灼熱花道を抜けた瞬間、空気の質が変わった。
つい先ほどまで肺の奥まで焼いていた熱気は嘘のように消え、代わりに湿った冷たさが肌へまとわりついてくる。黒い岩と赤い花ばかりだった景色も、少し進むごとに青々とした草木へ変わり、葉の先には大粒の水滴が溜まっていた。
風が吹くたび、それらが小さく震えて落ちる。
オリマーは何度か深く息を吸った。湿気は強いが、あの息苦しいほどの暑さに比べればずっといい。
「……生き返るな」
「分かるー!」
ひまわりが大きく両腕を伸ばした。
「もう暑いのやだ! ここ好き!」
「まだ入って五分も経ってないでしょ」
ローズが呆れたように言ったものの、その歩き方は灼熱花道にいた時より明らかに軽かった。本人は認めないだろうが、涼しくなったことを喜んでいるのは同じらしい。
オリマーも肩に掛けていた荷物を持ち直しながら周囲を見回した。
湿った土の匂いが濃い。
草木の間からは細い水の流れる音も聞こえてくる。灼熱花道では果皮を加工した器に入れた水を節約しながら進んでいたため、補給できる場所があるならありがたい。
「水、補充できるかもしれないな」
「やった! 飲み放題!」
「その前に安全確認だ」
「また?」
「水辺は何がいるか分からない」
そう言いながら、オリマーは無意識にローズへ目を向けた。
ほとんど同時に、ローズもこちらを見る。
一瞬だけだった。
それだけで、オリマーの脳裏には以前見た巨大な水場が蘇った。
鏡のように静かな水面。その下を横切った、魚と呼ぶにはあまりにも大きすぎる黒い影。
あの時のローズは明らかに様子がおかしかった。
原生生物を前にしても平然としている少女が青ざめ、オリマーの腕を掴んで「近付かないで」と訴えたのだ。
結局、あれが何だったのかは今も分かっていない。
「……なに?」
ひまわりの声で意識が戻る。
彼女はオリマーとローズを交互に見ていた。
「二人とも変な顔してる」
「いや。水があるからって、すぐ飛び込むなって話だ」
「飛び込まないよー」
「その返事が信用できないんだよ」
「ひどい!」
ひまわりが頬を膨らませる。
ローズは何も説明しなかった。ただ、先ほどより少し慎重に周囲へ視線を向けている。
オリマーもそれ以上は話さなかった。
ひまわりが知らない出来事を、わざわざ今ここで説明する必要はない。
三人はそのまま先へ進んだ。
足元の草が少しずつ低くなり、木々の密度も減っていく。水の匂いはさらに強くなり、やがて視界が一気に開けた。
オリマーは思わず足を止めた。
「……なんだ、これ」
森の先に広がっていたのは、巨大な湿地帯だった。
浅瀬と水路、草地、水面から突き出した岩、巨大な植物の根。それらが複雑に入り交じり、遠目ではどこまでが陸で、どこからが水なのか判別しにくい。
陽の光を受けた水面には、青空と白い雲が鮮明に映り込んでいた。
空と水。
草地と水草。
本物と水面に映った像。
それぞれの境目が曖昧で、長く見ていると距離感まで狂いそうだった。
「きれーい!」
ひまわりが一歩踏み出す。
「待て」
オリマーが腕を伸ばして止めた。
「また?」
「今度は水じゃない。地面だ」
「地面?」
ひまわりが自分の足元を見る。
一見すると普通の草地だった。多少湿ってはいるが、そのまま歩いても問題なさそうに見える。
オリマーは近くに落ちていた枝を拾い、その先へ突き立てた。
最初の十センチほどには抵抗があった。
しかし、そこを越えた瞬間に手応えが消えた。
枝がずぶりと沈む。
オリマーは眉を寄せ、さらに押し込んだ。
まだ入る。
「深いな」
ローズが隣から覗き込んだ。
「泥?」
「たぶん」
「乗ったら?」
「沈むだろうな」
ひまわりが慌てて一歩下がった。
「うわ……」
枝を抜くと、先端には黒い泥がべったりと付着していた。
表面を草が覆っているだけで、その下はほとんど沼らしい。少なくとも見た目だけを信用して歩くのは危険だった。
ローズが湿原の奥を眺める。
「ここ、面倒そうね」
「灼熱花道とは別方向にな」
「燃えないだけマシ!」
ひまわりが胸を張る。
オリマーは横目で見た。
「お前は前向きだな」
「褒めた?」
「半分」
「半分でも褒めた!」
