翌朝、オリマーが目を覚ますと、アジサイはすでに水辺にいた。
長い青髪を片側へ寄せ、浅瀬にしゃがみ込んでいる。手を水へ入れているものの、顔を洗っているわけではない。水草の動きや流れの向きを確かめているらしく、ときどき位置を変えながら水面を覗いていた。
空はまだ完全には明るくなっていない。湿原の上には薄い霧が残り、昨日歩いてきた場所の輪郭も少し曖昧だった。
オリマーは身体を起こし、肩を回す。
足腰に軽い疲れが残っている。
水の中を歩き続けるのは、普通の道を進むよりずっと体力を使った。
「何か変わったか?」
アジサイへ声をかける。
振り返ったアジサイは、朝一番とは思えないほど分かりやすく嫌そうな顔をした。
「朝から話しかけないで」
「それ昨日も聞いたぞ」
「じゃあ覚えて」
「覚えた上で話しかけてる」
「最悪」
そこまで言って、アジサイは水面へ視線を戻した。
オリマーも隣へしゃがむ。
昨日、高台へ上がった時に目印として立てておいた枝が残っている。
水面はその位置よりわずかに低い。
「少し引いたな」
「うん。でも安心しない方がいいよ」
「昨日みたいに変わるかもしれない?」
「それもあるけど、この辺は流れが変わるのが早いから。水が減ってても、別のところで増えてることもある」
オリマーは水草を見る。
昨日までなら、単純に水位だけを見て進めるかどうか判断していたかもしれない。
今は違う。
流れ。
水草。
底の状態。
いくつかの条件を合わせて考える。
「今日は昨日言ってた迂回路を使えるか?」
アジサイが少し考える。
「途中までは」
「途中まで?」
「その先は行ってみないと分からない」
「なるほど」
それで十分だった。
未知の土地で完璧な答えを要求するつもりはない。
分からないことを分からないと言ってくれる方が、よほど信用できる。
背後で葉が擦れる音がした。
振り返る。
ローズが起きていた。
まだ少し眠そうではあるものの、上半身を起こし、すぐに周囲を確認している。
「……朝?」
「ああ」
ローズは目を擦る。
「水、どう?」
「昨日より少し下がってる。ただ、途中からは分からない」
「なら、昨日の道を見ながら進む感じね」
「そうなる」
ローズは頷いた。
そのまま立ち上がり、髪についた小さな葉を払う。
「ひまわりは?」
オリマーが指差す。
少し離れたところで、ひまわりはまだ寝ていた。
横向きに丸まり、葉を抱きしめている。
ローズはしばらく見たあと、小さく息を吐いた。
「起こす?」
「頼む」
ローズが近づく。
しゃがむ。
「ひまわり。朝よ」
反応なし。
「起きて」
「……んぅ」
「出発するわよ」
ひまわりが少し動く。
まだ起きない。
ローズは数秒考えた。
「置いてくわよ」
「起きる!」
ひまわりが勢いよく身体を起こした。
ローズが少し驚く。
オリマーは思わず笑った。
「効果あるんだな」
「アタシも今知った」
「置いてかれるの嫌!」
ひまわりはまだ眠そうな顔で立ち上がる。
アジサイが水辺から戻ってきた。
「おはよう」
「おはよう!」
ひまわりは素直に返す。
ローズもアジサイを見る。
「今日、昨日の迂回路使えるんだって」
「途中まではね」
「その先は?」
「知らない」
ローズが眉を寄せる。
「知らないって……」
「水は毎日同じじゃないから」
「それくらい分かってる」
「じゃあ聞かなくてもいいでしょ」
「確認しただけ!」
朝から変わらない。
ただ、昨日ほど空気は張っていなかった。
ローズも本気で喧嘩するつもりはないらしく、それ以上は続けなかった。
オリマーは荷物を開く。
水。
食料。
道具。
濡れたものがないか確認してから、四人分の朝食を用意する。
「アジサイ」
「何?」
「これ」
渡す。
アジサイが一瞬、手元を見る。
「私も?」
「昨日から同じ場所にいるんだから、今さら三人分だけ出す方がおかしいだろ」
