PC不調の為更新できていませんでした。
今後は基本毎週水曜日・日曜日22時更新を出来る限りしていきます。
市立図書館に着いた頃には、午後の日差しがだいぶ傾いていた。
自動ドアが開き、冷房の効いた空気が山帰りの身体を包む。汗の残った首筋には少し冷たすぎたが、ルーイはそれを心地よく感じながら館内へ入った。
人の声がある。
受付では職員が利用者と話しており、児童書コーナーからは子供の笑い声が聞こえてくる。新聞を広げる老人がいて、閲覧席では学生らしい二人がノートを並べていた。
当たり前の光景だった。
つい先ほどまでいた山とは、何もかもが違う。
木々のざわめきしか聞こえない道。鳥の声も虫の羽音も消えた森。スマートフォンの画面から、一本ずつ電波表示が失われていった場所。
そして、あの老人。
――昔はな、あの山の奥に村があったんじゃよ。
ルーイはバッグからスマートフォンを取り出した。
メモには、老人から聞いた名前が残っている。
『花神村』
花に、神。
車へ戻ってから一度検索してみたものの、それらしい情報は見つからなかった。似た名前の神社や祭りはいくつか出てきたが、老人の言っていた村について書かれたページは一つもない。
だから、図書館へ来た。
ネットにないなら紙を当たる。
新聞記者になってから、何度もやってきたことだった。
ルーイは館内案内を確認して二階へ上がり、郷土資料室へ向かった。一般の書架とは少し離れているせいか利用者は少なく、市史や町史、地域研究会の冊子、古い住宅地図などが整然と並んでいる。
まずは検索端末の前に座った。
「花神村……」
入力して検索する。
該当なし。
まあ、そうだろう。
車の中で検索して何も出なかったのだから、図書館の蔵書検索にそのまま引っかかるとは期待していなかった。
今度は「花神」だけで検索する。
花神神社。花神祭。植物関係の書籍。似た名前の地区に関する資料も出てきたが、山奥にあったという集落へ繋がりそうなものはない。
「廃村」で検索すると数は一気に増えた。
ルーイは地域を絞り、この周辺の山間集落について書かれた資料を順番に確認した。画面上で目次まで見られるものもあれば、実際に書架へ行かなければ内容が分からないものもある。
何冊か番号をメモして席を立った。
市史。
旧町史。
郡誌。
合併記念誌。
過疎化によって消えた集落をまとめた地域研究誌。
一冊ずつ机へ運び、索引から確認していく。
花神。
花神村。
該当なし。
別の資料を開く。
ない。
もう一冊。
やはりない。
それでも、ルーイはそれほど落胆しなかった。古い地名が現在の資料に残っていないことなど珍しくないし、老人が正式名称ではなく地元の呼び名を口にした可能性もある。
何より、調べ始めてまだ一時間も経っていない。
ここで「存在しない」と決める方がおかしい。
ページをめくりながら、ルーイは老人との会話を思い返した。
花神村。
昔は一年中花が咲いていた。
ある時から誰も住まなくなった。
そして、あの山へ入った人間が帰ってこなくなるという話。
老人自身、どこまで事実として語っていたのかは分からない。昔から聞かされてきた話と、自分の経験が混ざっている可能性もある。
ただ一つ、老人が自分の記憶として語ったことがあった。
子供の頃、木こりが山へ入った。
そのまま帰ってこなかった。
兄の失踪と結びつけるには早い。
それでも調べる価値はある。
ルーイは一冊の町史を閉じたところで手を止めた。
そもそも、自分は「花神村」という名前に引っ張られすぎているのではないか。
現在なら「○○市○○町」と呼ばれる地域でも、合併前はまったく違う自治体名だったりする。さらに古い時代なら、小さな集落が正式な村として登録されていたとも限らない。
花神村ではなく、花神。
あるいは別の読み方。
もっと古い行政区分に含まれていた小さな集落。
そう考えれば、市史の索引に載っていないことにも説明がつく。
ルーイは資料を閉じ、受付へ向かった。
「すみません」
カウンターの女性職員が顔を上げた。
「はい」
「この辺りの古い地図って見られますか?」
ルーイはスマートフォンに地図を表示し、兄のトラックが最後に確認された県道付近を示した。
職員が画面を覗き込む。
「ああ、かなり山の方ですね」
「そうなんです。昔、この辺りに集落があったらしくて。それを調べてるんですけど、今の資料だと全然出てこなくて」
「集落名は分かりますか?」
「花神村って聞きました。花に、神様の神です」
「かがみむら……」
職員は少し考えたものの、首を横へ振った。
「私は聞いたことがないですね」
「ですよね」
ルーイは苦笑した。
「正式な名前じゃないかもしれないんです。だから、古い地図から場所を追えないかなって」
「それでしたら、旧版の地形図が閉架にあります。かなり古いものもあったと思いますよ」
「見せてもらえますか?」
「もちろんです。少々お待ちください」
職員が奥へ消えていく。
待っている間、ルーイはスマートフォンを確認した。
