静寂が戻った森の中。
俺とローズは向かい合っていた。
正確には、俺が一方的に困惑していた。
目の前には怪物を素手で殴り飛ばした少女。
しかも頭から葉っぱが生えている。
どう考えても普通じゃない。
世界のびっくり人間を見渡しても頭に草を生やした奴はいないだろう。
だが本人はケロリと平然としていた。
「……」
「……」
「何か言いなさいよ」
先に沈黙を破ったのはローズだった。
「いや」
俺は正直な感想を口にした。
「状況が分からなすぎる」
「そう」
「そうじゃないんだよ」
AIだってもうちょっと愛想がいい。
頭を抱える。
むしろ抱えさせてほしい。
トラックがパンクした。→わかる。
森に入った。→わかる。
気絶した。→わかる?
目覚めた。→わかる?
巨大な怪物に襲われた。→わかってたまるか!
そして赤い少女、草付きに助けられた。
そして今。
頭が追いついていない。
「じゃあ聞く」
「どうぞ」
「ここどこ?」
「森」
「それは見れば分かる」
「じゃあ聞かないで」
会話にならない。
こいつ絶対説明下手だ。
あるいは面倒臭がりだ。
「俺がいた日本は?」
「にほん?」
「宮城県」
「みやぎ?」
「地球」
「ちきゅう?」
ローズは首を傾げた。
本気で知らない顔だった。
演技には見えない。
だとしたら余計に怖い。
日本語で話せているのに会話になっていない。
「……冗談だよな?」
「何が?」
「いやもう全部」
ため息が漏れた。
ローズは少し考えてから言う。
「少なくとも私は冗談言ってない」
「そうか」
「そうよ」
困った。
本格的に困った。
だが一つだけ確かなことがある。
さっきの怪物がいる以上、一人で行動するのは危険だ。
「ローズ」
「なに?」
「お前、この辺詳しいのか?」
「まあ」
「なら案内してくれ」
ローズは数秒考えた。
そして。
「嫌」
「なんでだよ!」
「面倒だから」
「助けた意味!」
「食べられそうだったから助けただけだもの」
あまりにも理不尽だった。
しかし。
ローズは少しだけ視線を逸らした。
「……一人で歩いたら死ぬし」
「ん?」
「別に」
聞き取れなかった。
だが。
なんとなく。
悪い奴じゃない気がした。
愛想はクソ悪いが。
歩き始めて三十分。
俺はある問題に直面していた。
「腹減った……」
盛大な音が鳴る。
朝から何も食べていない。
いや。
もしかしたら昨日からかもしれない。
時間感覚もおかしい。
「お腹空いたの?」
「まあな」
ローズは少し考える。
そして近くの茂みに入っていった。
「おい?」
「待ってて」
一人にしないでほしい。
切実に。
だがローズは返事もせず森の奥へ消えた。
残された俺はその場に立ち尽くす。
静かだった。
昼間なのに。
広大な森にあるべき生き物の音がしない。
虫の声がない。
鳥の鳴き声もない。
風も吹かない。
生き物の気配がほとんど存在しない。
「帰ってくるよな……?」
三十歳男性。
異世界みたいな森で迷子。
状況だけ見ればかなり終わっている。
数分が妙に長く感じた。
あるいは俺が追い詰められているから長く感じているだけで、
数秒しか経っていないのか。
ガサガサッ。
茂みが揺れる。
「うおっ!?」
反射的に身構えた。
さっきの丸い怪物だったらどうしよう。
だが現れたのはローズだった。
そして俺は別の意味で固まる。
「取ってきた」
ローズが担いでいたのは巨大な赤い果実だった。
タイヤくらいある。
いや。
下手をすれば小さな子供一人分くらいある。
「デカくない?」
「そう?」
「それを片手で持ってるのもおかしい」
「普通よ」
普通じゃない。
断言できる。
ローズは平然と果実を地面へ置いた。
ズシン。
鈍い音が響く。
絶対重い。
たぶん三桁のkgだ。
だが本人は息一つ乱していない。
余りにも違和感が生まれる。
「ほら」
そう言って果実を割る。
中から甘い香りが広がった。
「食べなさい」
「食えるのか?」
「毒はない」
「毒以外の心配もあるんだけど」
