ピクミン擬人化ハーレム物   作:風神ぷー

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第十九話 一心群体

 

 

「ローズ!」

 

オリマーの叫びは、滝の轟音へ呑み込まれた。

 

振り返っても、彼女の姿はもう見えない。白い水煙の向こうで巨大な三本脚が動き、その足元に、ほんの少し前までローズだったものが残されている。

 

戻らなければならない。あの場所に置いていくわけにはいかない。

 

そう思っているのに、身体は反対方向へ運ばれていた。右側からひまわりが腕を引き、左側からアジサイが肩を支えている。

 

「離してくれ! ローズが、まだあそこにいる!」

 

「次の脚が来るよ」

 

ひまわりは振り返らなかった。前方の林と、背後で動く主の脚を交互に確認しながら、オリマーの腕を引き続ける。

 

「今戻ったら、オリマーも踏まれる」

 

「だからって置いていけるか!」

 

「置いていくんじゃないよ」

 

「同じだ!」

 

オリマーが怒鳴っても、ひまわりは足を止めなかった。

 

主が脚を持ち上げる。滝の音に紛れ、動き始める音は聞こえない。だが、水煙の向こうで巨大な影が傾くのが見えた。

 

「右へ行くよ。次の脚は左に来るから」

 

「本当に分かるの?」

 

アジサイの返事は遅かった。

 

「たぶん……」

 

「たぶんじゃ駄目。アジサイも右」

 

ひまわりがアジサイの腕を引く。

 

三人が右へ寄った直後、左側の地面へ巨大な脚が下りた。衝撃で泥と水が跳ね上がり、地面が沈む。

 

オリマーは押し寄せた濁流に足を取られた。ひまわりが腰へ腕を回し、倒れる前に支える。

 

「止まらないで」

 

「ローズが!」

 

「分かってる」

 

「分かってない!」

 

怒鳴った声が、自分の耳にもひどく遠く聞こえた。

 

ひまわりは涙を流していない。声も震えていない。一度も振り返らず、次の一歩をどこへ置くかだけを考えている。

 

その姿が、オリマーには理解できなかった。

 

ひまわりはローズといつも一緒にいた。くだらないことで言い合い、危険な時には互いを庇っていた。少し姿が見えなくなっただけでも、大声で名前を呼んでいた。

 

そのひまわりが、今はローズを置いて歩いている。まるで、何も失っていないかのように。

 

「アジサイ、前を見て」

 

アジサイは返事をしなかった。オリマーを支える手からほとんど力が失われ、青ざめた顔で自分の指先を何度も擦っている。

 

「アジサイ!」

 

「……聞こえてる」

 

「この先、どっちが安全?」

 

「右……右の木の根を越えた方が、水が浅い」

 

「分かった。オリマー、もう少しだけ歩いて」

 

オリマーの足は動いていたが、自分で歩いている感覚はなかった。

 

深く沈んだ足跡。泥の外へ伸びていた、傷一つない右脚。その先で形を失っていた身体。血と泥の中へ広がった赤い髪。何も映さず開いていた右目。

 

少し前まで、ローズは笑っていた。

 

林へ着いたら髪飾りを直すと約束した。明日の朝には返すと伝えた。ひまわりが見つけた花を、四人で身につけるはずだった。

 

その何一つ果たせないまま、ローズは死んだ。

 

腰の袋が、歩くたびに身体へ触れる。中にはローズから預かった髪飾りが入っていた。

 

それだけが壊れずに残った。

 

オリマーは袋を握った。布越しに、歪んだ蔓の輪の感触が伝わる。

 

ローズの身体は潰れたのに、髪飾りは残っている。その事実が、ひどく間違っているように思えた。

 

「もう少しだよ」

 

前方には林が見えていた。そこまで行けば、主の脚から逃れられる。

 

安全な場所へ着いたら、一人でも戻る。ローズの身体を泥から引き出す。

 

潰れた身体を運べるのか。どこまでが身体として残っているのか。それを見て、自分が手を伸ばせるのか。

 

何も分からない。

 

それでも、置いていくよりはましだった。

 

ローズは自分を助けるために死んだ。その彼女を置き去りにして、自分だけが逃げることなど許されない。

 

「ローズ……」

 

名前を呼んでも、もう返事はなかった。

 

 

 

林へ入ると、滝の音が少しだけ遠ざかった。

 