アンテナは立っている。
メッセージも届く。
当たり前のことなのに、なぜか一度確認してしまった。
山での通信障害が頭に残っているのだろう。
圏外になること自体は珍しくない。
山なのだから。
ただ、あの時は。
ルーイは画面を消した。
今考えても仕方がない。
数分後、職員が大きな資料ケースを抱えて戻ってきた。
「お待たせしました。この地域でしたら、年代違いで何枚かあります」
「ありがとうございます」
「古い資料なので、閲覧はこちらの机でお願いします。写真撮影は大丈夫ですが、フラッシュは使わないでください」
「分かりました」
案内された大きな机へ移動し、最初の地図を広げる。
現在より少し古い程度だった。
県道の形も大きくは変わらず、山中に何本か細い道が伸びている。
ルーイはスマートフォンの地図と見比べながら、兄のトラックが最後に確認された場所を探した。
ある。
周囲を確認する。
集落らしいものはない。
次の地図へ移る。
さらに古い。
道が減り、表記も少し変わる。
現在では使われていない山道が何本かあり、そのうち一本は兄の失踪地点からさらに山奥へ伸びていた。
ルーイは指先で道を追う。
途中で途切れている。
その先は山。
花神という文字はない。
「違うか……」
小さく呟いて、次を広げた。
調査というものは、ほとんどがこういう時間だ。
何も見つからない。
資料を一冊読み、違うと判断する。
別の資料を開き、また違う。
それを何度も繰り返して、ようやく使えるものが一つ出てくる。
記者になりたての頃は、この時間が嫌いだった。
今はそうでもない。
何も見つからなかったということも、一つの情報になると知ったからだ。
さらに年代を遡る。
紙が黄ばんでいる。
山の形は同じでも、地名の表記が現在とはかなり違っていた。
ルーイはスマートフォンを横に置き、現在地と照らし合わせながら少しずつ確認した。
兄が消えた県道。
そこから山へ入る。
沢を越える。
昔の道が一本ある。
その先。
指が止まった。
小さな集落を示す記号。
その横に、二文字が印刷されている。
最初は読み間違えたのかと思った。
顔を近づける。
もう一度見る。
花。
その隣に、神。
「……あった」
思ったよりも普通の声が出た。
怖くはなかった。
むしろ、少し嬉しかった。
老人の記憶が正しかった。
それだけだ。
ルーイはバッグからデジタルカメラを取り出した。地図全体を撮り、年代が分かる部分を撮り、最後に花神の周辺を撮影する。
ノートも開く。
『花神――古地図上に集落表記あり』
その下に年代と資料名を書く。
村という文字はない。
正式には「花神村」ではなく、花神という小集落だった可能性が高い。
現在の地図と位置を比較すると、兄のトラックが最後に確認された場所からさらに山奥へ入った辺りになる。
老人が指した方向とも一致する。
ルーイはしばらく二枚の地図を見比べた。
少なくとも、これで一つ確定した。
花神は実在した。
老人が作った名前ではない。
では、いつまであったのか。
年代の異なる地図を順番に並べる。
古い地図には花神がある。
次の年代にもある。
その次にも、小さいながら集落を示す記号が残っていた。
さらに新しい地図へ移る。
花神がない。
ルーイは一度目を離し、もう一度探した。
位置を間違えている可能性を考えて、沢と山の形から確認する。
同じ場所だ。
しかし、集落の記号が消えている。
地名もない。
ただ山がある。
「ここか」
指を置く。
何も書かれていない。
もう一つ前の地図へ戻す。
花神。
再び新しい地図を見る。
山。
それだけ。
地図の表記方法が変わっただけかもしれない。
小規模な集落だから省略された可能性もある。
ルーイは別の地図資料も確認した。
同じだった。
ある年代までは花神が存在し、その後の地図では名前が消えている。
村がなくなった。
それ自体は不思議ではない。
山間部の集落なら、過疎化で住民がいなくなることもある。災害で移転した村もあるし、道路やダムの建設によって集団移転する例だってある。
問題は、その理由だった。
ルーイは再び市史と町史へ戻った。
今度は花神という名前ではなく、地図から消えた年代を基準に調べる。
その時期、この地域で大きな災害はあったか。
水害。
土砂崩れ。
山火事。
地震。
該当するものはある。
だが場所が違う。
ダム建設。
ない。
道路整備。
あるが、花神とは関係ない。
集団移転。
記録なし。
過疎化対策について書かれた資料も確認したが、花神に触れている記述は見つからなかった。
ルーイはページをめくる速度を少し落とした。
おかしい。
いや。
おかしいと決めるのはまだ早い。
小さすぎて行政資料に残らなかっただけかもしれない。
古い集落なら、住民が一軒ずつ離れていき、最後の一世帯が転居したところで終わった可能性もある。そんなものがいちいち市史へ載るとは限らない。
説明はいくらでもできる。
だからこそ、引っかかった。
