アジサイの青い髪が水草の向こうへ消えてからも、三人はしばらくその場で休んでいた。
オリマーは大きな木の根の上に荷物を広げ、残っている食料と水を順番に確認していく。灼熱花道を越えるまでに水はかなり減っていたものの、湿原へ入ってから補給の見込みが立ったことで、以前ほど残量に神経を尖らせる必要はなくなっていた。
もっとも、目の前に水があるからといって、そのまま口へ入れる気にはならない。
オリマーは果皮を加工した器を手に取ると、水際へ近づく前にしゃがみ込んだ。水面だけを見るのではなく、流れている葉の向きや水草の揺れ方、その周囲の泥の色まで確認してから枝を差し込む。底までの深さを確かめ、少し場所をずらしてもう一度。同じ作業を何度か繰り返し、安全そうなところを選んでからようやく水を汲んだ。
「オリマー、まだ休む?」
後ろから声がした。
振り返ると、ひまわりが根の上へ仰向けになり、両手を頭の後ろで組んでいた。少し前まで暑さにへばっていたのが嘘のように元気で、時折吹く湿った風を気持ちよさそうに受けている。
「もう少しだけな。荷物を片付けたら動く」
「お腹減った」
「さっき食っただろ」
「歩いたから減った!」
「そんな速さで腹減ってたら食料がいくらあっても足りないぞ」
「大丈夫。私、そんなに食べないから!」
少し離れたところで水面を眺めていたローズが、呆れたように振り返った。
「よく言うわよ。放っといたらずっと食べてるじゃない」
「そんなことないよ!」
「ある」
「ない!」
「ある」
「ない!」
「お前ら、それ続けるなら二人とも飯抜きにするぞ」
オリマーが言うと、ひまわりは即座に黙った。
ローズは口元を緩める。
「効いたわね」
「食べ物で脅すのずるい」
「脅してない。食料管理だ」
「同じ!」
抗議するひまわりを横目に、オリマーは荷物をまとめ始めた。
その間もローズは時折湿原の奥へ視線を向けている。
何か気になるものでもあるのかと思ったが、そちらには静かな水面と水草しか見えない。アジサイが消えていった方向も同じだった。
「まだ気にしてるのか?」
オリマーが尋ねると、ローズはすぐこちらを向いた。
「何を?」
「アジサイ」
ローズの眉がわずかに動いた。
「別に」
「その返事、便利だな」
「何よ」
「何でも『別に』で済む」
「本当に別にだから言ってんの」
ローズはそう言って再び水面へ目を向けたが、少ししてから自分から口を開いた。
「……感じは悪かったけど」
「うん」
「この辺のことはちゃんと知ってたわね」
オリマーは荷物を縛っていた手を止めた。
「珍しいな」
「何が?」
「褒めるんだと思って」
「褒めてない。事実でしょ」
「そういうことにしとく」
ローズが睨む。
それ以上からかうと面倒なので、オリマーは素直に作業へ戻った。
ひまわりは二人の会話を聞いていたらしく、寝転がったまま手を上げる。
「私はアジサイ好きだよ」
ローズがすぐ振り向いた。
「アンタには普通だったからでしょ」
「うん」
「そこは否定しなさいよ」
「だって普通だったもん」
ひまわりは身体を起こし、膝を抱えた。
「ローズにはなんか怒ってたけど」
「アタシ何もしてないんだけど」
「顔かな?」
「どういう意味よ」
「分かんない!」
ひまわりが笑いながらオリマーの後ろへ回り込む。
ローズも追いかけようとしたが、すぐに諦めたらしい。
「ほんっと腹立つ」
「まあ、アジサイがローズにだけ妙だったのは俺も思った」
「でしょ?」
「でも、お前も会ってすぐ喧嘩売ってたしな」
「売ってない!」
「似たようなもんだろ」
「全然違う!」
また始まりそうだったので、オリマーは立ち上がった。
「そろそろ動くぞ」
ひまわりもすぐ立つ。
「もう休憩終わり?」
「十分休んだ」
「早い」
「今度は何時間休むつもりだったんだ」
荷物を背負い、水際へ向かう。
そこでオリマーは足を止めた。
休憩を始めた時、水面から少し離れた場所へ一本の細い枝を差しておいた。完全に固定されているか分からない土地で長時間休む以上、水位が変わっていないか確認しておきたかったからだ。
枝そのものは動いていない。
だが、水面との距離が違っていた。
オリマーはしゃがみ込む。
「ローズ」
「何?」
「これ見てくれ」
ローズが近づき、枝と水面を見比べる。
「水、上がってる?」
「少しだけどな」
休憩を始めた時には、枝の根元と水面の間に指二本分ほど隙間があった。今ではほとんど水に触れている。
空を見上げる。
雨は降っていない。
ひまわりも隣へ来た。
「なんで増えたの?」
「分からない。どこかから流れ込んでるのかもしれないし、別の理由かもしれない」
オリマーは枝を引き抜いた。
原因を当てる必要はない。
今重要なのは、この場所がずっと同じ状態ではないということだった。
「ここで夜まで休むのはやめよう。まだ明るいうちに、もう少し安定した場所を探す」
「アジサイ探す?」
ひまわりが尋ねる。
オリマーは湿原の奥を見渡した。
当然、姿はない。
「いや。まずは自分たちで行く」
ローズが少し意外そうな顔をした。
