大チャッピーが倒れた。
巨大な身体は微動だにしない。
黄色い花畑に横たわるその姿は、改めて見ると本当に大きかった。
よくこんなものと戦おうと思ったな。
俺ではない。
ローズとひまわりの話だ。
俺はあくまで叫んでいただけである。
三十歳男性、怪物相手に声出し担当。
世の中には色々な役割がある。
「はぁ……」
その場に座り込む。
全身の力が抜けた。
戦ったのは俺じゃないのに、妙に疲れている。
精神的な疲労というやつだろう。
心臓がまだうるさい。
隣ではひまわりが大の字になって寝転がっていた。
「むりー!もう一歩も歩けなーい!」
両手両足を投げ出して空を見上げている。
さっきまで巨大な怪物と渡り合っていた少女とは思えない姿だった。
「さっきまであんなに元気だったのに」
「使い切っちゃった!」
「何を?」
「びりびり!」
答えが感覚すぎる。
ローズはそんなひまわりを見て、小さくため息を吐いた。
「だから使いすぎって言ったのに」
「だって大きかったんだもん」
「見れば分かるわよ」
「ローズも殴ってたじゃん」
「私は加減した」
「嘘だぁ」
「嘘じゃない」
二人は言い合っている。
いつもの調子に見える。
だがよく見れば、ローズも肩で息をしていた。
拳には土がついている。
頬にも小さな擦り傷があった。
無傷ではない。
二人とも、本当にギリギリだったのだ。
「……助かった」
思わず呟く。
ローズがこちらを見る。
「何?」
「いや、二人がいなかったら死んでたなって」
「今さら?」
「今さらだな」
ローズは少しだけ顔を背けた。
「別に」
「別に?」
「助けるって決めたから助けただけ」
相変わらず素直じゃない。
だが不思議と、その言い方に腹は立たなかった。
ひまわりが寝転がったまま手を上げる。
「あたしも助けた!」
「ああ、ありがとう」
「もっと言って!」
「ありがとう」
「もっと!」
「本当にありがとう」
「ふふん!」
ひまわりは満足そうに笑った。
褒められると素直に喜ぶタイプらしい。
分かりやすい。
ローズとは真逆だ。
「それより」
俺は二人を見る。
「さっきの、何だったんだ?」
「さっきの?」
ローズが首を傾げる。
「俺が命令した時」
「ああ」
ひまわりが上半身を起こした。
「すごかった!」
「どうすごかったんだ?」
「体がふわってなって、ビューンって動けた!」
「説明が感覚だけだな」
「だって本当にそうだったんだもん」
ひまわりは両手を広げて、何とか伝えようとしている。
その様子は必死なのだが、情報量は増えない。
世の中、やる気だけでは伝わらないものがある。
残酷だ。
「つまり、身体が軽くなったのか?」
「うん!」
ひまわりは大きく頷いた。
「ジェットコースターってこんな感じなのかな!」
「ジェットコースター?」
「すっごく速くて、わーってなる乗り物でしょ?」
「まあ、そんな感じだな」
「じゃあそんな感じ!」
「乗ったことあるのか?」
「うーん……」
ひまわりは空を見上げた。
その顔から、さっきまでの笑顔が少しだけ薄れる。
「分かんない」
「分からない?」
「言葉は分かるよ。遊園地も、ジェットコースターも、楽しい場所とか乗り物ってことは分かる」
ひまわりは自分の胸に手を当てる。
「でも、あたしが行ったことあるかは分かんない」
「……」
俺は言葉に詰まった。
この森に来てから、分からないことばかりだ。
日本を知らない。
宮城を知らない。
地球すら知らない。
なのに言葉は通じる。
遊園地やジェットコースターの意味は分かる。
だが、自分の思い出としては残っていない。
意味が分からない。
この森は、何から何までおかしい。
「ごめん」
なぜか謝っていた。
ひまわりはきょとんとした顔で俺を見る。
「なんでオリマーが謝るの?」
「いや、変なこと聞いたなと思って」
「変じゃないよ」
ひまわりは笑った。
いつもの明るい笑顔だった。
「分かんないことはいっぱいあるけど、今は楽しいからいいの!」
「いいのか、それで」
「うん!」
あまりにも明るい。
明るすぎて、逆に胸が痛くなる。
ローズは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せていた。
何か知っているのか。
それとも、同じなのか。
聞こうとして、やめた。
今の空気で踏み込む勇気はなかった。
「私は、身体が先に動いた」
ローズが話を戻すように言った。
