朝になっても、湿原の上には薄い霧が残っていた。
夜のうちに冷えた空気が水面を這い、林の根元へ白く溜まっている。少し離れたところからは水の流れる音が聞こえていたが、あの滝の轟音はもう届かなかった。
オリマーは目を覚ますと、しばらく木の幹へ背を預けたまま動かなかった。
眠った覚えはほとんどない。
目を閉じるたび、巨大な脚が落ちてきた。
泥の外へ伸びていた右脚。血に濡れた赤い髪。何も映していなかった目。
そして、それと同じ目が今は少し離れた場所で開いている。
「……何よ」
視線に気づいたローズが、不機嫌そうに眉を寄せた。
「いや」
「だったら見ないで」
「ああ」
オリマーは素直に目を逸らした。
ローズは何か言いたそうに口を開いたが、結局そのまま閉じる。
彼女もほとんど眠れていなかったらしい。昨夜から何度も右脚へ手を伸ばしていた。今の身体には傷一つない。それでも気づけば膝や脛を擦り、確かめるように指を這わせている。
今もそうだった。
オリマーが見ていたことに気づくと、ローズは慌てたように手を離した。
「だから何でもないって」
「何も言ってないだろ」
「顔が言ってんのよ」
「どんな顔だよ」
「鬱陶しい顔」
「朝から酷いな」
いつもなら、そこでローズがもう一言返してくる。
だが今日は続かなかった。
オリマーも笑えない。
ほんの少しだけ戻りかけた空気が、また二人の間へ沈んだ。
「朝ご飯できたよ!」
その沈黙を破ったのは、ひまわりだった。
大きな葉の上へ残っていた果実を並べ、得意げに手招きしている。
「今日は私が切った!」
「潰した、の間違いでしょ」
ローズが即座に訂正した。
「切ったよ!」
「手で割っただけじゃない」
「同じ!」
「全然違うわよ」
ひまわりの手元にある果実は、確かに切ったというより力任せに引き裂かれていた。
オリマーはそれを見て、僅かに口元を緩める。
ローズも同じように笑いかけていた。
互いにそれへ気づいた瞬間、二人とも先に目を逸らした。
「……面倒臭い」
少し離れた場所でしゃがんでいたアジサイが呟く。
「聞こえてるわよ」
「聞こえるように言ったから」
「アンタね……」
「ローズ、ご飯!」
ひまわりに呼ばれ、ローズは舌打ちしながらそちらへ向かった。
オリマーも立ち上がる。
身体は重かった。それでも空腹だけは、昨日までと変わらずやってくる。
四人で葉を囲み、残っていた果実と僅かな木の実を均等に分けた。
ひまわりは自分の分を食べ終えると、物欲しそうにオリマーの手元を見る。
「駄目だぞ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
ひまわりが頬を膨らませる。
ローズが小さく吹き出した。
「アンタも同じこと言われてるじゃない」
「……そうだな」
今度は、少しだけ自然に返せた。
だが朝食が終われば、現実的な問題が残った。
オリマーは空になった葉を畳み、荷物を確認する。
食料はほとんどない。僅かな木の実が残っているだけで、四人分の次の食事には到底足りなかった。
「今日中に何か見つけないとな」
「水はある」
アジサイが言った。
「この先にも流れがあるから、飲める場所は探せると思う。でも食べ物は分からない」
「湿原を抜けるまで、どれくらいだ?」
アジサイは林の向こうへ視線を向けた。
「この先に乾いた尾根がある。水位が大きく変わらなければ、夕方までには着けると思う」
「なら、そこを目指すか」
そう言ったものの、オリマーの足は動かなかった。
進まなければならない。
食料を探しながら、この場所を離れる。
それが一番安全だと分かっている。
それでも、どうしても口にせずにはいられなかった。
「……その前に」
三人が見る。
オリマーは林の向こうへ目を向けた。
正確な方角などもう分からない。それでも、滝がある方向だけは身体が覚えているような気がした。
「戻りたい」
ローズの表情が変わった。
「どこへ?」
「滝だ」
ひまわりが口を閉じる。
アジサイも何も言わなかった。
ローズだけが、すぐに答えた。
「駄目」
「ローズ」
「戻る必要なんてないわよ」
「お前の身体を、あのままにはできない」
「アタシはここにいる」
「ああ」
「分かってないから戻ろうとしてるんでしょ」
ローズが立ち上がった。
無意識なのか、右脚を僅かに庇うような立ち方だった。
「だが、あそこにはお前の身体がある」
「あった身体よ」
ローズは自分の胸へ手を置く。
「今のアタシはここにいる」
「それも分かってる」
「だったら何が問題なのよ」
答えようとして、言葉が詰まった。
何が問題なのか。
自分でも綺麗には説明できない。
目の前にいるローズはローズだ。髪飾りを預けたことを覚えている。自分を突き飛ばしたことも、何を話し、何を感じたかも残っている。
偽物だとは思わない。
それでも、泥の中に残されたものまで、役目を終えた器だとは思えなかった。
「俺を助けたのは、あの身体だ」
「アタシよ」
「……ああ」
「アンタを突き飛ばしたのもアタシ。怖かったのも、潰されたのもアタシ。全部覚えてる」
「ああ」
「なら、なんで」
ローズの声が僅かに揺れた。
オリマーは返せなかった。
