水は、主の足跡へ向かって流れていた。
さっきまで浅く広がっていた水が、泥の窪みへ吸い込まれていく。四人の進む先では、木の根の間を満たす水位が目に見えて上がっていた。
オリマーは足を止めた。
「アジサイ。あの根は、まだ渡れるか?」
先頭にいたアジサイが、水へ手を入れる。
細い指の間を、濁った水が強く抜けていった。
「今なら。でも、長くは持たない」
「どれくらいだ?」
「分からない。次の足がどこへ下りるかで、流れが変わる」
遠くで泥が持ち上がった。
霧の向こうに、巨大な三本の脚が現れる。
先ほど四人を背中へ乗せていた主だった。
水中から引き抜かれた脚が、ゆっくりと前へ運ばれていく。その進行方向は、四人が目指していた北西の高地と重なっていた。
ひまわりがオリマーの服をつかむ。
「こっちに来てない?」
「私たちを追っているとは限らない」
オリマーは答えながら、周囲の地形を見回した。
来た道は水に沈んでいる。右手には深い水路。左手には泥の平地が続いているが、主の進路に近すぎた。
残るのは、正面へ伸びる木の根だけだった。
細い根を二本越え、その先の水路を渡れば高い地面へ出られる。
「正面へ進む」
オリマーが言った。
アジサイが振り返る。
「でも、このままだと途中で水が来る」
「だから役割を決める。アジサイは足場と流れを見る。私は進む時機を決める。ローズはひまわりを支えてくれ」
「分かったわ」
ローズがひまわりの腕を取る。
「ひまわりは後ろを見ろ。主が脚を上げたら、すぐに知らせてくれ」
「後ろ向きで歩くの?」
「足元はローズに任せろ。お前は主だけを見ていればいい」
ひまわりは一度だけローズを見上げた。
「落とさない?」
「アンタが暴れなければね」
「じゃあ大丈夫!」
何が大丈夫なのかは分からなかったが、聞き返している時間はない。
オリマーは最初の根へ足をかけた。
四人が進み始めると、主の足音が湿原を揺らした。
一歩ごとに水面が波打ち、根の下から泥が浮かび上がる。
アジサイが根の表面を踏み、沈み方を確かめた。
「右側は駄目。中が腐ってる。左を通って」
オリマーはその言葉に従い、根の左端へ足を置く。
後ろからローズとひまわりが続いた。
「脚、上がった!」
ひまわりが叫ぶ。
オリマーは主を見る。
三本ある脚のうち、最も近い一本が水中から抜けていた。
「止まれ!」
四人が同時に動きを止める。
巨大な脚が湿原へ下りた。
着地した場所は遠い。それでも押し出された水が波となり、根の上まで押し寄せた。
ローズがひまわりの腰を抱える。
アジサイは片膝をつき、根へ手を押し当てた。
オリマーも身体を低くする。
水が足首を叩き、根の向こうへ流れ去った。
「今だ。進め!」
四人は一斉に走った。
最初の根を渡り切り、絡み合った木の根の上へ移る。
次の足場は一本目より細く、半分ほどが水へ沈んでいた。
アジサイが前へ出ようとする。
その足が止まった。
根の左右で水が渦を巻いている。
普段なら、自分一人が通れる場所を選べばいい。だが今は、体格も歩幅も違う三人を渡さなければならない。
アジサイの視線が、ひまわりとローズの間を揺れる。
「アジサイ」
オリマーが呼ぶ。
「一番弱い場所だけ教えてくれ。通る順番は私が決める」
アジサイは息をのみ、根の中央を指した。
「あそこ。水の下が割れてる」
「分かった」
オリマーは迷わず答えた。
「ローズが先だ。割れ目を越えたら、ひまわりを引け。アジサイは向こう側から根を押さえてくれ。私は最後に行く」
「また最後?」
ひまわりが不安そうに尋ねる。
「後ろを見る役が必要だ」
本当は、それだけではない。
途中で根が折れた場合、最後に残った者が二人を押し出さなければならない。
だが、それを説明している余裕はなかった。