「先に?」
「頭で考えるより早く、動くべき場所が分かった」
「最適な動きが分かったってことか」
ローズは小さく頷く。
「たぶん」
ローズの説明は短い。
だがひまわりよりはまだ情報がある。
人類は少し救われた。
「そんなこと、前からあったのか?」
「ない」
ローズは即答した。
「私も初めて!」
ひまわりも大きく頷く。
「じゃあ、俺のせいか」
自分で言って妙な気分になった。
俺は何もしていない。
本当に、ただ叫んだだけだ。
それなのに二人の身体は変わった。
偶然で片付けるには、あまりにも都合が良すぎる。
「もう一回やってみよ!」
ひまわりが勢いよく立ち上がろうとした。
だが膝が抜けた。
「わっ」
前へ倒れそうになる。
俺は慌てて手を伸ばして支えた。
「危ない!」
「えへへ」
「笑って誤魔化すな」
「ちょっと足に力入らなかっただけ」
「それを危ないって言うんだよ」
ひまわりは俺の腕に掴まったまま笑っている。
距離が近い。
近すぎる。
黄色い髪が頬に触れそうだった。
「オリマー、あったかいね」
「人間だからな」
「いい匂いする」
「犬か」
ひまわりは平然と俺の服に顔を近付ける。
「なんかね、安心する匂い」
「やめろ、変な誤解を招く」
「ごかい?」
「いや、もういい」
ローズの視線が痛い。
見ると、案の定じっとこちらを見ていた。
「……」
「ローズ?」
「別に」
「今の別には絶対別にじゃないだろ」
「別に」
二回言われた。
圧がある。
ひまわりは俺の腕に掴まったまま、にこにこと笑っている。
「ローズもする?」
「しない」
即答だった。
「でも気になってる顔してるよ?」
「してない」
「してるー」
「してない」
「耳赤いよ?」
ローズはぴたりと固まった。
それからゆっくり耳に手を当てる。
本当に少しだけ赤い。
「……暑いだけ」
「今、風ないよ」
「うるさい」
ローズは顔を背けた。
ひまわりは楽しそうに笑う。
俺は何もしていない。
なのに怒られそうな空気だけがある。
理不尽だ。
この森では怪物より理不尽の方が多いかもしれない。
ひまわりはまだ俺の腕に掴まったままだった。
「それで!」
「もう一回やってみよう!」
「今か?」
「今!」
「この状態で?」
「この状態で!」
妙なやる気だった。
ローズがため息を吐く。
「今のひまわりじゃ無理」
「えー」
「蓄めてた力を使い切ってる」
「ちょっとは残ってるもん」
「ほとんど残ってない」
「少し!」
「少しじゃ足りない」
ひまわりは口を尖らせた。
「ローズ厳しい」
「事実を言ってるだけ」
「むー」
二人のやり取りは、もう姉妹喧嘩みたいだった。
俺は苦笑しながらひまわりを見る。
「それでも試すか?」
「うん!」
「じゃあ……ジャンプ」
「はい!」
ひまわりは元気よく返事をした。
その場で軽く膝を曲げる。
ぴょん。
飛んだ。
普通だった。
さっき大チャッピーの頭上まで飛び上がった少女とは思えない。
本人も着地すると首を傾げた。
「あれ?」
「もう一回」
「うん!」
ぴょん。
変わらない。
「出ないねぇ」
ひまわりは自分の足を見下ろす。
「さっきはもっと飛べたのに」
俺も腕を組む。
「俺の命令だけじゃ駄目なのか」
「たぶん」
ローズが静かに言った。
「さっきは本当に危なかった」
「あ……」
確かにそうだ。
ひまわりはあと数秒遅ければ、大チャッピーに食べられていた。
ローズも俺から離れられず、焦っていた。
俺も必死だった。
「命がかかってたから……かな」
俺が呟く。
ローズも小さく頷いた。
「そうかもしれない」
「じゃあ今は?」
ひまわりが聞く。
「試さない方がいい」
「また怪物と戦えば分かるかも」
「その検証はしたくないな」
命を懸けた実験なんて御免だった。
ひまわりも「それもそうだね」と笑う。
本当に深刻さが長続きしない。
「でも」
ひまわりは胸へ手を当てた。
「びりびりがなくなったのは分かる」
「びりびり?」
「うん」
「身体の中が空っぽって感じ」
ローズが説明を続ける。
「ひまわりは電気を蓄めて戦う」
「使えば減る」
「減りきると、普通の子より少し強いくらい」
「少し強いのか」
「そこは普通じゃないのね」
ローズは当然のように答えた。
「チャッピーくらいなら逃げられる」
「大チャッピーは無理」
なるほど。
だからさっきは苦戦していたのか。
「じゃあ、その電気はどうやって戻す?」
「雷」