ローズは苛立ったように唇を噛み、顔を背ける。その手がまた右脚へ伸び、今度は途中で止まらず膝を掴んだ。
「それともアンタ、アタシの死体をもう一度見たいの?」
オリマーの呼吸が止まった。
ローズは睨んでいた。
けれど、その顔にあるのは怒りだけではない。
右脚を掴む指が白くなるほど力を込めている。
滝へ戻れば、自分が死んだ場所を見ることになる。
自分の身体が潰された場所。
まだ残っているのなら、自分自身の死体を見ることになる。
オリマーは一度目を閉じた。
戻りたい。
せめて土をかけてやりたい。
できるなら連れていきたい。
だが、それは誰のためだ。
今ここで右脚を握り締めているローズを、もう一度あの場所へ近づけてまで果たすべきことなのか。
「……分かった」
「何が?」
「戻らない」
ローズの指から、僅かに力が抜けた。
「いいの?」
「ああ」
「昨日は、あんなに戻るって言ってたじゃない」
「今は、お前が嫌がってる」
ローズが黙る。
「俺一人で戻ればいいとも思った。でも、また主がいるかもしれない。お前らが止めるのも分かってる」
「当たり前でしょ」
「それに、お前をもう一度あそこへ近づけるのは違う気がする」
ローズは何も言わなかった。
ただ、右脚から手を離した。
ひまわりは二人を交互に見ていたが、珍しく何も口を挟まなかった。
アジサイが立ち上がる。
「なら、行く?」
「ああ。ただ、このままじゃ昼には食うものがなくなる。先に少し集めたい」
オリマーは周囲を見回した。
「アジサイ。この辺で水を補給できそうな場所は?」
「少し北に流れがある。今朝見た時は濁ってなかった」
「そこまでの道は?」
「ひまわりでも歩ける」
「どういう意味?」
ひまわりが抗議する。
アジサイは無視した。
「じゃあ、ひまわりと水を見てきてくれ。ついでに尾根までの道も確認してほしい」
「分かった」
「私も行く!」
「勝手に水へ入るなよ」
「入らない!」
「本当に?」
「オリマーまで!」
ひまわりの声が林へ響く。
オリマーはようやく少し笑った。
「俺は食い物を探す」
「一人で?」
ひまわりが尋ねた。
オリマーは答える前にローズを見た。
ローズもこちらを見ていた。
昨夜、返そうとした髪飾り。
伸ばされた手。
そして、自分が反射的に払いのけた感触。
「……アタシも行く」
ローズが先に言った。
「いいのか?」
「食べられるもの、アンタだけじゃ分からないでしょ」
「まあ、そうだな」
「それだけよ」
「分かった」
それ以上は言わなかった。
アジサイとひまわりが水場へ向かい、二人の姿が木々の間へ消えていく。
オリマーも歩き出した。
ローズが続く。
以前なら、すぐ隣にいた。
少し先を歩いて振り返ったり、横から荷物を覗き込んだり、どうでもいいことで文句を言ってきたりした。
今は違う。
二人の間には、腕を伸ばしても届かないほどの距離があった。
どちらが空けたのかは分からない。
たぶん、二人ともだった。
しばらく歩いたところで、オリマーが低木に実った緑色の果実を指差した。
「これは?」
ローズが近づく。
「まだ青いわ」
「駄目か」
「食べられないことはないけど、不味いと思う」
「腹壊す?」
「たぶん大丈夫」
「なら、一応覚えとく」
「今から食べる気?」
「他に何もなかった時の話だよ」
ローズは枝を離した。
また歩く。
少しして、別の実を見つける。
「これは食べられるか」
「それは平気」
「何個取る?」
「持てるだけ」
「傷みそうなのからにしよう。残して腐らせても仕方ない」
ローズは少し意外そうにオリマーを見たあと、熟したものだけを選び始めた。
二人でしゃがみ込み、ローズが摘んだ実をオリマーが受け取って袋へ入れる。
同じ作業を繰り返している間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
やがてローズが口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「いつまでそうしてるつもり?」
オリマーの手が止まる。
「何を?」
「分かってるでしょ」
ローズは実を摘んだまま、こちらを見なかった。
「アタシに触らないようにしてる」
否定はできなかった。
横を通る時も、実を受け取る時も、必要以上に距離を取っている。
「……悪い」
「謝ってほしいわけじゃない」
「じゃあ?」
「いつまで?」
「分からない」
ローズがようやくこちらを見る。
「待ってれば、元に戻るの?」
オリマーはすぐには答えられなかった。
大丈夫だ。
時間が経てば戻る。
そう言えば、今だけは安心させられるかもしれない。
けれど、本当にそうなるのかは自分にも分からない。
ローズへ手を伸ばそうとするたび、泥の中から伸びていた右脚が浮かぶ。目の前のローズを偽物だと思っているわけではない。それなのに身体だけが、あの光景と今の彼女を切り離してくれなかった。
「それも、分からない」
ローズの眉が僅かに下がった。
「そう」
「……ごめん」
「だから謝らなくていいって言ってるでしょ」
摘んだ実を袋へ入れる手つきが少しだけ乱暴になる。
