「ローズ!」
オリマーの叫びは、滝の轟音へ呑み込まれた。
振り返っても、彼女の姿はもう見えない。白い水煙の向こうで巨大な三本脚が動き、その足元に、ほんの少し前までローズだったものが残されている。
戻らなければならない。あの場所に置いていくわけにはいかない。
そう思っているのに、身体は反対方向へ運ばれていた。右側からひまわりが腕を引き、左側からアジサイが肩を支えている。
「離してくれ! ローズが、まだあそこにいる!」
「次の脚が来るよ」
ひまわりは振り返らなかった。前方の林と、背後で動く主の脚を交互に確認しながら、オリマーの腕を引き続ける。
「今戻ったら、オリマーも踏まれる」
「だからって置いていけるか!」
「置いていくんじゃないよ」
「同じだ!」
オリマーが怒鳴っても、ひまわりは足を止めなかった。
主が脚を持ち上げる。滝の音に紛れ、動き始める音は聞こえない。だが、水煙の向こうで巨大な影が傾くのが見えた。
「右へ行くよ。次の脚は左に来るから」
「本当に分かるの?」
アジサイの返事は遅かった。
「たぶん……」
「たぶんじゃ駄目。アジサイも右」
ひまわりがアジサイの腕を引く。
三人が右へ寄った直後、左側の地面へ巨大な脚が下りた。衝撃で泥と水が跳ね上がり、地面が沈む。
オリマーは押し寄せた濁流に足を取られた。ひまわりが腰へ腕を回し、倒れる前に支える。
「止まらないで」
「ローズが!」
「分かってる」
「分かってない!」
怒鳴った声が、自分の耳にもひどく遠く聞こえた。
ひまわりは涙を流していない。声も震えていない。一度も振り返らず、次の一歩をどこへ置くかだけを考えている。
その姿が、オリマーには理解できなかった。
ひまわりはローズといつも一緒にいた。くだらないことで言い合い、危険な時には互いを庇っていた。少し姿が見えなくなっただけでも、大声で名前を呼んでいた。
そのひまわりが、今はローズを置いて歩いている。まるで、何も失っていないかのように。
「アジサイ、前を見て」
アジサイは返事をしなかった。オリマーを支える手からほとんど力が失われ、青ざめた顔で自分の指先を何度も擦っている。
「アジサイ!」
「……聞こえてる」
「この先、どっちが安全?」
「右……右の木の根を越えた方が、水が浅い」
「分かった。オリマー、もう少しだけ歩いて」
オリマーの足は動いていたが、自分で歩いている感覚はなかった。
深く沈んだ足跡。泥の外へ伸びていた、傷一つない右脚。その先で形を失っていた身体。血と泥の中へ広がった赤い髪。何も映さず開いていた右目。
少し前まで、ローズは笑っていた。
林へ着いたら髪飾りを直すと約束した。明日の朝には返すと伝えた。ひまわりが見つけた花を、四人で身につけるはずだった。
その何一つ果たせないまま、ローズは死んだ。
腰の袋が、歩くたびに身体へ触れる。中にはローズから預かった髪飾りが入っていた。
それだけが壊れずに残った。
オリマーは袋を握った。布越しに、歪んだ蔓の輪の感触が伝わる。
ローズの身体は潰れたのに、髪飾りは残っている。その事実が、ひどく間違っているように思えた。
「もう少しだよ」
前方には林が見えていた。そこまで行けば、主の脚から逃れられる。
安全な場所へ着いたら、一人でも戻る。ローズの身体を泥から引き出す。
潰れた身体を運べるのか。どこまでが身体として残っているのか。それを見て、自分が手を伸ばせるのか。
何も分からない。
それでも、置いていくよりはましだった。
ローズは自分を助けるために死んだ。その彼女を置き去りにして、自分だけが逃げることなど許されない。
「ローズ……」
名前を呼んでも、もう返事はなかった。
林へ入ると、滝の音が少しだけ遠ざかった。
巨大な木々が轟音を遮り、代わりに葉の揺れる音と三人の荒い呼吸が聞こえる。