嬉しそうに笑うひまわりを見て、ローズが小さくため息をついた。
オリマーは二人のやり取りを聞きながら、改めて湿原全体へ目を向けた。
正面から真っ直ぐ進むのは無理だろう。
ただし、完全に道がないわけでもない。
少し離れた場所には巨大な倒木が横たわり、その先には水面から突き出した岩がある。さらに向こうには草の塊のような小さな島があり、別の方向には巨大な植物の根も伸びていた。
一つずつ使えば、進めるかもしれない。
仕事で荷物を運んでいた頃にも似た状況はあった。
目的地まで一直線に行けないなら、途中で荷物を安全に置ける場所を探す。一度に全部を解決しようとせず、確実な中継地点を一つずつ確保していく。
土地は違っても、考え方そのものは使える。
「行けるかもしれない」
「どこ?」
オリマーは指を差した。
「あの倒木を渡る。そこから岩、その先の草地だ」
ローズが目を細める。
「遠くない?」
「最初の区間なら問題ないと思う」
「その先は?」
「行ってから考える」
「雑ね」
「全部見えないんだから仕方ないだろ」
すると、ひまわりが笑った。
「オリマーが言うと説得力ない」
「なんでだよ」
「いつもなんとかしてるから!」
「それ褒めてるのか?」
「うん!」
「ならいいか」
「単純」
ローズに呆れられながら、三人は倒木の方へ回り込んだ。
近くで見るとかなり太い。
表面は湿っているものの腐ってはいないようで、オリマーが枝で何度か叩いても硬い音が返ってきた。
最初にローズが乗る。
「行くわよ」
「慎重にな」
「誰に言ってるのよ」
そう返しながらも、ローズは勢いだけで進まなかった。足を置く位置を確かめながら一歩ずつ渡り、途中で一度滑りかけたものの、すぐに体勢を戻して反対側へ到着した。
「大丈夫」
「次、ひまわり」
「はーい!」
「走るなよ」
「分かってるー!」
言いながら最初の二歩が既に速い。
「おい!」
「大丈夫、大丈夫!」
「大丈夫って言う奴が一番信用ならないんだよ!」
それでも、ひまわりは無事に渡り切った。
最後はオリマー。
荷物がある分だけ慎重に進む。
倒木の下では濁った水がゆっくりと流れていた。深さは分からず、水底も見えない。
一瞬だけ、何かが水面下を横切ったように見えた。
オリマーは足を止めかけたが、すぐに前へ視線を戻した。
今は確認する必要がない。
むしろ、分からないものをわざわざ覗き込む理由もない。
反対側へ渡り、そこから岩へ移る。
さらに小さな草地へ。
最初の区間は思っていたより順調だった。
ひまわりが両手を上げる。
「いけるじゃん!」
「まだ入口だぞ」
「でも、いけた!」
「まあ、それはそうだな」
ローズも少し安心したようだった。
だが、その先を見た瞬間、三人とも黙った。
水路が広い。
今までのように倒木や岩を利用できる場所も見当たらない。
右側には一見すると歩けそうな草地が続いている。しかし、オリマーが枝を差し込んでみれば、やはり途中から簡単に沈んだ。
左側には水草が密集しているものの、足元がまったく見えない。
「どうする?」
ローズが尋ねた。
「少し戻って別のルートを探すか」
「めんどくさい」
ひまわりが露骨に肩を落とした。
「死ぬよりいい」
「それはそうだけどー」
その時だった。
水面が跳ねた。
三人が同時に振り向く。
小さな生き物が水から飛び出した。
魚にも見える。
だが、小さな脚のようなものがあり、丸い身体に大きな目がついている。
そいつは三人を見ると、すぐ水中へ戻った。
「……なんだ今の」
「知らない」
ローズも見たことがないらしい。
「かわいかった!」
ひまわりだけは楽しそうだった。
「触るなよ」
「まだ何もしてない!」
「顔が触りたい顔してる」
「ばれた?」
「分かりやすすぎる」
また水面が跳ねる。
今度は二匹。
少し離れたところでも水音がして、さらに別の個体が顔を出した。
ひまわりの笑顔が徐々に引きつっていく。
「……増えてない?」
「増えてるな」
数匹の小型生物が水面から三人を見ている。
やがて一匹が近づき、三人のいる草地へ前脚をかけた。
這い上がってくる。
ローズが前へ出た。
「下がって」
「倒すの?」
「追い払うだけ」