「いいの? あいつなら簡単に道分かりそうだけど」
「だからって毎回頼れるわけじゃないだろ。どこにいるのかも分からないし」
オリマーは荷物の肩紐を調整した。
「俺たちも何を見ればいいかくらいは分かった。実際にやってみないと、この先ずっと誰かの後ろを歩くことになる」
「それは嫌ね」
ローズはすぐ頷いた。
ひまわりも元気よく手を上げる。
「私も見る!」
「お前はまず勝手に水へ入らない」
「入らないってば!」
その返事だけは信用しきれなかったが、オリマーは何も言わなかった。
三人は根を降りた。
すぐ目の前の水へ入るのではなく、まず辺りを見る。
昨日までなら、そこにあるのは同じような水面にしか見えなかっただろう。
今は少し違う。
水草が密集している場所。
流れに沿って葉先が同じ方向へ傾いている場所。
泥の色が周囲より濃い場所。
空の映り込みが強く、水底がほとんど見えない場所。
どれか一つだけで安全かどうかを決めることはできない。それでも、三人とも何を見るべきか分からなかった時よりは遥かにましだった。
「左」
ローズが指差した。
「あそこ、水草が多い」
「その手前は流れがありそうだな」
オリマーが答える。
ひまわりは別の場所へしゃがみ込んでいた。
「こっちは色違うよ」
「どこだ?」
「ここ」
オリマーが枝を差す。
すぐに底へ当たった。
浅い。
半歩ほど横へずらすと、今度は同じ長さの枝が半分以上沈んでも底へ届かない。
「本当だな」
ひまわりの顔が明るくなる。
「私、分かった!」
「一回だけな」
「一回でも分かった!」
「じゃあ次も頼む」
「任せて!」
ひまわりは途端に張り切り始めた。
ローズも別の枝を拾う。
「アタシが先を見る」
「無理に遠くまで行くなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「ひまわりじゃないんだから」
「どういう意味!」
三人の声が湿原へ響く。
それでも足元だけは慎重だった。
一度確認したら数歩進み、また止まる。
オリマーが大まかな方向を決め、ローズが少し先の足場を調べる。ひまわりは二人より低い位置から水面を覗き込み、水草や色の変化を見つけた。
全員が同じことをする必要はない。
誰かが気づいたことを口にし、別の誰かが確かめる。
「右の方、葉っぱ動いてる」
「じゃあ流れが強いか」
「左は泥が柔らかい」
「一個手前から回ろう」
「あそこ岩あるよ!」
「その周り確認してからな」
少しずつだった。
それでも進んでいる。
途中、水面から小さな生き物が数匹顔を出した。
丸い目。
小さな脚。
三人を見つけると、しばらく一定の距離を保ちながらついてくる。
ひまわりが目で追った。
「またいる」
「触るなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「さっきから信用なさすぎ!」
ローズが小さく笑った。
「日頃の行いね」
「ローズまで!」
三人は立ち止まり、小型生物の様子を見る。
近づいてこない。
足場へ上がろうともしない。
なら何もしない。
オリマーたちが歩き始めると、小型生物は少しだけついてきたものの、やがて水草の間へ潜っていった。
ひまわりがその姿を見送る。
「今回は何も起きなかった」
「何も起こさなかった、だな」
「同じじゃない?」
「違う」
「難しい」
オリマーは笑った。
戦わなくていい相手と戦う必要はない。
危険がある場所すべてを避けられるわけではないが、自分たちから増やす必要もなかった。
そのまま一時間ほど進んだ頃、三人は水面から大きく突き出た岩へ辿り着いた。
ローズが先に上がり、足場を確かめる。
「ここは大丈夫そう」
続いてひまわり。
最後にオリマーも荷物を持ち上げるようにして岩へ登った。
振り返ると、休憩していた巨大な根はもうかなり小さく見える。
「結構来たわね」
ローズが額の汗を手で拭う。
「思ったより順調だったな」
「私たちだけで!」
ひまわりが誇らしげに胸を張った。
「アジサイいなくても行けた!」
「調子に乗るなよ」
「でも行けた!」
「そこは否定しない」
ローズも少し得意そうだった。
「まあ、昨日よりはマシね」
オリマーは返事をしかけて、やめた。
昨日だったかどうか、今ここで確認する必要はない。
代わりに、通ってきた水路へ視線を向けた。
三人の進み方が変わったのは確かだ。
それで十分だった。
「少し休む?」
ひまわりが期待するように尋ねた。
「十分くらいなら」
「やった!」
「アンタ休む話になると本当に元気ね」
ローズが呆れながら腰を下ろそうとする。
オリマーも荷物を降ろそうとした。
その時、視界の端に引っかかるものがあった。
「待って」
ローズが動きを止める。
「何?」
オリマーは答えず、岩の端へ歩いた。
さっきまで渡ってきた水路を見る。
同じ景色のはずだった。
水草もある。
水面には空が映っている。
それなのに、何かが違う。
しばらく見て、ようやく気づいた。
「水草が沈んでる」
ひまわりも近づいた。