そのままローズは自分の掌へ目を落とした。
「でも、アタシも同じだから」
「何が?」
「アンタを見ると、思い出すのよ」
指を握る。
「アンタの背中を押した時の感触も覚えてる。間に合ったって思ったことも、そのあと上を見たことも」
右脚が僅かに引かれる。
「逃げられないって分かった時のことも、潰された時のことも覚えてる。今の身体には何も起きてないのに、影が来ると勝手に動けなくなる」
「ローズ……」
「最後まで言わせて」
ローズは静かに遮った。
「滝の音がしてなくても、聞こえる気がする時がある。あの場所にいなくても、脚が痛い気がする」
胸元を握り、オリマーを見る。
「それでも、アタシはアンタを見ても逃げてない」
オリマーは返す言葉を失った。
責めるような声音ではない。
だからこそ、余計に苦しかった。
ローズはしばらく返事を待っていたが、やがて小さく息を吐く。
「別に、今すぐ触れって言ってるわけじゃないわよ」
「……そうか」
「無理に触られて、またあんな顔された方が嫌だもの」
「そんな顔してたか?」
「してた」
即答だった。
「すごく傷つく顔」
「俺が?」
「アタシがよ!」
ローズの声が一気にいつもの調子へ戻る。
「……悪い」
「また謝った」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
「知らないわよ。自分で考えなさい」
呆れたように眉を寄せるローズを見て、オリマーはほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「何よ」
「いや」
「だからそれやめなさいって」
「今度は変な顔してないだろ」
「してる。腹立つ顔」
「それはもう俺の顔が嫌いなだけじゃないか?」
ローズの口元が僅かに緩んだ。
「そうかもね」
「酷いな」
会話はそこで途切れた。
けれど、先ほどまでの沈黙とは少し違った。
言葉がないことそのものが苦しいのではなく、言わなくても構わない時間へ僅かに戻っていた。
やがて袋には、今日を凌げる程度の実が集まった。
「そろそろ戻るか」
「そうね」
ローズが先に歩き出す。
オリマーも後を追った。
まだ並んでは歩かない。
それでも二人の間にあった距離は、林へ入った時より少しだけ狭くなっていた。
その頃、林の反対側では、ひまわりが水際へしゃがみ込んでいた。
「綺麗だよ!」
「見るだけにして」
後ろから声をかけた瞬間、伸びかけていたひまわりの手がぴたりと止まる。
「……見てた?」
「見てた」
ひまわりは名残惜しそうに水面を眺めながら、渋々手を引っ込めた。
アジサイはその横を通り過ぎると、長めの枝を水へ差し込んだ。底までの深さを確かめ、水草の流れる方向を見る。少し上流へ移動して同じことを繰り返してから、ようやく頷いた。
「ここなら大丈夫だと思う」
「飲める?」
「たぶん」
「アジサイ、たぶん多いよね」
「ひまわりが何でも大丈夫って言いすぎるだけ」
「大丈夫なこと多いもん」
「昨日もそう思ってた?」
口から出てから、アジサイは自分でも余計なことを言ったと思った。
ひまわりもすぐには答えない。
二人の間を流れる水の音だけが、妙に大きく聞こえた。
「ローズ、死んだと思った?」
しばらくして、ひまわりが尋ねた。
「身体は死んだ」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
「分かんない」
ひまわりは水際で膝を抱えた。
「でも、ローズが来た時、嬉しかった」
アジサイは枝についた水滴を眺める。
一心群体なのだから、肉体を失うこと自体は珍しくない。
離れた場所で同じ心を持つ身体と出会うこともある。失われた肉体の経験を引き継いだ個体と会ったところで、それを再会とは考えない。
ローズはローズだ。
身体が変わっても、それは変わらない。
「いつもなら普通なのにね」
ひまわりの言葉に、アジサイは答えなかった。
「アジサイも嬉しかった?」
「……分からない」
「分からないんだ」
「悪い?」
「悪くないよ。私も分かんないから」
ひまわりはあっさり答え、また水面へ目を戻す。
アジサイも視線を落とした。
昨日、自分はローズの右足首へ触れた。
歩ける。
そう判断した。
その同じ右脚だけが、少し前まで泥の外へ残されていた。
思い出す必要などない。今のローズには傷一つなく、歩くことにも問題はない。
それなのに朝から何度も、気づけばローズの右脚を確認していた。
歩いている。
ちゃんと立っている。
そこにある。
確認するたびに、何を馬鹿なことをしているのだろうと思う。
それでも、また見てしまう。
「ねえ、アジサイ」
「何?」
「ローズ、大丈夫かな」
「今の身体は怪我してない」
「それは見れば分かるよ」
アジサイはひまわりを見た。
返す言葉が見つからない。
ひまわりは葉を広げ、水を汲む準備をしながら続けた。
「オリマーも大丈夫かな」
「知らない」
「二人とも変だよね」
「それはそう」
「喧嘩してるのかな?」
「してないと思う」
「じゃあ仲良し?」
「それも今は違うと思う」
「難しいね」
「……うん」
素直に頷くと、ひまわりは少し考え込んだあと、ぱっと顔を上げた。