ローズが根へ足を乗せる。
細い身体を低くし、滑る表面を進んだ。
割れ目の手前で一度止まり、向こう側へ飛ぶ。
根が大きく沈んだ。
「ローズ!」
ひまわりが叫ぶ。
ローズは両手をつきながらも、向こう側へ踏みとどまった。
「平気よ。早く来て」
次はひまわりだった。
アジサイが先に渡り、割れ目の向こうから手を伸ばす。ローズも反対側へ立ち、二人でひまわりを待った。
「下、見ない方がいい?」
「見たら止まるから、前だけ見て」
アジサイが答える。
「じゃあローズを見る」
「どうして私なの?」
「アジサイは怖い顔してるから」
「落とすよ」
「冗談!」
ひまわりはローズだけを見ながら根を進んだ。
割れ目へ近づいた瞬間、後方で水が盛り上がる。
「脚が上がった!」
ひまわりが振り返り、足を止めた。
「止まるな!」
オリマーが背中を押す。
ひまわりの身体が割れ目を越える。
ローズとアジサイが両腕をつかみ、一気に引き上げた。
直後、主の脚が下りた。
水面が破裂する。
押し寄せた波が根をのみ込み、オリマーの膝まで駆け上がった。
身体が横へ流される。
「オリマー!」
ローズが手を伸ばす。
オリマーは根へ両腕を回し、水が引くまで耐えた。
腕の力だけで身体を引き戻し、割れ目の手前へ膝をつく。
根の内側から、鈍い音がした。
亀裂が広がっている。
「根が折れる!」
アジサイが叫ぶ。
「分かっている!」
オリマーは立ち上がり、割れ目へ向かって走った。
踏み切るのと、根が折れるのはほとんど同時だった。
足元が消える。
伸ばした手を、ローズがつかんだ。
その手首をアジサイが支え、ひまわりがローズの腰へしがみつく。
三人に引かれ、オリマーは根の上へ転がり込んだ。
背後で折れた根が水中へ沈む。
「全員いるな?」
息を切らしながら、オリマーが確認する。
「いる!」
「いるわ」
アジサイは答える代わりに、オリマーの腕を見た。
根へ擦った皮膚から血がにじんでいる。
「まだ進める?」
「問題ない」
「なら、急いで。流れがまた変わる」
アジサイが示した先には、深い水路があった。
高地へ渡るための最後の障害だった。
幅は広く、底は見えない。
水面には、ちぎれた水草と小さな生き物が流されている。
「ここを泳ぐの?」
ひまわりが水路を覗き込み、すぐに一歩下がった。
「私が先に渡る」
アジサイは荷物から長い蔓を取り出した。
片端を対岸へ運び、全員が渡るための支えにするつもりらしい。
「流れを見てからだ」
オリマーが止める。
アジサイはすぐには飛び込まず、水面を見た。
「表面は速いけど、中央を過ぎれば弱くなる」
「戻されそうになったら、すぐ蔓を引く。無理に進むな」
「分かった」
アジサイは蔓の端をオリマーへ渡し、静かに水へ入った。
細い身体が流れに押される。
それでも水草の少ない場所を選び、斜めに泳いでいく。
中央を越えたところで一度大きく流されたが、対岸から伸びる根をつかみ、そのまま岸へ上がった。
「着いた!」
ひまわりが声を上げる。
アジサイは蔓を太い根へ結びつけた。
オリマーも手元の端を根へ二重に回し、強く張る。
「ひまわりから渡れ」
「私が最初?」
「向こうにはアジサイがいる。途中で止まっても引いてもらえる」
ひまわりは水路とアジサイを交互に見た。
「絶対離さないでね!」
「離さない」
アジサイが答える。
ひまわりは蔓を両手で握り、水へ入った。
足が底から離れた瞬間、顔が強張る。
「流される!」
「蔓を離すな!」
オリマーが叫ぶ。
アジサイが対岸から蔓を引く。
ひまわりは何度も水を飲みながら、それでも手を離さなかった。
水路の中央を越えると流れが弱まり、アジサイに腕をつかまれて岸へ上がる。
「死ぬかと思った!」
「大声を出せるなら平気」
