夜の間に、道が消えていた。
朝の霧を抜けた先で、アジサイは足を止めた。
昨日までなら、膝より浅い水路の向こうに細い泥の道が続いていたはずだった。今は一面を濁った水が覆い、道に生えていた草が先端だけを水面へ出している。
オリマーはアジサイの横まで進み、水の中を覗いた。
沈んだ草の影が微かに見える。道そのものが崩れたのではなく、その上まで水が来ているらしい。
「夜に雨は降っていなかったな」
「降ってない」
アジサイはその場へしゃがみ、指先を水へ入れた。少し場所を変え、もう一度流れを確かめる。
後ろから来たひまわりも水面を覗き込んだ。
「昨日は、こっちから流れてたよね?」
ひまわりが右手を指す。
アジサイは一度だけそちらを見てから頷いた。
「覚えてたのね」
「昨日教えてもらったから」
ひまわりは少し得意そうに答えたが、すぐに首を傾げた。
水面に浮かんだ小さな葉が、昨日とは反対側へ流れている。
「じゃあ、今は逆?」
「そう」
「何で?」
「上流で何かが水を塞いだか、水底の形が変わったか。見ないと分からない」
アジサイは水から手を抜き、指先についた泥を払った。
オリマーは周囲を見回した。
霧の向こうに並ぶ木々や、岸から突き出した岩の位置は昨日と変わっていない。変わったのは水だけだった。
水位が上がり、流れる方向まで逆になっている。
「このまま渡れるか?」
「無理」
アジサイは足元に落ちていた細い枝を拾い、水路へ差し入れた。手前では半分ほど入ったところで底に触れたが、少し先へ伸ばすと枝の大部分が沈んだ。
「昨日より深い。流れも強くなってる」
「別の道は?」
「北に回れば浅い場所がある」
「遠回りになる?」
「この道を渡るよりは早い」
それなら迷う理由はなかった。
オリマーが北へ向かおうとしたとき、服の裾を後ろから引かれた。
振り返ると、ローズが水面を見つめている。
髪には、昨日オリマーが作った飾りがつけられていた。朝起きてすぐに自分で結び直し、形が崩れていないか何度も指で確かめていたものだ。
今はその髪飾りにも触れず、水路の奥へ目を向けている。
「ローズ?」
呼びかけると、ローズは少し遅れて顔を上げた。
「何?」
「どうかしたのか?」
「別に」
そう答えながらも、つかんだ裾を離そうとはしない。
オリマーはローズの視線を追った。
水路の中央付近に、暗いものが横たわっている。
岩のようにも見えたが、その周囲には泥が積もり、細い水草や流木が絡みついていた。すべてが水面へ出ているわけではなく、大部分は濁った水の下に沈んでいる。
昨日、あの場所に何かあっただろうか。
オリマーには判断できなかった。
「アジサイ」
呼ばれたアジサイが戻ってくる。
オリマーが指した先を見て、彼女の目が細くなった。
「昨日もあそこに岩はあったか?」
「なかった」
「土が流れてきたんじゃない?」
ひまわりが尋ねる。
「それなら、もっと水が濁ってる」
アジサイは先ほどの枝を拾い直し、水へ投げ入れた。
流れに乗った枝は、泥の塊へ近づいたところで横へ逸れた。そのまま通り過ぎるかと思われたが、今度は反対側から回り込み、同じ場所へ戻ってくる。
泥の周囲だけで、水が大きな輪を描いていた。
ひまわりの表情から笑みが消える。
「変なの」
「今日は水に入らないで」
「うん」
「ならいい」
アジサイはそれ以上言わず、流れの先へ視線を移した。
ローズがオリマーの服を強く引く。
「行こう」
「今行くところだ」
「早く」
普段なら、ひまわりとアジサイの会話へ何か口を挟んでいたはずだった。今は二人の声も耳に入っていないかのように、水路の一点を見つめ続けている。
「水に入りたくないのか?」
「水は平気」
「なら、あれが気になるのか?」
ローズはすぐには答えなかった。
泥に覆われた黒い塊を見つめたあと、オリマーのそばへさらに寄る。
「ここが嫌」
「何かいる?」
「分からない」
ローズは苛立ったように眉を寄せた。
「分からないけど、嫌なの」
ひまわりが振り返る。
「ローズ、昨日も水の中を歩いてたよね?」
「あれとは違う」
「何が?」
