朝の森は、昨夜とはまるで別の場所のように静かだった。
木々の隙間から差し込む柔らかな陽射しが、夜露をまとった葉を照らしている。どこからか小鳥の鳴き声も聞こえ、昨日まで命懸けの戦いをしていた場所とは思えないほど穏やかな景色が広がっていた。
それでも俺の胸の中に残った違和感だけは、一晩眠っても消えていなかった。
焚き火はすでに燃え尽き、白い灰だけが静かに残っている。
俺はローズたちを起こさないよう足音を殺しながら立ち上がると、昨夜足跡を見つけた場所まで歩いていった。
湿った土は朝露を吸い込み、昨日より少しだけ色を濃くしている。
しゃがみ込み、目を凝らす。
そこには昨夜と変わらず、小さな足跡が残っていた。
人間の少女ほどの大きさ。
一歩、また一歩と森の奥へ向かって続いている。
そして数歩進んだところで、不自然なほど綺麗に途切れていた。
雨で流された形跡はない。
飛び越えた跡もない。
ただ、その場所から先だけが消えている。
俺は無意識に辺りを見回した。
朝日を浴びた木々。
風に揺れる草花。
昨日まで何度も見てきた森の景色だ。
しかし昨夜、この場所には確かに赤い影が立っていた。
目を擦っても消えず、もう一度見た時にもそこにいた。
それなのに近付いてみれば誰もおらず、残されていたのはこの足跡だけだった。
「……何なんだよ。」
思わず漏れた声は、朝の森へ静かに溶けていく。
巨大なチャッピーも、雷鳴の丘も、危険ではあっても正体だけは分かっていた。
だが昨夜の赤い影だけは違う。
敵なのか味方なのか。
生き物なのか、それとも見間違いだったのか。
何一つ分からない。
分からないということが、これほど気味の悪いものだとは思わなかった。
「オリマー?」
不意に後ろから声がした。
振り返ると、ローズが眠たそうに目を擦りながらこちらを見ている。
赤いツインテールは少しだけ乱れ、まだ完全には目が覚めていないようだった。
「朝から何してるの。」
「少し周りを見てただけ。」
咄嗟にそう答える。
足跡のことを話そうか迷った。
だが、結局言葉にはならなかった。
証拠はこの足跡しかない。
しかも俺が見つけただけだ。
こんな曖昧な話をしても、二人を不安にさせるだけかもしれない。
「変な人。」
ローズはそれだけ言うと、小さく欠伸をしながら焚き火の方へ戻っていく。
疑っている様子はない。
それでも俺は、足跡の上へそっと落ち葉を被せた。
隠すつもりだったわけではない。
ただ、今はまだ誰にも見せたくなかった。
自分でも理由はよく分からない。
「ふぁぁ……。」
大きな欠伸が聞こえる。
ひまわりだった。
寝返りを打ちながら両腕を思い切り伸ばすと、そのまま勢いよく起き上がる。
「おはようございます!」
昨日の疲れはどこへ行ったのかと思うほど元気な声だった。
「おはよう。」
「オリマー、早起きだね。」
「少し目が覚めただけだ。」
「眠れなかった?」
その言葉に一瞬だけ返事が止まる。
嘘はつきたくない。
だが、本当のことも言えなかった。
「少し考え事をしてた。」
そう答えると、ひまわりは「そっか」とだけ言って笑った。
深く聞いてこないところが彼女らしい。
人との距離の取り方が上手いのだろう。
朝食は昨日採っておいた果実と木の実だけで済ませた。
決して豪華ではない。
それでも空腹を満たすには十分だった。
森へ迷い込んでから、食べられるだけありがたいという考え方が少しずつ身についてきている。
文明というものは、一度失って初めてありがたさが分かるらしい。
食事を終えると、俺は昨日まとめておいた荷物を確認する。
葉を重ねて作った簡易袋の中には、水を入れた果皮、火種代わりの乾いた苔、木の実、それに先の尖った石が入っていた。
どれもあり合わせの道具ばかりだが、使いやすいよう重い物を下へ、すぐ使う物を上へ並べ替えていく。
仕事の癖だった。
配送する荷物は違っても、運びやすく整理することだけは身体が覚えている。
「きれい。」
ひまわりが袋の中を覗き込みながら感心したように呟く。
「何が?」
「ちゃんと全部並んでる。」
「ぐちゃぐちゃじゃない。」