説明はいくらでもできるのに、どの説明だったのかを示す記録が一つもない。
ルーイは古地図をもう一度見た。
花神。
確かにそこに書かれている。
次の地図では消えている。
その間に何があったのかだけが、今のところ抜けていた。
ノートへ、
『花神集落――地図上から消失。理由不明』
と書く。
「まあ、ここは後回しかな」
一つの疑問に固執して時間を使い切るより、別方向から調べた方がいい。
ルーイは時計を確認した。
まだ時間はある。
次に思い出したのは、老人が話した木こりだった。
村の記録がなくても、人が行方不明になれば新聞には残る可能性がある。
受付で地方紙の閲覧方法を尋ね、データベースが使える端末へ移った。
老人の年齢から年代を推測する。
正確な年齢は聞いていない。
見た目では六十代後半から七十代くらい。
子供の頃というなら、四十年から六十年ほど前。
かなり幅がある。
まず「木こり」「行方不明」で検索した。
出ない。
「林業」「遭難」。
何件か出たが場所が違う。
「山林」「行方不明」。
今度は多すぎた。
ルーイは地域名を追加して絞り込んだ。
記事を一件ずつ開く。
登山者が道に迷い、翌朝救助された。
違う。
林業作業中の事故。
違う。
山菜採りの老人が行方不明になり、三日後に発見。
違う。
そうして検索語を変えているうちに、一件の記事で手が止まった。
地方版の隅に載った小さな記事だった。
山林へ作業に入った男性が夜になっても帰宅せず、家族が警察へ届け出たという内容。
男性は林業関係者。
年齢は三十代。
翌朝から警察と消防が捜索を開始した。
ルーイは記事に記載された地名を確認した。
花神という文字はない。
だが、場所は近い。
続報を探す。
翌日。
捜索継続。
さらに翌日。
発見されず。
数日後の記事では捜索規模を縮小すると書かれていた。
それ以降は、見つからない。
ルーイは記事の日付と男性の名前、場所をノートへ書き写した。
老人が話していた木こりと同一人物かは分からない。
だが年代は合う。
職業も合う。
場所も近い。
少なくとも、老人の話を単なる昔話として捨てる理由は一つ減った。
ルーイは椅子へ座ったまま、しばらくノートを見た。
兄。
この男性。
二人とも同じ山の周辺で消えている。
もちろん、それだけなら何もおかしくない。
数十年離れている。
山で遭難する人間はいる。
兄の件だって、まだ遭難ではないと決まったわけではない。
だから、もう少し調べる。
ルーイは検索条件を広げた。
木こりに限定しない。
山へ入り、戻らなかった人間。
遭難。
失踪。
行方不明。
未帰宅。
地域名を変えながら記事を探す。
すぐには見つからなかった。
何十件も関係のない記事を開いた。
一時間近く経った頃、もう一件見つけた。
山菜採りに出た住民が戻らず、家族が通報。
場所は花神があった山域に近い。
捜索記事がある。
翌日もある。
発見の記事がない。
「二件目……」
ルーイは書き留めた。
だが、そこで何かを結論づけることはしなかった。
長い年月から失踪記事だけを拾えば、いくつか出てきても不思議ではない。兄を含めて三人になったからといって、それが同じ原因で消えた証拠にはならない。
むしろ、こういう時ほど気をつけなければならない。
兄を見つけたい。
だから、関係のない情報まで関係があるように見える。
記者として一番やってはいけないことだ。
ルーイは一度端末から離れた。
目も疲れている。
調べる対象を変えよう。
新聞を追うのは次回でもできる。
それより、花神がどんな場所だったのかを知りたかった。
郷土資料の棚へ戻る。
今度は文字資料ではなく、写真集を探した。
地域の昔の暮らし。
昭和の町並み。
山間部の生活。
祭り。
学校。
農作業。
何冊か机へ運び、ゆっくりページをめくっていく。
白黒写真の中には、今では残っていない建物や道が写っていた。
舗装されていない道路。
木造の校舎。
荷車。
田畑。
知らない人々が、知らない時代の日常を送っている。
こういう資料を見るのは嫌いではなかった。
記事に使う予定がなくても、つい説明まで読んでしまう。
一冊目には何もなかった。
二冊目も違う。
三冊目。
山間集落をまとめた古い写真集。
何ページかめくったところで、見覚えのある山の形が現れた。
ルーイの手が止まる。
写真の下に小さな説明がある。
『花神集落遠景』
「写真まであるんだ」
思わず声が漏れた。
写真には十数軒ほどの家が写っていた。
山の斜面に沿うように木造家屋が並び、細い道が集落を縫っている。畑らしい場所も見える。
そして、花。
白黒だから色は分からない。
それでも、花であることは分かった。
道端。
家の周囲。
畑の脇。
斜面。
ずいぶん多い。
老人の言葉が蘇る。
――一年中、花が咲いとったらしい。
話を盛っていたわけではないのかもしれない。
もちろん、写真が撮られた季節にたまたま咲いていただけという可能性もある。
ルーイは説明文を含めて撮影した。
ページをめくる。