アジサイは少しだけ迷ったあと受け取った。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「嬉しそうにしないで」
「してない」
「してる」
「面倒だな、お前」
「あなたに言われたくない」
ひまわりが二人を見て笑った。
ローズは食べながら呆れた顔をしている。
「朝からよくやるわね」
「ローズもさっきやってたけどな」
「アタシは普通に話してただけ」
「そういうことにしとく」
「何よ」
食事を終える。
荷物をまとめる。
オリマーは立ち上がり、全員を見る。
ローズ。
ひまわり。
アジサイ。
四人。
まだアジサイがどこまで一緒に来るのか、具体的には決まっていない。
それでも、出発する時に人数を数える中へ自然に入っていた。
「行くぞ」
「うん」
ローズが返す。
「はーい!」
ひまわり。
少し遅れて、アジサイも頷いた。
四人で高台を降りる。
昨日より水は浅い。
それでも、オリマーはすぐには足を入れなかった。
枝を差し込む。
底を見る。
水草の流れを見る。
「ここなら行けそうだ」
アジサイが横から確認する。
「うん。そこは大丈夫」
「ローズ」
「分かってる」
言われる前に、ローズは少し横へずれた。
オリマーが通った場所をそのまま使わず、自分の足元を枝で確かめる。
底に当たる。
少しだけ押す。
問題なし。
ローズはそれから足を入れた。
ひまわりも続く。
昨日と同じようには歩かない。
教えられたことを一つずつ思い出しているわけでもない。
身体が覚え始めていた。
「……ちゃんと見るようになったんだ」
アジサイが言った。
ローズが振り返る。
「何その言い方」
「褒めたんだけど」
「全然そう聞こえない」
「じゃあ褒めるのやめる」
「別に褒めてほしいわけじゃない!」
「ならいいでしょ」
「そうだけど!」
ひまわりが笑う。
オリマーは前を見たまま口を挟む。
「歩きながら喧嘩するな。足元見る方が先だ」
「してない」
ローズが答える。
アジサイも、
「私も」
と言う。
「二人とも同じこと言ってるじゃないか」
返事はなかった。
しばらくは何事もなく進んだ。
昨日までより歩く速度は遅いが、その代わり止まる回数が減っている。
前方の浅瀬を見つけるのはアジサイだけではなくなっていた。
ひまわりが水草の向きを見つける。
ローズが硬そうな足場を探す。
オリマーが全体を見て経路を決める。
必要な時だけアジサイが修正する。
「そっちはやめた方がいい」
「何で?」
オリマーが聞く。
「泥が柔らかい」
ローズが枝を刺す。
すぐに深く沈んだ。
「ほんとね」
「じゃあ右から回る」
オリマーが進路を変える。
誰か一人だけについて行くのではなく、四人で判断して進んでいる。
それが昨日との一番大きな違いだった。
湿原の景色も少しずつ変わる。
深い水が減り、代わりに泥の露出した場所が増えてきた。
背の高い水草は少なくなり、低い植物の間に小さな花が見える。
紫。
白。
淡い青。
ひまわりが嬉しそうに声を上げた。
「花!」
「触る前に見るだけにしろよ」
「まだ触ってないよ」
「今から触りそうだった」
「見るだけ!」
ひまわりはしゃがみ込み、花へ顔を近づけた。
「いっぱいある」
ローズもその隣へ来る。
「綺麗ね」
ひまわりが赤い小花を指差した。
「ローズっぽい」
ローズが見る。
「どこが?」
「赤い」
「それだけ?」
「名前も花だし」
ローズが少し考える。
「……まあ、それはそうだけど」
「似合うよ」
「何が似合うのよ。花でしょ」
「髪につけたら」
「やらない」
即答だった。
ひまわりは少し残念そうな顔をした。
オリマーは二人の横を通り過ぎようとして、足を止めた。
泥の中に何か落ちている。
小さな輪。
細い蔓が絡み合っている。