「仕事で覚えたからな。」
「運び屋さんって、みんなこうなの?」
「少なくとも俺はな。」
荷物は途中で崩れると積み直す手間が増える。
重心が偏れば身体も疲れる。
小さなことの積み重ねが、最後には大きな差になる。
運転も同じだった。
だから整理する癖だけは、森へ来ても変わらなかった。
ローズは黙ってその様子を見ていたが、不意に口を開く。
「途中で捨てないのね。」
「荷物のことか?」
「うん。」
俺は蔦の結び目を締め直しながら頷いた。
「運ぶって決めた以上、最後まで届けるのが仕事だからな。」
その言葉を聞いたローズは何も返さなかった。
ただ、小さく目を伏せただけだった。
ローズが先頭に立ち、俺とひまわりがその後ろを歩く。
森の中には獣道のようなものがあるわけではない。
背丈ほどもある草をかき分け、太い根を避け、木々の間を縫うように進んでいく。
それでもローズは一度も立ち止まることなく歩き続けていた。
迷っている様子はない。
まるで何十年も歩き慣れた道を進んでいるようだった。
「道があるように見えるのか?」
前を歩くローズへ声を掛ける。
「あるわよ。」
振り返ることもなく答えが返ってくる。
「私たちには分かる。」
「人間には見えないだけ。」
「便利な能力だな。」
「便利じゃない。」
ローズは足を止めることなく続けた。
「知らない場所へ行けば迷うし、森だって毎日少しずつ変わる。」
「だから覚えるしかないの。」
その言葉には妙な重みがあった。
この森で生きるということは、地図のない世界で毎日を過ごすようなものなのだろう。
俺は歩きながら周囲へ目を配る。
大きな木。
特徴的な岩。
曲がった幹。
目印になりそうなものを頭の中へ入れていく。
仕事柄なのか、一度通った道を覚える癖が染み付いていた。
配送先までの細い裏道も、一度走れば忘れない。
それが今になって役立つとは思わなかった。
「また覚えてる。」
ひまわりが隣で笑う。
「何を?」
「木とか石とか、ずっと見てる。」
「癖なんだ。」
「迷わないように?」
「そう。」
俺は頷いた。
「帰る道を忘れないためにな。」
ひまわりは少しだけ嬉しそうに笑った。
「オリマーらしいね。」
「そうか?」
「うん。」
「ローズは前だけ見て歩くし、私は気になったもの見ちゃうし。」
「オリマーだけ違う。」
それは褒められているのだろうか。
少なくとも悪い意味ではなさそうだった。
しばらく歩くと、ローズが突然右手を上げる。
その合図だけで、俺たちは足を止めた。
「どうした?」
「静かに。」
小さな声だった。
ローズはゆっくりしゃがみ込み、地面へ触れる。
湿った土を指先でなぞり、そのまま鼻へ近付けた。
何をしているのか分からない。
しかし真剣な表情だけは伝わってくる。
数秒後、ローズは立ち上がった。
「大丈夫。」
「チャッピーはいない。」
「分かるのか。」
「匂い。」
「縄張りには匂いが残る。」
俺も地面へ顔を近付けてみる。
土の匂いしかしない。
人間の鼻では到底分からなかった。
「便利じゃないか。」
「だから便利じゃないって言ったでしょ。」
ローズは少し呆れたように息を吐く。
「間違えることもある。」
「だから絶対じゃない。」
その一言で、少し安心した。
万能ではない。
だからこそ信用できる。
何でも分かる能力より、失敗することがある能力の方が現実味があった。
「もう少し行けば水場よ。」
ローズが再び歩き始める。
森の空気はひんやりとしていた。
木漏れ日が差し込むたび、葉の上に残った雫が小さく光る。
耳を澄ませば、遠くから水の流れる音も聞こえてきた。
「川かな。」
「小さい泉。」
「飲めるのか?」
「飲める。」
「でも、そのままは駄目。」
俺は首を傾げる。
「火を通すのか?」
「うん。」
「見た目がきれいでも、お腹を壊すことがある。」
それは森だからというより、人間社会でも同じだった。
少しだけ肩の力が抜ける。
この世界にも、俺の知っている常識が通じることはあるらしい。
その時だった。
背中へ小さな違和感が走る。
誰かに見られている。
そんな感覚だった。
思わず立ち止まり、ゆっくり振り返る。