「ほんとだ」
通ってきた時には水面からしっかり出ていた葉が、今は半分近く水に浸かっている。
オリマーは岩を降り、戻り道へ枝を入れた。
少し前には足首ほどだった場所。
今は脛。
半歩横では膝まで入る。
さらにその先は、枝を差し込んでも簡単には底へ届かない。
「上がるの、早くなってない?」
ローズが尋ねた。
「そう見える」
ひまわりから休憩を喜んでいた表情が消える。
「戻った方がいい?」
オリマーは来た道を見る。
かなり遠い。
しかも既に水位が変わっている以上、同じ道をそのまま戻れる保証もない。
前方には、少し離れたところに草地らしき場所がある。
「先へ行く」
「大丈夫?」
「戻るより近い。あそこまで行ってからもう一度考える」
ローズは一度だけ草地との距離を測り、頷いた。
「分かった」
三人は休憩を取りやめ、そのまま岩を降りた。
先ほどまでと同じように進む。
ただし状況は違っていた。
数分前に浅かった場所が、もう浅くない。
水草の位置も変わり、流れも少し強くなっている。
ひまわりが枝を差し込む。
「ここ、さっきまで平気だったよね?」
「今は駄目だ」
オリマーは別の場所へ枝を入れた。
一度目は浅い。
その先も大丈夫。
三回目で、急に底が遠くなる。
「右へ寄る」
ローズが先へ出る。
数歩進んだところで立ち止まった。
「こっちも深くなってる」
別の方向。
また確認。
進む。
戻る。
水位そのものが動いているため、さっき見つけた基準が次々使えなくなっていく。
「面倒だな……」
オリマーは地図のない道路で工事による通行止めに出くわした時のことを思い出した。
ルートが駄目なら別の道へ回ればいい。
ただ、ここには道路標識も迂回路の案内もない。
しかも、今まで通れた場所が目の前で使えなくなっている。
焦ったところで水が引くわけではない。
オリマーは呼吸を整え、もう一度周囲を見る。
「右側」
「行けそう?」
ローズが聞く。
「確認する」
枝を入れる。
浅い。
次も大丈夫。
三人で慎重に進んだ。
途中から水が膝へ届く。
まだ歩ける。
もう一歩。
急に足元の泥が流れた。
「っ!」
オリマーの身体が傾く。
ローズがすぐ腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「ああ。助かった」
ひまわりも数歩先で足を止めた。
「こっち、流れ強い!」
「戻るぞ!」
三人は岩の方へ引き返した。
来た時よりも水の抵抗が強い。
岩へ戻るだけでもかなり時間がかかった。
ようやく三人が上がった頃には、さっきまで水面から出ていた岩の下部まで水が達していた。
ひまわりが息を整える。
「……これ、まずくない?」
「今すぐ沈むわけじゃない」
オリマーは答えながらも、周囲を見回していた。
「でも、このまま上がり続けたら動ける場所が減る」
ローズが水面を睨む。
「泳ぐ?」
「やめた方がいい」
「でもこのままじゃ」
「深さが分からない。流れもある。荷物も全部濡れる」
それに、深い場所へ安易に入らない方がいいという話も聞いている。
その理由が何なのかは分からない。
分からないなら、なおさら試す理由はなかった。
ひまわりが湿原の奥へ目を向ける。
「アジサイなら分かるかな」
「たぶんな」
オリマーもそう思う。
だが、どこにいるのか分からない相手を探すことはできない。
今いる三人で方法を考えるしかない。
「まず、もう一回――」
「何してるの?」
突然、声が届いた。
三人が同時に振り向く。
少し離れた水面に、青いものが見えた。
水草の間から長い青髪が現れ、それに続いて背の高い身体がゆっくりと水中から姿を見せる。
アジサイだった。
オリマーは思わず息を吐いた。
「……戻ってきたのか」
アジサイはオリマーを見る。
そして、分かりやすく眉を寄せた。
「戻ったわけじゃない」
「じゃあ何でここに?」
「水の流れが変わったから見に来ただけ」
アジサイはそこまで答えると、三人の足元へ目を向けた。
水位。
沈みかけている水草。
来た方向と、進もうとしていた方向。
一通り確認してから、再びオリマーを見る。
「深いところには行かない方がいいって言ったでしょう」
「行ってない」
「そこ、もう十分深いけど」
「俺たちが来た時は浅かったんだよ。途中から水位が上がった」
アジサイは少し黙った。
オリマーの言葉を疑うのではなく、すぐに周囲へ視線を移す。
水草へ手を伸ばし、流れを確かめたあと、そのまま腕を水中へ沈める。場所を変えて同じことを繰り返し、最後に少し離れた水面を見た。
「……そうね」
ローズが意外そうに眉を上げた。
「認めるんだ」
アジサイがローズを見る。
ひまわりへ向ける時とは明らかに違い、ほんの僅かに表情が硬くなる。
「何?」
「別に」
「絶対今なんか思ったでしょ」
「思ってない」
「その顔で?」
「ローズ」
オリマーが口を挟んだ。
「今はそれいいから」
「アタシが始めたんじゃない!」
「どっちでもいい」
アジサイが淡々と言う。
ローズの眉が跳ねる。
また始まりそうになったところへ、ひまわりが顔を出した。