その間に、赤茶色の薄い殻のようなものが挟まっていた。
オリマーは枝で軽く突く。
動かない。
虫ではない。
持ち上げる。
泥を落とす。
「何それ?」
ひまわりがすぐに来た。
「分からん」
「かわいい」
「これが?」
「うん」
ローズも覗き込む。
「ただの蔓じゃない?」
「そう見えるな」
オリマーは指先で絡みを解く。
意外と丈夫だった。
少し整えれば、輪として使えそうだ。
ローズが何気なく言う。
「髪留めみたい」
オリマーは手元を見る。
次にローズを見る。
赤い髪。
さっきひまわりが指差していた花。
視線が少し止まる。
「作ってみるか」
ローズが瞬きをした。
「何を?」
「髪留め」
「アンタが?」
「そこ驚くところか?」
「だって、荷物縛る以外にそういうことするイメージないし」
「構造はそんなに変わらないだろ」
「髪と荷物を同じにしないで」
「留めるって意味では似たようなものだ」
「全然違う」
オリマーは輪をもう一度見る。
「まあ、無理なら捨てる」
「待って」
ローズがすぐに言った。
オリマーが見る。
「何だ?」
ローズは少しだけ間を置く。
「……せっかくなら作れば?」
「欲しいのか?」
「そうは言ってない」
「じゃあ何で作るんだ」
「作りたいんでしょ?」
「別に」
「なら作らなくていい」
「分かった」
オリマーが荷物へ戻そうとする。
ローズの手が伸びる。
「ちょっと!」
「なんだよ」
「……作ればいいじゃない」
「結局欲しいんじゃないか」
「うるさい!」
ひまわりが楽しそうに笑う。
ローズが睨む。
「ひまわりまで笑わないで」
「だってローズ嬉しそう」
「嬉しくない!」
「じゃあ私もらっていい?」
「駄目」
反射的な返事だった。
全員が一瞬止まる。
ローズ自身も止まった。
ひまわりがにやりと笑う。
「欲しいんじゃん」
「……オリマーがアタシ用に作るって言ったからでしょ」
「まだ言ってないぞ」
ローズがオリマーを見る。
「言ったことにして」
「強引だな」
「作るの?」
「夜に時間あったらな」
ローズは満足したように頷いた。
「じゃあ忘れないで」
「はいはい」
「その返事信用できない」
「荷物のことなら忘れない」
「アタシより荷物の方が信用されてる気がする」
「何の比較だよ」
アジサイが少し離れた場所から四人――正確には三人のやり取りを見ていた。
特に口は挟まない。
オリマーが蔓の輪を荷物へしまうと、アジサイはそれだけ確認して前を向いた。
「そろそろ行かない?」
「そうだな」
休憩にはまだ早い。
四人は再び歩き出す。
水が少ない場所が増え、進みやすくなってきた。
それでも警戒は緩めない。
湿原は、見た目ほど単純ではない。
途中、ローズが一度だけ後ろを振り返った。
オリマーが気づく。
「どうした」
「……別に」
「何か見えたか?」
「見えてない」
ローズは少し考えてから首を傾げた。
「ただ、なんか気になっただけ」
「何が?」
「分かんない」
怖がっている様子ではない。
警戒しているというより、何となく後ろを気にしただけ。
オリマーも来た道を見る。
草。
木。
水面。
特に変化はない。
「気になるなら、しばらく後ろも見とけ」
「うん」
ローズはそれ以上考えなかった。
ひまわりが少し先から呼ぶ。
「ローズ、こっち!」
「今行く!」
ローズはオリマーから離れ、ひまわりのところへ向かった。
アジサイも二人へ追いつく。
オリマーは最後にもう一度だけ後ろを見る。
何もいない。
少なくとも、見える範囲には。
「オリマー!」
今度はローズの声。
「置いてくわよ!」
「俺が一番後ろなんだから、置いてかれてるのは俺だろ」
「じゃあ早く!」
オリマーは歩き出した。
四人の姿が遠ざかる。
しばらくして、静かになった草むらの奥で何かが動いた。
ほんの一瞬だけ、赤い色が葉の隙間に覗く。