「戻ったら、みんなでご飯食べたら直るかな」
「ひまわりは何でも食べれば直ると思ってない?」
「お腹いっぱいだと嬉しいよ。アジサイも食べるでしょ?」
「食べるけど」
「じゃあ一緒だね!」
何が一緒なのかは分からなかったが、問い返す気にもならなかった。
水を確保した二人は、尾根へ続く道を探してから仲間のもとへ戻った。
オリマーとローズが戻った頃には、アジサイたちも水場と進路の確認を終えていた。
「いっぱい取れた?」
ひまわりが真っ先に袋へ寄ってくる。
「見るだけだぞ」
「まだ何もしてない!」
「手が伸びてる」
「これは見るため!」
「手で見るな」
横からローズが吹き出す。
「アンタ、本当に信用ないわね」
「ローズまで!」
ひまわりが抗議する。
そのやり取りを見ながら、アジサイは何気なくローズへ目を向けた。
顔を見る。
服を見る。
そして、気づけばまた右脚を見ていた。
「何?」
ローズに声をかけられ、アジサイは顔を上げる。
「別に」
「絶対なんかあるでしょ」
「ない」
「朝から何回見るのよ。特に脚」
図星を刺され、アジサイは一瞬だけ黙った。
「……怪我してないか確認しただけ」
「怪我なんてないって言ったでしょ」
「知ってる」
「じゃあ、なんで見るのよ」
「分からない」
ローズが怪訝そうに眉を寄せる。
アジサイ自身、それ以上の説明ができなかった。
二人の間からひまわりが顔を出した。
「アジサイ、ローズがちゃんといるか見てるんじゃない?」
「違う」
「さっきもローズの話してたよ」
「ひまわり」
「何?」
「今は黙って」
「なんで?」
「お願いだから」
珍しく少し強く言われ、ひまわりが口を閉じる。
ローズはそんな二人を見比べてから、もう一度アジサイを見た。
今度はからかうような顔をしなかった。
「……変なの」
「ローズに言われたくない」
「何よそれ」
「そのまま」
ローズは一瞬だけ何かを言い返そうとしたものの、結局やめた。
オリマーは三人のやり取りを横目に、集めた食料を荷物へ詰め直した。
「道はどうだった?」
アジサイが林の先を指す。
「見つけた。途中にぬかるんでる場所はあるけど、そこを越えれば尾根まで行ける。今からなら夕方になる前には着けると思う」
「分かった。じゃあ、ここを出よう」
四人は再び歩き始めた。
夕方が近づく頃、ようやく地面の感触が変わった。
水を含んだ柔らかな土は少しずつ固さを取り戻し、足を上げるたびにまとわりついていた泥も消えていく。代わりに靴の下で乾いた葉が鳴り、周囲を覆っていた背の高い水草も、いつの間にか低い草と木々へ変わっていた。
先頭を歩いていたアジサイが足を止める。
「ここから先は、もう湿原じゃない」
ひまわりは確かめるように何度か地面を踏んだ。
「ほんとだ。沈まない!」
「さっきから何回確認してるのよ」
「だってずっと沈んでたんだもん」
ローズに呆れられながらも、ひまわりは嬉しそうだった。
オリマーは背負っていた荷物を下ろした。
日暮れまではまだ少し時間がある。しかし、ここから先の地形は誰も知らない。水も食料も最低限確保できている以上、知らない土地へ無理に踏み込むより、今日はここで身体を休めた方がいい。
「今日はここまでにしよう。明るいうちに休める場所を決める」
四人は少し歩き、太い木々が風を遮ってくれる場所を選んだ。
根元は乾いており、周囲を見渡しても大きな足跡や掘り返された跡はない。すぐ近くに大型の原生生物がいる様子もなかった。
ひまわりとアジサイが寝床に使えそうな葉を集め、ローズは周囲を確認して回る。オリマーは林で採った実を並べ、今夜と明日の朝に残せるよう分けた。
「今日の晩ご飯、これ?」
早速戻ってきたひまわりが袋を覗く。
「そうだ」
「少なくない?」
「朝より増えてるだろ」
「でもいっぱい歩いた!」
「歩けば食料が増えるわけじゃない」
「じゃあオリマーの分を――」
「嫌だよ」
「まだ最後まで言ってない!」
「言わなくても分かる」
戻ってきたローズが袋の中を覗いた。
「仕方ないわね。アタシの分、少しあげようか?」
ひまわりの顔が輝く。
「いいの?」
「嘘よ」
「ローズ!」
ローズが笑う。
オリマーもつられて口元を緩めた。
その瞬間、ローズと目が合う。
互いの表情が僅かに止まった。
けれど今度は、どちらも露骨に目を逸らさなかった。
ほんの一瞬だけ視線を合わせたあと、ローズの方が先にひまわりへ向き直る。
それだけだった。
それでも、朝よりは少しだけましになった気がした。
夕食を終える頃には、木々の向こうへ沈みかけた陽が空を赤く染めていた。
ひまわりは食べ終わるなり寝床へ転がり、満足そうに腹を擦っている。
「足りないって騒いでた割には幸せそうね」
「食べたから」
「単純」
「ローズも食べたから幸せ?」
「アンタと一緒にしないで」
そう答えながらも、ローズの機嫌は悪くなさそうだった。
少し離れた場所では、アジサイが木の幹へ背を預けている。
湿原を抜けるまで。
同行すると言った時、自分でそう区切った。
その境界は、もう越えた。
明日の朝になれば別々に進む。それで何もおかしくない。
