市立図書館へ入る直前、ルーイはスマートフォンを確認した。
時刻を見るだけのつもりだったのに、視線は自然と画面上部へ向かう。アンテナは四本。市街地の真ん中なのだから、電波が入っているのは当たり前だった。
ルーイは画面を消し、自動ドアを抜けた。
冷房の効いた空気が、外の暑さを一息に切り離す。
平日の昼過ぎということもあって、館内はそれほど混んでいない。窓際では老人が新聞を広げ、少し離れた席では学生らしい二人が参考書を開いている。返却カウンターから端末の電子音が響き、児童書の棚からは母親に何かを尋ねる子供の声が聞こえてきた。
以前と変わらない。
どこにでもある図書館だった。
ルーイは検索端末には向かわず、そのまま受付へ歩いた。
前にここを訪れた時、最初に検索した「花神村」では何も見つからなかった。「花神」まで範囲を広げても、出てきたのは同じ名を持つ神社や祭りなど、探している村とは無関係な資料ばかりだった。
そこから市史や旧町史、郡誌、古い新聞へ範囲を広げ、ようやく花神村が実在した痕跡へ辿り着いた。
古地図には村の位置が残っていた。
写真には、山間に並ぶ十数軒の家屋と畑、それらを繋ぐ細い道が写っていた。花に囲まれた集落の遠景だけでなく、祭りや住民の集合写真も残されていた。
花神村は、誰も辿り着けない場所だったわけではない。
かつては人が暮らしていた。
村の中で写真を撮り、それを外へ持ち帰った人間もいる。
今日ルーイが調べたいのは、花神村へ行く方法ではなかった。
前回、帰り際に職員から教えられたもの。
検索端末には登録されていない寄贈資料だった。
受付にいた女性職員へ声をかけると、彼女はルーイの顔を見て少し考え、すぐに思い出したらしい。
「花神村を調べていた方ですよね」
「はい。前に教えてもらった寄贈資料を見たくて」
「ああ、やっぱり気になりました?」
職員は少し笑ってから、手元の端末を操作した。
「花神村そのものの資料があるとは限りませんけど、それでもよろしければ。周辺の旧家や、昔この辺りで活動していた山岳会から寄贈されたものがあります。林業関係の記録も混ざっていたと思います」
「それで大丈夫です」
むしろ今回は、その方が都合がよかった。
ルーイが知りたいのは、村についてだけではない。
花神村周辺で過去に起きていた失踪事件。その時、人々がどこを探したのか。
前に確認した新聞記事には、警察や消防による捜索が行われたことまでは書かれていた。しかし、実際にどこまで山へ入り、どの範囲を調べたのかまでは載っていない。
捜索した人間がいるのなら、新聞には残らなかった記録がどこかにあるかもしれない。
職員から渡された閲覧申請書を受け取り、ルーイは調査対象の欄へ、
『花神村および周辺山林』
と記入した。
兄の名前は書かなかった。
まだ、兄の失踪と花神村に直接の関係があるとは証明できていない。
兄のトラックが最後に確認された県道。
そこから山へ続いていた轍。
山中で一本ずつ消えていったスマートフォンの電波。
鳥や虫の声が途絶えた静けさ。
そして、あの甘い花の匂い。
近くには、地図から消えた花神村がある。
並べれば、すべてが一つの出来事に見えてくる。
だからこそ、ルーイは先に答えを決めたくなかった。
「少しお待ちください」
申請書を受け取った職員が受付の奥へ消える。
ルーイは邪魔にならないよう壁際へ寄った。
返却された本を載せた台車が前を通る。新聞を読んでいた老人が大きく紙面をめくり、遠くで子供が笑った。
音がある。
そのことを意識している自分に気づき、ルーイは僅かに眉を寄せた。
山へ入る前なら、そんなことを気にしたりはしなかった。
ポケットの中のスマートフォンへ手を伸ばしかけ、やめる。
電波なら、入口で確認したばかりだ。
やがて、職員が小さな台車を押して戻ってきた。
台車には、灰色や茶色の保存箱が四つ積まれている。
「関係がありそうなものを持ってきました」
「結構ありますね」
「まだ整理が終わっていないものも多いんです。古い家からまとめて寄贈されたものなんかは特に」