ローズは即答した。
「雷?」
「うん!」
ひまわりが笑顔で頷く。
「いっぱい雷もらうの!」
「もらう?」
「そう!」
「雨が降ると元気になるみたいなものか?」
「ちょっと違う」
ローズが首を横へ振る。
「雷そのもの」
「直接?」
「直接」
俺は黙った。
嫌な予感しかしない。
「雷って……」
「空から落ちる、あの雷だよな?」
「そう」
「死ぬやつだよな?」
「オリマーは」
「ひまわりは平気」
「平気!」
本人も胸を張った。
「気持ちいいよ!」
「その感覚だけは一生理解できそうにない」
ひまわりは楽しそうに笑う。
「雷が落ちるとね!」
「身体がポカポカして!」
「元気いっぱいになるの!」
「温泉みたいに言うな」
「おんせん?」
「……」
また通じない。
俺は言いかけて止まった。
「知ってる!」
ひまわりが突然笑った。
「温かいところでしょ?」
「そうそう」
「行ったことは分かんないけど!」
まただ。
言葉は知っている。
意味も知っている。
だけど、自分が体験した記憶はない。
まるで辞書だけ読んで育ったみたいだった。
不思議だ。
本当に不思議な子たちだ。
「じゃあ」
俺は改めてローズを見る。
「その雷を浴びに行くのか?」
「うん」
「雷鳴の丘」
「そこなら、ひまわりは元気になる」
「でも普通は近付かない」
「危険だから」
嫌な予感しかしない。
この森で「危険じゃない場所」が存在するのか怪しいが、その中でもかなり危険そうだ。
「遠いのか?」
「そんなに」
「信用していい?」
「今回は」
昨日から距離感で何度も騙されている。
少し疑うくらいは許してほしい。
ひまわりが両手を広げた。
「オリマー!」
「お願い!」
「何だ?」
「運んで!」
「……」
「歩けない!」
「さっき立ってたよな?」
「立つのと歩くのは違うの!」
堂々としている。
俺はローズを見る。
助けを求める視線だった。
ローズは少し考えてから、さらりと言った。
「運び屋でしょ」
「こんな荷物は聞いてない」
「荷物じゃないよ!」
ひまわりが抗議する。
「じゃあ歩け」
「無理!」
「やっぱり荷物じゃないか」
「ひどーい!」
結局、俺はしゃがみ込んだ。
「ほら」
「わーい!」
ひまわりは嬉しそうに背中へ飛び乗る。
首へ腕を回す。
「苦しい」
「あ、ごめん!」
少しだけ力が緩む。
「オリマーの背中、広いね」
「そうか?」
「うん!」
「なんか安心する!」
素直すぎる。
照れる暇もない。
その横でローズが黙って歩き始める。
数歩進んだところで、俺の服の袖をそっと摘まんだ。
「ローズ?」
「迷子になる」
「俺が?」
「そう」
「信用ないな」
「ない」
即答だった。
ひどい話だ。
だが、この森で一人になったら本当に死ぬ。
否定できない。
俺は苦笑しながら歩き始めた。
背中にはひまわり。
左ではローズが袖を摘まんで歩いている。
右手にローズ。
背中にひまわり。
状況だけ聞けば、男友達に自慢したら殴られそうな光景だ。
ただし行き先は、雷が落ち続ける危険地帯。
人生というのは、なかなか都合よくできていない。
ひまわりを背負ったまま、俺たちはローズの後を歩いていた。
「オリマー!」
「ん?」
「高いね!」
ひまわりが肩越しに前を覗き込む。
「景色がいつもよりよく見える!」
「そりゃ背中だからな」
「えへへ」
上機嫌な笑い声が頭のすぐ後ろから聞こえる。
少し前まで動けないと言っていたとは思えない元気さだった。
「気持ちは元気なんだよ!」
「身体は?」
「まだちょっとだめ!」
「正直でよろしい」
ローズが振り返る。
「もう少しだから」
「その"もう少し"は信用していいのか?」
「今回は」
昨日から距離感の説明で散々振り回されている。
少し疑うくらいは許してほしい。
しばらく歩くと、景色がゆっくり変わり始めた。
黄色い花畑はそこで終わっていた。
まるで見えない線でも引かれているように、一輪も向こうへ咲いていない。
その先には、銀色の植物だけが並んでいた。
細長い幹。
針のような葉。
金属のような光沢。
巨大な避雷針が何本も生えているように見える。
「……何だ、あれ」
「境界」
ローズが答えた。
「ここから先は別のエリア」
「森の中なのに?」
「森だから」
意味が分からない。
この森では、それが説明になるらしい。
俺は半信半疑のまま、一歩前へ踏み出した。
境界を越えた瞬間だった。
ドォォォォォォン!!