すぐに消える。
何者なのかまでは分からない。
ただ、その影は四人が向かった方向と同じ方へ、ゆっくりと移動していった。
午後に入るころには、水面を覆っていた薄い霧も完全に消えていた。
朝よりも日差しは強くなっていたが、灼熱花道のような息苦しい暑さはない。湿った風が水面を渡るたび、背の高い草が同じ方向へ傾き、その向こうに隠れていた浅瀬が一瞬だけ見える。
オリマーは足を止めた。
前方には、水から突き出したいくつかの石が並んでいる。
一見すれば、その上を渡った方が早そうだった。
「アジサイ」
「何?」
「石の上を行けると思うか?」
アジサイはすぐには答えなかった。
岸から一番近い石へ近づき、周囲の水を見る。
「行けるとは思う」
「とは?」
「二つ目までは」
オリマーがその先を見る。
三つ目の石も、見た目には大して違わない。
「三つ目は駄目なのか?」
「分からない」
「石なのに?」
「石が駄目なんじゃなくて、その周り」
アジサイが細い枝を拾い、水へ差し込んだ。
一つ目の石の周囲。
枝はすぐ底へ当たる。
二つ目。
こちらも大きな差はない。
三つ目の手前へ差した瞬間、枝が深く沈んだ。
オリマーは目を細める。
「急に落ちてるのか」
「たぶん」
「なら別の道だな」
オリマーは迷わず石から離れた。
ローズが隣から三つ目の石を見る。
「飛べば届きそうだけど」
「やらないぞ」
「まだやるって言ってないでしょ」
「言う前に止めただけだ」
「信用ないわね」
「実績があるからな」
「悪い方の?」
「聞かない方がいい」
ローズがむっとした。
少し離れたところでは、ひまわりが水面を覗き込んでいる。
「こっち、浅そうだよ」
オリマーがそちらへ向かう。
「どこだ?」
「ここ」
ひまわりが指した場所では、水草の根元まで見えていた。
枝を差す。
深さは問題ない。
だが、少し先では流れが速くなっている。
「途中までは行けるな」
「その先は?」
「右へ曲がれば抜けられそうだ」
アジサイも確認する。
「そこなら大丈夫」
四人は浅瀬へ入った。
先頭はオリマー。
少し後ろにローズ。
ひまわり。
最後にアジサイ。
以前ならアジサイが前に立っていた場所でも、今は必要な時だけ口を出している。
オリマーはそれをありがたく思っていた。
案内されるだけなら、その人物がいなくなった瞬間に何もできなくなる。
自分たちで判断し、間違っている時だけ修正してもらう。
その方がいい。
ここから先、いつまでアジサイが一緒にいるのかは分からない。
本人も、同行するとは一度も言っていなかった。
それでも。
オリマーが一度振り返る。
ローズがいる。
ひまわりがいる。
その後ろに、アジサイがいる。
誰かが遅れていないか確認する時、もう自然に三人を見るようになっていた。
自分でも気づいたのは、その時だった。
「どうしたの?」
ローズが尋ねる。
「いや」
「何かいた?」
「そうじゃない」
「じゃあ何?」
「全員いるか見ただけだ」
ローズも後ろを見る。
ひまわりがいる。
アジサイもいる。
「いるじゃない」
「ああ」
「変なの」
ローズはそれだけ言って前を向いた。
オリマーも歩き出す。
確かに、いる。
それだけのことだった。
しばらく進んだところで、地面が少し高くなった。
水が途切れ、木の根が複雑に絡み合った場所へ出る。根と根の間には乾いた葉が積もり、腰を下ろすには十分な広さがあった。
オリマーは空を見る。
「少し休むぞ」
「やった」
ひまわりがすぐに根元へ座る。
「足疲れた」
「さっきまで元気だったじゃない」
ローズも隣へ腰を下ろした。
「元気でも疲れるでしょ」
「それはそうだけど」
「ローズも座ってるじゃん」
「アタシは休憩してるの」
「私も休憩してる」
「……同じね」
珍しくローズが素直に認めた。