ローズが軽く蹴ると、生き物は水へ落ちた。
だが、すぐに次が上がってくる。
さらにもう一匹。
「面倒ね」
ローズが二体目を押し戻す。
「私もやる!」
ひまわりが前へ出ようとした。
「待て」
オリマーが止めた。
「なんで?」
「足元を見ろ」
ひまわりが下を見る。
草地が揺れていた。
ローズが動くたび、足元全体が水面に合わせてゆっくり上下している。
オリマーはしゃがみ込み、草の隙間を確認した。
植物の根。
泥。
絡み合った水草。
そこでようやく理解した。
「これ、地面じゃないぞ」
ローズも足元を見る。
「どういうこと?」
「浮いてる」
島に見えていただけだった。
水草や根が複雑に絡まり、その上へ泥が溜まっているだけらしい。
強く暴れれば崩れる可能性がある。
ローズが顔をしかめた。
「最悪」
「じゃあどうするの?」
「できるだけ動くな。上がってきた奴だけ押し戻す」
「地味ね」
「地味でいい。ここで足場を壊したら終わりだ」
ローズはすぐに力を抑えた。
ひまわりも速度を使わない。
オリマーは枝を使い、近づいてくる個体を水へ押し戻していった。
数分ほど続いただろうか。
やがて、小型生物たちは興味を失ったように一匹ずつ離れていった。
ひまわりが恐る恐る水面を覗く。
「……行った?」
「たぶんね」
ローズが答える。
オリマーは周囲を確認した。
その時、妙なことに気づいた。
さっきまで近かった岸が、少し遠い。
反対側の水草の位置も変わっている。
「待て」
「何?」
「動いてる」
ローズが足元を見る。
「何が?」
「俺たちが」
ひまわりが首を傾げた。
「沈んでる?」
「いや」
オリマーは水面に浮かぶ葉を見る。
一定方向へ流れている。
三人の足場も、ほとんど同じ速度で移動していた。
「流されてる」
ローズが眉を寄せた。
「この島ごと?」
「そうらしい」
ひまわりが少しだけ目を輝かせた。
「船みたい!」
「沈むかもしれない船だけどな」
「楽しくなくなった!」
流れそのものは速くない。
だが、このまま何もしなければ岸から離れていく。
オリマーは周囲を見渡した。
少し先に、太い根が水面から突き出している。
跳ぶにはまだ遠い。
ただ、流れの向き自体は悪くなかった。
「二人とも、こっち側に寄れ」
「なんで?」
「重心をずらす」
ローズはすぐに意図を理解したらしく、オリマーの示した側へ動いた。ひまわりも続く。
三人が片側へ寄ると、浮島がわずかに傾いた。
水を受ける角度が変わり、進行方向がほんの少しずれる。
ひまわりが驚いた。
「ほんとに動いた!」
「もう少し寄れ。あの根に近づける」
「沈まない?」
「沈む前に移る」
「それ大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないから急いでる」
ローズが苦笑した。
「ほんと、あんたたまに怖いわね」
「今さらかよ」
三人で少しずつ位置を調整する。
浮島が流れる。
太い根との距離が縮まっていく。
ローズが身体を低くし、距離を測った。
「届く」
「先に行け」
ローズが跳んだ。
危なげなく根を掴み、そのまま上へ移る。
次はひまわり。
「行くよ!」
「気をつけろ」
勢いをつけて跳び、ローズの横へ着地した。
最後にオリマーが残った。
荷物を抱え直す。
浮島と根の距離は、先ほどよりわずかに広がり始めていた。
「オリマー、早く!」
「分かってる!」
オリマーは踏み切った。
着地しかけた足が濡れた根の表面で滑った。
身体が傾く。
手を伸ばす。
届かない。
「オリマー!」
ローズの腕が伸びた。
手首を掴まれる。
勢いのまま身体が根へぶつかったが、ローズが離さなかった。ひまわりも加わり、二人に引き上げられる。
オリマーは根の上へ転がった。
「……危なかった」
「無茶するなって言ったの、誰だったかしら」
ローズが腰へ手を当てて見下ろしている。
「俺」
「自分にも言いなさいよ」
「善処します」
「しなさい」
ひまわりも隣へしゃがんだ。
「落ちたらどうするの!」
「その時は泳ぐ」
「泳げるの?」
「人並みには」
「じゃあ大丈夫!」
「大丈夫じゃないわよ」
ローズの突っ込みに、ひまわりが首を傾げた。