「うわっ!?」
耳をつんざく轟音が空を裂く。
あまりの大音量に反射的に身体が跳ねた。
背中にはひまわりがいる。
体勢を立て直そうとしたが遅かった。
「きゃっ!」
「しまっ……!」
足がもつれ、二人まとめて草むらへ倒れ込む。
ふかふかした草のおかげで痛みはほとんどない。
「いてて……」
俺は慌てて身体を起こした。
「ひまわり!」
「だ、大丈夫!」
転がった拍子に、ひまわりが俺の胸へ抱きつくような格好になっていた。
俺も反射的に肩を支えてしまう。
顔が近い。
「ご、ごめん!」
ひまわりは慌てて離れようとする。
しかし足元がまだふらつき、そのままもう一度ぐらりと傾いた。
「危ない!」
今度は俺が腕を伸ばして受け止める。
「ありがとう……」
少し照れたように笑うひまわり。
「まだ脚に力が入らないや」
そのまま自分の脚を見下ろし、小さく苦笑した。
「……やっぱり太いよね」
「え?」
「この脚」
ひまわりは太ももを軽く叩く。
「なんか立派すぎる気がして」
「もっと細い方が可愛いのかなって、たまに思うんだ」
俺は首を横に振る。
「そんなことない」
「その脚だから、あんな速く走れるんだろ?」
「細いだけじゃ、大チャッピー相手には戦えない」
「健康的で、ちゃんと鍛えられた脚の方が格好いいと思う」
ひまわりは目を丸くした。
「……本当に?」
「ああ」
「俺はそのくらいしっかりしてる方が好きだ」
「仕事柄いろんな人を見るけど、丈夫そうな人は安心感がある」
しばらく黙っていたひまわりが、自分の脚を見つめる。
それから照れ臭そうに笑った。
「えへへ……」
「初めて言われた」
「ありがと、オリマー」
その笑顔は、さっきより少しだけ自信を取り戻したように見えた。
少し離れた場所では、ローズが腕を組んでこちらを見ていた。
「……終わった?」
「悪い、転んだだけだ」
「そう」
ローズは短く答える。
だが、そのまま俺のところまで歩いてくると、無言で俺の袖を掴んだ。
「ローズ?」
「今度は転ばないで」
「できればな」
「できる」
少しだけ口調が強い。
ひまわりがその様子を見て、くすっと笑う。
「ローズ、心配してるんだ」
「してない」
即答だった。
「オリマーが鈍いだけ」
「俺だけ?」
「二人とも」
それだけ言うと、ローズは先に歩き始める。
ひまわりはゆっくり立ち上がり、数歩歩いてみせた。
最初よりずっと足取りはしっかりしている。
「歩けそうか?」
「うん!」
「まだちょっとふらふらするけど、大丈夫!」
「じゃあ無理はするな」
「はーい!」
今度は三人並んで歩き始める。
境界の向こうでは、絶え間なく雷鳴が轟いていた。
さっきまでの賑やかな空気とは対照的に、その銀色の丘だけは、人を寄せつけない異様な雰囲気を漂わせていた。
三人で境界を越える。
その瞬間。
ドォォォォォォン!!