巨大な木々が轟音を遮り、代わりに葉の揺れる音と三人の荒い呼吸が聞こえる。

 

ひまわりは巨木の根元にある窪みを見つけ、オリマーを座らせた。

 

「ここなら、すぐには見つからないと思う」

 

オリマーはすぐに立ち上がろうとした。足に力が入らず、木の根へ手をつく。

 

「どこへ行くの?」

 

「決まってるだろ。ローズのところへ戻る」

 

「駄目だよ」

 

「主はもう移動している。今なら――」

 

「もう一匹いるかもしれない」

 

ひまわりは声を荒らげなかった。その冷静さが、今はひどく腹立たしかった。

 

「だったら、いつ戻るんだ」

 

「安全になってから」

 

「いつ安全になる!」

 

ひまわりの肩が僅かに揺れた。それでも、オリマーの前から退かなかった。

 

「俺が行かないと、ローズがあのままなんだ!」

 

「うん」

 

「うん、じゃない!」

 

オリマーの声が林に響き、枝に止まっていた小さな鳥が飛び立った。

 

ひまわりは目を伏せる。怒鳴られたことを怖がっているのではなく、何を言えば伝わるのか分からず困っているようだった。

 

「戻っても、オリマーが死ぬだけだよ」

 

「それでも行く」

 

「ローズは、それを望んでない」

 

「本人に聞いたのか!」

 

言った直後、胸の奥が強く痛んだ。

 

本人には、もう何も聞けない。最後の言葉さえなかった。

 

自分が死ぬと分かっていたのか。怖かったのか。助けてほしかったのか。

 

何も分からない。二度と聞くこともできない。

 

「聞かなくても分かるよ。ローズがオリマーを助けたから」

 

「だから、あのまま置いていくのか」

 

「違うよ」

 

「何が違う!」

 

ひまわりが顔を上げる。その瞳には、やはり涙がなかった。

 

「ローズは、まだいるから」

 

オリマーは言葉を失った。

 

冗談でも、悲しみを誤魔化しているのでもない。本当にローズがまだいると知っている顔だった。

 

「ローズは死んだ」

 

オリマーは一つずつ言葉を押し出した。

 

「俺の目の前で踏み潰された。身体が潰れて、息もしていなかった」

 

「うん。あのローズは死んだよ」

 

あまりにも簡単に認められ、オリマーの背筋が冷えた。

 

「あのローズって……何を言っている?」

 

「あれもローズだよ。でも、ローズはあれだけじゃない」

 

ひまわりは、どうして分からないのかとでも言うように首を傾げた。その仕草が普段と変わらないからこそ、気味が悪かった。

 

オリマーはアジサイを見る。

 

「お前にも分かるのか」

 

アジサイの視線が自分の右手へ落ちる。その指で、少し前にローズの右足首へ触れた。問題なく歩けると伝えた。その同じ右脚だけが、足跡の外へ綺麗に残されていた。

 

思い出した途端、指先が小さく震えた。

 

「分かる。身体が一つ、死んだだけだから」

 

「だけ?」

 

「違う。そういう意味じゃ……」

 

「身体があんなふうに潰されたのに、それだけなのか?」

 

「私たちにとっては……」

 

アジサイは言葉を止め、胸元へ手を当てた。

 

頭では説明できるはずだった。死んだのは一つの身体で、ローズそのものが消えたわけではない。それでも、幼い身体が足跡の中へ押し込まれている光景を思い出すと、息が詰まった。

 

「……ごめん。今は、うまく説明できない」

 

三人で同じものを見たはずだった。同じ音を聞き、同じ血を浴びた。

 

それなのに、見ていたものの意味だけが違っている。

 

オリマーは、自分だけが二人から遠く離れた場所にいるように感じた。

 

「お前たちは……何なんだ」

 

口から漏れた声は、ひどく弱かった。

 

ひまわりが目を見開き、アジサイは顔を伏せる。

 

二人がローズを大切にしていないわけではない。それは分かっている。それでも、どうしても同じ場所に立てなかった。

 

「少し、一人にしてくれ」

 

オリマーは木の根元へ座り直した。

 

ひまわりは不安そうに顔を覗く。

 

「一人で戻らない?」

 

「……戻らない」

 

身体が動くようになれば、二人の目を盗んで戻るかもしれない。それでも今は、立ち上がる力さえなかった。

 