アジサイは少し離れた根元へ腰を下ろした。
オリマーも荷物を置く。
水を出し、それぞれに渡す。
「飲みすぎるなよ」
「分かってる」
ローズが答える。
ひまわりも、
「分かってる!」
と言いながら勢いよく飲もうとした。
ローズが器を少し下げる。
「分かってないでしょ」
「飲むの!」
「ゆっくり飲みなさい」
「ローズ、オリマーみたい」
ローズの手が止まった。
オリマーも聞いていた。
「……どこが?」
「言ってること」
「全然違う」
「今同じこと言ったよ?」
「偶然!」
ひまわりは納得していない顔だったが、水を少しずつ飲み始めた。
オリマーは笑いを堪えながら荷物を開く。
食料の残量を見る。
まだ余裕はある。
水も問題ない。
道具も揃っている。
そこで、一番上に入れていた小さな蔓の輪が目に入った。
朝、ローズとの約束を忘れないよう、あえて奥へしまわなかった。
取り出す。
「……あ」
すぐにローズが気づいた。
「忘れてなかったのね」
「俺を何だと思ってる」
「荷物以外はすぐ忘れそう」
「失礼だな」
「だって、さっき自分で荷物なら忘れないって言ってたじゃない」
「だから目につくところに入れておいた」
ローズの表情が少し変わった。
「……それって」
「忘れないためだ」
「そう」
短い返事。
ローズはそれ以上何も言わなかった。
だが、先ほどまでひまわりへ向いていた身体が、いつの間にかオリマーの方へ向いている。
オリマーは蔓の輪を手の上で転がした。
このままでは髪へ留めるには緩い。
赤茶色の薄い殻も、今の位置ではすぐ外れそうだった。
荷物の中から細い植物繊維を取り出す。
使いかけの短いもの。
新しい道具に使うには心許ないが、飾りを固定する程度なら十分だろう。
ひまわりが覗き込む。
「作るの?」
「ああ」
「今?」
「休憩してるからな」
「見ていい?」
「見るだけなら」
ひまわりがすぐ隣へ移動した。
ローズも少し近づく。
こちらは何も言わない。
ただ手元を見ている。
オリマーは輪の形を整える。
一度、植物繊維を通す。
結ぶ。
軽く引いた。
位置がずれた。
ほどく。
もう一度。
「さっきので駄目なの?」
ローズが尋ねた。
「少し片寄ってる」
「分かんないけど」
「俺には分かる」
「細かいわね」
「悪かったな」
「悪いって言ってないでしょ」
ローズの声には、いつもの苛立ちはなかった。
むしろ少し楽しそうだった。
オリマーは繊維をもう一度巻き直した。
最初は、使える形になればそれでいいと思っていた。
髪を留められる。
簡単に壊れない。
その二つを満たせば十分なはずだった。
ところが形になってくると、今度は赤茶色の殻がわずかに斜めになっていることが気になる。
指で直す。
またずれる。
結び目を一つほどいて位置を変えた。
「またやり直すの?」
「ここが曲がってる」
「それくらいいいじゃない」
「お前が使うんだろ」
言ってから、オリマーの手がほんの少し止まった。
ローズも黙った。
視線だけが手元へ落ちる。
「……まあ」
オリマーは作業へ戻った。
「落としたら困るしな」
「うん」
ローズの返事は小さかった。
彼女自身、なぜその一言が妙に嬉しかったのか分からなかった。
ただの髪留めだ。
使える物を拾って、オリマーが少し形を整えているだけ。
高価な物でもない。
珍しい物でもない。
それなのに、今は早く完成してほしいと思っている。
だからといって、じっと見ているのも恥ずかしい。
ローズは一度視線を逸らした。
隣ではひまわりが遠慮なく見ている。
「まだ?」
「急かすな」
「早く見たい」
「お前のじゃないだろ」
「ローズのつけたところ」
「それなら完成してから見ればいい」
「今も見たい」
「何をだ」
会話を聞いて、ローズが少し笑った。
その笑い声にオリマーが顔を上げる。
「何だよ」
「別に」