「アジサイ」
「何?」
アジサイの声音が少しだけ変わった。
愛想がいいわけではないが、ローズへの棘も、オリマーへの嫌悪もない。
「ここから出られる?」
「出られる」
ひまわりの顔が明るくなる。
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「水が変わってるから、見ないと分からない」
アジサイは水面へ視線を戻した。
「でも、ここにいるよりは動いた方がいい」
オリマーも頷いた。
「それは同意する」
アジサイは一瞬こちらを見る。
嫌そうな顔はそのままだったが、反論はしなかった。
少し離れた場所へ視線を向ける。
「あそこに大きな葉があるでしょう」
オリマーたちも見る。
巨大な水草の葉が何枚か、流れの中でゆっくり揺れている。
「見える」
「あれを使う」
ローズが怪訝そうな顔をした。
「乗るの?」
「そう」
「大丈夫なの?」
「全部は無理」
アジサイはそう答えると、何の躊躇もなく水へ身体を沈めた。
青い髪が水面から消える。
残された三人は、その場所を見つめた。
数秒後。
少し離れた葉の横からアジサイが顔を出した。
「これは駄目」
ひまわりが尋ねる。
「何が?」
「茎が傷んでる」
アジサイはすぐにまた潜った。
次に現れたのは別の葉の近くだった。
今度は水中でしばらく何かを確認している。
「こっちは使える」
オリマーは黙ってその様子を見た。
水面から推測するしかなかった三人とは違い、アジサイは自分で潜って確かめられる。
湿原に詳しいというだけではない。
この場所では、それ自体が大きな強みだった。
「一人ずつ乗って」
アジサイが葉を押さえながら言った。
「なるべく中央。端に乗ると傾くから」
「私から!」
ひまわりがすぐ前へ出る。
「待て」
「なんで!」
「まず確認してから」
ローズが葉を見る。
「ならアタシが行く」
「ローズも待って」
アジサイの声が飛んだ。
ローズが止まる。
「何よ」
「まだいいって言ってない」
「今確認したんでしょ?」
「上から乗せても大丈夫かは別。もう一回見る」
「細かいわね」
「落ちたいなら勝手にすれば?」
ローズの顔が険しくなる。
「アンタね――」
「ローズ」
「分かってる!」
不満を隠そうともせず、ローズはその場で待った。
アジサイはそんなローズを一度見たあと、また水へ潜る。
先ほどまであれほど刺々しく言い合っていたくせに、確認そのものには手を抜かない。
やがてアジサイが水面へ戻った。
「いいわよ」
ローズが巨大な葉へ片足を置く。
すぐに全体が沈むことはなかった。
慎重に体重を移し、中央へ進む。
「そこ」
アジサイが位置を示す。
ローズが従うと、葉は少し揺れただけで安定した。
「……いける」
それを見たひまわりが目を輝かせる。
「船みたい!」
ローズが振り向いた。
「アンタ、それ前も似たようなこと言ってなかった?」
「今度は大丈夫!」
「何を根拠に!」
「アジサイいるから!」
アジサイがすぐ返す。
「勝手に信用しないで」
「でも詳しいじゃん!」
「詳しいことと、絶対安全なことは別」
「でも助けてくれてる!」
アジサイが一瞬だけ言葉を止めた。
ひまわりは何も考えていない顔で笑っている。
「……うるさい」
「えへへ」
なぜそこで嬉しそうにするのか、オリマーにも分からなかった。
ただ、アジサイはもう何も言わず、ローズを乗せた葉の位置を調整し始めた。
水位はまだゆっくり上昇している。
危険な状況が終わったわけではない。
それでも、三人だけでは見つけられなかった道が、少しずつ形になり始めていた。
流れを受けた巨大な葉が、ローズを乗せたままゆっくりと動き出した。
巨大な葉は、ローズを乗せたまま水面を滑り始めた。
速くはない。アジサイが片手で葉の縁を押さえ、もう片方の腕で水を掻きながら進むため、歩くより少し遅いくらいだった。それでも足元の深さを一歩ずつ確かめる必要がなくなっただけで、移動はずっと安定している。
「動いてる!」
岩の上からひまわりが歓声を上げた。
「見れば分かるでしょ!」
ローズは葉の中央で腰を落とし、両手をついていた。普段ならもっと強気に言い返しそうなものだが、水面に浮かぶ葉一枚へ身体を預けている状況では余裕がないらしい。
「動かないで」
アジサイが言った。
「動いてないわよ」
「喋るときに身体ごとこっち向けるのやめて」
「……分かったわよ」
素直に従った。
オリマーは少し感心した。どうやらローズにも状況を選ぶ程度の分別はあるらしい。
そのままアジサイは十数メートルほど先にある、別の岩場へ向かった。
途中で何度か進路を変える。
一直線に進んだ方が近いはずだが、アジサイはそうしなかった。水面から顔だけを出して流れを確かめ、時には身体を沈めて水中を見る。そのたびに葉の向きを変え、遠回りするように進んでいく。
やがて葉が岩へ触れた。
「降りて」
ローズは慎重に立ち上がり、岩へ足を乗せた。
無事に渡りきった途端、肩から力が抜ける。
「……これ、あと二回やるの?」