「近くを見てくる。水と、もっと休める場所があるか確認したい」

 

アジサイが立ち上がり、ひまわりもそれに続く。

 

「遠くには行かないからね」

 

二人の足音が木々の奥へ消え、林の中にオリマーだけが残された。

 

 

 

オリマーは袋から髪飾りを取り出した。

 

蔓で作った輪は歪み、赤茶色の殻を留めていた植物繊維が緩んでいる。それでも血も泥もついていない。

 

ローズだけがいない。

 

直すと約束した。明日の朝までに返すと言った。約束した相手は、もう戻ってこない。

 

それなのに、ひまわりはローズがまだいると言った。

 

身体が一つ死んだだけ。ローズはあれだけではない。

 

言葉の意味を考えようとしても、足跡の中に残された姿が邪魔をする。

 

あれをローズではないとは思えなかった。自分を突き飛ばした手も、髪飾りを預けた時の少し照れた顔も、全てあの身体にあった。

 

それが失われてなおローズがいるというのなら、何をローズと呼べばいいのか。

 

「そんなに見ても、勝手には直らないわよ」

 

背後から、聞こえるはずのない声がした。

 

オリマーの指が止まる。

 

振り返ることができなかった。滝の音が耳に残り、聞き間違えたのだと思おうとした。

 

背後の草が揺れる。

 

「オリマー?」

 

もう一度、声がした。

 

オリマーはゆっくりと振り返った。

 

木の根の向こうに、小柄な少女が立っている。

 

赤い髪。見慣れた顔。血にも泥にも汚れていない服。両腕も、胸も、腰も、本来あるべき形を保っている。

 

右脚もあった。

 

ただ、髪飾りだけがない。

 

少女はオリマーの顔を見ると、僅かに表情を緩めた。

 

「無事だったのね」

 

ローズだった。

 

そうとしか思えない姿で、そうとしか思えない声を出している。

 

オリマーは立ち上がらなかった。後ろへ下がりも、悲鳴を上げもしなかった。ただ、目の前にいる少女を見つめ続けた。

 

ローズが一歩近づく。

 

右脚が草を踏み、泥の外へ伸びていた右脚と重なる。赤い髪が肩から流れ、血と泥の中へ広がっていた髪と重なる。

 

何も映さず開いていた右目が、今はオリマーを見ている。

 

理解できなかった。

 

足跡の中にいたローズは死んでいた。それを自分の目で見た。それなのに、同じ顔をした少女が目の前で呼吸している。

 

「聞こえてる?」

 

何度か息だけが漏れ、ようやく声になった。

 

「……ローズ?」

 

「そうよ」

 

あまりにも当たり前に答えた。

 

ローズはオリマーの手元にある髪飾りを見つけ、少し安堵したように息を吐く。

 

「ちゃんと持っててくれたのね」

 

その言い方まで、髪飾りを預けたローズと同じだった。

 

林の奥から二人分の足音が近づく。

 

「オリマー、水があったよ!」

 

葉に水を入れて戻ってきたひまわりは、ローズを見つけると表情を明るくした。

 

「ローズ!」

 

葉をアジサイへ押しつけ、迷いなく駆け寄る。ローズの腕へ抱きつき、そのまま嬉しそうに見上げた。

 

「遅かったね!」

 

「アンタたちが急に移動したからでしょ」

 

「だって主がいたんだよ」

 

「見れば分かるわよ」

 

いつもの声。いつものやり取り。

 

ひまわりはローズの胸へ頬を寄せている。そこが少し前まで潰れていたことなど、最初から知らないかのように。

 

アジサイも驚かなかった。ローズの顔を見て、張りつめていた息を吐く。

 

「やっぱり、あの時見たのはローズだったんだ」

 

「見えてたなら声をかけなさいよ」

 

「見間違いだと思ったから。こっちにもローズがいたし」

 

「それなら仕方ないでしょ」

 

三人の中では話が通じていた。

 

誰も、なぜ死んだ少女が歩いているのかとは尋ねない。誰も、その身体が本物なのか確かめようとしない。

 

オリマーだけが、木の根元へ座ったまま動けなかった。

 

同じ光景を見ているはずなのに、自分だけが別のものを見ている。

 

ひまわりがオリマーを見る。

 

「ね。ローズはいたでしょ?」

 

明るく笑っている。

 

オリマーは答えられなかった。ローズも不思議そうに彼を見ている。

 