「だから、分からないって言ってるでしょ」
ローズの声が強くなり、ひまわりが目を瞬かせる。
自分でも言いすぎたと思ったのか、ローズは一度口を閉じた。それでも謝ることはせず、オリマーの服をつかんだまま顔を背ける。
オリマーはその手を外させなかった。
理由は説明できなくても、ローズが危険を感じていることまで無視する必要はない。
「アジサイ。遠回りしよう」
「その方がいい」
アジサイは北へ身体を向けた。
「私の通ったところを歩いて。浅く見えても、今日は水に入らないで」
今度は全員が素直に頷いた。
四人は水路を左手に見ながら北へ進んだ。
少し歩くと地面が柔らかくなり、足を置くたびに泥の隙間から水が染み出した。アジサイは草の根が密集している場所を選びながら、慎重に進んでいく。
昨日までなら迷わず歩いていたはずの場所で、彼女は何度も足を止めた。
「ここも変わってる」
アジサイが近くに生えた草をつかみ、茎の下側を指でなぞった。
泥に汚れた跡が、今の水面よりも高い位置まで残っている。
「一度、水がここまで来たみたい」
オリマーも草の汚れを見る。
「今は引いてるな」
「さっきの道では増えてたよね?」
ひまわりが言う。
「向こうへ流れるはずの水が、別の場所へ回ってるのかも」
「確かめられる?」
「今は無理。流れが多すぎる」
アジサイは水路の先へ目を向けた。
湿原を流れる水は一本ではない。細い水路が枝分かれし、離れた場所で再びつながっている。そのどこかが塞がれば、別の場所へ水が流れ込むことはある。
しかし、これほど広い範囲の水位が一晩で変わるなら、それだけ大きな原因があるはずだった。
「上流を見に行く?」
「行かない」
アジサイはひまわりのほうを見た。
「水がどこから来てるか分からない時に、流れを追う方が危ないから」
「分かった」
ひまわりが頷く。
アジサイはその返事を聞くと、すぐに前へ向き直った。
足取りにいつもの迷いはなかった。
知っている道を案内しているのではない。
変わってしまった湿原の中で、その場ごとに進める場所を探している。
それが分かると、誰も余計なことを言わなくなった。
やがて霧が薄れ、前方の景色が見えるようになった。
水路の間に、広い泥地が横たわっている。
もともとは水面のすぐ下にあった浅瀬なのだろう。泥の上には倒れた水草や流木が重なり、奥へ行くほど緩やかに盛り上がっていた。
その先には、アジサイが目指していた北側の岸が見える。
「あそこを渡るの?」
ひまわりが尋ねた。
「昨日は水の中だったけど、浅い場所ではあった。水が引いて出てきたんだと思う」
アジサイは泥地の手前で腰を落とし、枝を突き立てた。
柔らかい表面を抜けたところで、枝の先が硬いものに触れる。
場所を変えても結果は同じだった。
「下は硬い。表面の泥に足を取られなければ渡れる」
「絶対?」
ひまわりが念を押す。
アジサイは彼女を見る。
「水は毎日変わるって、昨日教えたでしょう」
「あ」
「だから確かめながら渡る。私が踏んだ場所から外れないで」
アジサイは慎重に泥地へ足を乗せた。
何度か体重をかけ、沈まないことを確かめてから先へ進む。
続いてオリマーが渡り始めた。
ローズはすぐ後ろからついてくる。ひまわりも最後に泥地へ上がったが、今回は脇へ逸れようとはしなかった。
表面には古い泥が幾重にも重なっている。
長い間そこにあった地面のようにも見える一方で、水草の多くは根を張らず、横倒しになったまま泥へ貼りついていた。
オリマーが足を下ろすたび、靴の周囲から濁った水が滲み出す。
それ以外に異常はない。
先ほどの水路で感じた不安が、考えすぎだったようにも思えてくる。
「ローズ」
オリマーは歩きながら声をかけた。
「まだ嫌な感じがするか?」
「する」
「どこからだ?」
ローズは足元を指した。
「下」
迷いのない答えだった。
「ずっと下に、何かいる」
先頭を歩いていたアジサイが振り返る。
「動いてる?」
「分からない。でも、いる」
アジサイはローズの顔を見たあと、足元へ視線を移した。
「何か感じたら、すぐ言って」
「今言ったでしょ」