オリマーは起き上がり、流れていく浮島を見送った。
先ほどまで自分たちが立っていた場所が、ゆっくりと遠ざかっていく。
ここでは、地面に見えるものすら信用できないらしい。
前を見る。
さらに広い水路が続いていた。
点々と足場らしきものはあるが、本当に固定されているかは分からない。水の深さも、流れも、水中に何がいるのかも、陸上から見ただけでは判断できなかった。
「これ、きついな」
「今さら?」
ローズが言った。
「ここから先の話だよ」
オリマーは水面を眺めた。
これまでなら、枝で地面を確認しながら進めばよかった。
しかし、水の中までは分からない。
「水の中を調べられる奴でもいればな……」
何気なく呟いた、その直後だった。
少し離れた水面が揺れた。
ローズの表情が変わる。
ひまわりもすぐ立ち上がった。
「またさっきの?」
「違う」
ローズが低く答える。
水の下に影が見えた。
ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
先ほどの小型生物より遥かに大きい。
オリマーは枝を構えた。
「大きいな」
「下がって」
ローズが一歩前へ出る。
水面が盛り上がった。
何かが浮上してくる。
オリマーは身構えた。
最初に見えたのは、濡れた青い髪だった。
続いて顔が水面から現れる。
「……人?」
女だった。
水の中から、まるで普通の道を歩いてきたかのように姿を現す。
長い青髪から水滴が伝い落ちていた。
頭には葉がある。
ローズやひまわりと同じもの。
また一人。
オリマーがそう理解するまでに、少し時間がかかった。
水面から現れた女を前にして、オリマーはしばらく言葉を失っていた。
最初に目についたのは、その背の高さだった。
水の中にいたときには分かりづらかったが、岸へ近づいてくるにつれて、かなりの長身であることが分かる。すらりと伸びた手足に、腰まで届きそうな青い髪。濡れた衣服が身体へ張りつき、その細身の体格には不釣り合いなほど豊かな胸元の輪郭を、否応なく浮かび上がらせていた。
オリマーは見た。
正確には、思わず見てしまった。
一度だけなら、不意に視界へ入ったと言い訳もできただろう。
だが、視線が戻った。
「…………」
女の眉間に皺が寄った。
そこでようやくオリマーは我に返り、慌てて顔を逸らした。
「……悪い」
「何が?」
声が冷たい。
「いや、その……見てた」
「知ってる」
即答だった。
オリマーはそれ以上の弁解を諦めた。「そんなつもりじゃなかった」と言ったところで、二度見した事実は消えない。
仕事なら、失敗には原因があり、それを潰せばいい。荷崩れなら積み方を変えるし、道を間違えれば戻ればいい。しかし、初対面の女性を凝視してしまった場合の適切な処理方法など、さすがに長距離トラックの仕事では教わっていなかった。
女は水際まで歩いてくると、腕を組んだ。
ただでさえ高い身長が、そうすると余計に威圧的に見える。
「ずいぶん熱心に見てたみたいだけど」
「だから悪かったって」
「謝ればいいと思ってる?」
「思ってない。二度としない」
「……そう」
まだ明らかに不機嫌ではあるものの、それ以上追及する気はないらしい。
オリマーは内心で安堵した。
その直後だった。
「……ふーん」
今度は横から、別の冷気が飛んできた。
ローズだった。
「なんだよ」
「別に」
「いや、絶対なんかあるだろ」
「ないけど?」
ローズは腕を組み、オリマーを睨んでいる。普段から感情が顔へ出やすい方ではあるが、今は明らかに機嫌が悪かった。
「見すぎ」
「……それは悪かった」
「アタシに謝ってどうすんのよ」
「じゃあなんでお前が怒ってるんだ?」
「怒ってない!」
声が一段大きくなった。
オリマーが眉を上げると、ローズ自身も少し言いすぎたと思ったのか、一瞬だけ言葉に詰まった。それから誤魔化すように顔を逸らす。
「ただ……みっともないって言ってんの」
「それは反省してる」
「ならいい」
そう言った割には、まったく良さそうではない。
理由を考えてみても分からなかった。女に嫌われる理由なら、これ以上ないほど明確に心当たりがある。しかし、それでローズまで機嫌を悪くする理由はオリマーには思いつかなかった。