ひまわりは巨木の根元にある窪みを見つけ、オリマーを座らせた。
「ここなら、すぐには見つからないと思う」
オリマーはすぐに立ち上がろうとした。足に力が入らず、木の根へ手をつく。
「どこへ行くの?」
「決まってるだろ。ローズのところへ戻る」
「駄目だよ」
「主はもう移動している。今なら――」
「もう一匹いるかもしれない」
ひまわりは声を荒らげなかった。その冷静さが、今はひどく腹立たしかった。
「だったら、いつ戻るんだ」
「安全になってから」
「いつ安全になる!」
ひまわりの肩が僅かに揺れた。それでも、オリマーの前から退かなかった。
「俺が行かないと、ローズがあのままなんだ!」
「うん」
「うん、じゃない!」
オリマーの声が林に響き、枝に止まっていた小さな鳥が飛び立った。
ひまわりは目を伏せる。怒鳴られたことを怖がっているのではなく、何を言えば伝わるのか分からず困っているようだった。
「戻っても、オリマーが死ぬだけだよ」
「それでも行く」
「ローズは、それを望んでない」
「本人に聞いたのか!」
言った直後、胸の奥が強く痛んだ。
本人には、もう何も聞けない。最後の言葉さえなかった。
自分が死ぬと分かっていたのか。怖かったのか。助けてほしかったのか。
何も分からない。二度と聞くこともできない。
「聞かなくても分かるよ。ローズがオリマーを助けたから」
「だから、あのまま置いていくのか」
「違うよ」
「何が違う!」
ひまわりが顔を上げる。その瞳には、やはり涙がなかった。
「ローズは、まだいるから」
オリマーは言葉を失った。
冗談でも、悲しみを誤魔化しているのでもない。本当にローズがまだいると知っている顔だった。
「ローズは死んだ」
オリマーは一つずつ言葉を押し出した。
「俺の目の前で踏み潰された。身体が潰れて、息もしていなかった」
「うん。あのローズは死んだよ」
あまりにも簡単に認められ、オリマーの背筋が冷えた。
「あのローズって……何を言っている?」
「あれもローズだよ。でも、ローズはあれだけじゃない」
ひまわりは、どうして分からないのかとでも言うように首を傾げた。その仕草が普段と変わらないからこそ、気味が悪かった。
オリマーはアジサイを見る。
「お前にも分かるのか」
アジサイの視線が自分の右手へ落ちる。その指で、少し前にローズの右足首へ触れた。問題なく歩けると伝えた。その同じ右脚だけが、足跡の外へ綺麗に残されていた。
思い出した途端、指先が小さく震えた。
「分かる。身体が一つ、死んだだけだから」
「だけ?」
「違う。そういう意味じゃ……」
「身体があんなふうに潰されたのに、それだけなのか?」
「私たちにとっては……」
アジサイは言葉を止め、胸元へ手を当てた。
頭では説明できるはずだった。死んだのは一つの身体で、ローズそのものが消えたわけではない。それでも、幼い身体が足跡の中へ押し込まれている光景を思い出すと、息が詰まった。
「……ごめん。今は、うまく説明できない」
三人で同じものを見たはずだった。同じ音を聞き、同じ血を浴びた。
それなのに、見ていたものの意味だけが違っている。
オリマーは、自分だけが二人から遠く離れた場所にいるように感じた。
「お前たちは……何なんだ」
口から漏れた声は、ひどく弱かった。
ひまわりが目を見開き、アジサイは顔を伏せる。
二人がローズを大切にしていないわけではない。それは分かっている。それでも、どうしても同じ場所に立てなかった。
「少し、一人にしてくれ」
オリマーは木の根元へ座り直した。
ひまわりは不安そうに顔を覗く。
「一人で戻らない?」
「……戻らない」
身体が動くようになれば、二人の目を盗んで戻るかもしれない。それでも今は、立ち上がる力さえなかった。