再び雷鳴が轟いた。
さっき一度聞いているはずなのに、身体がびくりと震える。
耳だけじゃない。
空気そのものが震えているようだった。
「毎回これか……」
思わず空を見上げる。
黒い雲が渦を巻いている。
そこから何本もの雷が銀色の大地へ落ち続けていた。
一本終われば、また一本。
まるで空が休むことを忘れてしまったみたいだ。
「ここが雷鳴の丘」
ローズが短く言う。
改めて辺りを見回す。
地面は黒い岩で覆われ、その隙間を銀色の筋が走っていた。
木は一本もない。
代わりに、銀色の植物だけが規則正しく並んでいる。
雷が落ちるたび、それらは青白く発光した。
まるで電気を吸い上げているようだった。
「自然じゃないな……」
俺が呟く。
「うん」
珍しくローズも否定しなかった。
「でも昔からこう」
結局そこへ戻るらしい。
「オリマー!」
ひまわりが嬉しそうに手を振る。
「見ててね!」
「何をするんだ?」
「元気になる!」
そう言うと、ひまわりは銀色の植物が密集している場所まで歩いていく。
途中で一度振り返った。
「ここから先は来ちゃ駄目だからね!」
「分かった」
「本当に!」
「約束する」
それを聞いて安心したのか、ひまわりは笑顔で頷いた。
ローズが俺の隣へ立つ。
「近付くと危ない」
「雷か?」
「それもある」
「それも?」
「電気が集まる場所だから」
なるほど。
だから銀色の植物ばかりなのか。
避雷針の役目をしているようにも見える。
その時だった。
バチッ。
ひまわりの足元で小さな火花が散る。
「始まる」
ローズが呟く。
ドォォォォォォン!!
一本の雷が空を裂いた。
真っ直ぐひまわりへ……ではなく、そのすぐ隣の銀色の植物へ落ちる。
眩い閃光。
轟音。
普通の人間なら思わず目を閉じる距離だった。
しかし、ひまわりは逃げない。
両手を広げ、じっと立っている。
銀色の植物が青白く光り、その光が地面を伝って広がっていく。
やがて、ひまわりの足元まで到達した。
「……!」
青白い光がひまわりの身体を包む。
髪がふわりと浮いた。
葉っぱが風もないのに揺れる。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
苦しそうな様子はない。
むしろ気持ち良さそうですらある。
「これが蓄電」
ローズが説明する。
「直接雷に当たってるわけじゃない」
「地面を流れた電気を取り込んでる」
「だから安全なのか」
「安全ではない」
ローズは首を横に振る。
「失敗すると怪我する」
「だから誰でもできるわけじゃない」
その言葉を聞いた直後だった。
ひまわりの身体から、小さな火花が弾ける。
バチッ。
バチッ。
最初は小さい。
しかし少しずつ光が強くなっていく。
「戻ってきた」
ローズが小さく笑う。
ひまわりがゆっくり拳を握る。
その動きだけで、さっきまでとは雰囲気が違う。
身体の奥から力が満ちてくる。
そんな感覚が、離れている俺にまで伝わってくる気がした。
やがて、ひまわりはこちらを振り返る。
「オリマー!」
さっきまでの疲れた様子は消えていた。
「元気いっぱい!」
そう叫ぶと、その場で軽く跳び上がる。
たった一歩。
それだけで人の背丈を軽く越える高さまで跳び、ふわりと着地した。
「おお……」
思わず感嘆の声が漏れる。
ローズは腕を組んだまま頷く。
「満タン」
「さっきとは別人だな」
「だから雷鳴の丘は必要」
俺はもう一度空を見上げた。
鳴り止まない雷。
銀色に輝く植物。
そして、それを当たり前のように受け入れている二人。
この森は、人間の常識では測れない。
そのことだけは、日に日に理解できるようになっていた。
境界を一歩越えた瞬間だった。
ドォォォォォォン!!