アジサイはそう考えながら、ひまわりへ目を向ける。
すぐに視線を逸らした。
まだ決める必要はない。
今夜はここで休むのだから。
日が完全に落ちると、林の中は急速に暗くなった。
乾いた枝はあったが、火は起こさなかった。暖を取るほど冷えてはいないうえ、知らない土地で明かりや煙を出す方が危険だった。
ひまわりは横になって間もなく寝息を立て始める。
「早……」
ローズが呆れたように呟いた。
アジサイも集めた葉の上で身体を丸める。
オリマーは木の幹へ背を預けた。
少し離れた木の根元では、ローズが横になっている。
「おやすみ」
眠りかけたひまわりの声が聞こえた。
「おやすみ」
ローズが返す。
アジサイも小さく続き、最後にオリマーが返した。
静かな夜だった。
湿原から離れたため、水音さえほとんど聞こえない。
それなのにオリマーは眠れなかった。
目を閉じれば、滝の轟音が蘇る。
巨大な脚が落ちてくる。
ローズが自分を突き飛ばす。
振り返った時には、もう遅かった。
オリマーは目を開けた。
少し離れた場所にローズがいる。
暗闇の中でも赤い髪は薄く見えた。横たわった身体は、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
生きている。
分かっている。
何度確認しても、その事実だけは変わらない。
それでも、別の光景が消えてくれなかった。
泥の中へ潰された身体。
そこから伸びていた右脚。
開いたままの目。
目の前で眠っているローズと、記憶の中で死んでいるローズ。
どちらかが偽物なのではない。
どちらも同じローズだからこそ、どう受け止めればいいのか分からなかった。
しばらく暗闇を見つめていたオリマーは、やがて静かに立ち上がった。
三人を起こさないよう荷物へ近づき、その中から小さな髪飾りを取り出す。
蔓で作った輪に、赤褐色の殻を留めた髪飾り。
昨夜、ローズへ返すはずだったもの。
受け取ろうと伸びてきた手を、自分は反射的に払いのけた。
あの時のローズの顔まで思い出し、オリマーは髪飾りを握る指へ力を込めた。
本来なら返せばいい。
本人は目の前にいる。
それでも、身体が動かなかった。
オリマーは髪飾りを持ったまま、野営地から少し離れた。
声を出せば三人に届く程度の距離に、木々の途切れた平らな場所がある。
そこで足を止める。
何をするつもりなのか、自分でもはっきり決めていたわけではなかった。
足元にあった小さな石を一つ拾い、地面へ置く。
もう一つ、その隣へ。
三つ目を重ねると、下の石がずれて崩れた。
オリマーはしゃがみ込み、積み直す。
それからも黙って石を集めた。大きすぎるものは避け、手で運べるものだけを選ぶ。形が崩れれば直し、隙間があれば小さな石を差し込んだ。
何かを作ろうとしていたわけではない。
ただ、何も残さないままこの場所を去ることができなかった。
やがて目の前に、掌より少し大きい程度の石の山ができていた。
オリマーはそこで手を止めた。
しばらく見つめてから、ようやく自分が何をしているのか理解する。
「……墓、か」
遺体はない。
滝に残したままだ。
土をかけてやることも、ここまで運んでやることもできなかった。
こんな場所に石を積んだところで、本当は何の意味もないのかもしれない。
それでも、オリマーは立ち上がらなかった。
掌を開く。
髪飾りがある。
石を少し退け、その下へ置こうとした。
「……何してるの?」
背後から聞こえた声に、オリマーの手が止まった。
振り返る。
ローズが立っていた。
眠っていたのだろう。赤い髪は少し乱れ、まだ僅かに眠そうな顔をしている。
「起こしたか?」
「目が覚めたら、アンタがいなかったのよ」
ローズはそう言いながら近づいてきたが、途中で足を止めた。
視線がオリマーの足元へ落ちる。
積まれた石。
退けられた一角。
そして、オリマーの掌にある髪飾り。
眠気が消えた。
「……何、それ」
オリマーは答えられなかった。
ローズが石の山を見る。
「何してたの?」
「……墓を作ってた」
「墓?」
「ああ」
ローズの眉が寄る。
「誰の?」
オリマーは一度、髪飾りへ目を落とした。
「滝で失った、お前の身体の」
ローズの表情が止まった。
「……アタシの?」
「身体のな」
「意味分かんない」
声が一段低くなる。
「アタシはここにいるでしょ」
「ああ」
「だったら、なんで墓なんて作るのよ」
「分からない」
「またそれ?」
ローズが一歩近づく。
「朝も言ったじゃない。あれは壊れた身体なの。記憶も気持ちも全部こっちにある。アタシは何もなくなってない」
「分かってる」
「分かってないから、こんなことしてるんでしょ」
「違う」
「何が違うのよ」
オリマーは答えようとした。
だが、自分の中にあるものをどう言葉にすればいいのか分からない。
ローズは苛立ったように息を吐いた。
そこで、もう一度オリマーの手元を見る。
髪飾り。
昨夜、オリマーが差し出したものだった。
ローズの視線が鋭くなる。
「……それ」
オリマーは何も言わなかった。
「そこに入れるつもり?」
「……ああ」
「待って」
ローズが一歩踏み出す。
「それ、アタシに返すんじゃなかったの?」