「近くを見てくる。水と、もっと休める場所があるか確認したい」
アジサイが立ち上がり、ひまわりもそれに続く。
「遠くには行かないからね」
二人の足音が木々の奥へ消え、林の中にオリマーだけが残された。
オリマーは袋から髪飾りを取り出した。
蔓で作った輪は歪み、赤茶色の殻を留めていた植物繊維が緩んでいる。それでも血も泥もついていない。
ローズだけがいない。
直すと約束した。明日の朝までに返すと言った。約束した相手は、もう戻ってこない。
それなのに、ひまわりはローズがまだいると言った。
身体が一つ死んだだけ。ローズはあれだけではない。
言葉の意味を考えようとしても、足跡の中に残された姿が邪魔をする。
あれをローズではないとは思えなかった。自分を突き飛ばした手も、髪飾りを預けた時の少し照れた顔も、全てあの身体にあった。
それが失われてなおローズがいるというのなら、何をローズと呼べばいいのか。
「そんなに見ても、勝手には直らないわよ」
背後から、聞こえるはずのない声がした。
オリマーの指が止まる。
振り返ることができなかった。滝の音が耳に残り、聞き間違えたのだと思おうとした。
背後の草が揺れる。
「オリマー?」
もう一度、声がした。
オリマーはゆっくりと振り返った。
木の根の向こうに、小柄な少女が立っている。
赤い髪。見慣れた顔。血にも泥にも汚れていない服。両腕も、胸も、腰も、本来あるべき形を保っている。
右脚もあった。
ただ、髪飾りだけがない。
少女はオリマーの顔を見ると、僅かに表情を緩めた。
「無事だったのね」
ローズだった。
そうとしか思えない姿で、そうとしか思えない声を出している。
オリマーは立ち上がらなかった。後ろへ下がりも、悲鳴を上げもしなかった。ただ、目の前にいる少女を見つめ続けた。
ローズが一歩近づく。
右脚が草を踏み、泥の外へ伸びていた右脚と重なる。赤い髪が肩から流れ、血と泥の中へ広がっていた髪と重なる。
何も映さず開いていた右目が、今はオリマーを見ている。
理解できなかった。
足跡の中にいたローズは死んでいた。それを自分の目で見た。それなのに、同じ顔をした少女が目の前で呼吸している。
「聞こえてる?」
何度か息だけが漏れ、ようやく声になった。
「……ローズ?」
「そうよ」
あまりにも当たり前に答えた。
ローズはオリマーの手元にある髪飾りを見つけ、少し安堵したように息を吐く。
「ちゃんと持っててくれたのね」
その言い方まで、髪飾りを預けたローズと同じだった。
林の奥から二人分の足音が近づく。
「オリマー、水があったよ!」
葉に水を入れて戻ってきたひまわりは、ローズを見つけると表情を明るくした。
「ローズ!」
葉をアジサイへ押しつけ、迷いなく駆け寄る。ローズの腕へ抱きつき、そのまま嬉しそうに見上げた。
「遅かったね!」
「アンタたちが急に移動したからでしょ」
「だって主がいたんだよ」
「見れば分かるわよ」
いつもの声。いつものやり取り。
ひまわりはローズの胸へ頬を寄せている。そこが少し前まで潰れていたことなど、最初から知らないかのように。
アジサイも驚かなかった。ローズの顔を見て、張りつめていた息を吐く。
「やっぱり、あの時見たのはローズだったんだ」
「見えてたなら声をかけなさいよ」
「見間違いだと思ったから。こっちにもローズがいたし」
「それなら仕方ないでしょ」
三人の中では話が通じていた。
誰も、なぜ死んだ少女が歩いているのかとは尋ねない。誰も、その身体が本物なのか確かめようとしない。
オリマーだけが、木の根元へ座ったまま動けなかった。
同じ光景を見ているはずなのに、自分だけが別のものを見ている。
ひまわりがオリマーを見る。
「ね。ローズはいたでしょ?」
明るく笑っている。
オリマーは答えられなかった。ローズも不思議そうに彼を見ている。