次の写真にも花神の文字があった。
今度は集落の中。
数人の住民が写っている。
子供もいる。
特に変わったところはない。
撮影。
さらにめくる。
祭りらしい写真。
村人たちが並んでいる。
花が飾られている。
老人の話にあった通り、花と関係の深い土地だったのだろう。
ルーイはそれも撮った。
次。
集合写真。
十数人の村人が家屋の前に並んでいる。
男。
女。
老人。
子供。
ルーイは説明文を確認した。
年代と、花神集落住民という記載だけ。
個人名はない。
写真を撮る。
次のページへ進む。
別の年の写真。
農作業をしている人たち。
その次は山道。
さらに次は家屋。
何枚か撮影しているうちに、ルーイは一度手を止めた。
何かを見落とした気がした。
「……ん?」
ページを戻す。
集合写真。
別に変なところはない。
古い村の集合写真だ。
十数人がカメラを向いている。
ルーイはしばらく眺め、それから首を傾げた。
何が気になったのか、自分でも分からない。
撮影した画像を確認する。
拡大する。
村人たち。
老人。
子供。
若い男。
女。
写真の右端。
少しだけ離れた場所に、一人の若い女が立っていた。
十代後半か、二十代前半くらいだろうか。
他の村人と比べて、特別変わった服装をしているわけではない。
表情も、古い写真だからよく分からない。
立っている場所が少し離れている。
それだけだった。
家族ごとに並んでいるなら、たまたまそこになったのだろう。
ルーイは画像を閉じようとした。
その時、机の上に開いたままの別のページが目に入った。
さっき見た祭りの写真。
何となく、視線がそこへ向いた。
村人が何人もいる。
花が飾られている。
その中に若い女がいる。
別人だ。
髪型が違う。
顔立ちも違って見える。
そもそも写真の年代が離れている。
ルーイは集合写真へ視線を戻した。
また祭りの写真を見る。
「……何だろ」
まだ分からない。
同じ人物ではない。
同じ服でもない。
同じ行事でもない。
何かがおかしいと思ったこと自体が、気のせいだったのかもしれない。
ルーイは写真集を閉じかけた。
けれど、指が止まった。
もう一度だけ、祭りの写真を見る。
それから集合写真。
若い女。
花。
集合写真の女も。
花のそばにいた。
ルーイは眉を寄せた。
だから何だ。
花の多い村なのだから、花の近くに人が写ることくらいある。
祭りならなおさらだ。
自分でそう考えて、ページをめくった。
次の写真。
村の入口らしい場所。
数人の住民が写っている。
花がある。
若い女はいない。
その次。
家族写真。
花はある。
若い女もいるが、母親らしい女性の隣だ。
何もおかしくない。
「ほら」
誰に言うでもなく呟いた。
ただの偶然だ。
疲れているだけ。
山へ行って、そのまま何時間も資料を読んでいる。
意味のない共通点まで拾い始めている。
ルーイは少し笑って、次のページへ進んだ。
古い写真だった。
それまでより、さらに年代が遡っている。
花神の住民が何人か並んでいる。
写真の傷が多く、顔まではよく見えない。
ルーイは説明文へ目を落とした。
撮影年を確認する。
そして写真へ戻る。
村人たちの少し後ろ。
一人だけ離れたところに、若い女が立っていた。
その足元に。
花が咲いていた。
ルーイの指が、ページの端で止まった。
古い写真だった。紙面そのものにも細かな傷があり、村人たちの顔は輪郭が分かる程度にしか残っていない。それでも、一人だけ少し離れた場所に立つ若い女と、その足元に咲いている花は確認できた。
ルーイは先ほどの集合写真を開き、その隣へ並べた。
年代が違う。写っている村人も違えば、若い女も別人だった。最初の写真では髪を後ろでまとめていたが、こちらは肩ほどまで伸ばしている。体格も違うように見える。
共通しているのは、どちらも集団の中心から外れた場所に立っていること。そして、近くに花があること。
それだけだった。
「……だから何、なんだけど」
ルーイは自分に言い聞かせるように呟いた。
花神という名前の集落で、実際に花の多い土地だったらしい。写真を何枚か見ただけでも、道端や家の周囲、畑の脇に花が咲いているのが分かる。そんな場所なら、人と花が同じ写真に収まることなど珍しくない。
若い女が少し離れて立っていることだって、撮影時の事情などいくらでも考えられる。家族単位で並んでいたのかもしれないし、後から撮影に加わっただけかもしれない。
二枚程度なら、共通点を見つけたこと自体に意味はない。
ルーイは古い写真を一枚撮影すると、先へ進んだ。
そこからしばらくは、何もなかった。
農作業をする男たち。軒先で籠を編む老人。山道を歩く子供たち。何かの祝い事なのか、家の前に大勢が集まっている写真もある。花はかなりの頻度で写り込んでいたが、どれもこの土地の日常風景として見れば不自然ではなかった。
むしろ、先ほどの違和感を自分で否定できる写真の方が多い。