服の裾が引かれた。
振り向くと、ひまわりがそこにいた。
「オリマー」
「どうした?」
「うーん……」
ひまわりは自分から呼んでおきながら、首を傾げた。
いつもなら知らない相手が現れれば、真っ先に興味を示す。それなのに今は、水辺の女を見てからオリマーを見て、また女へ視線を戻している。
「なんか、やだ」
「何が?」
「分かんない」
ひまわりは胸元へ手を当てた。
「ここが変な感じする。なんか、もやもやする」
「具合悪いのか?」
「違うと思う」
「疲れた?」
「それも違う」
本人にも分からないらしい。
しばらく考え込んだあと、ひまわりは答えを見つけるのを諦めたように、オリマーの服を掴んだまま黙った。
女が現れてから、どうにも二人の様子がおかしい。
ただ、理由を考えてみてもオリマーにはさっぱり分からなかった。
「それで」
女の声が三人のやり取りを切った。
「あなたたち、ここで何してるの?」
オリマーは表情を切り替えた。
「森から出る道を探してる」
「道?」
「ああ。外周から出ようとしたけど、霧の中を進んでも元の場所へ戻される。それで別の道を探してるんだ」
女の目が少し細くなった。
「それで、この湿原まで来たの?」
「この先へ行く必要がある」
女はすぐには答えなかった。
先ほどまでオリマーへ向けていた嫌悪とは少し違う。今度は、何かを測るようにこちらを見ている。
ローズが一歩前へ出た。
「アンタ、この辺のこと知ってるんでしょ」
女の視線がローズへ移る。
その瞬間だった。
ほんの僅かに、女の眉が寄った。
オリマーへ向けていた嫌悪とは違う。
もっと理由の分からない、不意に湧いた苛立ちのようなものだった。
「……知ってたら?」
「だったら話が早い。この先へ抜けられる道を教えて」
「嫌」
「は?」
即答だった。
ローズの眉が跳ね上がる。
「何よ、その言い方」
「お願いする側には見えないから」
「アンタね……!」
ローズが一歩踏み出した。
女も退かない。
むしろ、間近まで来たローズを見下ろした瞬間、先ほどより僅かに表情が険しくなった。
自分よりずっと小さな身体。
こちらを睨み返す目。
何かされたわけではない。
まだ名前すら知らない相手だ。
それなのに、なぜか気に障る。
女自身にも、その理由は分かっていないようだった。
「ローズ」
オリマーが肩を掴んだ。
「離して。こいつムカつく」
「今喧嘩してどうする」
「向こうが先に喧嘩売ってきたんでしょ!」
「売ってない」
女が淡々と返した。
「その言い方がムカつくって言ってんのよ!」
「面倒」
「はぁ!?」
「ローズ」
「分かってるわよ!」
ローズはオリマーの手を振り払ったものの、それ以上は前へ出なかった。
女はそんなローズを見たあと、わずかに顔を逸らした。
その仕草にも、説明のつかない棘が残っていた。
「ねえ」
ひまわりが横から顔を出した。
女がそちらを見る。
「何?」
今度は普通だった。
冷たくはある。
愛想もない。
だが、ローズに向けた刺々しさはない。
「ここって、ずっと水なの?」
ひまわりが湿原の奥を指差す。
「ずっとじゃない。陸地もある」
「向こうまで歩ける?」
「場所を選べば」
「どこ?」
女は水面へ視線を向けた。
「水草が密集してるところ。あの辺りは浅い」
「ほんと?」
「ただ、全部じゃないから適当に入らない方がいい」
ひまわりは目を輝かせた。
「詳しいんだね!」
「ここにいるから」
「泳ぐのも得意?」
「まあね」
「どれくらい潜れる?」
「ひまわり」
ローズが横から止めた。
「何?」
「馴染むの早すぎ」
「だって普通に話してくれるよ?」
その言葉に、ローズが女を見る。
女もローズを見る。
数秒。
「……アタシには?」
「何?」
「なんでもない!」
ローズが苛立ったように顔を背けた。
ひまわりは不思議そうに首を傾げ、それから再び女を見る。
「名前は?」
少しの間があった。
「アジサイ」
「アジサイ?」
「そう」
ひまわりが笑う。
「私はひまわり!」
アジサイはひまわりを見る。
「そう。ひまわりね」
「うん!」