「最近それ流行ってるのか?」
「アジサイのが移ったんじゃない?」
「私のせいにしないで」
少し離れていたアジサイが即座に返した。
ローズがそちらを見る。
「聞いてたの?」
「聞こえるから」
「盗み聞き」
「この距離でどうやって盗み聞きするの」
ローズが何か言い返そうとしたところで、オリマーが手を止めた。
「できた」
二人のやり取りも止まる。
ひまわりが身を乗り出した。
オリマーは手の上に髪留めを乗せる。
輪の形は完全な円ではない。
赤茶色の殻も、飾りと呼ぶには素朴だ。
店に並べられるような出来ではないだろう。
だが、朝に拾った時よりは随分とそれらしくなった。
軽く引く。
ほどけない。
端を指でなぞる。
尖った場所もない。
「こんなもんだな」
ローズへ差し出す。
ローズはしばらく見ていた。
朝ならすぐに手を伸ばしたかもしれない。
完成した物を前にすると、少し違った。
自分用に作ると言われた時は、半分は勢いだった。
ひまわりにからかわれて意地になった部分もある。
けれど今、オリマーの手の上にあるものは、本当に自分のために作られたものだった。
拾った時とは違う。
オリマーが何度も触り、結び直した跡が残っている。
「……ローズ?」
声をかけられ、我に返る。
「何?」
「いらないのか?」
「いる!」
思ったより大きな声になった。
ひまわりが笑う。
ローズは気にせず、髪留めを受け取った。
「……ありがと」
今度は素直に言えた。
オリマーも少し意外そうな顔をする。
「どういたしまして」
ローズは髪留めを持ち上げる。
どう付けるか考える。
赤い髪を片手でまとめ、もう片方で輪を通そうとする。
うまくいかない。
位置を変える。
またずれる。
「……これ難しい」
「貸せ」
オリマーが手を出した。
ローズが見る。
「できるの?」
「作ったんだから、お前よりは仕組みが分かる」
「髪触ったことある?」
「ない」
「じゃあ同じじゃない」
「このまま続けたら壊すだろ」
ローズは反論しようとして、自分の手元を見る。
一度だけ迷った。
それから髪留めを渡す。
「……引っ張らないでよ」
「分かってる」
ローズが背中を向けた。
オリマーは赤い髪へ手を伸ばす。
直前になって少し迷う。
荷物なら何度でも扱ってきた。
紐。
箱。
布。
壊れやすい物なら、それに合わせて力を加減する。
だが、人の髪を扱うのは勝手が違う。
「どうしたの?」
「いや」
少量を手に取る。
柔らかい。
思った以上に簡単に指の間を抜ける。
「動くなよ」
「動いてない」
「今動いた」
「アンタが触ったからでしょ」
「じゃあ我慢しろ」
「雑にしたら怒るから」
「注文が多いな」
「髪なんだから当たり前でしょ」
言いながらも、ローズは大人しくしている。
オリマーは髪を少しまとめ、髪留めを通した。
一度目は位置が悪い。
外す。
ローズがじっと待つ。
二度目。
今度は安定した。
そっと手を離す。
落ちない。
「できた」
ローズが振り返る。
「どう?」
早い。
オリマーは少し離れて見る。
赤い髪の横に、小さな髪留めが収まっている。
決して派手ではない。
むしろローズ自身の髪色の方がずっと目立つ。
それでも、不思議と違和感はなかった。
「似合ってる」
ローズが固まった。
オリマーは自分が何か変なことを言ったのかと思った。
「……何だ?」
「別に」
「またそれか」
ローズが顔を逸らす。
耳まで少し赤くなっている。
ひまわりがすぐに気づいた。
「ローズ、顔赤いよ」
「赤くない!」
「赤い」
「暑いだけ!」
「さっき涼しいって言ってた」
「言ってない!」
「言ってたよ?」
「ひまわり!」
ローズが追いかけようとする。
オリマーが止めた。
「走るな。せっかく付けたの落とすぞ」
ローズの動きがぴたりと止まった。
髪留めへ手を伸ばす。
しかし触る直前でやめる。