「アジサイ、最近ローズに似てきた!」
「似てない」
次はローズだった。
ローズは蔓を握り、水へ入る。
流れに身体を取られながらも、ひまわりより安定して進んでいた。
その時、湿原の水が大きく盛り上がった。
主の背中が、泥の中から持ち上がっていく。
水草と泥が滑り落ち、その下から黒ずんだ皮膚が現れる。長く伸びた頭部の上には、透明な鉱石のような塊が幾重にも重なっていた。
三本の脚で身体を支え、頭を低く垂らす。
濁った水面を、小さな生き物が群れを作って逃げていく。
頭部の先が開いた。
そこから細長い舌が飛び出す。
舌は水面を滑り、逃げ遅れた生き物をまとめて絡め取った。
一瞬で口元へ引き戻される。
「あれ、食べてるの?」
ひまわりの声が震える。
主は再び頭を動かした。
次に舌が伸びた方向は、ローズの渡っている水路だった。
「ローズ、伏せろ!」
オリマーが叫ぶ。
長い舌が、水面すれすれを滑ってくる。
ローズは蔓を握ったまま身体を沈めた。
頭上を赤黒い舌が通り過ぎる。
風圧で水面が割れ、ローズの身体が激しく揺れた。
「引いて!」
アジサイがひまわりへ叫ぶ。
二人が蔓をつかみ、対岸から引く。
ローズも足を動かすが、水草が蔓へ絡みつき、途中で動かなくなった。
「何か引っかかってる!」
ひまわりが叫ぶ。
オリマーは蔓を手元まで引き戻し、絡みついた水草を両手でつかんだ。
根の尖った割れ目へ茎を挟み、体重をかけて引く。
一度では裂けない。
濡れた茎が手から滑り、手のひらへ食い込む。
主が再び頭を振った。
「また来る!」
ひまわりの声が響く。
オリマーは水草を割れ目へ押し込み、両手で強く引いた。
茎が裂ける。
張りつめていた蔓が一気に動き、ローズの身体が対岸へ引き寄せられた。
アジサイが腕をつかみ、ひまわりが服を引く。
ローズは岸へ転がり込んだ。
「オリマー、早く!」
ローズが起き上がりながら叫ぶ。
オリマーは根へ巻いていた蔓を外し、腰へ回した。
その直前、二度目の舌が水路へ届く。
舌の先が蔓へ絡みついた。
凄まじい力で引かれ、蔓が一直線に張る。
オリマーの身体も根から引き離されそうになる。
「オリマー!」
ローズが水路へ戻ろうとする。
「来るな!」
オリマーは根へ足をかけ、張った蔓を両手で握った。
蔓の繊維が一本ずつ裂けていく。
舌へ絡んだ箇所を外すことはできない。
「アジサイ、そっちの端を離すな!」
「でも、このままだと引かれる!」
「蔓が先に切れる。切れたら、そのまま岸から離れろ!」
アジサイは一瞬だけ迷い、蔓を太い根へ巻き直した。
「分かった!」
オリマーは身体を低くし、衝撃へ備える。
繊維が裂ける音が続く。
最後の一本が切れた。
舌へ絡んだ中央部分が主の口へ引き戻され、蔓は二つに分かれた。
反動でオリマーは根の上へ倒れる。
手元に残った蔓は、水路の半分にも届かない。
対岸では、アジサイが残った蔓を根へ固定している。
「これじゃ届かない!」
ひまわりが叫ぶ。
水路には、大きな水草の葉が流れていた。
葉の下には、絡み合った太い茎が浮いている。
オリマーは手元の蔓を茎へ巻きつけた。
「それに乗るつもり?」
ローズが目を見開く。
「他に足場がない」
「沈むわよ!」
「完全に沈む前に渡る」
オリマーは水草を水路へ押し出し、その上へ腹ばいになった。
葉が大きく沈む。
胸まで水に浸かったが、身体は流れの上へ残った。
「引け!」
対岸の三人が蔓を引く。
水草は回転しながら水路を進んだ。
中央で葉が裂け、オリマーの身体が半分沈む。
それでも蔓を離さない。
アジサイが根へ巻いた蔓を引き、ローズとひまわりもその後ろから力を加える。
オリマーの手が岸へ届いた。
ローズが手首をつかむ。
アジサイが反対の腕を取り、二人で引き上げた。