「そのつもりだった」
「だったって何よ」
「今も、お前のものだと思ってる」
「じゃあ返してよ」
ローズが手を差し出す。
昨夜と同じだった。
ただ、今度はオリマーではなく、ローズの手が途中で止まった。
指先が僅かに震える。
昨夜、触れようとして払いのけられた記憶。
ローズはオリマーの手へ触れないまま、ゆっくり腕を下ろした。
「アタシのでしょ」
「ああ」
「アタシが預けたのよ」
「ああ」
「アンタが直してくれたことも覚えてる。返そうとしてくれたことだって覚えてる」
「分かってる」
「なら、なんで死んだ身体に渡すのよ」
その言葉に、オリマーは顔を上げた。
ローズの表情には怒りだけでなく、傷ついた色が混じっている。
「今ここにいるアタシじゃなくて、あっちに渡したいの?」
「違う」
「じゃあ何よ!」
ローズの声が夜の林へ響いた。
「アタシはここにいる! アンタを助けたのもアタシ。潰されたのもアタシ。痛かったのも、怖かったのも全部覚えてる! なのに、なんでアンタは――」
言葉が途切れた。
オリマーが俯いていた。
最初は怒らせたと思った。
だが違った。
髪飾りを握った手が震えている。
「お前がここにいることも……今のお前が同じローズだってことも、分かってる」
掠れた声だった。
「だったら……」
「分かってるんだよ」
もう一度そう言った瞬間、声が崩れた。
オリマーは俯いたまま、何度か息を吸おうとした。
けれど、うまく吸えない。
喉の奥から押し殺した音が漏れた。
「でも……俺を助けて死んだあの身体を、何もなかったことにはできない」
ローズは何も言えなかった。
「身体だっていうのも分かってる。全部お前に残ってる。今のお前が偽物じゃないことだって……分かってる」
オリマーは髪飾りを握った手を額へ押し当てた。
「あの身体で、一緒に歩いたんだ」
声が震える。
「飯食って、喧嘩して、笑って……これを俺に預けた」
一度、言葉が途切れた。
その続きを口にしようとした瞬間、オリマーの呼吸が大きく乱れた。
「最後に……俺を……」
声にならなかった。
頬を伝っていた涙が、一気に増えた。
オリマーは慌てて腕で拭った。
それでも止まらない。
一度堪えようとしたことで、逆に何かが切れた。
「俺が……」
息を吸う。
「俺が、あそこにいたから……」
「オリマー」
「俺を助けたから、あんな……」
途中から、まともな言葉にならなかった。
三十歳の男が、幼い子供のように泣いていた。
嗚咽を噛み殺そうとしても次々に息が詰まり、手の甲で拭っても涙は止まらない。肩まで震え始める。
ローズは完全に固まった。
怒らせるとは思っていた。
言い争いになるとも思っていた。
けれど、泣かせるつもりなどなかった。
まして、こんなふうに泣くとは思っていなかった。
「ちょ、ちょっと……」
ローズの声まで慌てる。
「何でそんなに泣くのよ」
答えはない。
「アタシ、別に責めたいわけじゃ……いや、ちょっとは責めてたけど」
何を言えばいいのか分からない。
いつものように怒鳴ればいいのか。
馬鹿だと言えばいいのか。
大丈夫だと言えばいいのか。
どれも違う気がした。
「俺には……無理なんだ」
途切れ途切れに声が漏れる。
「あれを見て……身体だからって……そんな簡単に……」
ローズは唇を噛んだ。
少し離れた木々の陰では、ひまわりとアジサイが立っていた。
ローズの声で目を覚まし、様子を見に来たのだ。
けれど二人とも、その場へ近づけなかった。
ひまわりは、今まで見たことのないオリマーの姿に目を見開いている。
アジサイも何も言わない。
一心群体のことを説明しに行こうとは思わなかった。
もう、説明する必要がないと分かったからだ。
オリマーは知らないのではない。
身体が失われても心が残ることを理解したうえで、それでも泣いている。
ひまわりは自分の腕を抱いた。
少し前までなら、身体が一つ死んでも「まだいるから大丈夫」と笑っていた。
ローズが死んだ時も、そうだった。
今だってローズがいなくなったとは思っていない。
それでも、オリマーがこれほど泣くほどの何かが、あの身体にはあった。
アジサイも自分の右手へ目を落とした。
ローズの死んだ身体へ触れた指。
今朝から何度も、今のローズの右脚を確認していた。
歩いている。
そこにある。
傷はない。
確認する必要などないことを、何度も確認していた。
その理由が、ようやく少しだけ分かった。
身体は単なる入れ物ではないのかもしれない。
少なくとも、その身体で過ごした時間まで、何もなかったことになるわけではない。
「……ひまわり」
アジサイが小さく呼ぶ。
「うん」
「今度から」
一度、言葉を探した。
「身体も、できるだけ死なせないようにしよう」
ひまわりは墓の前で泣いているオリマーを見たまま、ゆっくり頷いた。
「うん」
大げさな誓いではなかった。
命の考え方が、一夜で人間と同じになったわけでもない。
ただ、今までなら避けなかった危険を、これからは少し避けようと思った。
失っても戻る身体だからと、簡単には扱わない。
それだけの、小さな変化だった。
墓の前では、ローズがまだ立ち尽くしていた。