三人には、それで何もおかしくなかった。

 

自分だけが間違っているような空気の中で、オリマーは掌の髪飾りを握り続けていた。

 

 

 

「ねえ、ローズ。大丈夫?」

 

ひまわりが彼女の顔を覗き込む。

 

「何か顔色悪いよ」

 

「急にいろいろ入ってきたから、少し気持ち悪いだけ」

 

ローズは木の根へ腰を下ろした。座る直前、右脚へ体重をかけるのをほんの一瞬躊躇った。

 

「水、飲む?」

 

「もらう」

 

アジサイが葉を差し出す。ローズは両手で受け取り、少しずつ水を飲んだ。

 

喉が動き、胸が上下している。何度確かめても、生きているようにしか見えない。

 

「オリマー?」

 

ローズが水から顔を上げる。

 

「さっきから、何なの?」

 

責める声ではなかった。自分を凝視し続ける理由が、本当に分からないようだった。

 

「……身体は痛くないのか」

 

「どこも怪我してないわよ」

 

「そうじゃない。さっき、主に踏まれた」

 

「うん」

 

「覚えているのか」

 

「覚えてる」

 

「なら……どうしてここにいる?」

 

ローズはそこで初めて、オリマーが何を理解できていないのかに気づいたらしい。

 

「オリマー、一心群体のこと知らなかったの?」

 

ひまわりが尋ねる。

 

「何だ、それは」

 

「ローズ、話してなかったの?」

 

「話す必要があると思わなかったのよ」

 

「アタシたちは、身体が一つだけじゃないの」

 

「どういう意味だ」

 

「そのままの意味よ」

 

「それじゃ分からない」

 

ローズが眉を寄せる。自分たちにとって当たり前のことを、どこから説明すればいいのか分からないようだった。

 

アジサイが代わって話し始める。

 

「同じ姿をした身体が、いくつかあるの。姿だけじゃなくて、記憶や考え方、好きなものも同じ」

 

「同じ人間が、複数いるということか」

 

「身体は複数あるけど、ローズは一人。だから一心群体。いくつ身体があっても、心は一つ」

 

「だが、このローズは俺たちと一緒にいなかった」

 

「普段は、それぞれ別に動いてるから。離れていたら、どこにいるかも、何を話してるかも分からない」

 

「だったら別人じゃないのか」

 

「違うよ」

 

ひまわりが迷いなく答える。

 

「私が何人いても、全部私だよ」

 

「それぞれ違う経験をしてもか?」

 

「うん。それでも私」

 

オリマーはローズを見る。

 

「では、この身体は俺たちと過ごしたことを知らないはずだ」

 

「少し前まではね。でも、今は全部知ってる」

 

「なぜだ」

 

「死んだから」

 

アジサイが説明を続ける。

 

「身体が死ぬと、そこにあったものが一番近くにいる同じ心の身体へ移るの」

 

「記憶だけか?」

 

「全部。見たものも、聞いたものも、考えたことも、感じたことも」

 

「それなら、お前たちは死なないのか」

 

オリマーの問いに、ひまわりは首を横へ振った。

 

「身体が残ってる間だけだよ。最後の一人まで死んだら、もうどこにも移れないから」

 

その声だけは、僅かに小さかった。

 

死がなくなったのではない。ただ、オリマーが知っている場所とは違うところに、命の終わりが置かれているだけだった。

 

「俺と一緒に歩いたことを覚えているのか」

 

ローズが頷く。

 

「主の背中から逃げたことも、滝の下で話したことも。髪飾りを預けたことも、明日の朝までに直すって言ったことも」

 

「俺を突き飛ばしたこともか」

 

「それも覚えてる」

 

「そのあとも?」

 

ローズはすぐには答えなかった。右脚へ手を置き、指先が膝の上で小さく震える。

 

「……覚えてる」

 

「どこまでだ」

 

「全部よ」

 

「何を覚えている?」

 

聞くべきではない。それでも、確かめずにはいられなかった。

 

ローズは右脚へ置いた手に力を込める。

 

「アンタの上に影が落ちたこと。間に合わないと思ったから、突き飛ばしたこと」

 

一度息を吸う。

 

「上を見たら、脚があった。逃げようとは思わなかった。もう間に合わないって分かったから」

 

「もういい」

 

「身体へ重さがかかった。最初に右脚が折れて、それから……」

 