直後、水草が完全に裂けて流されていった。
「全員、走れ!」
オリマーは息を整える間もなく立ち上がった。
高地までは緩やかな斜面が続いている。
背後で主が三本の脚を動かした。
一歩目で水路の岸が崩れる。
二歩目で、四人がいた根が泥の下へ沈んだ。
三歩目が上がる。
「止まって!」
アジサイが水面の動きを見て叫ぶ。
オリマーは三人を斜面の太い木へ寄せた。
脚が下り、地面を通して衝撃が届く。
斜面の泥が滑り落ちた。
「今だ。上まで走る!」
四人は斜面を駆け上がった。
ひまわりが途中で足を滑らせる。
ローズが腕をつかみ、アジサイが背中を押す。
オリマーは最後尾から主の動きを見た。
水晶に覆われた頭がこちらへ向く。
長い舌が再び伸びる。
「伏せろ!」
四人が地面へ身を投げる。
舌が頭上を通り過ぎ、斜面の木を折った。
折れた枝が降り注ぐ。
オリマーは肩を打ちながらも立ち上がった。
「もう少しだ!」
四人は最後の斜面を登り切った。
高地の奥まで走り、太い木々の間へ入る。
主は斜面の下で一度頭を上げた。
だが、そのままこちらへ登ってはこなかった。
水路を泳ぐ小さな生き物へ頭を向け、ゆっくりと進路を変える。
巨大な三本脚が、四人から遠ざかっていった。
足音が一つ響くたび、湿原の水面に弱い波紋が広がる。
それも次第に小さくなり、やがて風に揺れる水草の音と区別がつかなくなった。
四人はしばらく、その場から動かなかった。
誰もが息を切らし、全身を泥で汚している。
それでも、四人とも生きていた。
ひまわりは草の上へ仰向けに倒れ、両手足を投げ出した。
「もう走れない」
「また主が来ても?」
ローズが尋ねる。
「その時はローズに運んでもらう」
「嫌よ」
「少しくらい迷ってくれてもいいのに!」
「迷う必要がないもの」
ひまわりが頬を膨らませる。
その様子を見て、ローズが小さく笑った。
アジサイは浅瀬へ戻り、水面へ手を触れた。
波の向きと地面に残された足跡を確かめ、霧の奥を見つめる。
巨体の姿が完全に見えなくなってから、三人のもとへ戻ってきた。
「……追ってきてない」
「本当?」
ひまわりが顔だけを上げる。
「少なくとも、こっちには向かってない」
「じゃあ助かった?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「湿原で絶対なんて言わない」
「じゃあ、ほとんど絶対?」
「意味は同じ」
アジサイが冷たく返すと、ひまわりは再び草へ顔を埋めた。
「今日はここに住む」
「日が暮れるまでには移動するぞ」
オリマーが言う。
ひまわりはすぐに起き上がった。
「じゃあ、その前にご飯」
「元気じゃない」
「お腹が空いて動けないだけ」
「それを元気と言うのよ」
ローズが呆れたように答える。
声には疲労がにじんでいたが、いつもの調子は戻っていた。
オリマーもようやく肩の力を抜いた。
「ここで食事にしよう。ただし長居はしない。日が傾く前に、休める場所を探す」
「賛成!」
ひまわりが真っ先に荷物へ手を伸ばす。
残っていた木の実と乾燥させた食料を四人分に分けると、ひまわりは隣のローズの分を覗き込んだ。
「ローズの方が大きくない?」
「同じくらいよ」
「少し大きい」
「気のせい」
「交換しよう」
「嫌」
ローズが木の実を持った手を遠ざける。
ひまわりは諦めずに腕を伸ばしたが、ローズは身体を反らして逃げた。
二人のやり取りを見ていたアジサイが、自分の木の実をひまわりへ差し出す。
「これも食べる?」
「いいの?」
「甘いのはあまり好きじゃないから」
「ありがとう、アジサイ!」
ひまわりは嬉しそうに受け取った。
アジサイは何でもないような顔で自分の分を食べ始める。
「前に甘い実を食べていなかったか?」
