朝。
目を開く。
最初に見えたのは巨大な葉だった。
緑色の天井みたいに頭上を覆っている。
その隙間から朝日が差し込んでいた。
少し眩しい。
昨日より身体が軽い気がした。
森で一夜を明かしたというのに、不思議なくらい疲労感が少ない。
むしろ調子がいい。
あの果実のおかげだろうか。
そんなことを考えながら身体を起こす。
すると。
「寝顔ひどい」
目の前にローズがいた。
朝一番で言う台詞じゃない。
「おはようとかないのか」
「起きたならそれでいいでしょ」
「もっとこう、人間らしい挨拶とか」
「人間じゃないし」
「そうだったな」
反射的に返事をしてから固まる。
今なんて言った。
だがローズは気にする様子もなく立ち上がる。
「あんたって本当に鈍いわね」
「何がだよ」
「別に」
いつもの調子だった。
聞き返しても答えない。
俺は諦めて立ち上がる。
昨夜の焚き火は完全に消えていた。
灰だけが残っている。
森は相変わらず静かだった。
静かすぎる。
朝の森なら鳥の鳴き声くらい聞こえてもいいはずだ。
なのに何もない。
風すら吹いていない。
世界から音だけ切り取られたみたいだった。
「行くわよ」
ローズが歩き出す。
俺も慌てて後を追った。
一人で残る選択肢はない。
そんな勇気はなかった。
歩く。
ただひたすら歩く。
昨日も思ったが、この森はスケールがおかしい。
草は俺の身長より高い。
花は家ほどある。
キノコは小屋みたいな大きさだ。
最初は驚いていたが、もう疲れてきた。
人間は環境に慣れる生き物らしい。
できればもっと普通の環境に慣れたかった。
「なあ」
「何?」
「この森って広いのか?」
「広いわよ」
「どれくらい?」
「すごい広い」
「参考にならないな」
ローズは首を傾げた。
本気で何が悪いのか分かっていない顔だった。
こいつに距離感を聞くのは無理かもしれない。
しばらく進む。
すると。
前方に巨大な影が見えた。
最初は岩かと思った。
だが違う。
倒木だった。
信じられないほど巨大な木。
幹だけでトラック数台分はある。
それが道を塞ぐように横倒しになっていた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
ローズは平然としていた。
「邪魔ね」
そう言って倒木へ近付く。
嫌な予感がした。
「何する気だ?」
「どかす」
「どうやって?」
ローズは拳を握った。
嫌な予感が確信へ変わる。
「待て待て待て」
「何よ」
「殴る気か?」
「駄目なの?」
駄目だろ。
普通は。
普通なら。
だがこの少女は昨日チャッピーを殴り飛ばしている。
本当にやりかねない。
恐らくは出来るのだろう、しかしいくらなんでも時間がかかる。
「やめとけ」
「なんで?」
「効率が悪い」
ローズは少し不満そうだった。
本気で殴るつもりだったらしい。
恐ろしい。
俺は倒木を観察した。
長年の癖だった。
荷物を運ぶ時。
トラックを通す時。
道が塞がっている時。
まず周囲を見る。
無理に突破するのは素人だ。
「……あっちか」
倒木の横。
少し離れた場所。
木々の隙間に通れそうな空間が見えた。
「こっちだ」
「え?」
「回り込める」
ローズも見る。
数秒後。
「あ」
珍しく間抜けな声が出た。
「本当だ」
「だから最初から周りを見るんだよ」
荷物運びの基本だ。
無理に動かすより。
安全なルートを探す方が早い。
事故も減る。
ローズは少しだけ感心した顔をした。
「意外」
「失礼だな」
「脳筋かと思ってた」
「誰がだ」
「運び屋ってもっと筋肉で運ぶ仕事かと」
「それでやってたら毎日事故だよ」
ローズは少し考える。
そして。
「……役に立つのね」
ぽつりと呟いた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
嬉しかった。
「褒めた?」
「褒めてない」
「今褒めただろ」
「気のせい」
「絶対褒めた」
「うるさい」
顔を背けるローズ。
耳が少し赤い。
気のせいだろうか。
倒木を迂回してさらに進む。
昼が近付く頃には汗が滲んでいた。
喉も渇く。
昨日の果実は美味かったが、水分までは補えない。