職員は一番上の箱へ手を添えた。
「消防団の活動記録、山岳会の記録、林業関係の手帳、古い地図、新聞の切り抜き。この辺りですね」
「全部見ても?」
「もちろんです。ただ、資料によっては複写できないものもありますので、その場合は声をかけてください」
案内されたのは郷土資料室だった。
大きな机へ保存箱を移す。
窓から午後の日差しが差し込んでいるが、今日は他の利用者はいない。
「終わりましたら、受付までお願いします」
「ありがとうございます」
職員が退室する。
扉が閉まる音が、思っていたよりはっきり響いた。
急に静かになった。
それでも空調の低い音は聞こえるし、廊下からは時折、台車の車輪が床を転がる音も届く。
山で経験した静けさとは違う。
そんな比較をしたこと自体が馬鹿らしくなり、ルーイは椅子へ腰を下ろした。
最初の保存箱を開ける。
古い紙と埃の混じった匂いが立った。
その瞬間だけ、手が止まる。
甘くない。
そこまで確認してしまった自分に気づき、ルーイは顔をしかめた。
「……何やってんだ」
小さく呟き、最初の冊子を取り出した。
目的の記録は、思っていたより早く見つかった。
以前確認した失踪記事の一つ。
仕事で山へ入ったまま戻らなかった木こりの事件だった。
当時の消防団が残した活動記録には、捜索へ参加した人数や日程が細かく記されている。
初日は、失踪者が作業していた場所とその周辺。
翌日から範囲を広げ、沢沿いや尾根、古い林業道にも人員を入れていた。
新聞の短い記事から想像していたより、はるかに大掛かりな捜索だった。
ページの間には、折り畳まれた地形図も挟まっていた。
ルーイは傷めないよう慎重に広げる。
黄ばんだ地図の上を、赤と青の色鉛筆が何本も走っていた。
捜索班が実際に歩いた経路らしい。
失踪者が最後に確認された場所から、いくつもの線が枝分かれしている。沢へ入った班もいれば、尾根を越えた班もいる。古い作業道を辿るだけでなく、途中から斜面へ入った線まであった。
「かなり探してるな……」
これだけの人数が山へ入っても、失踪者は見つからなかった。
だが、山は広い。
人間一人を探し出すのが難しいことくらい、ルーイにも分かる。
色鉛筆の線を目で追っているうちに、その一本が途中で終わっていることに気づいた。
近くの余白に、小さな文字がある。
『濃霧のため引き返し』
それ自体は何もおかしくない。
山で視界を失えば、捜索する側まで遭難しかねない。
ルーイは持参した現在の地形図を横へ置き、おおよその位置だけをノートへ記した。
その時点では、それ以上気に留めなかった。
二件目は、さらに後の年代に起きた山菜採りの失踪だった。
木こりとは入山した場所が違う。
こちらでは北側の登山道を起点として捜索が行われていた。
年代が新しいためか資料の保存状態もよく、捜索経路を書き込んだ地図もすぐに見つかった。
複数の線が、登山道から山の内側へ伸びている。
一件目と同じように、かなり広い範囲まで人が入っていた。
そして、そのうちの一本だけが途中で切れている。
ルーイは備考欄へ目を移した。
『無線不通。現在地確認困難のため撤収』
一件目とは違う。
霧ではない。
谷へ入れば無線が届きにくくなることはある。現在より古い機材なら、なおさら珍しくもないだろう。
ルーイはその理由もノートへ書き留めた。
二枚の地図を横へ並べる。
年代が違う。
縮尺も違う。
入山地点も違う。
この状態では、二つの班がどこで撤退したのか正確に比較することはできない。
ただ、見比べているうちに別のことが気になった。
どちらの捜索も、簡単な場所だけを調べているわけではない。
急な斜面へも入っている。
沢も遡っている。
尾根の奥にも線が伸びていた。
遭難者を探しているのだから、それ自体は当然だ。
ルーイは一枚目へ目を戻す。
山の中を複雑に走る赤と青の線。
二枚目にも同じように、人が歩いた痕跡が残っている。
別々の時代に。
別々の人間が。
別々の失踪者を探した。
今のところ、それだけの地図だった。
三件目は、失踪事件の記録ですらなかった。