続いて、ひまわりはローズを指差した。
「こっちがローズ!」
アジサイの視線がそちらへ移った。
また、ほんの僅かに眉が寄る。
「……ローズ」
「何よ」
「別に」
「ならその顔やめなさいよ」
「普通だけど」
「絶対普通じゃない!」
「はいはい」
「アンタ……!」
オリマーはローズが再び前へ出る前に、その肩を掴んだ。
「で、こっちがオリマー!」
ひまわりが最後にオリマーを指差す。
アジサイの表情が露骨に曇った。
「……そっちは知りたくなかった」
「俺だけひどくないか?」
「理由が分からないの?」
「分かるから何も言えない」
「なら黙ってて」
「はい」
ひまわりが吹き出した。
ローズも一瞬だけ口元を緩めかけたが、すぐにそれを引っ込める。
「オリマー弱い!」
「俺が悪いんだから仕方ないだろ」
「さっきから怒られてばっかり!」
「楽しそうだな、お前」
「うん!」
ひまわりだけは、いつの間にか先ほどのもやもやを忘れているようだった。
アジサイはそんなひまわりを一瞥すると、水際へ歩いた。
「この先へ行くんでしょ」
オリマーも水面を見る。
「ああ」
「だったら、真っ直ぐ進むのはやめた方がいい」
「深いのか?」
「それもある」
アジサイは足元に落ちていた細い枝を拾い、水へ差し込んだ。
見た目にはかなり深そうだった。
だが、枝はすぐに底へ当たった。
「浅い……?」
オリマーが近づく。
アジサイは別の場所へ枝を入れた。
今度は半分以上沈んでも底へ届かない。
二つの場所は、ほとんど隣り合っている。
「見た目じゃ分かりにくいのよ。空が映るから」
オリマーは水面を見た。
確かに、上から眺めただけでは違いがほとんど分からない。
雲も、木々も、水草も、水面へ綺麗に映り込んでいる。それが水底の様子を隠していた。
「なるほどな……」
オリマーは自分でも枝を拾った。
水へ差し込みながら、少しずつ場所を変えていく。
浅い。
次は深い。
その隣は、また浅い。
水面だけを見て判断していたら、間違いなく足を取られていただろう。
「道そのものはあるんだな」
「ある。でも一定じゃない」
「場所によって変わる?」
「雨が降れば水位も変わるし、泥が流れれば底も変わる」
「なら覚えた道をそのまま使うのも危ないか」
アジサイが少しだけオリマーを見る。
「……そう」
初めて、嫌悪以外の反応が返ってきた。
それも一瞬だけで、すぐに顔を逸らされたが。
オリマーは気にせず、水面を観察した。
「水草だけを目印にするのも危ないな」
「分かってるなら、勝手に入らないことね」
「分かった」
「本当に?」
「信用ないな」
「あると思う?」
「ないだろうな」
オリマーが苦笑すると、アジサイは露骨に嫌そうな顔をした。
ローズが横から口を挟む。
「アタシたちだけでも調べれば進めるでしょ」
「時間がかかる」
アジサイが返す。
「アンタには聞いてない」
「でも間違ってるから」
「……ほんっと感じ悪いわね」
「あなたに言われたくない」
また空気が尖る。
オリマーは二人の間へ入った。
「とにかく、今日は安全に進める範囲を確認する。それでいいだろ」
「アタシは最初からそう言ってる」
「言ってないだろ」
「言った!」
「いつ?」
「今!」
「それは最初じゃない」
「細かい!」
横でひまわりが笑った。
アジサイは呆れたように三人を見る。
「本当にそれでここまで来たの?」
「まあ、なんとか」
「信じられない」
「俺も時々そう思う」
オリマーは荷物を持ち直した。
そのとき、アジサイが水へ入った。
「ちょっと待て」
「何?」
「どこ行くんだ?」
「向こう」
「それは見れば分かる」
アジサイは面倒そうに振り返った。
「浅い場所を教える。途中まで」
オリマーは少し驚いた。
「いいのか?」
「勘違いしないで」
「してない」
「まだ何も言ってないけど」
「なんとなく分かった」
アジサイの眉が寄った。
「……そういうところも嫌い」
「まだ増えるのか」
「増やしてるのはあなたでしょ」
オリマーは反論を諦めた。
ひまわりがアジサイの後を追おうとする。
「こっち?」
「待って」
アジサイはひまわりを止めた。
「そこは踏まない方がいい」
「なんで?」