「そうだけど」
「三人で乗れない?」
「沈みたいの?」
「聞いただけよ」
アジサイは葉を引いて戻ってきた。
次はひまわりだった。
「私!」
言われる前から岩の端で待っている。
「中央に座って。立たないで」
「うん!」
「水に手を入れない」
「うん!」
「途中で何か見つけても身を乗り出さない」
「うん!」
返事だけなら完璧だった。
オリマーは念のため釘を刺す。
「ひまわり」
「分かってるってば!」
「ならいい」
ひまわりが葉へ乗る。
ローズの時よりも葉の沈み込みは少ない。
アジサイが押し出すと、ひまわりは楽しそうに周囲を見回した。
「すごい!」
「動かないで」
「動いてないよ!」
「首だけにして」
「はーい」
先ほどまで水位の上昇に不安そうな顔をしていたのが嘘のようだった。
オリマーはその背中を見送りながら、足元へ目を落とす。
水は確実に増えている。
岩の縁に生えていた苔の一部が、もう水へ浸かっていた。
このまま残される時間が長くなれば、荷物を抱えた自分だけが取り残されかねない。
もっとも、アジサイもそれは分かっているらしい。
ひまわりを向こう側へ送り届けると、すぐ戻ってきた。
「次」
「荷物も一緒で大丈夫か?」
アジサイはオリマーではなく、背負っている荷物を見る。
「重い?」
「それなりに」
「下ろして」
「え?」
「先に荷物を運ぶ」
オリマーは少し考えた。
食料、水、拾い集めた道具。濡らしたくないものも多い。
自分が背負ったまま葉ごとひっくり返れば全部失う。
「分かった」
荷物を下ろす。
アジサイは受け取ろうとして――オリマーの手が近づいた瞬間、わずかに身体を引いた。
露骨だった。
オリマーも止まる。
「……ここに置けばいいか?」
「置いて」
葉の中央へ荷物を載せる。
アジサイは荷物が安定していることを確認すると、縁を掴んだ。
そのまま向こう側へ運んでいく。
オリマーは一人残された岩の上で、その背中を見送った。
最初に会った時からそうだった。
言葉遣いが冷たいという程度ではない。アジサイは明らかに自分を嫌っている。
理由を尋ねても答えるとは思えなかったし、今ここで問い詰める意味もない。
ただ、一つだけ妙だった。
嫌っているなら放っておけばいい。
それでもアジサイは戻ってきた。
荷物まで運んでいる。
オリマーは腕を組んだ。
「……よく分からんな」
本人が聞けば、また嫌そうな顔をするのだろう。
やがてアジサイが戻ってくる。
「乗って」
「はいはい」
「返事が軽い」
「普通に返事しただけだろ」
「そういうところ嫌い」
「どこだよ」
「全部」
「範囲広すぎないか?」
アジサイは答えなかった。
オリマーが葉へ乗ると、ローズの時より大きく沈んだ。
「うわ」
「動かないで」
「動いてない」
「もっと中央」
オリマーは腰をずらす。
葉が傾いた。
「動かないでって言ったでしょう!」
「中央って言ったのそっちだろ!」
向こう側からローズの笑い声が聞こえた。
「何やってんのよ!」
「うるさい!」
思わず返す。
アジサイは深く息を吐いた。
「もうそのままでいい」
「最初からそう言ってくれ」
「喋らないで」
「はい」
今度は素直に黙った。
アジサイが葉を押す。
水面を進み始める。
近くで見ると、アジサイの泳ぎ方は独特だった。
力任せに水を掻いているわけではない。流れに逆らうところと、流れへ身体を預けるところを使い分けている。葉も無理に引っ張らず、向きを調整することで自然に進ませていた。
途中、アジサイが急に止まった。
葉も止まる。
オリマーは黙ったまま視線だけを動かした。
アジサイが水面を見る。
少し先では、水草がゆっくり右へ流れていた。
だが、その中に一本だけ違う動きをしているものがある。
左右へ不規則に揺れていた。
アジサイは葉から手を離さないまま、足元へ潜った。
オリマーは待つ。
数秒。
十秒。
まだ出てこない。
二十秒ほど経ったところで、少し離れた場所から青い頭が現れた。
「そっち駄目」
アジサイが戻ってくる。
「何かいたのか?」
「穴」
「穴?」
「底が抜けてる。流れが吸い込まれてる」
オリマーは先ほどの水草を見る。
不規則に動いていたのではない。
水面からは見えない流れに引かれていたのだ。
「なるほど」
「何?」
「いや」
オリマーはそれ以上言わなかった。
代わりに水草の動きを覚えておく。
アジサイは葉の向きを大きく変え、穴を迂回した。
少し遠回りして、ようやく岩場へ辿り着く。
「オリマー!」
ひまわりが手を振る。
「無事だった?」
「見れば分かるだろ」
「途中止まってたから!」
「穴があったらしい」
ローズが眉を寄せる。
「穴?」
アジサイが水から上がった。
濡れた青髪を後ろへ払いながら、水面を指す。
「底が急に深くなってる場所があるの。あそこは流れも下へ引っ張られるから、落ちたら面倒」
「面倒で済むの?」
ローズが聞く。
「済まないかも」
「先に言いなさいよ!」
「だから避けたでしょう」
「そういう問題じゃない!」
アジサイはローズを見た。
また表情が硬くなる。