オリマーが尋ねると、アジサイの手が止まった。
「……あれは別」
「同じ実だと思うが」
「オリマー」
「何だ?」
「気づいても、言わなくていいことはある」
横で聞いていたローズが口元を押さえる。
「優しいのね」
「違う」
「まだ何も言ってないよ?」
「ひまわりは黙って食べて」
「はーい」
返事だけは素直だった。
四人で食料を分けていることが、ひどく自然になっていた。
水路で出会った頃のアジサイなら、自分の食料を渡すことも、輪の中に座ることもなかっただろう。
今も三人からわずかに距離を空けている。
それでも、離れて食べようとはしなかった。
食事を終えると、アジサイはローズの足元へ目を向けた。
「右足、痛めた?」
「少し捻っただけよ」
「見せて」
「平気」
「平気かどうかは、見てから決める」
アジサイはローズの前へしゃがみ込み、右足首へ慎重に触れた。
指で押しても、ローズの表情は変わらない。
足首をゆっくり動かし、腫れがないことも確かめる。
「……問題ない。歩ける」
「心配してくれたの?」
「途中で動けなくなったら困るだけ」
「そういうことにしておくわ」
ローズが笑う。
アジサイは露骨に顔をしかめた。
「ローズまで、ひまわりみたいなこと言わないで」
「どういう意味?」
「ねえ、それどういう意味?」
二人から同時に尋ねられ、アジサイは黙って顔をそらした。
今度はアジサイの視線が、肩を回していたオリマーで止まる。
「オリマーも見せて」
「私は大丈夫だ」
「ローズと同じこと言ってる」
「本当に動かせる。骨にも異常はないと思う」
「思うだけでしょ」
アジサイはオリマーの返事を待たず、肩へ手を伸ばした。
上着を少しずらすと、根へ叩きつけられた箇所に青いあざが広がっている。
「無茶したから」
「あの場では、あれが最も生き残れる可能性の高い判断だった」
「そういう判断を、すぐにできるんだね」
アジサイの声がわずかに小さくなった。
オリマーが顔を上げると、アジサイはすでに手を離していた。
「折れてはいないと思う。でも今日は重いものを持たないで」
「ありがとう」
アジサイは返事をせず、長い青髪を耳へかけた。
ひまわりが楽しそうに二人を眺めている。
「アジサイ、すっかり仲間みたい」
「案内してるだけ」
「でも一緒にご飯食べたよ」
「それは関係ない」
「怪我も見てくれた」
「歩けない人がいたら困るから」
「明日も一緒に歩く?」
アジサイは一瞬だけ黙った。
「……湿原を抜けるまでは」
「じゃあ仲間だね」
「どうしてそうなるの?」
「一緒にご飯食べて、一緒に歩いて、一緒に逃げたから」
ひまわりは指を折りながら数える。
「もう三つもあるよ」
「仲間になる条件って三つなの?」
「今決めた」
「勝手すぎる」
そう言いながらも、アジサイは否定しなかった。
ローズがアジサイの顔を覗き込む。
「嫌なら、今のうちに逃げた方がいいわよ」
「どうして?」
「ひまわりは一度仲間だと思った相手を、簡単には離さないから」
「ローズも同じじゃない」
「私は違うわ」
「昨日、私が離れようとした時、袖をつかんだのは誰?」
「あれは方向を間違えていたからよ」
「私、何も言ってないけど」
「顔に書いてあったの」
今度はひまわりが笑った。
アジサイも堪えきれなかったのか、わずかに口元を緩める。
その表情を見て、ローズが目を細めた。
「やっと笑ったわね」
「笑ってない」
「笑ったよ!」
「笑ってない」
「絶対笑った!」
「うるさい」
短いやり取りの中に、もう出会ったばかりの頃の硬さはなかった。
霧の切れ間から日が差し込み、湿原の奥で白い水がきらめく。
絶え間なく続く低い轟音も、いつの間にか近くなっていた。
「ねえ、あれ見て」
ひまわりが指差す。
湿原を横切る岩壁から、水が幾筋にも分かれて流れ落ちていた。