「……落ちる?」
「今のところは大丈夫だと思う」
「じゃあ走らない」
ひまわりが少し残念そうにする。
「追いかけないの?」
「追いかけない!」
「そっか」
アジサイが立ち上がった。
「もう休んだでしょ。そろそろ行かない?」
「そうだな」
オリマーも荷物をまとめる。
ローズはまだ髪留めを気にしている。
外して確かめたいような、触れたくないような、不思議な様子だった。
「気になるなら外して荷物に入れてもいいぞ」
「嫌」
即答。
「歩いてる途中で落としたらどうする」
「落とさない」
「そんなこと分からないだろ」
「大丈夫」
妙な自信だった。
オリマーは荷物を背負う。
「まあ、好きにしろ」
「言われなくても」
ローズはそう返したものの、歩き出す時にはいつもより少し慎重だった。
髪留めが枝へ引っ掛からないよう、低い植物の近くでは頭を下げる。
葉が髪へ触れると手で避ける。
普段なら気にしない程度のものまで気にしている。
オリマーはその様子を一度だけ見た。
ずいぶん気に入ったらしい。
その程度にしか思わなかった。
四人は再び湿原を進んだ。
午後になると、水の流れが少し変わった。
朝は穏やかだった場所でも、遠くから流れ込んだ水が細い筋を作っている。アジサイが何度か立ち止まり、そのたびに四人で進路を修正した。
「こっちは駄目」
アジサイが言った。
オリマーは前を見る。
「見た目は浅そうだけどな」
「だから嫌なの」
「どういうこと?」
ひまわりが聞く。
アジサイは水面へ指を向ける。
「何も動いてないでしょ」
ひまわりが見る。
「うん」
「水草も?」
「動いてない」
「なのに、向こうの葉だけ流れてる」
少し離れた場所。
水面に浮いていた小さな葉が、一定方向へゆっくり移動している。
オリマーも気づいた。
「下で流れてるのか」
「たぶん」
ローズが近づき、水へ枝を差す。
枝の先が横へ取られた。
「ほんとだ」
「見えない流れがある。入らない方がいい」
「分かった」
ローズは素直に枝を抜いた。
アジサイがほんの少しだけ意外そうな顔をした。
「何?」
ローズが気づく。
「いや」
「何よ」
「今日は素直だなと思って」
「危ないって分かったら入らないわよ」
「そう」
「なんなのよ、その反応」
「褒めてる」
「だから褒め方が腹立つの!」
結局いつもの調子になった。
オリマーは二人を横目に、別の道を探す。
右側。
少し遠回りにはなるが、地面が続いている。
「こっちを使う」
四人で移動する。
回り込む途中、オリマーはふと気づいた。
誰もアジサイに、
どこまで来るのか。
いつ帰るのか。
とは聞かなくなっていた。
アジサイ自身も、帰る素振りを見せない。
危険な場所があれば止める。
ひまわりが分からないことを聞けば答える。
ローズが食ってかかれば言い返す。
オリマーには相変わらず冷たい。
それでも四人で歩いている。
それが当たり前になりつつあった。
「何見てるの」
アジサイが気づいた。
「いや」
「気持ち悪い」
「見ただけでそこまで言うか」
「あなたに見られると嫌」
「徹底してるな」
「今さらでしょ」
確かに今さらだった。
オリマーは前を向く。
夕方近くになって、ようやく乾いた高台が見つかった。
大きな木の根元。
周囲に水はあるが、今いる場所までは上がってきていない。
オリマーは地面を枝で確かめる。
問題なし。
「今日はここにしよう」
ひまわりがほっとしたように座る。
「いっぱい歩いた」
「昨日よりは楽だっただろ」
「でも疲れた」
「それはそうだな」
ローズも腰を下ろした。
髪留めはまだ残っている。
オリマーが気づく。
「落ちなかったな」
ローズは少し得意そうに髪へ触れた。
「言ったでしょ」
「一日で判断するのは早い」
「じゃあ明日もつける」
「好きにしろ」
「もちろん」