山岳会から寄贈された冊子を調べている途中、『旧道調査』という文字を見つけた。
ルーイは手を止める。
以前複写した花神村の古地図には、現在の地図から消えている道が何本か描かれていた。
記録を開く。
六人で山へ入り、使われなくなった旧道の位置を確認しながら反対側へ抜ける計画だったらしい。
天候は晴れ。
参加者の体調にも問題はない。
予定経路と実際に歩いた経路が、同じ地図へ書き込まれていた。
途中までは一致している。
だが山へ深く入ったところから、実際の経路だけが少しずつ予定線を外れていた。
引き返した形跡はない。
先へ進んでいる。
それなのに、線は緩やかに大きな弧を描き、最終的には出発地点の近くへ戻っていた。
備考には、
『進路を見失い、出発地点へ帰還』
とある。
ルーイは、その一文を読み直した。
引き返したのではない。
先へ進んでいたつもりが、戻っていた。
本文を確認すると、記録を書いた人間たちも不可解な出来事とは考えていなかった。
目印にしていた尾根を取り違えた。
旧道と獣道を誤認した。
方位磁針に何らかの不調があった。
考えられる原因がいくつか記され、最後には、
『次回、旧道位置を再確認』
と結ばれている。
山中で道を失った。
ただ、それだけの失敗として処理されていた。
ルーイも、それ以上の意味を持たせるつもりはなかった。
ただ地図だけは片づけず、先ほどの二枚の横へ置いた。
年代も目的も異なる三枚の山が、机の上に並んだ。
違和感を覚えたのは、それからだった。
最初は何が気になるのか、ルーイ自身にも分からなかった。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
どれも山のあちこちに線が引かれている。
南から入ったもの。
北から入ったもの。
西から山を横断しようとしたもの。
当然、経路はまるで違う。
捜索範囲も目的も違うのだから、人が歩いていない場所があること自体は不思議ではない。
それでも、目が同じ辺りへ戻った。
一枚目では、複数の線に囲まれながらほとんど手の入っていない一帯。
二枚目にも、似た形で線の薄い場所がある。
三枚目では、旧道調査の経路がその近くで大きく曲がっているように見える。
「……いや」
ルーイは首を振った。
縮尺が違う。
このまま比べる方がおかしい。
似て見えるだけかもしれない。
現在の地形図を机の中央へ置く。
沢の分岐。
尾根の形。
残っている道路。
古い地図との共通点を一つずつ探す。
正確に比べるには、薄紙へ経路を書き写し、同じ地形へ合わせる必要がある。
それでも目測する限り、三枚の「線が少ない場所」は同じ山域にあるように見えた。
そこでルーイは、鞄からもう一枚の地図を取り出した。
以前複写した、花神村が載っている古地図。
机の上へ広げる。
花神村の位置を確認する。
少しして、ルーイの眉間に皺が寄った。
違う。
三枚の地図で線が途切れているように見える場所は、花神村ではない。
村から少し離れた山林だった。
古地図には、花神村へ続く道が確かにある。
集落の中にも道が走っている。
写真にも、それは残っていた。
当然だ。
人が暮らしていた村なのだから、外界との行き来はあった。
問題は、その花神村からさらに山側だった。
古地図では、何の変哲もない山として描かれている一帯。
一枚目では、その近くへ向かった班が濃霧で引き返している。
二枚目では、別方向から近づいた班が無線不通で撤収している。
さらに古い三枚目では、旧道を進んでいた六人がその周辺で進路を失い、出発地点へ戻っていた。
まだ、同じ場所だと決まったわけではない。
縮尺すら揃えていない。
偶然なら、確かめれば終わる。
ルーイは席を立ち、受付へ向かった。
複写用の薄紙を借りて戻ると、ルーイはすぐ作業を始めた。
まず木こりの捜索図。
古い道路は目印に使わず、大きな沢の分岐と尾根の形を基準にする。必要な地形と捜索経路だけを書き写し、『濃霧のため引き返し』と記された線の終点へ小さな印を付けた。
次に山菜採りの捜索図。
北側から伸びる線を書き写し、無線不通で撤収した地点を記す。