無傷の右脚が小さく痙攣した。ローズは膝を抱えるように足を引き寄せる。

 

「ローズ?」

 

「平気。今の身体は何ともないから」

 

そう言いながら、右脚を抱える手は離れなかった。

 

「それから、胸が……」

 

ローズが胸元を押さえる。息を吸おうとして途中で止まり、浅い呼吸を何度か繰り返した。

 

「息ができなくなって、音がした」

 

「音?」

 

「自分の骨が潰れる音」

 

アジサイが顔を背けた。ひまわりだけが、ローズの背中を静かに撫でる。

 

「痛かった?」

 

「痛いって思う時間は、あまりなかった。急に全部がなくなって、気づいたら葦の中にいた」

 

「身体が移ったのか?」

 

「違うわよ。この身体は最初から葦の近くにいた。そこへ記憶が移ってきたの」

 

ローズはオリマーを正面から見た。

 

「アタシには、アンタと歩いた記憶がある。アンタを助けた記憶も、踏み潰された記憶もある。だから、あそこで死んだのもアタシよ」

 

オリマーは何も言えなかった。

 

あの身体は今も足跡の中に残されている。それでも、このローズは最後までの記憶を持っている。

 

髪飾りを預けた気持ちも、自分を助けようとした判断も、死の直前に感じた恐怖も。

 

「……なら、お前はローズなんだな」

 

「そうよ」

 

「すまない。分からなかった」

 

「今は分かった?」

 

全てを理解したわけではない。それでも、目の前の少女を別人だとは言えなかった。

 

「……分かった。お前はローズだ」

 

ローズの強張っていた表情が、僅かに緩む。

 

「最初から、そう言ってるでしょ」

 

ひまわりが安心したように笑い、アジサイも肩の力を抜いた。

 

四人へ戻った。そう思わなければならなかった。

 

「これは、約束どおり直す」

 

オリマーは手の中の髪飾りを示す。

 

「明日の朝までには返す」

 

「覚えてるわよ」

 

「そうだったな」

 

ローズがすぐ近くへ座っても、オリマーは離れなかった。

 

目の前にいるのはローズだ。何度も自分へ言い聞かせた。

 

 

 

四人は、さらに林の奥へ移動した。

 

滝から離れるにつれ、轟音は少しずつ小さくなる。

 

アジサイが見つけた場所は、太い根が壁のように重なり、その内側だけ乾いた土が残っていた。上には大きな葉が重なり、多少の雨なら防げそうだった。

 

ひまわりとアジサイが枯れた葉を集める。

 

ローズも立ち上がろうとしたが、右脚へ力を入れた瞬間、顔を歪めた。

 

「無理に動くな」

 

「怪我してないって言ったでしょ」

 

「だが、痛むんだろ」

 

「痛くない」

 

「なら、どうして右脚を庇っている?」

 

ローズは答えられなかった。自分でも気づいていなかったらしい。

 

「身体は痛くない。ただ、痛かったことを覚えてるだけ」

 

オリマーには、その違いが分からなかった。

 

記憶の中にしかない痛みでも、ローズの足は震えている。存在しない傷でも、呼吸を止めている。それを痛みではないと呼ぶ理由がなかった。

 

「今日は休め。頼む」

 

ローズはしばらく黙ったあと、諦めたように座り直した。

 

「……分かった」

 

四人の間に、少しずつ会話が戻り始める。

 

ひまわりが葉の置き方でローズと揉め、アジサイが静かに直す。ローズが文句を言い、ひまわりが笑う。

 

以前と同じように見える。

 

その輪の中に座りながら、オリマーだけは何度も人数を数えていた。

 

ひまわりがいる。アジサイがいる。ローズがいる。自分もいる。

 

確かに四人だった。

 

それでも、滝へ着く前の四人とは違う。誰かが増えたわけでも、欠けたわけでもないのに、同じ場所へ戻れたとは思えなかった。

 

日が傾き、林の中が暗くなり始める。

 

オリマーは歪んだ髪飾りを掌へ載せた。

 

約束を果たすため、蔓の輪と緩んだ植物繊維の状態を確かめる。

 

向かい側に座るローズが、その様子を見ていた。

 

目が合う。

 

ローズは何も言わず、僅かに表情を緩めた。

 

オリマーも頷き返した。

 

今度こそ、ローズへ返す。

 