「そうね」
反論も皮肉も返さず、アジサイは泥地へ片手をついた。
その態度が予想外だったのか、ローズのほうが僅かに目を見開く。
アジサイは指先へ意識を向けていた。
「……何も分からない」
「だから言ったの。もっと下」
ローズが苛立った声を返した直後、足元の窪みに小さな泡が浮かんだ。
水を含んだ泥の表面で、音もなく弾ける。
少し離れた場所から、また一つ浮かぶ。
それを追うように、泥地のあちこちから細かな泡が湧き始めた。
アジサイが立ち上がり、片手を上げた。
「止まって」
全員がその場で足を止める。
風はまだ吹いている。それなのに、泥地の上に横たわる水草だけが揺れていなかった。
オリマーは息を潜め、足元へ意識を向けた。
靴の裏から、かすかな震えが伝わってくる。
最初は自分の鼓動かと思った。
だが、震えは次第に大きくなり、泥の表面に細かな波を作った。
ローズがオリマーの腕へしがみつく。
「動いてる」
今度はローズにも、はっきりと分かったらしい。
オリマーは周囲を見た。
泥地の両側に広がっていた水面が、ゆっくりと低くなっていく。
地面が沈んでいるのではない。
四人の立つ泥地そのものが、水の上へ持ち上がっていた。
わずかに上がったところで動きが止まる。
泥の端から水が流れ落ち、貼りついていた水草が音を立てて滑っていく。
やがて泥地は、ゆっくりと元の高さへ戻り始めた。
その動きに合わせて、足元から空気の抜けるような低い音が響く。
アジサイの顔から血の気が引いた。
誰も動けないまま、次の揺れを待つ。
しばらくして、泥と水草に覆われた地面がもう一度、大きく膨らんだ。
まるで、その下にいる何かが深く息を吸い込んだように。
三度目の揺れは、前触れもなく訪れた。
足元が突き上がり、オリマーの身体が僅かに浮く。着地した時には、泥地が大きく傾いていた。
積もっていた泥が一斉に滑り始める。
泥の表面に亀裂が走り、その下から濡れた何かが覗いた。
岩ではなかった。
筋の浮かんだ表面が、泥の下でゆっくりと収縮している。
ひまわりが息を呑んだ。
「これ、地面じゃないの?」
答えるより先に、亀裂がさらに広がった。
泥の塊が剝がれ落ち、下に隠れていた表面が大きく波打つ。
アジサイは周囲を見回した。
「水へ下りれば――」
そこまで言って、動きを止める。
視線が水面から三人へ移り、再び水面へ戻った。
オリマーは泥地の縁を見た。
来た道の側はすでに水面から高く持ち上がり、周囲では水が激しく渦を巻いている。反対側には、岸から伸びた太い木の根が見えた。
まだ距離はあるが、地面の傾きが変われば近づく可能性がある。
「アジサイ。一番流れが弱いのはどこだ?」
呼びかけられ、アジサイがオリマーを見る。
「右側。でも、ここから飛び込んだら戻れない」
「岸に近いのは?」
「前。あの木の根」
「分かった。そこへ移る」
オリマーは背負っていた荷物を下ろした。
「必要なものだけ取れ。残りは置いていく」
「ごはんも?」
ひまわりが自分の荷物を抱える。
「持てる分だけだ」
「全部持てる!」
「持ったまま走れるか?」
ひまわりは荷物と傾いた地面を交互に見た。
すぐに袋を開け、食料をいくつか服の内側へ入れる。
「これだけ持つ!」
「十分だ。ローズも荷物を下ろせ」
「分かってる」
ローズも荷物を泥の上へ置いた。
アジサイはまだ、水の流れと地面の傾きを交互に確かめている。
「アジサイ」
オリマーが呼ぶ。
「お前が先頭だ。足場だけ見てくれ。全員の動きは俺が見る」
アジサイの目が僅かに動いた。
「でも――」
「全部一人でやらなくていい。行けるか?」
考えている時間はなかった。
足元が再び大きく膨らみ、泥地の端から水草と流木が落ちていく。
アジサイは一度だけ頷いた。
「行ける」
「よし。アジサイ、俺、ひまわり、ローズの順だ。前だけ見ろ」
四人は木の根へ向かって移動を始めた。
乾いて見えた泥も、表面が剝がれると粘り気を帯びていた。足を置くたびに靴が沈み、抜くたびに体力を奪われる。
先頭のアジサイが、安全な場所を選ぶ。
オリマーはその足跡をたどりながら、後ろを振り返った。
