが選んだ場所へ動かす。
正面から戦うわけではない。
力比べでもない。
地形。
植物。
風。
匂い。
役割。
使えるものを全て使う。
俺たちは弱い。
少なくとも、あの怪物と比べれば。
だが、弱いから考える。
考えるから、準備する。
それが人間のやり方だ。
俺は地図を畳んだ。
「準備は終わった。」
ひまわりが頷く。
ローズも静かに立ち上がる。
赤い花道の奥で、炎をまとった巨体がゆっくりと歩いている。
昨日は、ただ逃げることしかできなかった。
今は違う。
勝てるとは言わない。
倒せるとも言わない。
それでも。
「ようやく。」
俺は灼熱の番人を見据えた。
「勝負にはなる。」
熱風が岩陰へ吹き込む。
赤い花々が炎のように揺れる。
その向こうで、マグマチャッピーがこちらを探すように鼻先を上げた。
明日。
俺たちは、あの番人を越える。