その時のオリマーは、約束を果たせない理由が自分の中に残っていることに、まだ気づいていなかった。

 

 

 

日が沈むと、林の中は急速に暗くなった。

 

ひまわりとアジサイが集めた枯れ枝で小さな火を起こし、オリマーはそのそばで髪飾りを修理した。

 

蔓の輪を水で軽く湿らせ、柔らかくなった箇所から指で形を整える。緩んだ植物繊維を一度外し、残っていた細い繊維で赤茶色の殻を固定し直した。

 

「直りそう?」

 

「ああ。輪そのものは切れていない」

 

「よかった」

 

ひまわりがローズを見る。

 

「ローズもこっちで見ればいいのに」

 

「見ても早く直るわけじゃないでしょ」

 

「でも気になるんでしょ?」

 

「別に」

 

そう言いながらも、ローズはオリマーが手を動かすたび、赤い髪の隙間から髪飾りへ視線を向けていた。

 

「オリマー」

 

アジサイが小さな声で呼ぶ。

 

「少し休んだ方がいい。手、震えてる」

 

細い植物繊維を押さえる指先が、確かに僅かに震えている。

 

「疲れているだけだ。もう少しで終わる」

 

オリマーは繊維を重ねて巻き、殻が動かないことを確かめた。最後に輪全体を軽く引き、尖った箇所がないか指でなぞる。

 

最初に作った時より少し歪んでいるが、髪へ留めることはできる。

 

「直った」

 

「ちゃんと戻ってる!」

 

ひまわりが嬉しそうに身を乗り出す。

 

「ローズ、直ったって!」

 

「聞こえてる」

 

ローズはゆっくり立ち上がり、火のそばまで歩いてきた。

 

「ちゃんと約束を守ったのね」

 

「ああ。少し歪みは残ったが、使えるはずだ。確認してくれ」

 

オリマーは髪飾りを掌へ載せて差し出した。

 

ローズも手を伸ばす。

 

何もおかしなことはなかった。ローズの髪飾りを、ローズへ返す。それだけだった。

 

細い指先が、オリマーの手へ触れた。

 

その瞬間、泥から突き出していた手が見えた。

 

身体の下へ折り畳まれ、片方だけが足跡の外へ残されていた腕。何かを押しのけた直後の形で開き、二度と動かなかった指。

 

考えるより早く、オリマーの腕が動いた。

 

ローズの手を強く払いのける。

 

乾いた音がした。

 

ローズの腕が横へ弾かれ、髪飾りが二人の間へ落ちた。

 

誰も動かなかった。

 

火の中で枝が爆ぜ、その音だけが静まり返った林へ響いた。

 

オリマーは自分の手を見た。

 

何をしたのか、すぐには理解できなかった。

 

拒むつもりなどなかった。怖いとも、気味が悪いとも思っていなかった。少なくとも、そう思っているつもりだった。

 

「ローズ……」

 

ローズは払いのけられた手を胸元へ引き寄せ、オリマーを見つめている。

 

「違う」

 

オリマーは慌てて髪飾りを拾った。

 

「今のは違うんだ」

 

「何が?」

 

「お前を拒んだわけじゃない」

 

「でも、払ったでしょ」

 

「それは……」

 

なぜ自分の腕が動いたのか、オリマーにも分からない。違うと言いながら、何が違うのか説明できなかった。

 

ローズは髪飾りを見つめる。

 

「同じローズだって、言ったくせに」

 

「そう思っている」

 

「思ってるだけ?」

 

「違う。本当に、お前はローズだ」

 

「だったら、どうして?」

 

オリマーは答えられなかった。

 

「もう一度、渡させてくれ」

 

今度は意識して手を伸ばしたが、ローズは受け取らなかった。

 

「今はいらない」

 

「だが、これはお前のものだ」

 

「無理に渡される方が嫌」

 

「無理をしているわけじゃない」

 

「じゃあ、もう一回触っても平気?」

 

オリマーの手が止まった。

 

今度は払わない。意識していれば、同じことはしない。そう言えばいいだけなのに、声が出なかった。

 

「やっぱり、いらない」

 

ローズは背を向ける。

 

「直してくれたことは、ありがと」

 

赤い髪が背中へ流れている。そこには、返すはずだった飾りがない。

 

ひまわりが追おうと立ち上がったが、アジサイが腕をつかんだ。

 