オリマーの涙は止まらない。
「……もう」
ローズは小さく呟いた。
一歩近づく。
そして、止まった。
昨夜のことが頭を過る。
伸ばした手を、オリマーに払われた。
今触れれば、また拒絶されるかもしれない。
腕が僅かに上がり、途中で止まる。
オリマーは気づいていない。
顔を伏せたまま、子供のように泣いている。
ローズは数秒迷った。
それから、眉を寄せる。
「……知らないわよ、もう」
もう一歩踏み出した。
両腕を伸ばし、オリマーの頭を自分の胸元へ引き寄せる。
「っ……」
オリマーの身体が強張った。
ローズも同時に身を硬くする。
拒絶される。
一瞬、そう思った。
けれど、オリマーの手は彼女を払いのけなかった。
しばらく宙に浮いていた手が、やがてローズの服を弱く掴んだ。
それだけだった。
ローズは息を吐いた。
「……ほら」
慣れない手つきで、オリマーの頭へ腕を回す。
「泣くなら、ちゃんと泣けばいいでしょ」
言い方はいつものローズだった。
けれど声は、驚くほど柔らかかった。
オリマーの肩がさらに震える。
ローズは戸惑いながらも腕を離さなかった。
どうすればいいのか分からず、しばらくそのままでいる。
やがて、昔どこかで誰かにされたことを身体が覚えていたように、オリマーの髪へ手を置いた。
一度だけ、ゆっくり撫でる。
泣いている幼い子供を宥めるような仕草だった。
「アタシ、ここにいるから」
オリマーの指が、ローズの服を少し強く握った。
「だからって、あの身体を忘れろなんて……もう言わない」
自分で口にしてから、ローズは僅かに目を見開いた。
さっきまで、自分はそれに近いことを言っていた。
今の自分がいるのだから、墓などいらない。
失われたのは身体だけ。
そう思っていた。
でも今は違う。
ローズはオリマーの頭を抱いたまま、小さな墓を見る。
「あれもアタシだった」
声が少し震えた。
「今のアタシも、アタシ」
オリマーは何も言わない。
ただ、服を握る指だけは離れなかった。
ローズはその手を見る。
昨夜は、触れることすらできなかった。
自分が伸ばした手を払われた。
今は、自分から抱きしめている。
オリマーも逃げていない。
その事実に気づくと、ローズはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「……ほんと、面倒臭いんだから」
誰のことを言ったのか、自分でも分からなかった。
しばらくして、オリマーの呼吸が少しずつ落ち着いていく。
ローズはすぐには離れなかった。
胸元へ顔を埋めたままのオリマーを見下ろし、もう一度だけ髪を撫でる。
その仕草があまりにも自分らしくないことに気づき、今さら少しだけ顔が熱くなった。
「……誰にも言わないでよ」
「何を……」
掠れた声が返ってくる。
「今の」
「誰に……」
「知らないわよ」
オリマーが僅かに笑った。
泣きながらの、酷い顔だった。
それでもローズは、その笑いを見てようやく安堵した。
少し離れた木の陰で、ひまわりが声を上げそうになる。
アジサイが慌てて腕を掴んだ。
「今は行かない方がいい」
ひまわりは二人をもう一度見てから、素直に頷いた。
二人は何も言わず、来た道を引き返した。
墓のことも。
オリマーが泣いたことも。
ローズが抱きしめたことも。
今は二人だけのものにしておくことにした。
やがてローズが腕を緩めた。
オリマーも顔を上げる。
二人の間に距離が戻る。
けれど、もう昨夜と同じ距離ではなかった。
オリマーは目元を拭い、掌の髪飾りを見る。
ローズも視線を落とした。
「……入れるの?」
「ああ」
ローズは少しだけ寂しそうに目を細める。
「本当は返してほしいけど」
「……悪い」
「だから謝らないでって言ってるでしょ」
「これは謝るしかないだろ」
「馬鹿」
その声には、もう怒りがなかった。
ローズは髪飾りを見つめる。
昨夜から返ってくるのを待っていた。
自分のために作ってもらったものだ。
だから本当なら、今すぐ受け取りたい。
それでも。
「あっちのアタシに、あげる」
オリマーが顔を上げた。
「いいのか?」
「アタシが決めたの」
少しだけ意地を張るように言う。
「その代わり」
「何だ?」
「また作って」
「髪飾り?」
「そう」
「俺が?」
「アンタ以外に誰が作るのよ」
「もっと上手い奴いるかもしれないぞ」
「知らない。アタシはアンタに言ってるの」
オリマーは一瞬黙り、それから頷いた。
「分かった」
ローズは満足したように小さく息を吐いた。
オリマーは石を少し退け、その下へ髪飾りを置く。
赤褐色の殻が月明かりを僅かに返した。
少しだけ見つめてから土を被せ、石を戻す。
ローズも足元から小さな石を一つ拾った。
「嫌なら、しなくていいぞ」
「嫌とは言ってないでしょ」
墓の前へしゃがむ。
髪飾りが埋まった場所を見つめる。
「……変なの」
「何が?」
「自分の墓に、自分で石置いてる」
オリマーは何も言わなかった。
ローズも少しだけ苦笑する。
「ほんと、変」
それでも拾った石を置いた。
乾いた音が、夜の林へ小さく響いた。
二人はしばらく墓の前にいた。
言葉はなかった。
けれど、それでよかった。