ローズは肩をすくめる。
その仕草が余りにも似合過ぎて思わず従う。
仕方なく少し齧るとゆっくり嚥下する。
果汁が弾けた。
「……うまっ」
思わず声が出た。
甘い。
信じられないほど甘い。
今まで食べた果物の中でも最上位だ。
「でしょ?」
なぜかローズが得意げだった。
「お前が作ったのか?」
「そんなわけないじゃない」
「だよな」
「私そんな器用じゃないし」
妙に納得した。
ローズは絶対料理できない。
偏見だが確信があった。
「そういえば」
果実を齧りながらローズを見る。
「さっきの怪物」
「怪物?」
「俺を食おうとしてた丸いやつ」
ローズは少し考えた。
「ああ、チャッピー」
「チャッピー?」
思わず聞き返した。
もっとこう。
破滅の獣とか。
終焉の捕食者とか。
そういう名前を想像していた。
よりによってチャッピー。
人を丸呑みにしそうな顔でチャッピー。
命名者の情緒が心配になる。
「チャッピー」
ローズは当然のように言う。
「可愛い名前だな」
「可愛い?」
ローズは本気で理解できないという顔をした。
「どこが?」
「いや、名前が」
「名前に騙されたら食べられるわよ」
「既に食べられそうになった」
「なら覚えなさい」
ローズは俺へ指を突きつける。
「チャッピー」
「チャッピー」
「次会ったら逃げる」
「了解」
「食べられても知らない」
「助けてくれよ」
「気分次第」
相変わらずだった。
だが。
さっきまでの恐怖が少しだけ薄れた気がした。
昼過ぎ。
森を歩き続ける。
巨大な草。
巨大な花。
巨大なキノコ。
全部巨大だった。
もはや驚くのも疲れてきた。
「なあ」
「何?」
「この世界って昔からこうなのか?」
「こうって?」
「全部大きい」
「そう?」
「そうだよ!」
ローズは周囲を見回した。
「普通だけど」
「普通じゃない」
「普通よ」
「いや普通じゃない」
押し問答になった。
どうやら感覚が違うらしい。
それにしても妙だった。
ローズは自分がおかしいと思っていない。
本気で普通だと思っている。
まるで。
生まれた時からこの森で暮らしているみたいに。
その時だった。
足元に何かが転がっているのが見えた。
骨だった。
白く乾いた骨。
動物のものだろうか。
だが妙に大きい。
近くには砕かれた果実。
へし折られた木。
地面には巨大な爪痕まで残っていた。
「なあ」
「何?」
「これもチャッピーの仕業か?」
ローズは骨を見る。
少し考える。
「たぶん」
「たぶん?」
「違うかもしれない」
「違うかもしれないって……」
嫌な予感しかしない。
背中に冷や汗が伝う。
「他にもいるのか?」
「いるわよ」
さらりと言った。
まるで明日の天気を話すみたいに。
「何種類くらい?」
「いっぱい」
「雑!」
思わず叫んだ。
ローズは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
だがその笑顔は自然だった。
年相応の少女みたいに。
俺は一瞬だけ見惚れてしまう。
すると。
「何見てるのよ」
「いや別に」
「変態」
「違うからな!?」
理不尽だった。
さらに歩く。
しばらくして。
俺は気付いた。
この森は静かすぎる。
普通の森じゃない。
木々は揺れない。
虫は鳴かない。
鳥も飛ばない。
なのに。
どこか視線だけを感じる。
まるで森全体に見られているような感覚。
「……」
背筋が寒くなる。
振り返る。
誰もいない。
いや。
誰もいないはずだった。
「ん?」
遠く。
巨大な草の陰。
何かが見えた気がした。
人影。
赤い何か。
だが次の瞬間には消えていた。
「どうしたの?」
ローズが聞く。
「いや……」
気のせいか。
そう思うことにした。
今は余計なことを考えたくない。
十分すぎるほど異常の連続に頭はすでに茹っていた。
夕方。
日が沈み始める。
空が赤く染まる。
ローズは慣れた手つきで焚き火を作った。
「意外」
「何が?」
「こういうの得意なんだな」
「失礼ね」