巨大な滝ではない。
しかし水量は多く、崖下には白い水煙が漂っている。
岩壁の下には硬そうな地面が続き、その先には林も見えた。
オリマーは滝と周囲の地形を見比べた。
「崖下を通れば、あの林まで行けそうだ」
アジサイが水辺へ近づき、流れを確かめる。
「地面も今までより硬い。水路を歩くよりは安全だと思う」
「では、あそこを目指そう。日が暮れる前に林へ入りたい」
「分かった!」
ひまわりが勢いよく立ち上がる。
食べたことで、すっかり体力を取り戻したらしい。
四人は滝へ向かって歩き始めた。
近づくにつれ、水の音は大きくなった。
空気そのものが震えるほどの轟音だった。
足元を流れる水も、風に揺れる葉も、その音の中へ溶けていく。
冷たい飛沫が、火照った肌に心地よかった。
「気持ちいい!」
ひまわりが両腕を広げ、水煙の中へ駆け込んだ。
「転ぶわよ」
「転ばないよ。ローズもおいで!」
「私はいい」
「アジサイは?」
「もっと嫌」
「オリマーは?」
「荷物を濡らしたくない」
「みんな付き合い悪い!」
一人で飛沫を浴びるひまわりを見て、ローズが小さく笑った。
その横顔を見たオリマーは、彼女の髪飾りが歪んでいることに気づく。
「ローズ、少し止まってくれ」
「何?」
「髪飾りが外れかけている」
ローズが赤い髪へ手を伸ばす。
しかし触れるより早く、飾りが髪から落ちた。
オリマーは地面へ落ちる寸前で受け止める。
湿原を走り回ったせいか、留め具が大きく曲がっていた。
「直せそうだ。少し借りてもいいか?」
「ええ。お願い」
「大事なものなの?」
ひまわりが尋ねる。
ローズは一瞬だけ答えに迷い、それから静かに頷いた。
「大切よ」
「じゃあ、なくさなくてよかったね」
「ああ。林へ着いたら直そう」
オリマーは髪飾りを布で包み、腰の袋へしまった。
ローズが袋へ目を向ける。
「そんなに見なくても落とさない」
「オリマーが信用できないわけじゃないわ」
「なら、どうして見る?」
「預けるのに慣れていないだけ」
ローズは少し照れたように目をそらした。
「夜も持っていてくれる?」
「構わない。明日の朝までには直しておく」
「約束よ」
「ああ、約束する」
「私も髪飾りが欲しい!」
ひまわりが二人の間へ割り込んだ。
「どうしてそうなるの?」
「おそろいにしようよ。私とローズとアジサイとオリマー、四人分!」
「私は髪につけられないぞ」
「じゃあ、服につければいいよ」
「私はいらない」
アジサイが即答した。
「まだ何も見てないのに!」
「見てもいらない」
「絶対似合うよ。青い花とか」
「いらない」
「ローズからも言って!」
「いいんじゃない? 青い花、似合うと思うわ」
「ローズまで……」
アジサイは不満そうに眉を寄せる。
だが、本気で拒んでいるようには見えなかった。
ひまわりが滝の向こうに見える林を指差す。
「林に着いたら探そう。四人でおそろいの花!」
「先に休める場所を探す」
オリマーが言う。
「そのあと?」
「安全を確認して、時間が余ったらだ」
「約束?」
「善処する」
「それ、やらない時に使う言葉じゃない?」
「よく知っているな」
ひまわりが頬を膨らませる。
ローズが笑い、アジサイもわずかに口元を緩めた。
滝の音に包まれながら、四人は崖下を進んだ。
これから林で休む。
食料を分ける。
ローズの髪飾りを直す。
ひまわりが見つけてくる花を、アジサイが嫌そうな顔で受け取る。
次の朝になれば、また四人で歩き始める。
そんな光景が、ごく自然に思い浮かんだ。
オリマーは腰へ手をやった。
荷物袋の結び目が緩みかけている。
中には、預かったばかりの髪飾りが入っていた。
「少し待ってくれ」
オリマーは足を止め、その場へかがみ込んだ。