若い女が家族らしい人々と並んでいる写真もあった。母親と思われる女性の腕に触れながら笑っている。別の写真では数人の娘たちが一緒に作業していた。
当たり前だ。
花神にだって若い女は何人も住んでいたのだから、写真に写っていて当然だった。
ルーイは肩の力を抜いた。
疲れているのだろう。
兄が消えた山へ一人で入り、通信がおかしくなる経験までした。その直後に「人が帰ってこない」という老人の話を聞き、今度は実際に昔の失踪記事まで見つけた。
何でも不気味に見えてくる条件は揃っている。
そういう時ほど、自分の感覚を信用しすぎない方がいい。
ルーイは写真集のページをめくりながら、使えそうなものだけをカメラに収めていった。今必要なのは、花神という集落が本当に存在したこと、その規模や生活の様子、そして可能なら住民の名前へ繋がる資料だ。
写真の中に何か意味があるとしても、それを考えるのは後でいい。
ページをめくっていくと、途中から年代が新しくなった。
建物の形が変わり、服装も変わる。舗装された道こそないものの、集落の外と行き来するために使われていたらしい車も写るようになった。
それでも花は多かった。
白黒写真だから種類までは分からないが、家の軒先だけでなく、道沿いや斜面にも群生している。
「これだけあるなら、花神って名前も分かるな」
ルーイは一枚の風景写真を見ながら呟いた。
説明文には春頃の撮影と書かれていた。
次の写真は夏。
そこにも花がある。
秋の祭りを写した写真にも、飾り付けに大量の花が使われていた。
老人は一年中咲いていたと言った。
さすがに冬まで咲いていたというのは誇張だろうと思ったが、少なくとも花が集落の特徴だったこと自体は間違いなさそうだった。
ルーイは撮影年をノートへ書きながら、ふと思った。
老人は、なぜ花の話をしたのだろう。
あの時、自分が聞いたのは山についてだった。
兄の写真を見せ、この辺りで人が消えたことはないかと尋ねた。その流れで老人は花神村のことを話し始めた。
昔、山奥に村があった。
一年中花が咲いていた。
気がついたら誰も住まなくなっていた。
山へ入ると帰ってこられない。
思い返してみても、話の順番が少し妙だった。
村がなくなったことと、花が咲いていたことに何の関係があるのか。
単に名前の由来として話しただけかもしれない。
昔話というものは、関係のない情報まで一緒に伝わる。
ルーイはそこまで考えて、ペンを置いた。
まただ。
意味を探しすぎている。
事実だけ拾えばいい。
花神という集落が存在した。
花が多かった。
現在はない。
周辺では過去に失踪者が出ている。
今分かっているのは、それだけだ。
ページをさらに進める。
何枚か見たところで、地域の祭礼について説明する見開きが出てきた。
片方のページには文章があり、もう片方には三枚の写真が載っている。
ルーイは説明を読む。
豊作を願うための祭り。
山の恵みに感謝する。
季節ごとに花を供える習慣があったらしい。
「なるほど」
これなら写真に花が多い理由も説明できる。
老人の話も、土地の習慣が長い時間をかけて誇張されたのかもしれない。
ルーイは少し安心した。
意味不明だったものに普通の説明がつくと、それだけで気持ちが軽くなる。
祭りの写真を見る。
村人たちが広場らしい場所に集まっている。
中央には花を大量に飾った台のようなものがあり、その周囲を人々が囲んでいた。
説明文には祭礼の名称と撮影年だけが書かれている。
一枚目。
全景。
二枚目。
花を運ぶ村人。
三枚目。
祭礼後に撮影されたらしい集合写真。
ルーイは三枚目を見た。
そして、さっきまで軽くなっていた気分が、わずかに元へ戻った。
集合写真の端に若い女がいた。
別に、それ自体は何もおかしくない。
村人なのだから。
しかし、その女は他の人間と並んでいなかった。
写真の中央では老人や男たち、子供たちが何列かになっている。その集団から少し離れ、花を飾った台の横に一人で立っていた。
ルーイは説明文を確認した。
年代は、先ほど見た二枚の写真とは違う。
女も違う。
それなのに、何となく似た印象を受けた。
顔ではない。
服装でもない。
立ち方だった。
カメラを見ている。
両腕を身体の前で揃えている。
そして他の村人たちとの間に、わずかな隙間がある。
ルーイは先ほど撮影した写真をカメラで呼び出した。
一枚目。
若い女は集団の右端。
花の近く。
二枚目。
さらに古い写真。
村人の少し後ろ。
足元に花。
今見ている祭りの写真。
花を飾った台の横。
「撮り方の決まりでもあったのかな」
口に出してみる。
それなら説明できる。
祭りの際に、何か特定の役割を持つ女性が決められていたのかもしれない。
神社の巫女。
祭りの代表。
未婚の女性が花のそばに立つ風習。
地域によっては珍しくもない。
むしろ、その方が自然だった。
ルーイは説明文を最初から読み直した。
祭礼の由来。
山の恵みへの感謝。
花を供える習慣。
参加する家々。
そこまで読んでも、若い女性についての記述はない。
ページ下部に参考資料が載っていた。