「ひまわり、離れるな」
「離れてない!」
「ローズは?」
「いるわよ!」
ローズの返事を聞き、オリマーは前へ向き直る。
泥地全体が横へ揺れた。
ひまわりが悲鳴を上げ、前にいたオリマーへしがみつく。
「急に動いた!」
「分かってる。止まるな!」
「足が抜けない!」
オリマーはひまわりの腕をつかみ、泥から引き抜いた。
その間にも地面の傾きが強くなる。
アジサイは先へ進もうとしていたが、三人が遅れていることに気づいて足を止めた。
「アジサイ、止まるな!」
「でも――」
「足場を見つけろ! 追いつく!」
オリマーはひまわりの背中を押した。
「先に行け!」
「オリマーは?」
「すぐ行く!」
ひまわりがアジサイを追う。
ローズも続こうとした。
その時、オリマーの足元で泥が抜けた。
身体が斜面へ投げ出される。
咄嗟に近くの水草をつかんだが、草は根から抜けた。
オリマーの身体が泥地の縁を越える。
「オリマー!」
ローズが腕へ飛びついた。
落下が止まる。
オリマーの身体は縁からぶら下がり、足元では濁った水が激しく渦を巻いていた。
「離すな!」
「離すわけないでしょ!」
ローズは両足を踏ん張り、オリマーの身体を引く。
小柄な身体からは想像できない力で、オリマーの胸が泥地の縁まで持ち上がった。
だが、その代わりにローズの右足が沈んだ。
泥の下に隠れていた水草の根が足首へ絡みつく。
ローズは体勢を崩し、オリマーと一緒に斜面を滑った。空いた手を泥へ突き立てるが、指の間から柔らかな土が逃げていく。
「二人とも!」
ひまわりが引き返そうとする。
「来るな!」
オリマーが叫んだ。
ひまわりの足が止まる。
「でも落ちる!」
「お前まで来たら三人になる! そこにいろ!」
ひまわりは泣きそうな顔で二人を見る。
それでも、今度は動かなかった。
アジサイも戻ってくる。
だが、ローズへ向かうべきか、オリマーを引き上げるべきか、それとも先に逃げ道を確保するべきか、一瞬判断が遅れた。
オリマーは息を整えた。
腕が痛い。
足元の水へ身体を引かれ、ローズの手も少しずつ滑っている。
余裕はなかった。
正しいという保証もない。
それでも、誰かが決めなければ全員が落ちる。
「ひまわり! 荷物に長い蔓が入ってる!」
「蔓!?」
「昨日使ったやつだ! 持ってこい!」
「分かった!」
ひまわりは荷物へ駆け寄り、中身を泥の上へひっくり返した。
「どれ!? いっぱいある!」
「束ねてある太いやつ!」
「これ!?」
「それだ!」
ひまわりは蔓を抱えて戻ってくる。
オリマーはアジサイへ目を向けた。
「アジサイ。俺じゃなく、ローズの足を外してくれ」
「あなたは?」
「蔓で上がる。水に入るなよ。今飛び込んだら、流れに持っていかれる」
アジサイは水面を見る。
先ほどまで右へ流れていた水が、今は泥地の下へ吸い込まれている。飛び込めば、同じ場所へ戻れるか分からない。
「斜面から下りろ。お前ならできるだろ」
アジサイはオリマーを見る。
嫌悪も反発も表さなかった。
すぐに頷き、ひまわりが持ってきた蔓を受け取る。
「ひまわり。端をあの根に巻いて」
「結べない!」
「二回巻いて、持ってるだけでいい」
「離れない?」
「あなたが離さなければ」
ひまわりは蔓を太い水草の根へ二重に回し、端を両手でつかんだ。
「絶対離さない!」
アジサイは反対側の端を腰へ回すと、斜面を下り始めた。
泥へ足を置くのではなく、身体を横へ向けて重さを逃がしながら進む。足場が崩れる前に次の場所へ手を伸ばし、ローズのすぐ上まで辿り着いた。
「ローズ。足を見せて」
「先にオリマーを上げて!」
「俺はあとでいい」
オリマーが言う。
「よくない!」
ローズはつかんでいた腕を持ち直した。
「アタシの足は抜けないの! アンタだけなら上げられるでしょ!」
「二人とも上がる。ひまわり、蔓をこっちへ投げろ!」
ひまわりが蔓の途中をつかみ、オリマーへ投げる。
届かない。
「もう一回!」
「うん!」
ひまわりはできるだけ前へ出て、もう一度投げた。
今度はオリマーの肩へ蔓が当たる。