ローズは頬を膨らませる。
「これくらいできるわよ」
「料理は?」
「……」
「料理は?」
「できるわよ」
「今の間は?」
「うるさい」
図星らしい。
少し面白かった。
ローズは不満そうに枝を火へ投げ込む。
火の粉が舞った。
赤い光が横顔を照らす。
その時。
初めて思った。
綺麗だなと。
顔立ちも。
声も。
仕草も。
全部。
ただ。
どこか寂しそうだった。
「ねえ」
「ん?」
「運び屋って何するの?」
突然の質問だった。
「荷物を運ぶ」
「それだけ?」
「それだけ」
「面白い?」
俺は少し考える。
正直。
派手な仕事じゃない。
テレビに出ることもない。
誰かに褒められることも少ない。
「面白くはないな」
「じゃあ何でやってるの?」
焚き火の炎が揺れる。
俺はその炎を見ながら答えた。
「ちゃんと届けるためだ」
「?」
「途中で捨てたら意味がないだろ」
ローズは黙る。
だから続ける。
「荷物もそうだし」
「うん」
「約束もそうだ」
「……」
「最後まで運ぶから意味がある」
ローズはしばらく黙っていた。
やがて。
小さく呟く。
「変な人」
「よく言われる」
「でも嫌いじゃない」
小さな声だった。
聞こえないふりをして顔を背けた。
必死にニヤケるのを我慢した顔を見られるのは嫌だった。
しばらくして。
ローズがぽつりと聞く。
「家族は?」
「妹が一人」
「へぇ」
「
「仲良いの?」
「まあな」
喧嘩もする。
昔はよく殴られた。
勝手にゲームを売られたこともある。
その代わり。
熱を出した時は看病してくれた。
困った時は助けてくれた。
普通の兄妹だ。
そう答えると。
ローズは少し羨ましそうな顔をした。
「兄妹ってそんな感じなんだ」
「お前は?」
「……」
ローズは答えない。
炎だけが揺れている。
その横顔は。
少しだけ寂しそうだった。
「なあ」
「何?」
「帰りたいか?」
自分でも変な質問だと思った。
だが聞いてしまった。
ローズは火を見つめたまま答える。
「帰りたい」
即答だった。
そこには今の俺には推し量れない激情があった。
だが次の言葉が続かない。
長い沈黙。
やがて。
「だから」
小さく呟く。
「あなたも帰りなさい」
その声は昼間よりもずっと弱かった。
まるで。
自分自身に言い聞かせているように。
夜。
俺は目を覚ました。
物音がした気がした。
「……ローズ?」
返事はない。
焚き火は消えかけている。
ローズの姿もない。
嫌な予感がした。
立ち上がる。
探す。
数分ほど歩いたところで見つけた。
月明かりの下。
ローズが立っていた。
一人で。
巨大な花を見上げている。
森の奥で見た花だった。
花弁は赤でも青でも黄色でもない。
まるで絵具を無理矢理混ぜ合わせたような極彩色。
赤。
青。
黄。
紫。
白。
様々な色が溶け合いながらも不思議な調和を保っている。
幻想的だった。
美しかった。
だが同時に。
言いようのない不気味さがあった。
見ているだけで落ち着かない。
本能が警鐘を鳴らしている。
あれは自然の色じゃない。
人間が見てはいけない何かだ。
それなのに。
ローズは懐かしいものを見るような目で花を見上げていた。
まるで。
遠い故郷でも眺めているように。
「ローズ」
声をかける。
少女は振り返った。
一瞬だけ驚いた顔。
だがすぐにいつもの表情へ戻る。
「何してるのよ」
「それはこっちの台詞だろ」
「散歩」
「夜中に?」
「夜だから」
意味が分からない。
だが。
なぜか聞いてはいけない気がした。
極彩色の花。
月明かり。
ローズ。
その光景だけが妙に胸に残る。
「戻るわよ」
ローズが歩き出す。
俺も後を追う。
その背中を見ながら思った。
この森には何かがある。
ローズは何かを知っている。
そして。
俺はまだ何も知らない。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
明日も生き延びるなら。
今はこの赤い少女を信じるしかない。
そう思った。