「右を見て」
ひまわりが覗き込む。
水面の下に、細長い植物が沈んでいる。
アジサイが枝で軽く触れた。
次の瞬間、水草の間から硬そうな棘が跳ね上がった。
「うわっ!」
ひまわりが慌てて下がる。
「刺さるから」
「先に言ってよ!」
「今言ったでしょう」
「刺さる直前だった!」
「だから止めたの」
ひまわりは少し頬を膨らませたものの、怒ってはいない。
「アジサイって結構怖いね」
「あなたが不用心なだけ」
「ローズと同じこと言う」
アジサイがローズを見る。
ローズもアジサイを見る。
「……一緒にしないで」
「こっちの台詞よ!」
ひまわりはまた笑った。
オリマーも思わず口元を緩める。
「何笑ってるの?」
ローズが睨む。
「いや」
「何?」
「なんでもない」
「絶対なんかあるでしょ」
「ないって」
これ以上言えば自分まで巻き込まれる。
オリマーは素直に黙った。
それからはアジサイを先頭に、湿原をゆっくり進んだ。
歩く速度は速くない。
むしろ、これまで以上に慎重だった。
アジサイが一歩進むたび、オリマーも枝で足元を確かめる。ひまわりも途中から真似を始め、ローズは水面の色や水草の位置を覚えようとしていた。
見た目には何も変わらない湿原だったが、歩き方を知るだけで景色の意味が変わってくる。
水草の密度。
水面の色。
泥の柔らかさ。
僅かな流れ。
一つだけでは判断できない。
いくつかを組み合わせて、ようやく安全な場所が見えてくる。
途中、比較的大きな木の根が水面から張り出した場所で、アジサイが止まった。
「ここなら休める」
オリマーは枝で周囲を確認してから陸へ上がった。
荷物を下ろす。
「助かった」
アジサイは答えない。
「水も補給できそうだな」
「そのまま飲まない方がいい」
「分かってる」
「ならいい」
オリマーは荷物の中身を確認した。
灼熱花道を越えたことで、水の残量はかなり減っている。この湿原で補給できるなら大きい。
ただし、ここを拠点にできるかどうかは別だった。
安全な陸地がどの程度あるのか。
夜になれば水位や生き物の動きが変わるのか。
まだ分からないことの方が多い。
「今日はここで少し休む」
「賛成!」
ひまわりが真っ先に腰を下ろした。
ローズも荷物の近くへ座る。
オリマーがその横へ向かおうとすると、ローズが少しだけ身体をずらした。
「ここ」
「ん?」
「荷物見るんでしょ。ここなら見やすいから」
「そうだな」
オリマーが座る。
すると反対側から、ひまわりが寄ってきた。
「私もここ!」
「狭くないか?」
「平気!」
両側を挟まれる形になった。
オリマーには、その必要性がよく分からない。
ローズは先ほどより少しだけ機嫌が直っているように見えた。
ひまわりも同じだった。
少し離れた場所に立っていたアジサイが、三人を眺める。
ひまわりへ目を向けたときは何も変わらない。
オリマーを見れば、露骨に眉が寄る。
そしてローズへ視線が移った瞬間だけ、また僅かに表情が硬くなった。
ローズもそれに気づいた。
「……何よ」
「別に」
「またそれ?」
「見ただけ」
「じゃあ普通に見なさいよ」
「普通に見てる」
「絶対嘘!」
オリマーは口を挟まなかった。
ここへ来てから何度目か分からないやり取りだった。
ただ、一つだけ妙ではある。
アジサイはローズに何かされたわけではない。
それなのに、最初から妙に当たりが強い。
オリマーに対する態度なら理由は明白だ。
ひまわりとは普通に話している。
なら、ローズだけ何が違うのか。
考えてみても答えは出なかった。
「アジサイ」
オリマーが呼ぶ。
露骨に嫌そうな顔をされた。
「何?」
「一つだけ聞いていいか?」
「一つなら」
「この先も、ずっとこんな浅瀬が続いてるのか?」
アジサイは湿原の奥を見た。
「途中までは」
「途中?」
「もっと先は深くなる」
「渡れないくらい?」
「場所による」
そこで言葉が止まった。
オリマーは待った。
アジサイは何かを考えるように、水面を見ている。
「……深いところには近づかない方がいい」
「何かあるのか?」
「分からない」
「分からない?」
「見たことないから」
アジサイは水際へ歩いた。
「でも、たまに動く」