そんな時だった。
「……水だ」
前方が開ける。
巨大な湖。
いや。
池かもしれない。
だが俺の感覚では湖だった。
岸から対岸が見えない。
水面は鏡みたいに静かだった。
風がないせいだろう。
一切揺れていない。
「休憩するか」
そう言って近付く。
喉が渇いていた。
少しくらいなら。
そう思った瞬間。
「駄目!!」
ローズが叫んだ。
俺は足を止めた。
心臓が跳ねる。
昨日から一緒にいるが。
ローズがこんな大声を出したのは初めてだった。
「……ローズ?」
振り返る。
少女の顔が強張っていた。
青ざめている。
いや、怯えている。
そんな風に見えた。
「近付かないで」
「何かあるのか?」
「いいから」
ローズは俺の腕を掴む。
思ったより力が強かった。
引きずるように後ろへ下がらされる。
その様子は異常だった。
昨日チャッピーを殴り飛ばした少女とは思えない。
「おい」
「見ないで」
「何を?」
「水面」
意味が分からない。
だが。
その時だった。
ぽちゃん。
水面に波紋が広がる。
小石でも落ちたような小さな波。
しかし何かがおかしい。
波紋が大きい。
大きすぎる。
まるで。
巨大な何かが底の方で動いたみたいに。
俺は息を呑んだ。
水面の下。
黒い影が見えた気がした。
魚じゃない。
そんな大きさじゃない。
もっと。
もっと巨大な。
理解したくない何か。
次の瞬間。
影は消えた。
何も見えない。
静寂だけが残る。
「……今の」
「行くわよ」
ローズが即座に言う。
「でも」
「行く」
有無を言わせない声だった。
俺は池を振り返る。
鏡みたいな水面。
何もいない。
何も見えない。
なのに。
見られている気がした。
背筋が寒くなる。
俺は黙ってローズの後を追った。
その後。
ローズはしばらく何も話さなかった。
俺も聞かなかった。
聞いてはいけない気がしたからだ。
ただ一つだけ分かった。
この森にはチャッピー以外にも何かいる。
そしてローズですら恐れる何かが。
ローズが口を開いたのは、
あの巨大な池を離れてからしばらく経った頃だった。
「もう大丈夫」
ぽつりと呟く。
「何がだよ」
「別に」
「絶対別にじゃないだろ」
ローズは返事をしなかった。ただ前を向いて歩き続ける。
その足取りは普段と変わらないように見える。だが昨日から一緒にいる俺には分かった。少しだけ速い。少しだけ落ち着かない。
早くあの場所から離れたい。
そんな風に見えた。
俺もそれ以上は聞かなかった。聞いても答えないだろうし、何よりあの池を思い出したくなかったからだ。
水面の下に見えた巨大な影。
あれが気のせいだとは思えない。
さらに歩く。
やがて周囲の景色が変わり始めた。
今まで緑色だった森が、少しずつ黄色へ染まっていく。
黄色い花。
黄色い葉。
黄色い蔓。
視界の至る所に黄色が増えていく。
そして気付けば、巨大な向日葵によく似た花々が辺り一面に咲いていた。
一本一本が異常な大きさだった。
茎は電柱のように太く、花弁は人間一人を簡単に隠せそうなほど大きい。
花畑というより花の森だった。
「なんだここ……」
思わず呟く。
ローズは周囲を見回した。
「綺麗でしょ」
「まあな」
確かに綺麗だった。
だが落ち着かない。
この森は美しい景色ほど不気味だ。
極彩色の花もそうだった。
人間の感覚からほんの少しだけズレている。
その少しが妙に怖い。
「ローズ」
「何?」
「ここ来たことあるのか?」
「あるわよ」
「何回くらい?」
ローズは少し考えた。
「いっぱい」
「雑だなぁ……」
「数えたことないもの」
それはそうかもしれない。
だが参考にならないことに変わりはなかった。
その時だった。
バチッ。
何かが弾ける音がした。
静電気のような音。
空気が擦れたような音。
俺は足を止める。
バチッ。
もう一度。
今度は近い。
「ローズ」
「分かってる」
ローズが面倒そうな顔をした。
警戒というより呆れ顔だった。
「知ってるのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「来た」
次の瞬間だった。
バチィィィッ!!