オリマーは片手でそれをつかみ、腕へ巻きつけた。
「ローズ、もう離していい」
「本当に上がれる?」
「上がる。だからアジサイに任せろ」
ローズは迷った末に手を離した。
オリマーの身体が僅かに下がる。
「ひまわり、引け!」
「分かった!」
ひまわりが両手で蔓を引く。
力を込めすぎて足が滑り、その場へ尻餅をついた。
それでも蔓は離さない。
「重い!」
「知ってる! そのまま引け!」
「重いって!」
オリマーも泥の斜面へ腕をかけ、自分の身体を押し上げる。
ひまわりは水草の根へ両足を当て、何度も蔓を引いた。
「早く上がって!」
「今やってる!」
ようやくオリマーの胸が縁へ乗る。
ひまわりが蔓から片手を離し、服をつかんだ。
二人で転がるように斜面から離れる。
「上がった!」
ひまわりが叫ぶ。
オリマーはすぐに身体を起こした。
「まだだ。蔓を持て!」
アジサイは泥に沈んだローズの足へ手を伸ばしている。
泥の中を探り、水草の根が絡んでいる向きを確かめる。
「ローズ。力を抜いて」
「早くして!」
「抜かないと外れない」
足元の巨体がまた大きく動いた。
泥地が横へ傾き、二人の身体が斜面を滑る。
ひまわりが悲鳴を上げた。
「アジサイ!」
「蔓を持ってて!」
「持ってる! でも引っ張られてる!」
オリマーはひまわりの後ろへ回り、蔓を一緒につかんだ。
「まだ引くな! 二人まとめて落ちる!」
「じゃあどうするの!?」
「アジサイが足を外すまで耐えろ!」
ひまわりは唇を噛み、両手で蔓を握り直した。
その時、湿原の奥で水が弾けた。
地面から何かが抜け出すような、重く湿った音だった。
水面が大きく盛り上がる。
泥と水草に覆われた黒い柱が、ゆっくりと姿を現した。
周囲の木々よりも太く、持ち上がるたびに泥水が滝のように流れ落ちている。
柱の先端が水面から抜けた。
そこには地面を押し潰すために作られたような、幅の広い足がついていた。
ひまわりが見上げる。
「何、あれ……」
柱ではない。
四人を乗せた巨大な身体を支える、一本の脚だった。
「脚だ!」
オリマーの声に、アジサイが顔を上げる。
脚は水上でゆっくりと曲がり、別の場所へ運ばれていく。
その動きに合わせ、四人の足元がさらに傾いた。
「来るよ!」
ひまわりが叫ぶ。
「どこかに下りる! 絶対下りる!」
「その前にローズだ!」
オリマーも声を張る。
「アジサイ、外せるか!」
「根が食い込んでる。無理に引いたら足を痛める」
「痛めても動けるなら外せ!」
ローズが顔を上げた。
アジサイも一瞬だけオリマーを見る。
「折らない程度にやれ! 時間がない!」
アジサイはすぐにローズの膝を曲げ、足首へ手を添えた。
「力を抜いて」
「だから無理だって!」
「ローズ!」
オリマーが叫ぶ。
「アジサイを信じろ!」
ローズが息を呑む。
それでも反論はせず、歯を食いしばりながら足から力を抜いた。
アジサイは根の向きに合わせて足首を回し、一気に引く。
ローズが声を上げた。
足が泥の中から抜ける。
「抜けた!」
ひまわりが叫ぶと同時に蔓を引いた。
「まだ――」
アジサイが止めるより早く、二人の身体が斜面を上り始める。
ひまわりは全身を使って蔓を引いた。
「絶対離さないから!」
「オリマー、ひまわりを支えて!」
アジサイの声が飛ぶ。
オリマーは後ろからひまわりの腰を支えた。
「せーので引くぞ!」
「うん!」
「せーの!」
二人が同時に後ろへ下がる。
アジサイの手が泥地の縁へ届いた。
オリマーは蔓をひまわりに任せ、その腕をつかむ。
反対の手でローズの服をつかみ、二人を続けて引き上げた。
四人が硬い場所へ集まる。
だが、巨大な脚はすでに水面へ下り始めていた。
まだ触れてもいないのに、水が押し退けられ、湿原に大きな波が広がっていく。
アジサイは呼吸を整えながら周囲を見た。
「どこへ行く?」
オリマーは持ち上がった脚と、水面へ伸びる木の根を見比べた。
脚が落ちれば、今いる場所も大きく揺れる。
水へ飛び込めば流される。
残された場所は一つしかない。
「あの根へ移る」
「脚が落ちる場所に近い」