「騒いでも穴は消えないけど」
「アンタほんっと――」
「ローズ」
「何よ!」
「荷物」
オリマーが指差した。
岩の端に置かれていた荷物が、少しずつ水へ近づいている。
「うわ」
ローズが慌てて持ち上げた。
言い争っている場合ではない。
オリマーも荷物を受け取り、背負い直す。
「ここも長くはいられないな」
アジサイが頷いた。
「もう少し行けば高いところがある」
「どれくらい?」
「歩ければそんなに遠くない」
「歩ければ?」
ひまわりが首を傾げる。
アジサイは水面を見る。
「この先は流れが何本か重なってるから、今みたいには運べない」
ローズが顔をしかめた。
「じゃあどうするの?」
「歩く」
「深いんじゃないの?」
「浅いところを選べば大丈夫」
アジサイは岩を降りる。
水は腰近くまである。
ローズが驚いた。
「それで浅いの?」
「私には」
「基準がおかしいでしょ!」
アジサイは少し考え、オリマーたちを見る。
確かに自分の基準では意味がないと気づいたらしい。
「……じゃあ、こっち」
別の場所へ移動する。
そこへ腕を沈め、底を確認した。
「ここなら膝くらい」
オリマーも枝を入れて確かめる。
底に当たった。
「行けるな」
アジサイが先頭。
その後ろをオリマー。
ひまわり。
ローズの順で進む。
最初は順調だった。
アジサイが足を置いた場所を確認し、オリマーも同じところへ足を運ぶ。
だが、数十メートル進んだところで問題が起きた。
「止まって」
アジサイが突然言った。
三人とも止まる。
「どうした?」
「流れが変わった」
オリマーには分からなかった。
水面は先ほどまでと大きく違わない。
だがアジサイはじっと前を見ている。
「戻る」
ローズが声を上げる。
「また?」
「こっちはもう使えない」
「さっきまで歩けたんでしょ?」
「今は無理」
アジサイは迷わず引き返した。
三人も従う。
数分前に通った場所へ戻るだけのはずだった。
しかし途中で、ひまわりが声を上げる。
「待って!」
オリマーが振り返った。
ひまわりの身体が沈んでいる。
膝までだった水が、太腿まで上がっていた。
「手!」
オリマーが腕を伸ばす。
ひまわりも掴む。
その瞬間、足元の泥が崩れた。
「わっ!」
ひまわりの身体が横へ流される。
「ひまわり!」
ローズが叫んだ。
オリマーは両足を踏ん張る。
だが、ひまわりを引こうとしたことで自分の身体まで傾いた。
水が腰を越える。
まずい。
そう思った瞬間、横から強い力が加わった。
アジサイだった。
ひまわりの反対側の腕を掴み、そのまま水面へ身体を浮かせる。
「引っ張らないで!」
「でも!」
「身体を浮かせて!」
ひまわりが必死に足を動かす。
「足つかなくていい! 力抜いて!」
「無理!」
「ひまわり、俺の手は離すな!」
「うん!」
アジサイが水の流れへ身体を向ける。
無理に岸へ引っ張らない。
一度、流される方向へ進んだ。
「おい!」
「黙ってついてきて!」
オリマーも逆らうのをやめた。
流れに押されながら数メートル移動する。
怖い。
だが、アジサイの動きには迷いがなかった。
やがて水の勢いが弱くなる。
「今!」
アジサイが方向を変えた。
オリマーもひまわりを支えながら進む。
足が底についた。
「ついた!」
ひまわりが叫ぶ。
「そのまま!」
三人で浅い場所まで移動する。
ローズも別方向から追いついた。
「ひまわり!」
「大丈夫!」
ひまわりは笑おうとした。
だが声が震えていた。
ローズがその腕を掴む。
「どっか痛くない?」
「うん」
「本当に?」
「大丈夫」
ローズはしばらくひまわりの顔を見ていた。
やがて小さく息を吐き、そのまま手を離さなかった。
オリマーも呼吸を整える。
危なかった。
今まで何度も足元を確認してきた。
それでも駄目だった。
確認した場所そのものが変わる。
それが、この湿原だった。
「アジサイ」
声をかける。
アジサイはひまわりを見ていた。
「助かった」
「……別に」
「いや、本当に」
「いい」
アジサイはそこで視線をオリマーへ向けた。
相変わらず冷たい。
「あなた、引っ張り方が悪い」
「え?」
「流れに逆らって引いたでしょう。二人とも転ぶところだった」
「……悪かった」
「謝る相手、私じゃない」
オリマーはひまわりを見る。
「すまん」
ひまわりは首を振った。
「助けてくれたじゃん」
「でも危なかった」
「アジサイもいたし!」
アジサイの眉がわずかに動いた。
またそれか、と言いたそうな顔だった。
「だから勝手に信用しないで」
ひまわりが首を傾げる。
「なんで?」
アジサイは答えなかった。
代わりに歩き始める。
「行くよ」
ローズが不満そうにその背中を見る。
「何なのよ、あいつ」
「でも行くんだろ?」
「行くわよ」
ローズはひまわりの手を握ったまま歩き出した。
「今度はアタシの横」
「大丈夫だよ」
「いいから」
「はーい」
オリマーも後に続く。
それからは、アジサイの指示へ余計な口を挟まなかった。
右へ行けと言われれば右。
止まれと言われれば止まる。