ルーイはその資料名をノートへ書き写した。
調べれば分かるかもしれない。
意味があるなら記録が残っているだろうし、意味がないなら、それで終わりだ。
ただ、それだけのことだ。
ルーイは次のページへ進んだ。
その後しばらく、若い女が一人で写る写真は出てこなかった。
祭りの写真もあったが、家族や友人同士らしい集団ばかりで、特定の人物だけが離れているようなものはない。
やっぱり偶然だったか。
そう思い始めた頃、別の写真集が机の端に置いてあることに気づいた。
最初にまとめて持ってきたものの一冊だった。
山間地域の生活記録。
花神だけを扱った本ではない。
ルーイはそちらも確認することにした。
同じ写真ばかり使い回されている可能性もあるが、別の編集者が作った資料なら新しいものが見つかるかもしれない。
ページをめくる。
花神が出てきたのは後半だった。
写真は少ない。
集落遠景。
山道。
古い家。
その程度だった。
ルーイは少し落胆しながらも、一枚ずつ確認した。
最後の写真は、村の入口から撮影したものらしい。
道の両側に家が並び、奥に山が見える。
人物を撮影した写真ではない。
だから最初は、そのままページをめくろうとした。
だが、説明文に撮影年が書かれているのを見て手を止めた。
さっき見た集合写真と近い年代だった。
村の変化を確認する資料として使えるかもしれない。
ルーイはカメラを構えた。
ファインダー越しに全体を見て、ピントを合わせる。
シャッターを押そうとして、止まった。
道の奥。
家屋の脇に、人がいる。
かなり小さい。
写真そのものが風景を撮ったものだから、人物はたまたま写り込んだだけなのだろう。
ルーイは肉眼で確認した。
若い女のように見えた。
家の前に立っている。
それだけなら何もおかしくない。
生活している村を撮れば、住民が写ることくらいある。
ただ、その女の足元にも花があった。
「……いやいや」
ルーイは苦笑した。
これはさすがに自分でも分かった。
花を意識しすぎている。
この村はどこにでも花があるのだ。
女が家の前に立っていて、そこに花が咲いている。それを異常だと考えるなら、もう何でも異常にできてしまう。
ルーイは写真を撮った。
念のため、というだけだ。
それからページをめくった。
花神の写真は終わった。
別の地域へ移る。
そこでようやく、長いこと同じ姿勢で座っていたことに気づいた。肩が固まり、目も乾いている。
時計を見ると、思っていた以上に時間が経っていた。
館内は来た時より静かになっている。
児童書コーナーから聞こえていた子供の声もなく、近くの閲覧席にいた利用者も減っていた。少し離れたところで誰かが本を棚へ戻す音がする。
ルーイは背筋を伸ばした。
調査に集中していただけだ。
それなのに、静かになった図書館の空気が妙に気になった。
山でのことを思い出したからだろう。
音が減っていく感覚。
鳥も虫も鳴かなくなった、あの森。
「やめよ」
ルーイは小さく首を振った。
図書館が静かなのは当たり前だ。
閉館時間が近づけば人も減る。
山と結びつける意味などない。
それでも一度気づくと、ページをめくる音がやけに大きく聞こえた。
紙が指先を擦る音。
遠くで椅子を引く音。
空調の低い唸り。
どれも最初からあった。
ただ、自分が気にしていなかっただけだ。
ルーイは机の上の資料を整理し始めた。
今日は十分だ。
花神が実在したことは確認できた。
廃村になった理由は分からなかったが、過去の失踪記事も見つけた。
古写真もある。
次は住民の記録を追えばいい。
そう考えながらカメラの画像を確認する。
今日撮影した資料が時系列に並んでいた。
古地図。
町史。
新聞。
集落遠景。
祭り。
集合写真。
別の年代の集合写真。
風景。
指で一枚ずつ送る。
資料として使えないものを削除しようと思った。
同じページを二度撮っている。
削除。
ピントが甘い。
削除。
説明文が切れている。
これは残す。
集合写真。
次。
別の集合写真。
次。
祭り。
次。
風景。
ルーイの指が止まった。
戻す。
祭り。
さらに戻す。
集合写真。
もう一枚戻す。
古い集合写真。
三枚を順番に見る。
年代は違う。
女も違う。
撮影された状況も違う。
一枚は住民の集合写真。
一枚は古い記念写真。
一枚は祭り。
それなのに、見比べると妙に似ていた。
女たちが同じ場所に立っているわけではない。
背景も違う。
だが、写真の中での扱われ方が似ている。
他の村人たちは誰かと肩を寄せたり、家族らしいまとまりを作ったりしている。子供を抱いている者もいれば、隣の人間へ身体を寄せている者もいる。
若い女だけが、そのまとまりから外れている。
一人。
花のそば。
ルーイは画面を見ながら、眉間を指で押した。
もし何かの役目だったとして。
なぜ説明がない。
祭りの写真なら分かる。
祭礼の役割を持った女性だった可能性はある。
だが、住民の集合写真は?
それも同じ役目の人間を端へ立たせた?