二枚を現在の地形図へ合わせた。
ルーイの手が止まる。
完全には同じ場所ではない。
だが、思っていた以上に近い。
南側から伸びる捜索線と、北側から伸びる捜索線。
互いに向かい合うように進みながら、一定の距離を残して終わっている。
その間には、地図上では何の変哲もない山林があった。
ルーイは何も言わず、三枚目へ移った。
山岳会の旧道調査は、現在の地図と一致する目印が少なく、最も時間がかかった。
一度は合わせ方を間違え、最初からやり直した。
ようやく位置を定め、六人が実際に歩いた経路を書き写す。
予定していた道を外れ、大きな弧を描いて出発地点へ戻った経路。
それを、前の二枚へ重ねた。
今度は、しばらく動けなかった。
三方向から線が伸びている。
南からは濃霧。
北からは無線不通。
西からは進路喪失。
それぞれの線が、ひとつの山林を囲むように止まっていた。
円形ではない。
境界線があるわけでもない。
山の起伏に沿って歪んだ、名前のない一帯。
そこだけに、人が歩いた線がなかった。
ルーイは花神村の古地図を重ねる。
今度は慎重に位置を確かめる。
花神村は、その外にある。
近い。
だが別の場所だ。
村には家屋も畑も道もある。
昔、人が暮らし、写真まで残した場所。
そのすぐ近くにある山林だけが、どの年代の記録を重ねても白い。
ルーイはノートへ、
『花神村ではない』
と書いた。
その下へ、
『花神村近郊の山林』
と続ける。
しばらく迷ってから、さらに一行。
『人の記録がない範囲あり』
まだ名前は付けなかった。
三件だけなら偶然かもしれない。
そこでルーイは、捜索記録以外にも範囲を広げた。
林業関係者の作業図。
山岳会の別の活動記録。
消防団の訓練経路。
古い登山図。
同じ山域を扱っている資料を見つけるたび、薄紙へ経路を書き写した。
一件。
また一件。
山には、人間の足跡が増えていく。
急な沢にも。
険しい尾根にも。
花神村の周辺にも。
だが、例の山林だけは埋まらなかった。
古い林業図では、作業道がその手前で二つに分かれ、左右から迂回している。
消防団の訓練経路は南側を通る。
登山記録は東側の尾根へ入り、そのまま北へ折れていた。
どれも、その一帯の中へは入らない。
ルーイは途中で手を止めた。
机の上には何枚もの薄紙が重なっている。
最初は三件の偶然だった。
今は、偶然と呼ぶ方にも理由が必要になり始めていた。
地形を疑った。
崖。
崩落。
急斜面。
湿地。
山へ入る人間が避けるだけの理由がないか、等高線や資料を調べる。
見つからない。
周囲には、もっと険しい場所がある。
そこには普通に人の線が入っている。
土地の所有関係。
立入禁止区域。
何らかの施設。
それを示す記録も、今のところ見つからなかった。
古地図には、ただ山林として描かれている。
名前すらない。
ルーイは花神村の古地図へ視線を戻した。
村のすぐ近くにあるのだから、住民が存在を知らなかったはずはない。
だが、今日見つけた資料のどこにも、その山林について特別な記述はない。
危険な場所とも。
禁足地とも。
何かの採取場とも書かれていない。
そこに山があることだけは、誰も否定していない。
地図にも描かれている。
等高線も沢もある。
空白なのは、地図ではなかった。
人間が残した線の方だった。
ルーイは最初に見つけた木こりの捜索記録へ戻った。
今度は地図だけではなく、その日の活動記録を最初から読み直す。
午前中は問題なし。
午後から霧が出始め、視界が悪化。
一班が予定経路を途中で断念し、下山。
翌日の予定まで淡々と書かれている。
ページをめくろうとして、欄外の小さな文字に気づいた。
本文とは少し違う筆圧。
『鳥鳴かず。花のような臭気あり』
ルーイの指が止まる。
短い記録だった。
危険とも、不気味とも書いていない。
現場で気づいたことを残しただけらしい。
山で鳥の声が聞こえないことはある。
花の匂いがすることだって珍しくない。
ルーイは何も書き込まず、次の資料を引き寄せた。
山菜採りの捜索。
無線が通じなくなった日の詳細。