水から上がれと言われれば、理由を尋ねる前に上がる。
何度か遠回りもした。
一度は目の前に目的の高台が見えているのに、わざわざ反対方向へ進んだ。
それでも従った。
しばらくすると、理由は自然に分かった。
遠回りした先には、水面からわずかに盛り上がった泥の道が続いていた。
アジサイはそこへ上がる。
「ここからなら歩ける」
オリマーも上がった。
久しぶりに足元から水がなくなる。
ひまわりは泥の上へ座り込みそうになったが、ローズに腕を引かれた。
「まだよ」
「ちょっとだけ!」
「高いところまで行ってから」
「疲れたぁ」
「アタシもよ」
そのやり取りを聞きながら、アジサイは先へ進む。
だが歩調は少し遅くなっていた。
ひまわりに合わせている。
本人は何も言わない。
ひまわりも気づいていない。
オリマーだけがそれを見ていた。
やがて木々が増え始めた。
湿原の中に島のように盛り上がった土地があり、その中央には大きな木が何本も生えている。
根元は乾いていた。
「ここ」
アジサイが言う。
「今日はもう水、上がってこないと思う」
ひまわりがその場へ倒れ込んだ。
「つかれたー!」
「だから泥のところで座るなって言ったのに」
ローズも隣へ腰を下ろす。
オリマーは荷物を降ろし、すぐに中身を確認した。
濡れているものは少ない。
食料も無事。
水の容器もある。
「よし」
ようやく息を吐けた。
危険地帯を抜けたというより、今日休める場所へ辿り着いただけだ。
それでも十分だった。
「アジサイ」
呼びかける。
少し離れた場所に立っていたアジサイが振り向いた。
「何?」
「ありがとう」
また嫌そうな顔をされるかと思った。
だが今回は、すぐには返事がなかった。
「俺たちだけだったら、たぶんまだあそこで迷ってた」
「……そう」
「ひまわりも助けてもらった」
アジサイはひまわりを見る。
ひまわりは地面へ寝転んだまま手を振った。
「ありがとー!」
「寝ながら言わないで」
「疲れた!」
アジサイが小さく息を吐く。
ローズも少し迷ってから口を開いた。
「……まあ、助かったわ」
アジサイがそちらを見る。
「何?」
「お礼言ったの!」
「聞こえた」
「なら何で聞き返すのよ!」
「ローズ」
「だって!」
また喧嘩が始まりそうだった。
しかしアジサイはローズから目を逸らすと、木の根元へ歩いていく。
そこで立ち止まった。
帰るのかと思ったが、違った。
木の幹へ背を預け、そのまま座る。
オリマーは少し驚いた。
「帰らないのか?」
アジサイの目が細くなる。
「帰ってほしいの?」
「そういう意味じゃない」
「なら聞かないで」
相変わらずだった。
ただ、去る気はないらしい。
ひまわりが起き上がる。
「アジサイもここで寝る?」
「まだ寝ない」
「じゃあご飯食べる?」
「いらない」
「お腹減ってない?」
「減ってない」
「本当に?」
「ひまわり」
ローズが止める。
「放っときなさいよ」
「でも」
「本人がいらないって言ってるんだから」
アジサイはローズを見た。
一瞬だけ、何か言いたそうにする。
しかし結局何も言わなかった。
オリマーは食料を取り出す。
三人分。
少し迷う。
もう一つ。
手に取ったところで、アジサイと目が合った。
「いらない」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「顔で分かるのかよ」
「分かる」
「便利だな」
「いらないから」
オリマーは肩をすくめ、四つ目を戻した。
無理に勧める理由もない。
それぞれに食料を渡す。
ひまわりはすぐ食べ始めた。
ローズも静かに口へ運ぶ。
しばらく誰も喋らなかった。
水の音だけが遠くから聞こえる。
夕方が近づき、湿原を照らす光も少しずつ柔らかくなっていた。
ひまわりが食べ終わる。
そのまま地面へ寝転がり、空を見る。
「ねえ、アジサイ」
「何?」
「ずっと一人なの?」
ローズの手が止まった。
オリマーもひまわりを見る。
唐突だった。
アジサイも同じだったらしい。
「……何で?」
「だって一人だったから」
「それだけ?」
「うん」
アジサイは少し黙った。
「一人」
「寂しくない?」
今度は返事が遅かった。
「別に」
ひまわりは身体を起こした。
「私は寂しい」
「聞いてない」
「一人だったら寂しいよ」
「あなたの話でしょう」
「うん」
ひまわりはそれ以上押さなかった。
ただ、しばらくアジサイを見たあと、また空へ視線を戻す。
「でも四人だと楽しいかも」
ローズがむせた。
「ちょっと待ちなさい」
「何?」
「何で急に四人なのよ」
「だって今四人じゃん」
「今はね!」
「じゃあ合ってる」
「そういう意味じゃなくて……」
ローズはアジサイを見る。
アジサイもローズを見た。
また空気が少し硬くなる。
だが今度は、どちらも何も言わなかった。
オリマーはその様子を見ながら食事を続ける。
今すぐどうこうする話ではない。
アジサイが何者なのかも、なぜ一人なのかも、何も分かっていない。
まして、自分への嫌悪の理由も分からない。