三人には、それで何もおかしくなかった。
自分だけが間違っているような空気の中で、オリマーは掌の髪飾りを握り続けていた。
「ねえ、ローズ。大丈夫?」
ひまわりが彼女の顔を覗き込む。
「何か顔色悪いよ」
「急にいろいろ入ってきたから、少し気持ち悪いだけ」
ローズは木の根へ腰を下ろした。座る直前、右脚へ体重をかけるのをほんの一瞬躊躇った。
「水、飲む?」
「もらう」
アジサイが葉を差し出す。ローズは両手で受け取り、少しずつ水を飲んだ。
喉が動き、胸が上下している。何度確かめても、生きているようにしか見えない。
「オリマー?」
ローズが水から顔を上げる。
「さっきから、何なの?」
責める声ではなかった。自分を凝視し続ける理由が、本当に分からないようだった。
「……身体は痛くないのか」
「どこも怪我してないわよ」
「そうじゃない。さっき、主に踏まれた」
「うん」
「覚えているのか」
「覚えてる」
「なら……どうしてここにいる?」
ローズはそこで初めて、オリマーが何を理解できていないのかに気づいたらしい。
「オリマー、一心群体のこと知らなかったの?」
ひまわりが尋ねる。
「何だ、それは」
「ローズ、話してなかったの?」
「話す必要があると思わなかったのよ」
「アタシたちは、身体が一つだけじゃないの」
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ」
「それじゃ分からない」
ローズが眉を寄せる。自分たちにとって当たり前のことを、どこから説明すればいいのか分からないようだった。
アジサイが代わって話し始める。
「同じ姿をした身体が、いくつかあるの。姿だけじゃなくて、記憶や考え方、好きなものも同じ」
「同じ人間が、複数いるということか」
「身体は複数あるけど、ローズは一人。だから一心群体。いくつ身体があっても、心は一つ」
「だが、このローズは俺たちと一緒にいなかった」
「普段は、それぞれ別に動いてるから。離れていたら、どこにいるかも、何を話してるかも分からない」
「だったら別人じゃないのか」
「違うよ」
ひまわりが迷いなく答える。
「私が何人いても、全部私だよ」
「それぞれ違う経験をしてもか?」
「うん。それでも私」
オリマーはローズを見る。
「では、この身体は俺たちと過ごしたことを知らないはずだ」
「少し前まではね。でも、今は全部知ってる」
「なぜだ」
「死んだから」
アジサイが説明を続ける。
「身体が死ぬと、そこにあったものが一番近くにいる同じ心の身体へ移るの」
「記憶だけか?」
「全部。見たものも、聞いたものも、考えたことも、感じたことも」
「それなら、お前たちは死なないのか」
オリマーの問いに、ひまわりは首を横へ振った。
「身体が残ってる間だけだよ。最後の一人まで死んだら、もうどこにも移れないから」
その声だけは、僅かに小さかった。
死がなくなったのではない。ただ、オリマーが知っている場所とは違うところに、命の終わりが置かれているだけだった。
「俺と一緒に歩いたことを覚えているのか」
ローズが頷く。
「主の背中から逃げたことも、滝の下で話したことも。髪飾りを預けたことも、明日の朝までに直すって言ったことも」
「俺を突き飛ばしたこともか」
「それも覚えてる」
「そのあとも?」
ローズはすぐには答えなかった。右脚へ手を置き、指先が膝の上で小さく震える。
「……覚えてる」
「どこまでだ」
「全部よ」
「何を覚えている?」
聞くべきではない。それでも、確かめずにはいられなかった。
ローズは右脚へ置いた手に力を込める。
「アンタの上に影が落ちたこと。間に合わないと思ったから、突き飛ばしたこと」
一度息を吸う。
「上を見たら、脚があった。逃げようとは思わなかった。もう間に合わないって分かったから」