受信状態が徐々に悪化。
予備機でも改善せず。
二班との連絡が一時途絶えたため、合流後に撤収。
その少し下に、
『周辺は異常に静穏。甘い植物臭を確認』
とあった。
ルーイは一つ前の記録へ手を伸ばす。
『鳥鳴かず。花のような臭気あり』
二冊を並べる。
文章は違う。
年代も。
書いた人間も。
それでも、似ている。
ルーイは山岳会の記録を開いた。
六人が道を失った日。
本文だけでなく欄外まで読む。
『虫声聞こえず』
その下には別の筆跡で、
『同行者二名より芳香の報告』
しばらく、紙をめくる音すら止まった。
三件とも。
静かだった。
甘い匂いがした。
それだけなら、何もおかしくない。
問題は、その記述がすべて、あの白い山林へ近づいた日の記録に残されていることだった。
ルーイは無意識に鼻から息を吸った。
古い紙と埃。
空調の乾いた空気。
甘い匂いはしない。
確認したあと、自分が何をしているのか気づく。
「……馬鹿か」
小さく呟いた。
それでも、すぐには資料へ視線を戻せなかった。
兄の轍を追って山へ入った日を思い出す。
鳥の声が消えた。
虫も鳴かなくなった。
そのあと、甘い花の匂いがした。
スマートフォンの電波も落ちていった。
一つずつなら、山で起こり得る。
あの日もそう思った。
今でも、そう思う。
過去の記録を書いた人間たちも、同じだったのだろう。
誰も怪異とは書いていない。
霧は霧。
無線不通は機材か地形。
道を失えば、判断ミス。
匂いも静けさも、ただの補足。
当時の人間にとっては、それだけだった。
ルーイは窓へ目を向けた。
外の木々が風に揺れている。
一羽の鳥が枝へ降りた。
嘴が開く。
声は聞こえない。
厚いガラスが閉まっているのだから、当然だ。
それでも、鳥が飛び去るまで目を離せなかった。
さらに記録を追うと、もう一つ共通点が見つかった。
木こりの捜索には、
『天候回復後、再調査予定』
山菜採りの捜索には、
『機材変更後、再捜索』
山岳会には、
『次回、旧道位置を再確認』
とある。
誰も諦めていない。
それも当然だった。
霧なら晴れる。
無線機が悪ければ交換できる。
道を間違えたなら、次は地図を確認して入り直せばいい。
ところが、その先がない。
木こりの捜索自体は続いている。
別の沢。
別の尾根。
人員を増やした記録もある。
それなのに、濃霧で引き返した経路へ再び入った記録がない。
山菜採りの件も同じだった。
翌日以降も捜索は続く。
無線機を確認した記録も残っている。
だが、通信が途絶えた方向へ入った班はいない。
山岳会はさらに分かりやすかった。
次回再確認と書いた直後から別の活動へ移り、その後も旧道調査へ戻った形跡がない。
ルーイはページ番号を確認した。
欠落しているようには見えない。
もちろん、寄贈資料がすべて揃っている保証などない。
別の場所に続きがあるかもしれない。
計画が変わった。
人員が集まらなかった。
別の捜索範囲が優先された。
理由はいくらでも考えられる。
それでも。
「また行く」と書いた人間たちは。
誰も、その場所へ戻っていない。
ルーイはノートへ三件を書き出した。
濃霧――再調査予定――記録なし。
無線不通――再捜索予定――記録なし。
進路喪失――再確認予定――記録なし。
三行を見つめる。
同じ原因とは限らない。
同じ現象だと断定する証拠もない。
ただ、結果だけは揃っていた。
近づく。
戻る。
次は行くと書く。
そして、行かない。
ルーイは一度、資料から離れた。
古地図を見直す。
花神村の中には家があり、畑があり、道がある。
村の北西へ伸びる細い道も描かれていた。
その道は山へ入り、途中で終わっている。
用途は分からない。
林業道だったのかもしれない。
採取場へ向かう道だったのかもしれない。
ただ、その先には何も記されていなかった。
以前複写した写真も取り出す。
『花神集落遠景』
人家。
畑。
道。
その背後に山林が迫っている。
祭りの写真。
集合写真。
山道を歩く村人たち。
どれも普通だった。
不審な影も。
怪しい建物も。