それでも今日一日で一つだけ分かったことがある。
アジサイは、口で言うほど他人を放っておける人間ではない。
少なくとも、危険な場所で困っている者を見捨てるほどではなかった。
「何?」
視線に気づいたらしい。
アジサイがオリマーを見る。
「いや」
「見ないで」
「分かった」
すぐに目を逸らす。
その反応を見ていたローズが、なぜか少しだけ機嫌を良くした。
「何笑ってるんだ?」
「別に」
「またそれか」
「便利なのよ」
オリマーは呆れて食事へ戻った。
日が沈み始める。
今日の移動はここまででいい。
問題は明日だった。
湿原はまだ続いている。
三人だけでも進めなくはない。
だが、水位が変われば今日と同じことが起こる。次もアジサイが偶然現れるとは限らない。
オリマーは食事を終え、荷物を整理する。
「明日は早めに動こう」
ローズが頷く。
「そうね」
「水が上がる前に抜けられるところまで行きたい」
「私も起きる!」
ひまわりが言った。
「お前は起こすまで寝てるだろ」
「起きるもん!」
「じゃあ自分で起きろよ」
「起こして!」
「どっちだよ」
ひまわりが笑う。
その時。
「無理」
アジサイが言った。
三人が振り向く。
オリマーが尋ねた。
「何が?」
「明日一日じゃ、この辺は抜けられない」
「そんなに広いのか?」
「広いっていうより、今は水が多いから真っ直ぐ進めない」
アジサイは地面へ指を這わせるようにして、簡単な線を描いた。
「ここから先に大きい流れがある。普段なら渡れるけど、今は無理」
「迂回は?」
「できる」
アジサイの指が大きく曲がる。
「こっち」
オリマーはその線を見る。
かなり遠回りになりそうだった。
「どれくらいかかる?」
「あなたたちなら……」
アジサイは三人を見る。
少し考える。
「分からない」
「分からないのか」
「歩くの遅いから」
ローズが反応する。
「誰が遅いのよ」
「全員」
「アンタ基準にしないで!」
「実際遅い」
「泳いでるアンタと比べないで!」
また始まった。
だが、オリマーは別のことを考えていた。
アジサイは明日の道を知っている。
少なくとも三人より遥かに詳しい。
そして今日、自分たちをここまで連れてきた。
頼ることにはなる。
それでも、危険を避けるためなら変な意地を張る必要はない。
「アジサイ」
「何?」
「明日、その迂回路を教えてくれないか?」
アジサイの表情が変わった。
ほんの僅かだった。
オリマーを見る目が、また冷たくなる。
「嫌」
即答だった。
「だよな」
「諦めるの早くない?」
ローズが言った。
「嫌って言ってるんだから仕方ないだろ」
「でも道分かんないんでしょ?」
「自分たちで探す」
アジサイは黙っている。
ひまわりが身体を起こした。
「アジサイ、一緒に行かない?」
アジサイの視線がひまわりへ移る。
オリマーへ向けていたものとは違う。
「行かない」
「なんで?」
「行く理由ないから」
「私たちと行くの嫌?」
「……別に」
「じゃあ行こうよ」
単純だった。
理屈も何もない。
ローズが頭を抱える。
「ひまわり、それで来るなら苦労しないでしょ」
「でも一人より四人の方がいいよ」
「それはアンタの基準」
「ローズは嫌?」
「アタシは……」
ローズが言葉に詰まる。
アジサイを見る。
アジサイもローズを見る。
二人とも表情は微妙だった。
「……喧嘩売ってこないなら」
「売ってるのそっちでしょ」
「ほら!」
「何がほらなの?」
「今売ったじゃない!」
「事実言っただけ」
「もう!」
ひまわりが笑った。
「仲良しじゃん」
「違う!」
二人の声が重なった。
今度はオリマーまで笑ってしまった。
「笑わないで」
アジサイから冷たい声が飛んでくる。
「悪い」
「あなたが一番嫌」
「知ってるよ」
「そういうところ」
また言われた。
しかし、今度は少しだけ違った。
最初に会った時のような、触れることさえ拒むほどの嫌悪ではない。
少なくとも、同じ場所に座って話す程度にはなっている。
それ以上の意味を勝手に付ける必要はない。
オリマーは荷物へ手を伸ばした。
「まあ、明日のことは明日起きてから考える」
「雑ね」
ローズが言う。
「今日はもう疲れた」
「それはそう」
ひまわりは既に横になっていた。
「私もう寝る」
「まだ早いぞ」
「疲れたから寝れる」
「そのまま寝るな。せめて場所作ってからにしろ」
「はーい……」
返事が既に眠そうだった。
ローズがひまわりを引っ張り起こす。
その横で、オリマーは寝床を整え始めた。
アジサイはまだ木の根元に座っている。
帰る様子はない。
かといって一緒に行くとも言わない。
それでいい。
今日出会ったばかりの相手だ。
助けてもらったからといって、すぐ仲間になる方がおかしい。
オリマーは乾いた葉を集めながら、明日進む方向を確認した。
その視界の端で、アジサイが静かに湿原を見ていた。
水の流れを見ているのか。
それとも別の何かを考えているのか。
分からない。
聞く必要もなかった。
少なくとも今夜は、四人とも同じ場所にいる。
それだけだった。