「もういい」
「身体へ重さがかかった。最初に右脚が折れて、それから……」
無傷の右脚が小さく痙攣した。ローズは膝を抱えるように足を引き寄せる。
「ローズ?」
「平気。今の身体は何ともないから」
そう言いながら、右脚を抱える手は離れなかった。
「それから、胸が……」
ローズが胸元を押さえる。息を吸おうとして途中で止まり、浅い呼吸を何度か繰り返した。
「息ができなくなって、音がした」
「音?」
「自分の骨が潰れる音」
アジサイが顔を背けた。ひまわりだけが、ローズの背中を静かに撫でる。
「痛かった?」
「痛いって思う時間は、あまりなかった。急に全部がなくなって、気づいたら葦の中にいた」
「身体が移ったのか?」
「違うわよ。この身体は最初から葦の近くにいた。そこへ記憶が移ってきたの」
ローズはオリマーを正面から見た。
「アタシには、アンタと歩いた記憶がある。アンタを助けた記憶も、踏み潰された記憶もある。だから、あそこで死んだのもアタシよ」
オリマーは何も言えなかった。
あの身体は今も足跡の中に残されている。それでも、このローズは最後までの記憶を持っている。
髪飾りを預けた気持ちも、自分を助けようとした判断も、死の直前に感じた恐怖も。
「……なら、お前はローズなんだな」
「そうよ」
「すまない。分からなかった」
「今は分かった?」
全てを理解したわけではない。それでも、目の前の少女を別人だとは言えなかった。
「……分かった。お前はローズだ」
ローズの強張っていた表情が、僅かに緩む。
「最初から、そう言ってるでしょ」
ひまわりが安心したように笑い、アジサイも肩の力を抜いた。
四人へ戻った。そう思わなければならなかった。
「これは、約束どおり直す」
オリマーは手の中の髪飾りを示す。
「明日の朝までには返す」
「覚えてるわよ」
「そうだったな」
ローズがすぐ近くへ座っても、オリマーは離れなかった。
目の前にいるのはローズだ。何度も自分へ言い聞かせた。
四人は、さらに林の奥へ移動した。
滝から離れるにつれ、轟音は少しずつ小さくなる。
アジサイが見つけた場所は、太い根が壁のように重なり、その内側だけ乾いた土が残っていた。上には大きな葉が重なり、多少の雨なら防げそうだった。
ひまわりとアジサイが枯れた葉を集める。
ローズも立ち上がろうとしたが、右脚へ力を入れた瞬間、顔を歪めた。
「無理に動くな」
「怪我してないって言ったでしょ」
「だが、痛むんだろ」
「痛くない」
「なら、どうして右脚を庇っている?」
ローズは答えられなかった。自分でも気づいていなかったらしい。
「身体は痛くない。ただ、痛かったことを覚えてるだけ」
オリマーには、その違いが分からなかった。
記憶の中にしかない痛みでも、ローズの足は震えている。存在しない傷でも、呼吸を止めている。それを痛みではないと呼ぶ理由がなかった。
「今日は休め。頼む」
ローズはしばらく黙ったあと、諦めたように座り直した。
「……分かった」
四人の間に、少しずつ会話が戻り始める。
ひまわりが葉の置き方でローズと揉め、アジサイが静かに直す。ローズが文句を言い、ひまわりが笑う。
以前と同じように見える。
その輪の中に座りながら、オリマーだけは何度も人数を数えていた。
ひまわりがいる。アジサイがいる。ローズがいる。自分もいる。
確かに四人だった。
それでも、滝へ着く前の四人とは違う。誰かが増えたわけでも、欠けたわけでもないのに、同じ場所へ戻れたとは思えなかった。
日が傾き、林の中が暗くなり始める。
オリマーは歪んだ髪飾りを掌へ載せた。
約束を果たすため、蔓の輪と緩んだ植物繊維の状態を確かめる。
向かい側に座るローズが、その様子を見ていた。
目が合う。
ローズは何も言わず、僅かに表情を緩めた。