耳を埋め尽くしていた雷鳴が、まるで嘘のように消えた。
静かだった。
さっきまであれほど鳴り響いていた轟音が、一切聞こえない。
虫の声もない。
風も吹かない。
森は再び、異様な静寂に包まれていた。
俺は思わず振り返る。
境界の向こうでは、黒い雲が渦を巻き、何本もの雷が銀色の丘へ落ち続けている。
光は見える。
雷も落ちている。
それなのに、音だけが全く聞こえない。
「……何だよ、これ」
思わず呟く。
「毎回来ても不思議だよね!」
ひまわりが笑いながら言う。
「急に静かになるんだもん!」
「慣れた」
ローズはそれだけ答えた。
「俺は慣れたくないな……」
人間の感覚では理解できない。
境界を一歩越えただけで、世界そのものが切り替わる。
この森は、やはり普通じゃない。
日が傾き始めた頃、俺たちは昨日と同じような開けた場所へ戻ってきた。
「今日はここ」
ローズが周囲を見回しながら言う。
「分かった」
俺は落ちていた枝を集め、焚き火の準備を始めた。
その横では、ひまわりが巨大な果実を抱えて歩いてくる。
「取ってきたー!」
「またでかいな」
「甘いやつだよ!」
「それしか取ってこないもの」
ローズが呆れたように肩をすくめる。
「だって美味しいじゃん!」
「否定はしないけど」
三人で果実を分け合う。
甘い果汁が口いっぱいに広がった。
「うまいな」
「でしょ!」
ひまわりは嬉しそうに笑う。
「オリマー!」
「はい!」
大きな果実を俺の口元へ差し出してくる。
「あーん!」
「自分で食べられる」
「えー」
「子供じゃないんだから」
ローズが呆れ顔で言う。
「むぅ……」
ひまわりは少し考えてから、今度はローズへ果実を向けた。
「ローズも!」
「嫌」
即答だった。
「えー!」
「自分で食べる」
「つまんない!」
「普通よ」
そんな他愛ないやり取りに、思わず笑ってしまう。
森へ来てから数日。
怪物に追われ、命からがら逃げ続けていたはずなのに、こうして笑っている自分が少し不思議だった。
夜。
焚き火だけが辺りを照らしている。
ひまわりは雷鳴の丘ではしゃぎ過ぎたせいか、横になるなり眠ってしまった。
「むにゃ……」
「いっぱい……走るぅ……」
寝言まで元気だった。
「寝付きいいな」
俺が笑うと、ローズも小さく頷く。
「昔から」
「昔から?」
「……たぶん」
少しだけ言葉に詰まり、それ以上は続けなかった。
俺も聞き返さない。
聞いてはいけない気がした。
やがてローズも横になり、静かに目を閉じる。
規則正しい寝息が聞こえ始めた。
二人とも眠ったらしい。
俺だけが目を開けていた。
焚き火の火を見つめる。
パチッ。
薪が弾ける音だけが静かに響く。
今日一日を思い返す。
大チャッピー。
命令。
雷鳴の丘。
境界。
何一つとして説明がつかない。
身体は疲れているはずなのに、頭だけが冴えていた。
その時だった。
ガサッ。
草が揺れた。
俺はゆっくり顔を上げる。
風ではない。
この森は夜になると、ほとんど風が吹かない。
視線の先。
巨大な草の隙間。
そこに。
赤い何かが見えた気がした。
「……?」
ほんの一瞬だった。
赤い色。
人くらいの高さ。
それだけ。
思わず目を擦る。
もう一度見る。
何もいない。
「気のせい……か?」
そう思って隣を見る。
ローズも。
ひまわりも。
変わらず眠っていた。
それでも胸騒ぎが収まらない。
俺は足音を忍ばせながら立ち上がる。
焚き火から少しだけ離れ、さっき見えた場所まで歩いた。
草をかき分ける。
誰もいない。
木も。
岩も。
赤い花すら咲いていない。
やっぱり見間違いだった。
そう思って引き返そうとした、その時だった。
「……ん?」
足元の土が少しだけ窪んでいる。
しゃがみ込み、指で触れる。
新しい跡だ。
動物のものじゃない。
小さな足跡。
少女くらいの大きさだった。
一つ。
二つ。
三つ。
森の奥へ向かって続いている。
俺は足跡を目で追った。
四つ目。
五つ目。
そして。
そこで、突然消えていた。
続きがない。
まるで最初から存在しなかったように。
「……何なんだ、この森は」
背筋に冷たいものが走る。
俺は思わず振り返った。
焚き火の前では、ローズもひまわりも静かな寝息を立てている。
何も変わらない。
何も起きていない。
なのに。
確かに、"何か"はいた。
俺は暗い森の奥を見つめた。
そこにはもう何も見えない。
それでも、誰かに見られているような感覚だけが、いつまでも消えなかった。