「今は行かない方がいい」

 

「でも……」

 

「ひまわりが行っても、たぶん困らせるだけ」

 

オリマーの掌に、行き場を失った髪飾りだけが残った。

 

約束どおり直した。ローズも戻ってきた。それなのに、返すことだけができなかった。

 

 

 

夜が深くなっても、オリマーは眠れなかった。

 

小さな火はすでに消え、赤い熾だけが暗闇の中に残っている。

 

ひまわりはアジサイの隣で眠っていた。ローズだけは二人から少し離れた木の根元で、オリマーへ背を向けて身体を丸めている。

 

髪飾りは、オリマーの手元にあった。

 

ローズの手を払いのけた感触が、右手に残っている。

 

触れられた場所に血も泥もついていなかった。温かかった。生きている者の手だった。

 

それなのに、自分の身体は触れてはいけないものへ触れられたように反応した。

 

ローズはローズだ。

 

記憶も感情も、約束も引き継いでいる。自分を助けるために突き飛ばしたことも覚えている。

 

頭では分かっている。

 

それでも目を閉じると、足跡の中に残された身体が見える。

 

暗闇の中で、小さな声がした。

 

「……重い」

 

オリマーは顔を上げる。

 

声はローズのいる方から聞こえた。

 

「ローズ?」

 

返事はない。

 

オリマーが近づくと、ローズは眠ったまま両腕で右脚を強く抱えていた。指が皮膚へ食い込み、膝が小さく震えている。

 

「やめて……息が……できない……」

 

額には汗が浮かび、呼吸が速い。転送された死の記憶を、夢の中で繰り返している。

 

「ローズ、起きろ」

 

声だけでは届かない。

 

ローズの指が、泥から逃れようとするように地面を引っかく。

 

「オリマー……」

 

助けを求める弱い声だった。

 

オリマーは肩へ手を伸ばす。

 

起こせばいい。軽く揺らし、夢だと教えればいい。以前なら、何も考えずにできた。

 

指先がローズの肩へ近づく。

 

あと少しで触れる。

 

そこで、手が止まった。

 

昼間の感触が蘇る。また身体が勝手に動くかもしれない。今度は、もっと強く傷つけるかもしれない。

 

血と泥に潰れた肩が、目の前の無傷な肩へ重なる。

 

触れなければならない。ローズは苦しみ、自分を呼んでいる。

 

頭では分かっているのに、腕がそれ以上動かない。

 

「ローズ……」

 

名前を呼ぶことしかできなかった。

 

「重い……痛い……」

 

もう一度手を近づけようとしても、指先は触れる直前で止まる。

 

やがて、ローズの瞼がゆっくりと開いた。

 

浅い呼吸を繰り返しながら、自分へ伸ばされたまま止まっているオリマーの手を見る。

 

「……何してるの?」

 

「うなされていた。俺を呼んでいた」

 

ローズの視線が、指先と肩の間に残された僅かな隙間へ向く。

 

「でも、触らなかったのね」

 

責める声ではなかった。そのことが、余計に苦しかった。

 

「違う。俺は、起こそうと……」

 

「もう起きたから」

 

ローズは身体を起こし、オリマーの手が届かない位置まで自分から下がった。

 

「もう平気」

 

「平気には見えない」

 

「今の身体は何ともない。夢を見ただけよ」

 

肩はまだ小さく震え、右脚を抱く指も離れていない。

 

「ローズ、俺は――」

 

「平気だって言ってるでしょ」

 

それ以上、助けを求めるつもりはないのだと分かった。

 

オリマーは伸ばしていた手を下ろす。

 

「……すまない」

 

ローズは答えず、再びオリマーへ背を向けた。

 

先ほどよりも遠い。手を伸ばしても、もう届かない距離だった。

 

オリマーは元の場所へ戻り、布を開いた。

 

直し終えた髪飾りが、掌の上に残っている。

 

約束は果たした。

 

ローズも戻ってきた。

 

声も、記憶も、約束も、オリマーを助けた気持ちも失っていない。

 

それでもオリマーは、彼女へ髪飾りを返すことも、苦しむ身体へ触れることもできなかった。

 

ローズが失ったのは、一つの身体だけではない。

 

オリマーが何も考えずに触れてくれた時間も、あの滝の下に置き去りにされていた。




やっぱり曇らせシーンを描くのが一番楽しいンゴねぇ
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