「だから今だけ泥地が岸へ寄ってる。離れたら届かなくなる」
アジサイが木の根までの距離を確認する。
「……行ける」
「アジサイが先。ローズ、ひまわり。俺が最後だ」
「オリマーが先に行った方がいいんじゃない?」
ひまわりが不安そうに言う。
「お前が飛ぶ時に押す奴がいるだろ」
「でも」
「全員で行く。話はあとだ」
オリマーが言い切る。
アジサイは反論せず、木の根へ向かって走り出した。
泥地はさらに傾き、水面までの高さが増していく。
木の根まで、あと数メートル。
アジサイが先に飛び移り、振り返る。
「ローズ!」
ローズが跳ぶ。
伸ばされた手をアジサイがつかみ、そのまま木の根へ引き寄せる。
ひまわりは距離を見て、一瞬だけ足を止めた。
「無理!」
「走れ!」
オリマーが背中を押す。
「わああっ!」
ひまわりは目を閉じたまま跳んだ。
身体が木の根へぶつかり、ローズとアジサイが両側から受け止める。
「飛べた!」
「まだ終わってない!」
ローズに怒鳴られ、ひまわりが慌てて振り返る。
オリマーが跳ぼうとした瞬間、泥地が斜めに沈んだ。
踏み切る場所が遠ざかる。
「オリマー!」
三人の声が重なった。
オリマーは助走もつけられないまま、木の根へ向かって跳んだ。
指先が届く。
ひまわりが両腕を伸ばし、オリマーの手をつかんだ。
「つかんだ!」
一人では支えきれず、ひまわりの上半身も木の根から落ちる。
ローズが腰をつかむ。
アジサイも迷わず前へ出て、オリマーの腕をつかんだ。
その手が触れた瞬間、アジサイは僅かに目を見開いた。
だが、今度は身体を引かなかった。
「引くよ!」
アジサイの声に合わせ、三人が一斉に後ろへ下がる。
オリマーの身体が木の根へ乗り上げた。
四人が折り重なるように倒れた直後、巨大な足が落ちた。
湿原そのものが沈んだような衝撃が走る。
踏み砕かれた木の根と泥が高く舞い上がり、押し出された水が壁となって四人へ迫った。
「伏せろ!」
オリマーは叫びながら、木の根へ腕を回した。
ローズがひまわりの身体を押さえ、アジサイも空いている根へ手を伸ばす。
次の瞬間、水の壁が四人を呑み込んだ。
視界が濁った水で埋まる。
木の根へ叩きつけられ、肺の中に残っていた空気が押し出された。
オリマーは目を閉じ、腕に力を込めた。
水が身体を持ち上げようとする。
つかんでいる根も大きく軋み、表面の樹皮が指の下で剝がれていった。
近くに誰がいるのか分からない。
自分の腕がいつまで保つかも分からなかった。
それでも、根を離せば終わる。
オリマーは歯を食いしばった。
やがて水の勢いが僅かに弱まった。
顔を上げようとしたところで、もう一度強い流れが押し寄せる。
身体が横へ流され、片腕が根から外れた。
「オリマー!」
濁った水の中から声が聞こえた。
誰かの手が肩をつかむ。
ローズだった。
片腕で根につかまりながら、もう一方の手をオリマーへ伸ばしている。
その後ろでは、ひまわりがローズの腰へしがみついていた。
「離すな!」
声を出した途端、水が口へ入った。
オリマーは咳き込みながら、外れた手でもう一度根をつかむ。
その横を、大きな流木が流れていった。
流木は木の幹へぶつかり、鈍い音を立てて砕ける。
「頭を下げて!」
アジサイが叫んだ。
三人が根へ身体を押しつける。
砕けた木片が水面を飛び、オリマーたちの頭上を通り過ぎた。
しばらくして、ようやく水位が下がり始めた。
押し寄せた水が湿原の低い場所へ流れ込み、木の根が再び水面へ現れる。
オリマーは根を離さないまま、周囲を確認した。
ローズがいる。
その後ろに、ひまわり。
少し離れた場所では、アジサイも別の根につかまっている。
四人とも流されていない。
それを確認してから、オリマーは大きく息を吐いた。
「無事か?」
「びしょびしょ!」
ひまわりが答えた。
「そうじゃなくて、怪我は?」
「分かんない! 今は全部痛い!」
「なら動けるな」
「それでいいの!?」
ひまわりは抗議しながらも、自分の腕や足を確かめ始めた。
ローズも呼吸を整え、右足を動かしている。