なぜ。
そこまで考えて、ルーイは手を止めた。
分からない。
分からないなら、まだ考える段階ではない。
資料が足りない。
ただ、その時初めて気づいたことがあった。
三人の女は別人だった。
顔立ちも違う。
年代も違う。
なのに、誰も笑っていない。
古写真なのだから珍しくない。
昔の写真は現代ほど笑顔を作らない。
実際、周囲の村人にも無表情な人間は大勢いる。
だから、それだけなら何もおかしくない。
ただ、三人ともカメラを見ていた。
祭りの写真では横を向いている者もいる。
子供の方を見ている母親もいる。
古い集合写真では目を閉じてしまった男までいる。
その中で、女だけが正面を向いていた。
ルーイは無意識に画面を少し遠ざけた。
写真の中の女と目が合ったような気がしたからだ。
もちろん、そんなわけはない。
何十年も前の写真だ。
カメラを見ている人間を正面から見れば、こちらを見ているように感じるのは当然だ。
「疲れてんなあ、私」
声に出して笑ってみた。
思ったより声が響いた。
近くに誰もいなかった。
ルーイはカメラの電源を切り、資料を閉じた。
ちょうどその時、閉館時間を知らせる館内放送が流れ始めた。
機械的な女性の声が、静かなフロアへ広がる。
いつもなら何とも思わない放送なのに、今日はありがたかった。
人の声がした。
それだけで、少し安心した。
ルーイは閉架資料を受付へ返し、借りられる郷土資料を二冊選んだ。
カウンターには、先ほど古地図を出してくれた職員がいた。
「見つかりました?」
「ありました。花神っていう集落、本当にあったみたいです」
「そうなんですね」
職員は少し驚いたように笑った。
「私も長くここにいますけど、知りませんでした」
「かなり小さい集落だったみたいです。地図から消えた理由はまだ分からないですけど」
「古い集落ですと、記録が少ないこともありますからね」
「ですよね」
ルーイも笑った。
その説明が一番普通だった。
そして、普通の説明を聞けたことに、なぜか少しほっとした。
職員が貸出処理をしている間、ルーイはカウンター脇に置かれた地域イベントのチラシを何となく眺めた。
夏祭り。
写真展。
郷土史講座。
どこにでもある地方都市の図書館だった。
山奥の消えた村も、古い失踪事件も、ここでは紙の中にしか存在しない。
「こちら二冊ですね。返却日は――」
「はい。ありがとうございます」
資料をバッグへ入れる。
その時、職員が何気なく尋ねた。
「花神って、何を調べてるんですか?」
ルーイは一瞬だけ迷った。
兄のことを話す必要はない。
「昔の集落について、ちょっと」
「郷土史の記事か何かですか?」
「まあ、そんな感じです」
記者であることは隠さなかった。
職員は納得したように頷いた。
「それなら、次に来られた時は寄贈資料も見てみるといいかもしれませんよ。整理しきれていないものも多いので」
「寄贈資料?」
「昔の家からいただいたアルバムとか、自治会の記録とかですね。全部が検索に出るわけじゃないんです」
ルーイの表情が変わった。
「アルバムもあるんですか?」
「地域によっては。花神のものがあるかは分かりませんけど」
「見たいです」
思わず即答した。
職員が少し笑う。
「今日はもう閉館なので、次回ですね」
「あ、ですよね。すみません」
「いえいえ。受付で言っていただければ確認します」
「ありがとうございます。また来ます」
図書館を出ると、外はすでに薄暗かった。
昼間の熱が少し残っている。
車の音。
自転車のブレーキ。
駅へ向かう人の話し声。
街は普通に動いていた。
ルーイは駐車場へ向かいながらスマートフォンを取り出した。
アンテナは立っている。
メッセージが何件か届いていた。
その表示を確認してから、自分が何をしているのかに気づいた。
「また見てるし」
苦笑する。
山を出てから、何度目だろう。
圏外ではないことを確かめている。
あの場所で通信が切れたことが、それほど気になっているらしい。
車に乗り込んでも、すぐにはエンジンをかけなかった。
助手席にバッグを置き、ノートを開く。
今日分かったことを簡単に整理する。
花神という集落は実在した。
現在は地図から消えている。
廃村理由は未確認。
周辺で過去に複数の失踪事例あり。
古写真多数。
祭礼では花を供える習慣。
そこまで書いたところで、ペンが止まった。
若い女。
書くべきか迷った。
事実ではある。
複数の写真に若い女性が写っていた。
ただ、それの何が情報なのか分からない。
村に若い女がいた。
当たり前だ。
花のそばにいた。
花だらけの村なのだから、それも当たり前かもしれない。
ルーイは少し考え、ノートには書かなかった。
カメラに写真は残っている。
必要なら後で見ればいい。
エンジンをかけた。
家へ着いた頃には、外は完全に暗くなっていた。
玄関を開ける。
「ただいま」
返事はない。
分かっている。
それでも昔からの癖で言ってしまう。
靴を脱ぎ、リビングへ入った。
壁際にはホワイトボードがある。
兄の写真。
配送ルート。
最後に確認された場所。
警察から聞いた情報。
山へ行く前まで、そこにあるもののほとんどが兄を中心に繋がっていた。
ルーイはバッグを机へ置き、ノートとカメラを取り出した。
今日集めた資料を追加する。
プリンターを起動し、撮影した画像の中から必要なものを選ぶ。
古地図。
現在の地図。
過去の失踪記事。
花神集落の遠景。
祭礼。
集合写真。
プリンターが低い音を立て、紙を一枚ずつ吐き出していく。
ルーイは最初に古地図を貼った。