オリマーも頷き返した。
今度こそ、ローズへ返す。
その時のオリマーは、約束を果たせない理由が自分の中に残っていることに、まだ気づいていなかった。
日が沈むと、林の中は急速に暗くなった。
ひまわりとアジサイが集めた枯れ枝で小さな火を起こし、オリマーはそのそばで髪飾りを修理した。
蔓の輪を水で軽く湿らせ、柔らかくなった箇所から指で形を整える。緩んだ植物繊維を一度外し、残っていた細い繊維で赤茶色の殻を固定し直した。
「直りそう?」
「ああ。輪そのものは切れていない」
「よかった」
ひまわりがローズを見る。
「ローズもこっちで見ればいいのに」
「見ても早く直るわけじゃないでしょ」
「でも気になるんでしょ?」
「別に」
そう言いながらも、ローズはオリマーが手を動かすたび、赤い髪の隙間から髪飾りへ視線を向けていた。
「オリマー」
アジサイが小さな声で呼ぶ。
「少し休んだ方がいい。手、震えてる」
細い植物繊維を押さえる指先が、確かに僅かに震えている。
「疲れているだけだ。もう少しで終わる」
オリマーは繊維を重ねて巻き、殻が動かないことを確かめた。最後に輪全体を軽く引き、尖った箇所がないか指でなぞる。
最初に作った時より少し歪んでいるが、髪へ留めることはできる。
「直った」
「ちゃんと戻ってる!」
ひまわりが嬉しそうに身を乗り出す。
「ローズ、直ったって!」
「聞こえてる」
ローズはゆっくり立ち上がり、火のそばまで歩いてきた。
「ちゃんと約束を守ったのね」
「ああ。少し歪みは残ったが、使えるはずだ。確認してくれ」
オリマーは髪飾りを掌へ載せて差し出した。
ローズも手を伸ばす。
何もおかしなことはなかった。ローズの髪飾りを、ローズへ返す。それだけだった。
細い指先が、オリマーの手へ触れた。
その瞬間、泥から突き出していた手が見えた。
身体の下へ折り畳まれ、片方だけが足跡の外へ残されていた腕。何かを押しのけた直後の形で開き、二度と動かなかった指。
考えるより早く、オリマーの腕が動いた。
ローズの手を強く払いのける。
乾いた音がした。
ローズの腕が横へ弾かれ、髪飾りが二人の間へ落ちた。
誰も動かなかった。
火の中で枝が爆ぜ、その音だけが静まり返った林へ響いた。
オリマーは自分の手を見た。
何をしたのか、すぐには理解できなかった。
拒むつもりなどなかった。怖いとも、気味が悪いとも思っていなかった。少なくとも、そう思っているつもりだった。
「ローズ……」
ローズは払いのけられた手を胸元へ引き寄せ、オリマーを見つめている。
「違う」
オリマーは慌てて髪飾りを拾った。
「今のは違うんだ」
「何が?」
「お前を拒んだわけじゃない」
「でも、払ったでしょ」
「それは……」
なぜ自分の腕が動いたのか、オリマーにも分からない。違うと言いながら、何が違うのか説明できなかった。
ローズは髪飾りを見つめる。
「同じローズだって、言ったくせに」
「そう思っている」
「思ってるだけ?」
「違う。本当に、お前はローズだ」
「だったら、どうして?」
オリマーは答えられなかった。
「もう一度、渡させてくれ」
今度は意識して手を伸ばしたが、ローズは受け取らなかった。
「今はいらない」
「だが、これはお前のものだ」
「無理に渡される方が嫌」
「無理をしているわけじゃない」
「じゃあ、もう一回触っても平気?」
オリマーの手が止まった。
今度は払わない。意識していれば、同じことはしない。そう言えばいいだけなのに、声が出なかった。
「やっぱり、いらない」
ローズは背を向ける。
「直してくれたことは、ありがと」
赤い髪が背中へ流れている。そこには、返すはずだった飾りがない。
ひまわりが追おうと立ち上がったが、アジサイが腕をつかんだ。
「今は行かない方がいい」