ローズは髪留めを外そうとはしなかった。
その日の寝床を作り始める。
葉を集める。
水を確認する。
食料を分ける。
オリマーが作業を始めると、三人もそれぞれ動いた。
ひまわりは乾いた葉を集める。
アジサイは周囲の地面を確認している。
ローズはオリマーの荷物から必要な物を取り出した。
「これ使う?」
見せられた紐を見る。
「それじゃない。もう少し太い方」
「こっち?」
「それ」
ローズが渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
何気ないやり取りだった。
それでも以前なら、どこに何が入っているかから説明しなければならなかった。
今ではローズもある程度覚えている。
ひまわりも、何を集めればいいのか分かっている。
そして今日はアジサイまで、その作業の中にいる。
いつの間にか。
本当にいつの間にかだった。
オリマーは紐を結びながら、少しだけ手を止めた。
一人で荷物を運んでいた頃は、全部自分で確認すれば済んだ。
今は違う。
三人分の足音を聞く。
姿を確認する。
水や食料を分ける。
危険があれば全員が通れる道を探す。
手間は増えた。
随分と。
なのに、それを煩わしいとは思わなくなっていた。
「オリマー」
ローズの声。
顔を上げる。
「何だ」
「また止まってる」
「考え事だ」
「疲れた?」
「少しな」
「じゃあ休んだら?」
「これ終わったらな」
ローズはしばらくオリマーを見る。
「手伝う?」
「もう十分やってるだろ」
「まだできる」
「なら、向こうの葉をひまわりとまとめてくれ」
「分かった」
ローズが離れていく。
髪で、小さな飾りが揺れた。
オリマーはそれを見送ってから、再び手元へ視線を戻した。
拾った時には、ただの使えそうな蔓だった。
それが今ではローズの髪についている。
そんなことを少しだけ不思議に感じた。
理由を考えるほどのことでもない。
旅をしていれば、荷物は増えたり減ったりする。
拾ったものが別の用途に変わることもある。
ただ、それだけだった。
夕食を終える頃には、空が橙色へ変わっていた。
ひまわりはもう眠そうにしている。
アジサイは木の根元へ座り、水面を眺めていた。
ローズはその少し手前で、自分の髪留めを外している。
オリマーが気づいた。
「外すのか?」
「寝る時つけてたら壊れるかもしれないでしょ」
「それはそうだな」
ローズは両手で髪留めを持ち、少し考えた。
「どこに置けばいい?」
「荷物の中に入れとくか?」
ローズの手が止まる。
「……自分で持ってる」
「失くすなよ」
「失くさないってば」
ローズは髪留めを自分の寝床のすぐ横へ置いた。
それから、やっぱり少し気になったのか、葉を一枚折り、その上へ乗せる。
オリマーは何も言わなかった。
ローズが大事にすると言った。
本当にその通りにしている。
「オリマー」
「ん?」
「ありがと」
ローズは髪留めを見たまま言った。
昼間にも聞いた言葉だった。
それでも今度は少し違って聞こえた。
「どういたしまして」
オリマーはいつも通りに返した。
それで会話は終わる。
ローズは横になる。
髪留めの乗った葉を一度だけ確認してから目を閉じた。
ひまわりもすぐに眠り始める。
アジサイはまだ起きていたが、特に話しかけてはこなかった。
オリマーは荷物をまとめ、いつものように周囲を確認する。
水の音。
草の擦れる音。
遠くの生き物の声。
それ以外に、妙なものはない。
今日は何事もなく終わりそうだった。
そういう日があっていい。
オリマーは木へ背中を預けた。
少し離れたところで、ローズが寝返りを打つ。
その手が無意識に髪留めの置かれた葉の近くまで伸び、そこで止まった。
オリマーはそれを見たものの、起こさないよう視線を外した。
湿原には夜の静けさが降り始めていた。