オリマーの眉が寄る。
「何が?」
「水」
風が吹いた。
湿原の水面に細かな波が走る。
だが、アジサイはそれを指しているのではないらしい。
「風じゃなくて?」
「違う」
「魚とか」
「それなら分かる」
アジサイは少し黙った。
「下から動くの」
その言葉で、ローズの表情が変わった。
オリマーも黙る。
二人の頭に浮かんだものは、おそらく同じだった。
以前、ローズと二人で見た巨大な水場。
水面の下を横切った、正体の分からない黒い影。
あのときも結局、何だったのかは分からなかった。
「オリマー?」
ひまわりが二人を見比べた。
「何?」
「……いや」
オリマーはすぐには説明しなかった。
似ている。
ただ、それだけだ。
同じものだと判断できる材料は何もない。
「アジサイは見たことないの?」
ひまわりが尋ねる。
「ない」
「じゃあ、なんで危ないって分かるの?」
「分からないから」
アジサイの返答は短かったが、冷たくはなかった。
「分からないものに近づく必要ないでしょう」
ひまわりは少し考えてから頷いた。
「それはそうかも」
「少なくとも、今はね」
アジサイは水へ足を入れた。
「帰るのか?」
オリマーが聞く。
「うん」
「また会える?」
今度はひまわりだった。
アジサイは少しだけ振り返る。
「この辺にいれば」
「じゃあまたね!」
「……うん」
ひまわりには普通に返した。
ローズがそれを見ている。
アジサイの視線がローズへ移った。
一瞬だけ、またあの表情になる。
理由のない苛立ち。
けれど、今度は何も言わなかった。
ローズも何か言い返そうとしたようだったが、結局口を閉じる。
最後にアジサイがオリマーを見る。
「深いところには行かないで」
「分かった」
「本当に?」
「そこまで信用ないか?」
「あなたは特に」
「まだ引っ張るのか……」
「当然でしょ」
オリマーは苦笑するしかなかった。
アジサイはそれ以上何も言わず、湿原の奥へ歩いていった。
浅瀬を選びながら進んでいたはずなのに、途中から徐々に身体が水へ沈んでいく。
腰。
胸元。
肩。
それでも彼女は迷わない。
やがて青い髪だけが水面に残り、それも水草の向こうへ消えていった。
しばらく、三人はその方向を見ていた。
「……変な人だったね」
ひまわりが言った。
「アンタは気に入ってたじゃない」
ローズが返す。
「うん。普通に話してくれたし」
「アタシには全然普通じゃなかったけど」
「ローズ、なんかした?」
「してない!」
「じゃあなんで?」
「アタシが知りたいわよ!」
ローズは不満そうに水面を睨んだ。
オリマーは荷物を確認しながら、二人の会話を聞いていた。
アジサイについて分かったことは少ない。
この湿原に詳しい。
水中での行動に慣れている。
そして、自分たちよりもこの場所の危険を知っている。
だが、それだけだった。
なぜここにいるのか。
いつからいるのか。
どこから来たのか。
それらについては、まだ何も分からない。
オリマーは荷物を閉じた。
「とりあえず今日は、深い場所には行かない」
「賛成」
ローズは珍しく即答した。
「ひまわりもな」
「はーい」
「絶対だぞ」
「分かってるって!」
ひまわりが頬を膨らませる。
オリマーはもう一度、水面へ目を向けた。
鏡のような湿原には空が映っている。
見えている景色だけなら、これまで通ってきた場所の中でもかなり穏やかだった。
けれど、実際には違う。
浅く見えて深い場所がある。
何もないように見える泥の中には棘が潜んでいる。
そして、もっと深い場所では、アジサイにも分からない何かが水を動かす。
オリマーはその事実だけを頭に入れ、それ以上は考えなかった。
分からないものを、分かったつもりで決めつけても仕方がない。
今必要なのは、この湿原を安全に進む方法を覚えることだった。
その少し後。
三人から離れた水面に、小さな波紋が生まれた。
風に押された波とは違った。
一度だけ、水面が下から持ち上げられるように膨らむ。
ゆっくりと。
大きく。
しかし、それに気づいた者はいなかった。
膨らみは音もなく沈み、鏡のような水面には、再び何事もなかったように空だけが映っていた。