野営地へ戻ると、ひまわりはすでに寝床へ戻っていた。
目を閉じている。
寝ているように見える。
アジサイも横になっていた。
ローズは二人を一度見たが、何も言わなかった。
自分の寝床へ向かおうとして、足を止める。
オリマーを見る。
昨日はもっと離れていた。
ローズは少し迷ったあと、別の木の根元へ腰を下ろした。
隣ではない。
手を伸ばしても届かない。
それでも、昨夜よりはずっと近かった。
オリマーも気づいた。
けれど何も言わない。
ローズも横になる。
しばらくして、暗闇の中から小さな声がした。
「あの身体が見たものも、感じたことも、全部ここにある」
ローズが自分の胸へ手を置いている。
オリマーは前を向いたまま答えた。
「ああ」
「アンタと歩いたことも、髪飾りを預けたことも、助けたことも覚えてる」
「ああ」
「死んだことも」
オリマーは僅かに息を詰めた。
それでも答える。
「ああ」
ローズはしばらく黙った。
「あの身体がなくなっても、アタシは何もなくしてないと思ってた」
「……うん」
「今も、アタシが減ったとは思ってない」
オリマーは何も言わなかった。
「でも」
ローズの指が胸元の服を僅かに掴む。
「あの身体は、もうどこにもいないのね」
今度は否定しなかった。
「……ああ」
ローズは目を閉じた。
それ以上、二人の間に言葉はなかった。
翌朝。
最初に目を覚ましたアジサイは、いつものように周囲を確認してから身体を起こした。
湿った土も、水位を確かめる必要もない。
ここはもう湿原ではない。
自分が案内する理由も、昨日でなくなった。
少しして、ひまわりも身体を起こす。
「おはよう」
「おはよう」
眠そうに目を擦っていたひまわりは、やがて何かを思い出したようにアジサイを見る。
「ねえ」
「何?」
「アジサイ、今日ここで別れるの?」
アジサイはすぐには答えなかった。
昨夜の小さな墓が見える。
身体が一つ死んだだけ。
そう考えていた。
一心群体なのだから、それで間違っているとも思わない。
それでも昨夜、自分はオリマーがあれほど泣く姿を見た。
ローズを失っていないのに。
記憶も感情も残っているのに。
それでも人間にとっては、一つの身体が戻らないことだけで、あれほど悲しいらしい。
完全には理解できなかった。
けれど、もう以前のように身体の死を軽く考えることはできなかった。
それに、自分がなぜローズの右脚ばかり見てしまったのかも、まだ答えが出ていない。
「……もう少しだけ」
ひまわりが目を丸くする。
「一緒に行くの?」
「もう少しだけって言った」
途端にひまわりの顔が明るくなる。
「どこまで?」
「決めてない」
「じゃあ、ずっとかもしれないね」
「それはない」
「なんで!」
その声でローズが目を覚ました。
「朝からうるさい……」
オリマーも身体を起こす。
「何だ?」
「アジサイが一緒に来るって!」
「もう少しだけ」
アジサイがすぐ訂正した。
オリマーは彼女を見る。
「いいのか?」
「私が決めたから」
「ああ」
それ以上、理由を聞く必要はなかった。
「よろしくな」
アジサイは少しだけ視線を逸らす。
「……うん」
朝食を済ませ、四人は荷物をまとめた。
出発する前、ひまわりが小さな墓の前へ歩いていく。
何も言わず、近くに咲いていた小さな白い花を一本摘んだ。
墓の前へ置く。
それを見たアジサイも、足元から小さな石を拾った。
無言で加える。
昨夜、二人で決めたことを言葉にする必要はなかった。
ローズがその様子に気づく。
「何してるの?」
ひまわりは少し考えた。
「分かんない」
「は?」
「でも、置きたかったから」
ローズは白い花を見る。
次に、アジサイが置いた石。
二人は昨夜の墓の意味を完全に理解したわけではない。
それでも何かが変わったことだけは分かった。
ローズはそれ以上何も言わなかった。
最後にオリマーが墓を見る。
土の下には髪飾りがある。
約束した通りには返せなかった。
代わりに、新しい約束をした。
オリマーは墓へ背を向ける。
「行くぞ」
ひまわりとアジサイが先を歩き始める。
オリマーも後へ続く。
ローズは一度だけ自分の髪へ触れた。
そこには、もう髪飾りはない。
けれど、その指は以前のように何もない場所を惜しむだけでは終わらなかった。
少し先を行くオリマーを見る。
「オリマー」
呼ばれて、オリマーが振り返る。
「何だ?」
「次の髪飾り」
「ああ」
「忘れないでよ」
オリマーは少しだけ笑った。
「忘れない」
「ならいいわ」
ローズも歩き出した。
数歩あった距離を、少しずつ詰める。
隣には並ばない。
けれど、以前のように大きく離れもしない。
昨夜、一度触れた。
抱きしめられた。
オリマーも、それを拒まなかった。
だからもう、触れることそのものを恐れる必要はなかった。
群体は生きている。
記憶も、感情も、名前も失われてはいない。
それでも、一つの身体は戻らない。
オリマーが教えたのは、死の意味ではなかった。
失われても代わりがあることと、失って悲しくないことは同じではない。
そのことを、三人は初めて知った。
四人の背後で、小さな墓に供えられた白い花が、朝の風に静かに揺れていた。