「でも……」
「ひまわりが行っても、たぶん困らせるだけ」
オリマーの掌に、行き場を失った髪飾りだけが残った。
約束どおり直した。ローズも戻ってきた。それなのに、返すことだけができなかった。
夜が深くなっても、オリマーは眠れなかった。
小さな火はすでに消え、赤い熾だけが暗闇の中に残っている。
ひまわりはアジサイの隣で眠っていた。ローズだけは二人から少し離れた木の根元で、オリマーへ背を向けて身体を丸めている。
髪飾りは、オリマーの手元にあった。
ローズの手を払いのけた感触が、右手に残っている。
触れられた場所に血も泥もついていなかった。温かかった。生きている者の手だった。
それなのに、自分の身体は触れてはいけないものへ触れられたように反応した。
ローズはローズだ。
記憶も感情も、約束も引き継いでいる。自分を助けるために突き飛ばしたことも覚えている。
頭では分かっている。
それでも目を閉じると、足跡の中に残された身体が見える。
暗闇の中で、小さな声がした。
「……重い」
オリマーは顔を上げる。
声はローズのいる方から聞こえた。
「ローズ?」
返事はない。
オリマーが近づくと、ローズは眠ったまま両腕で右脚を強く抱えていた。指が皮膚へ食い込み、膝が小さく震えている。
「やめて……息が……できない……」
額には汗が浮かび、呼吸が速い。転送された死の記憶を、夢の中で繰り返している。
「ローズ、起きろ」
声だけでは届かない。
ローズの指が、泥から逃れようとするように地面を引っかく。
「オリマー……」
助けを求める弱い声だった。
オリマーは肩へ手を伸ばす。
起こせばいい。軽く揺らし、夢だと教えればいい。以前なら、何も考えずにできた。
指先がローズの肩へ近づく。
あと少しで触れる。
そこで、手が止まった。
昼間の感触が蘇る。また身体が勝手に動くかもしれない。今度は、もっと強く傷つけるかもしれない。
血と泥に潰れた肩が、目の前の無傷な肩へ重なる。
触れなければならない。ローズは苦しみ、自分を呼んでいる。
頭では分かっているのに、腕がそれ以上動かない。
「ローズ……」
名前を呼ぶことしかできなかった。
「重い……痛い……」
もう一度手を近づけようとしても、指先は触れる直前で止まる。
やがて、ローズの瞼がゆっくりと開いた。
浅い呼吸を繰り返しながら、自分へ伸ばされたまま止まっているオリマーの手を見る。
「……何してるの?」
「うなされていた。俺を呼んでいた」
ローズの視線が、指先と肩の間に残された僅かな隙間へ向く。
「でも、触らなかったのね」
責める声ではなかった。そのことが、余計に苦しかった。
「違う。俺は、起こそうと……」
「もう起きたから」
ローズは身体を起こし、オリマーの手が届かない位置まで自分から下がった。
「もう平気」
「平気には見えない」
「今の身体は何ともない。夢を見ただけよ」
肩はまだ小さく震え、右脚を抱く指も離れていない。
「ローズ、俺は――」
「平気だって言ってるでしょ」
それ以上、助けを求めるつもりはないのだと分かった。
オリマーは伸ばしていた手を下ろす。
「……すまない」
ローズは答えず、再びオリマーへ背を向けた。
先ほどよりも遠い。手を伸ばしても、もう届かない距離だった。
オリマーは元の場所へ戻り、布を開いた。
直し終えた髪飾りが、掌の上に残っている。
約束は果たした。
ローズも戻ってきた。
声も、記憶も、約束も、オリマーを助けた気持ちも失っていない。
それでもオリマーは、彼女へ髪飾りを返すことも、苦しむ身体へ触れることもできなかった。
ローズが失ったのは、一つの身体だけではない。
オリマーが何も考えずに触れてくれた時間も、あの滝の下に置き去りにされていた。
やっぱり曇らせシーンを描くのが一番楽しいンゴねぇ