先ほど根が絡んでいた足首には赤い跡が残っていたが、立てないほどではないらしい。
「ローズは?」
「平気」
ローズは髪へ手を伸ばした。
泥と水に濡れた赤髪の中に、蔓で作られた小さな髪飾りが残っている。
指先で形を確かめたあと、ローズは安堵したように手を下ろした。
アジサイが木の根の上を移動し、三人の近くへ来る。
濡れた青髪が顔へ貼りついていた。
「ここも長くは持たない」
水面へ出ている根の一部が折れ、流れに合わせて揺れている。先ほどの足がもう一度近くへ下りれば、今度こそ幹ごと砕かれるかもしれない。
オリマーは巨大な生き物のほうを見た。
四人が乗っていた背中は、すでに大半が泥の下へ沈んでいる。
それでも全体の形は分からない。
見えている部分だけで、小さな丘ほどの広さがある。
踏み下ろされた一本目の脚は、湿原の底へ深く沈んでいた。
足の周囲には大きな窪みができ、そこへ周囲の水が流れ込んでいる。
昨日までとは反対向きの流れだった。
「これが原因か」
オリマーの言葉に、アジサイも水面を見る。
脚が地面を踏み抜いたことで水底の形が変わり、それまで別の水路へ流れていた水が窪みへ集まっている。
夜の間に道が沈んだ理由。
場所によって水位が増えたり減ったりしていた理由。
そのすべてが、今目の前で起きていた。
「歩いてるだけで、水路が変わってる」
アジサイが呟いた。
「こんなのが何度も動けば、昨日の道なんて残らないな」
オリマーが答える。
その時、生き物の反対側で水面が盛り上がった。
一本目とは別の黒い柱が、泥水を押し退けながら現れる。
ひまわりが木の根へしがみついた。
「また出た!」
二本目の脚だった。
大量の水草をまとったまま、ゆっくりと持ち上がっていく。
続いて、さらに離れた場所でも水面が膨らんだ。
三本目。
三本の巨大な脚が、広い背中を囲むように水中から伸びている。
「あれ、全部同じ生き物なの?」
ひまわりが信じられないように尋ねる。
「そうみたいね」
ローズの声が硬い。
脚が一本動くだけでも、周囲の水が大きく引かれる。三本が順番に位置を変えるたび、湿原全体が波打っているように見えた。
やがて二本目の脚が下りる。
先ほどよりも遠い。
湿原へ重い衝撃が伝わり、木の根がまた揺れた。
今度は水の壁までは届かなかった。
代わりに、四人が渡ろうとしていた泥地が大きく移動する。
地面だと思っていた背中が、水草と流木を乗せたまま湿原の奥へ進んでいく。
泥が剝がれ落ちた一角から、硬いものが一瞬だけ覗いた。
濁った水の中で、不自然に整った面が光を返す。
岩とは違う輝きだった。
オリマーが目を凝らした時には、再び泥水に覆われている。
「今、何か光らなかった?」
ひまわりも見ていたらしい。
「見えた」
「何だったの?」
「分からん」
生き物は身体の向きを変え、ゆっくりと深い水域へ向かい始めた。
追いかける理由はない。
今は少しでも距離を取るべきだった。
それでもローズだけは、生き物から目を逸らさなかった。
顔色は悪く、木の根をつかむ手にも力が入っている。
「ローズ」
オリマーが呼ぶ。
「知ってるのか?」
ローズはすぐには答えなかった。
巨大な背中が沈んでいく様子を見つめたまま、僅かに頷く。
「前にもいた」
「どこで?」
「泉」
オリマーは、ローズと初めて出会った頃のことを思い出した。
水面が鏡のように静かな、大きな泉。
その底を横切った黒い影。
あの時、ローズは普段の彼女からは考えられないほど怯え、理由も説明せずにオリマーを水辺から連れ出した。
「あの影か」
「たぶん」
ローズは自分の腕を抱く。
「姿は見てない。でも、同じ感じがする」
「泉にもこんなのがいたの!?」
ひまわりが声を上げた。
「何で今まで言わなかったの?」
「何を言うのよ。大きい影がいたって言えばよかった?」
「それでも言ってよ!」
「言ったって、何もできないでしょ!」
ローズの声が強くなる。
ひまわりは何か言い返そうとしたが、オリマーが手で止めた。
「あの時は逃げられた。それで十分だ」
ローズは不満そうに口を閉じる。
アジサイは沈みかけた巨大な背中を見たあと、オリマーへ顔を向けた。