妙なものは何一つ写っていない。
むしろ、普通すぎる。
花神村については、調べるほど少しずつ情報が増える。
暮らし。
住民。
道。
祭り。
写真。
一方で、その隣にある山林については、何枚資料を増やしても何も増えない。
名前すら出てこない。
ルーイはノートへ、
『花神村の住民は、この山林を何と呼んでいた?』
と書いた。
ここなら、まだ調べられる。
村人が使っていた呼称。
土地所有。
植生。
地質。
古い林業記録。
他施設に残る消防団資料。
確認できるものはいくらでもある。
怪談にする必要はない。
最後に、兄の痕跡を重ねた。
トラックが最後に確認された県道。
そこから山へ続いていた轍。
ルーイ自身が歩いたおおよその経路。
空白地帯そのものには入っていない。
少なくとも、車が最後に確認された地点は外側だった。
だが、轍の進んでいた方向は、その山林の方角に重なる。
直線で進んだわけではない。
途中で道が曲がっていた可能性もある。
これだけで、兄がそこへ向かったとは言えない。
ルーイはさらに、自分が山で電波を失った位置をおおよそ地図へ落とした。
正確な記録はない。
歩いた時間と経路から推測しただけだ。
それでも。
過去の捜索隊が異変を記録し始めた一帯と、思ったほど離れていない。
ルーイの手が止まる。
山へ入ったあの日。
最初に電波が弱くなった。
そのあと、鳥や虫の声が消えた。
甘い匂いがした。
あの時は、それぞれ別のことだと思った。
今も、一つずつなら説明できる。
だからこそ嫌だった。
昔の人間も、一つずつ説明している。
霧。
無線。
道迷い。
植物の匂い。
誰も、まとめて考えていない。
違う年代の記録を、同じ机へ並べる人間がいなかったから。
閉館を知らせる館内放送が流れた。
突然人の声が響き、ルーイの肩が僅かに動いた。
すぐに息を吐く。
資料を読みすぎた。
それだけだ。
片づけを始める。
古い冊子を元の順番へ戻し、薄紙へ番号を振る。
最後に、重ねた地図だけが机に残った。
南から。
北から。
西から。
さらに、林業道や登山記録、消防団の訓練経路。
何十年分もの人間の足跡が山へ伸びている。
その中に、一箇所だけ白い場所がある。
花神村ではない。
その近くにある、名前のない山林。
地図には山として描かれている。
木もある。
沢もある。
等高線もある。
何も欠けていない。
ただ。
人がそこを歩いたという記録だけがない。
ルーイはノートの隅へ、ようやく書いた。
『空白地帯』
しばらく眺める。
囲まなかった。
断定したくなかったからではない。
それ以上書き足すと、本当に何かがそこにあるような気がしたからだった。
ルーイはノートを閉じた。
資料を受付へ返し、図書館を出る。
自動ドアが開くと、夕方の熱気と一緒に蝉の声が押し寄せた。
車の走る音。
人の話し声。
遠くで鳴る信号機の誘導音。
あまりに音が多く、ルーイは一瞬だけ足を止めた。
ポケットからスマートフォンを出す。
アンテナは四本。
当然だった。
画面を消し、駐車場へ向かう。
建物の隙間から、遠くの山並みが見えていた。
どれが花神村のある山なのか、ここからでは分からない。
その隣にある、名前すらない山林など見分けられるはずもない。
見た目は、どこにでもある山だった。
今日分かったことは多くない。
花神村の近くに、何十年分の記録を重ねても人の足跡がほとんど入らない山林がある。
その周囲では、年代も目的も違う人間たちが、濃霧、通信不良、進路喪失と、それぞれ別の理由で引き返している。
静かだった。
甘い匂いがした。
そんな些細な記録まで、何度も残っている。
そして兄の轍もまた、その方向へ続いていた。
原因は分からない。
偶然かもしれない。
資料が足りないだけかもしれない。
だから、まだ調べる。
次に山へ入るとしても、一人では行かない。
そこまで考えて、ルーイは歩き出した。
背後では、蝉が鳴き続けている。
地図には空白などなかった。
山は最初から、そこに描かれている。
空いていたのは。
何十年分もの記録を重ねてもなお残った、人間の足跡だけだった。