黄色い閃光が走った。
轟音。
地面が爆ぜる。
土が舞い上がる。
反射的にしゃがみ込んだ。
死んだと思った。
本気で。
だが。
「いたーーーーっ!!」
元気な声が響いた。
煙を突き破って飛び出してきたのは、一人の少女だった。
黄色い髪。
黄色い瞳。
頭から生えた一本の葉。
ローズと同じだった。
だが雰囲気は真逆だ。
「人間だーーー!!」
少女が叫ぶ。
「え?」
「人間だーーー!!」
「聞こえてる」
「本物だーーー!!」
「それも聞こえてる」
少女は俺の周囲を高速で走り始めた。
速い。
異常に速い。
黄色い残像が見える。
もはや人間の速度じゃない。
「ローズ!」
「何よ」
「人間拾ってる!」
「落ちてたから」
「猫じゃないんだから!」
まともなツッコミだった。
少し安心する。
少女は急停止した。
俺の目の前。
鼻先がぶつかりそうな距離だった。
近い。
近すぎる。
「ねえねえ!」
「なんだ」
「空飛べる?」
「飛べない」
「残念!」
「何がだ」
「飛べたら面白かった!」
基準がおかしい。
「ねえねえ!」
「まだあるのか」
「雷平気?」
「平気じゃない」
「残念!」
「だから何がだよ」
ころころ表情が変わる。
まるで大型犬だった。
元気の塊みたいな少女。
その横でローズが深いため息を吐く。
「ひまわり」
「なーにー?」
「うるさい」
「酷い!」
頬を膨らませる。
全く反省していない。
「紹介する」
ローズが俺を見る。
「ひまわり」
「そう!」
少女は胸を張った。
「ひまわり!」
二回名乗った。
元気しかない。
30のおじさんには目を背けたくなる元気さだった。
「俺は織間哲平」
「おりま?」
「哲平」
「オリマー!」
「違う」
「オリマー!」
「だから違う」
「オリマー!」
「話聞けよ」
ひまわりは満面の笑みだった。
全く聞いていない。
何故謎の森に入っても俺はオリマー呼びなのだろうか。
ローズが呆れたように言う。
「それでいいじゃない」
「良くないだろ」
「似たようなものでしょ」
全然違う。
だが二対一だった。
理不尽だが口で覆すことが難しい事は安易に予想出来た。
その後、三人で歩くことになった。
ひまわりが加わっただけで騒がしさが十倍になった。
「あれ何!?」
「花」
「これは!?」
「草」
「これは!?」
「木」
「へぇー!」
会話の内容が薄い。
だが本人は楽しそうだった。
「オリマー!」
「なんだ」
「チャッピーに食べられかけたって本当?」
「本当」
「弱いね!」
「否定できない」
「私なら勝つ!」
「知ってる」
なぜか胸を張られた。
ローズが横から口を挟む。
「調子に乗ると食べられるわよ」
「食べられないもん!」
「去年も食べられかけてたじゃない」
「忘れた!」
「忘れるな」
漫才みたいで楽しかった。
不思議なことに、森の恐怖を少しだけ忘れられるくらいには。
その時だった。
ひまわりが突然足を止めた。
笑顔が消える。
ローズも同時に立ち止まる。
空気が変わった。
森が静かだった。
いや、静かすぎた。
さっきまで騒いでいたひまわりが何も喋らない。
それだけで異常だと分かる。
ガサッ。
遠くの草が揺れた。
最初は風かと思った。
だが違う。
この森に風なんてほとんど吹かない。
ガサッ。
もう一度。
今度はもっと大きい。
巨大な何かが草を押し分けながら近付いてきている。
嫌な汗が背中を伝った。
「オリマー」
ローズが前を向いたまま言う。
ちゃっかりローズもオリマー呼びだった。
けどそんな事が些細に思える命への危機感。
「下がって」
「ローズ?」
「今回は少し面倒」
その声には余裕がなかった。
昨日チャッピーを殴り飛ばした少女が警戒している。
つまり、とんでもなく危険だ。
すると隣で、ひまわりが笑った。
今までの無邪気な笑顔じゃない。
獲物を見つけた肉食獣みたいな笑み。
戦う者の顔だった。
「久しぶりだね」
ぞくりとした。
声の温度が違う。
「暴れていい?」
ローズは肩をすくめる。
「好きにしなさい」
ひまわりの笑みが深くなる。
次の瞬間。
ドォォォォン!!
咆哮が森を揺らした。
巨大な向日葵が震える。
地面が振動する。
耳が痛くなるほどの轟音。
そして。
黄色い花畑の奥。
そこに巨大な影が現れた。
チャッピーより大きい。
二倍。
いや三倍はある。
全身が総毛立つ。
姿を認識するより早く、ひまわりが飛び出した。
「行ってきまーす!!」
雷鳴が轟く。
黄色い閃光が花畑を駆け抜けた。
俺は呆然と立ち尽くす。
そして理解する。
この森にはローズだけじゃない。
まだまだ化け物みたいな少女がいる。
それだけは嫌というほど分かった。
そして巨大な影はなおも近付いてくる。
まるで俺たちを見つけたと言わんばかりに。
やっぱりヒロインの太ももは太くなきゃねぇ(ねっとり)