「その泉、ここから遠い?」
「何日か歩いた。正確な距離は分からない」
「水はつながってるかもしれない」
「同じ奴が移動してきたってことか?」
「そこまでは分からない。同じ種類が別の場所にいる可能性もある」
アジサイは水面へ視線を戻した。
「でも、別の生き物だと思わない方がいい」
泉の主。
湿原を歩く巨大な生物。
同じものなのか、同じ種類が複数いるのかは分からない。
ただ、無関係ではない。
それだけは確かだった。
三本目の脚が水中へ沈む。
巨大な背中も少しずつ低くなり、やがて泥と水草に覆われた一部だけが水面へ残った。
離れてしまえば、最初に見た中州と変わらない。
何も知らずに近づけば、また地面だと思って上へ乗ってしまうだろう。
ひまわりはその姿を見送りながら、木の根へ座り込んだ。
「もう歩けない」
「さっき腕も足も動いてただろ」
「怪我してなくても疲れるの!」
「ここは危ない。もう少しだけ動くぞ」
「もう少しってどれくらい?」
「安全な場所が見つかるまでだ」
「それ一番長いやつ!」
ひまわりは抗議したものの、立ち上がろうとはしている。
ローズがその腕をつかんで引いた。
「ほら、立って」
「ローズも疲れてるでしょ」
「アンタよりは元気」
「さっき足挟まってたのに?」
「うるさい」
二人のやり取りを聞きながら、オリマーは周囲の地形を確認した。
先ほど目指していた北側の岸は、大きな足跡から流れ出した水によって分断されている。
来た道もない。
荷物の大半も流された。
残っている食料と道具だけで、進める場所を探さなければならない。
「アジサイ。高い場所はどっちだ?」
尋ねると、アジサイはすぐに湿原の奥を指した。
「北西。ここからなら、あの木を二本越えた先」
「水へ入らずに行けるか?」
「途中までは根を使える。その先は見ないと分からない」
「分かった。そこへ行こう」
オリマーはローズとひまわりの状態を確認する。
どちらも疲れているが、まだ歩ける。
アジサイはそんなオリマーを見ていた。
「何だ?」
「さっき」
アジサイは一度言葉を止めた。
「どうして、あの順番にしたの?」
「順番?」
「私を先にして、あなたが最後に残った」
「お前なら向こうへ渡ったあと、他の二人を引き上げられる。俺が先に行ったら、ひまわりを押す奴がいなくなる」
オリマーはそれだけ答え、腰へ結んだ袋を確かめた。
残った食料は多くない。
今夜の分と、明日の朝まで持てばいいほうだった。
「他に方法が思いつかなかっただけだ」
「怖くなかったの?」
「怖かったに決まってるだろ」
オリマーは濡れた腕を軽く振った。
今になって手が震えている。
「でも、誰かが決めないと全員落ちてた」
アジサイは震える手を見た。
「……そう」
それ以上何も言わず、これまでのようにオリマーから距離を取ることもなく、すぐ隣で北西へ続く道を確かめ始める。
「最初の根までは私が見る。そのあとは、あなたも確認して」
「ああ」
オリマーは自然に頷いた。
アジサイも、その返事へ嫌そうな顔をしなかった。
四人は木の根を伝い、北西へ向かって移動を始めた。
先頭はアジサイ。
その後ろにオリマー。
ローズとひまわりが続く。
今までと同じ順番だった。
それでも、アジサイが自分だけで進路を決めなくなったことで、四人の歩き方は少しだけ変わっていた。
二本目の木へ移ろうとした時、アジサイは対岸の葦の間に人影を見た。
赤い髪。
小柄な身体。
一瞬、ローズが先へ行ったのかと思う。
だが、ローズはオリマーのすぐ後ろを歩いている。
アジサイはもう一度、対岸へ目を向けた。
赤い人影は葦の奥へ消えていた。
「どうした?」
オリマーが尋ねる。
「……何でもない」
水面の反射を見間違えたのかもしれない。
今は確かめに行ける場所でもなかった。
アジサイは前へ向き直る。
その背後で、遠くの水面が再び大きく盛り上がった。
泥に覆われた三本の脚のうち、一本がゆっくりと持ち上がる。
脚が下りた先から新しい窪みが生まれ、そこへ向かって水が流れ始めた。
四人が進もうとしている、その先へ。