花神の位置へ丸をつけ、その横に現在の地図を並べる。兄のトラックが最後に確認された場所にも印をつけ、二点を線で結んだ。
近い。
次に過去の失踪記事を貼る。
林業関係者。
山菜採り。
兄。
年代も状況も違う。
だから、無理に一本の線では結ばない。
ただ、地図上の位置だけを確認できるようにする。
ホワイトボードを眺めると、兄の失踪だけを調べていた時とは明らかに形が変わっていた。
一人の人間が消えた事件。
そこへ古い集落が加わった。
さらに過去の失踪者が加わった。
まだ関連があるとは言えない。
だが、調べる範囲は確実に広がっている。
最後に花神の写真を貼る。
集落遠景。
祭り。
集合写真。
並べてから、ルーイは一歩下がった。
今日図書館で見た時より、写真が小さい。
家庭用プリンターで印刷したせいで画質も落ちている。
だからこそ、細かな顔は気にならなくなった。
村全体を見る。
山。
家。
道。
人。
花。
ルーイは腕を組んだ。
兄が消えた理由は、まだ何一つ分かっていない。
花神が関係している証拠もない。
だが、次に何を調べるべきかは見えてきた。
住民だ。
村が消えたなら、そこに住んでいた人々がどうなったのかを追えばいい。
転居したなら記録がある。
亡くなったなら墓や寺の記録が残っている可能性がある。
学校へ通っていた子供がいたなら、卒業名簿だってあるかもしれない。
ルーイはノートを開き、次の調査項目を書き始めた。
花神住民。
廃村時期。
転居先。
寄贈資料。
自治会記録。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
何かが気になったのではない。
視界の端に、印刷した写真が入っただけだった。
祭りの写真。
集合写真。
二枚並んでいる。
ルーイは何となく近づいた。
図書館で感じた違和感を思い出した。
別人。
別年代。
花の近くに立つ若い女。
自分でも馬鹿らしいと思っていた。
印刷された写真を見ても、その感覚は変わらない。
若い女がいる。
それだけ。
ルーイは視線を外そうとした。
その時、隣に貼った集落遠景が目に入った。
最初に見つけた、花神の存在を確認するための写真。
十数軒の家が写っている。
道端には花。
斜面にも花。
老人の話を裏付ける資料として印刷したものだ。
ルーイは写真へ顔を近づけた。
図書館で見た時には、家と道ばかり見ていた。
そこに人が写っていることなど気にしていなかった。
集落遠景なのだから、人物は小さい。
家の前に数人いる。
道にも一人。
そして、写真の端。
花が群生している斜面のそばに、小さな人影があった。
女かどうかさえ、印刷した画像では判別しにくい。
ルーイはカメラを手に取った。
元画像を表示する。
拡大する。
粗い。
さらに拡大する。
輪郭が崩れる。
それでも、服装から女のようには見えた。
一人で立っている。
「……また?」
言葉が漏れた。
だが、すぐに首を振った。
違う。
これまでの写真とは条件が違う。
そもそも人物を撮影した写真ではない。
花の多い場所なのだから、花の近くに誰かがいることもある。
たまたま。
十分あり得る。
ルーイはカメラを机へ置いた。
そこで、ふと気づいた。
写真の花を見ていたからだ。
今日、山で嗅いだ匂い。
兄のトラックが消えた場所から奥へ入り、通信が途切れ始めた頃。
風に混じっていた。
甘い匂い。
花のような匂い。
あの時は気にしなかった。
山なのだから植物の匂いくらいする。
老人から花神村の話を聞いた時も、結びつけなかった。
古地図で村の存在を確認した時も。
写真で大量の花を見た時も。
全部、それぞれ別の情報だった。
ルーイはホワイトボードを見た。
兄の最終確認地点。
その奥にあった花神。
昔から人が消えるという老人の話。
実際に残っていた失踪記事。
一年中花が咲いていたという村。
古写真。
そして、今日の山で嗅いだ甘い匂い。
まだ何も繋がっていない。
繋げてはいけない。
証拠がない。
ルーイはそう考えながら、ノートへ視線を落とした。
『花神住民』
『廃村時期』
『転居先』
『寄贈資料』
その下に一行だけ追加した。
『山の花を確認』
書き終えてから、ペンを置く。
もう今日はやめよう。
疲れている。
シャワーを浴びて、何か食べて、寝る。
明日になれば、今感じている妙な気分も少しは薄れるだろう。
ルーイはカメラの画像をパソコンへ移した。
古地図。
新聞。
村の遠景。
祭り。
集合写真。
保存先として新しいフォルダを作る。
『花神村』
撮影した画像をまとめて移動させた。
転送が終わるまでの間、ルーイはホワイトボードをもう一度見た。
写真の中の若い女たちは、こちらを見ている。
いや。
カメラを見ているだけだ。
当たり前だ。
集合写真なのだから。
そう思ったところで、ルーイの視線が遠景写真へ移った。
人を撮った写真ではない。
家と山を撮った写真。
花のそばに、小さな人影がいる。
顔など見えない。
どちらを向いているのかも分からない。
なのに。
なぜかルーイには、その人影もカメラの方を向いているように見えた。
しばらく見てから、ルーイは写真を裏返した。
意味は分からない。
まだ、何一つ。
ただ、老人が言った言葉だけが、今になって妙に鮮明に思い出された。
一年中、花が咲いていた。
そして。
あの山へ入ると、帰ってこられなくなる。
図書館へ向かう前には別々だった二つの話が、頭の中で隣り合っていた。
ルーイは照明を消す前に、ホワイトボードを一度だけ振り返った。
兄の写真の横で、花神の古い写真だけが白く浮かんで見えた。