後ろを歩いていたローズも立ち止まる。
「危なかったわね」
「ああ。もう少しで落とすところだった」
「約束したばかりなのに」
「だから気づけたんだ」
結び目を締め直しながら、オリマーが答える。
ローズはその様子を見下ろし、穏やかに笑っていた。
滝の上で、何かが動いた。
だが、その音は聞こえなかった。
岩を擦る音も、水を踏み砕く音も、崖の縁が崩れる音さえも、すべて滝の轟音に呑み込まれていた。
水煙が岩壁の上を覆い、その向こうにある巨大な影を隠していた。
ローズの笑みが消えた。
オリマーの上へ、影が落ちる。
ローズは何も言わなかった。
叫ぶ時間もなかった。
ただ、かがんでいたオリマーの身体を両手で突き飛ばした。
「ロー――」
視界が横へ流れる。
肩から地面へ落ちたオリマーの耳に、滝とは違う音が届いた。
湿った肉と骨が、一度に押し潰される音だった。
崖上から、巨大な脚が落ちてきた。
水と泥が爆発する。
地面が大きく沈み、赤い飛沫が水煙の中へ混じった。
ローズの姿は消えていた。
一瞬前まで彼女が立っていた場所を、主の巨大な脚が踏みつけていた。
「ローズ!」
オリマーの絶叫は、滝の轟音にかき消された。
すぐに立ち上がろうとする。
だが、足が泥に滑り、膝から地面へ落ちた。
それでも両手をついて起き上がり、巨大な脚へ向かおうとする。
「ローズ! ローズ!」
返事はない。
主が脚を持ち上げる。
泥が吸いつき、重い音を立てた。
深くえぐれた足跡の中に、ローズが残されていた。
右脚だけが、踏みつけられた範囲の外へ伸びている。
膝から下は、先ほどアジサイが触れていた時と何も変わらないように綺麗だった。
その先は、泥と血の中で潰れていた。
腰は完全に形を失い、腹と胸は足跡の底へ押し込まれている。
砕けた骨が裂けた皮膚から突き出し、その周囲へ赤黒い血が広がっていた。
両腕は身体の下へ折り畳まれ、片方の手だけが泥の外へ出ている。
指は、オリマーを押しのけた直後の形で開いていた。
頭も脚の下に入っていた。
赤い髪が血と泥の中へ広がっている。
左側の顔は押し潰され、輪郭さえ残っていない。
辛うじて形を保っている右目だけが、何も映さず開いていた。
息はしていなかった。
「ローズ!」
オリマーは足跡の中へ飛び込もうとした。
その胴へ、後ろからひまわりの腕が回る。
「離してくれ!」
「駄目」
ひまわりの声は、不自然なほど落ち着いていた。
「まだ助けられる! 早く引き出さないと!」
「もう動かない」
「分からないだろう!」
「分かるよ」
言い切る声には、震えがなかった。
泣いてもいない。
ひまわりはローズの遺体ではなく、崖上から落ちてきた巨体の残る二本の脚を見ていた。
次の一歩がどこへ落ちるか。
どちらへ逃げれば踏まれないか。
それだけを見定めている。
「離せ! ローズがそこにいるんだ!」
「ローズがオリマーを逃がしたの」
ひまわりはオリマーの身体を強く引いた。
「だから、オリマーが戻ったら駄目」
「そんなことを言っている場合か!」
「今は逃げる時だよ」
普段と変わらない、幼い声だった。
それなのに、ローズの潰れた身体を前にした言葉とは思えないほど冷静だった。
オリマーはひまわりの腕を振りほどこうとした。
何度も肘を動かし、泥の中で足を踏ん張る。
それでもひまわりは離さなかった。
「アジサイ、そっち持って」
呼ばれたアジサイは反応しなかった。
足跡の中に残されたローズを見つめている。
ローズが動かなくなったこと自体に、取り乱しているわけではなかった。
しかし、つい先ほど自分が触れた右脚だけが綺麗に残り、その先に幼い身体の残骸がある。
その光景から目を離せずにいた。
顔から血の気が引いている。
握り締めた指先が細かく震え、爪が手のひらへ食い込んでいた。
「アジサイ!」
ひまわりの声で、アジサイの肩が跳ねた。
「あ……」
返事をしようとして、声が喉に引っかかる。
アジサイは一度だけ唾をのみ込み、オリマーの腕をつかんだ。
その手にも、うまく力が入っていなかった。
「離してくれ、アジサイ!」
「……ここにいたら、踏まれる」
「ローズを置いていけるわけがないだろう!」
「分かってる」
アジサイはそう答えたものの、何が分かっているのかを口にはしなかった。
オリマーをつかむ手とは反対の手で、自分の胸元を押さえている。
呼吸が浅い。
何度もローズの右脚へ視線が戻る。
「アジサイ、林まで行くよ」
ひまわりが言った。
「う、うん」
「右から。次の脚は左に来る」
普段なら湿原の状況を読むのはアジサイだった。
しかし今は、ひまわりが巨体の動きを見ていた。
ひまわりはローズの遺体を一度も振り返らない。
オリマーを生かすことだけに集中している。
崖上の水溜まりを進んでいた別の主が、崩れた岩とともに滝の下へ落ちてきたのだ。
最初に遭遇した個体より、わずかに小さい。
それでも四人を踏み潰すには、充分すぎる大きさだった。
巨体は水晶に覆われた頭を持ち上げる。
小さな彼らの存在には、まだ気づいていない。
あるいは、気づいていても獲物と認識していないのかもしれない。
残る二本の脚を滝の下へ降ろし、ゆっくりと身体の向きを変えていく。
「今」
ひまわりがオリマーを引いた。
アジサイも遅れて力を込める。
「ローズ!」
オリマーの喉から、再び絶叫が漏れた。
足跡へ向かって手を伸ばす。
開いたまま泥から出ているローズの指は、もう動かなかった。
「ローズ! 返事をしてくれ! ローズ!」
オリマーの声は届かない。
ひまわりとアジサイに引きずられ、ローズの身体が少しずつ遠ざかっていく。
「嫌だ! 待ってくれ! まだ、まだ何かできる!」
「できないよ」
ひまわりが答える。
「今のオリマーにできるのは、生きることだけ」
あまりにも平静な言葉だった。
オリマーはひまわりを見た。
ひまわりは泣いていない。
目の前でローズが潰されたというのに、その瞳には恐怖も混乱も浮かんでいなかった。
ただ、進む方向を見ている。
アジサイの方が、よほど動揺していた。
アジサイは何度も足をもつれさせ、そのたびに顔を強張らせる。
ローズが動かなくなったことを理解できていないのではない。
受け入れられないわけでもない。
それでも、幼い少女の形をした身体が無惨に潰れている光景を、身体の方が拒んでいた。
主の次の一歩が、足跡の縁を踏んだ。
崩れた泥が流れ込み、外へ残されていたローズの右脚を覆っていく。
「ローズ!」
オリマーの声が裏返る。
身体をひねり、ひまわりたちの手から逃れようとする。
「離してくれ! 頼む! あそこに置いていかないでくれ!」
「オリマー」
ひまわりが呼ぶ。
「ローズが助けた命を捨てないで」
その一言に、オリマーの動きが止まった。
止まったのは、ほんの一瞬だった。
ひまわりはその隙にオリマーの腕を肩へ回し、林へ向かって歩き出す。
アジサイも反対側から身体を支えた。
三人は水煙の中を進む。
背後では、巨大な三本脚が滝の下を歩いていた。
その向こうでは、先ほど逃れた別の三本脚が霧の中を遠ざかっている。
湿原には、最初から二匹の主がいた。
オリマーは何度も振り返った。
しかし、水煙と巨体に遮られ、ローズの姿はもう見えない。
「ローズ……」
力を失った声が、滝の音へ消えていく。
腰の袋の中には、預かった髪飾りが入っていた。
林へ着いたら直すと約束した。
明日の朝までには返すと約束した。
四人で花を探すはずだった。
次の朝も、四人で歩くはずだった。
その約束だけを袋の中へ残し、ローズは滝の下に置き去りにされた。