木々が並んでいる。
草が揺れている。
それだけだった。
「どうしたの?」
ひまわりが不思議そうに聞く。
「いや……。」
気のせいか。
そう思って前を向き直る。
しかし数歩歩いたところで、また同じ感覚が背中を撫でた。
誰もいない。
それなのに、視線だけが付いてくる。
俺は無意識に歩く速度を落としていた。
理由は説明できない。
ただ昨夜、赤い影を見たあの時と同じ嫌な感覚だけが、胸の奥で静かに膨らみ始めていた。
泉を後にした三人は、再び森の奥へ向かって歩き始めた。
先頭を歩くローズは、ときおり木々の間へ視線を向けながら進んでいく。その足取りに迷いはなく、まるで森そのものが道を教えているようだった。
ひまわりはそんなローズの後ろを軽い足取りで歩き、俺は最後尾から周囲を警戒する。
森は相変わらず静かだった。
風が葉を揺らす音。
足元で草を踏む音。
遠くで鳥が鳴く声。
そのどれもが穏やかなのに、昨夜から胸に引っ掛かった違和感だけは消えてくれなかった。
誰かに見られているような感覚。
振り返っても誰もいない。
それでも背中へ視線だけが残り続けている。
気のせいだ。
そう思おうとしても、身体は勝手に周囲を確認してしまう。
そんな状態がしばらく続いた頃だった。
ローズが突然右手を上げる。
それだけで俺とひまわりも足を止めた。
ローズは静かにしゃがみ込み、地面へ残された大きな足跡を見つめる。
「チャッピー。」
短い一言だった。
俺も隣へしゃがみ込む。
湿った土には丸く大きな足跡がいくつも残っていた。
昨日戦った個体と同じくらいの大きさだ。
しかも新しい。
まだ土の縁が崩れておらず、それほど時間は経っていないように見えた。
「近くにいるのか。」
「ええ。」
ローズは頷く。
「遠くへは行ってないと思う。」
三人は慎重に足跡を追い始めた。
森の奥へ進むにつれ、倒れた草や折れた枝が少しずつ増えていく。
何かが暴れた跡だった。
チャッピーほどの巨体なら、このくらいの痕跡を残しても不思議ではない。
やがて前方の草むらが大きく抉れた場所へ辿り着く。
その中央には、一体のチャッピーが横たわっていた。
身体は完全に動きを止めている。
俺は慎重に近付き、その様子を確認した。
昨日戦った個体と変わらない大きさ。
しかし傷の付き方が妙だった。
身体を噛み裂かれた跡はない。
鋭い爪で切り裂かれた様子もない。
胸から首にかけて、何度も強い衝撃を受けたように陥没している。
まるで拳だけで叩き伏せられたような傷だった。
「……。」
ローズが無言でしゃがみ込む。
しばらく傷口を見つめたあと、小さく眉を寄せた。
俺はその様子を見ながら口を開く。
「この倒し方……。」
ローズが顔を上げる。
「お前の戦い方に似てないか。」
その一言で、ローズの表情が固まった。
「……え?」
「昨日も似たような倒し方だった。」
「力任せじゃない。」
「急所を狙って、一気に仕留めてる。」
ローズはすぐに首を横へ振る。
「違う。」
「私はやってない。」
返事は早かった。
迷いのない否定だった。
「昨日から、ずっと一緒にいた。」
「そんなことは分かってる。」
俺も静かに頷く。
「だから不思議なんだ。」
「戦い方だけが似てる。」
ローズはもう一度チャッピーへ目を向けた。
陥没した胸。
砕かれた首元。
自分なら、確かにこう戦う。
それは分かる。
だが、この場所へ来た覚えはない。
チャッピーと戦った記憶もない。
「……違う。」
もう一度、小さく呟く。
「私は知らない。」
「知らない……はず。」
最後の一言だけ、少しだけ弱かった。
本人にも理由は分からない。
ただ胸の奥が妙にざわつく。
何かを忘れているような。
大切なことを思い出せないような。
説明のできない違和感だけが残っていた。
「ローズ?」
ひまわりが心配そうに声を掛ける。
ローズは我に返ったように顔を上げ、小さく息を吐いた。
「……何でもない。」
そう答えるものの、視線はもう一度だけチャッピーへ向けられる。
やはり気になる。
けれど答えは出ない。
ローズ自身にも、この違和感の正体は分からなかった。
俺は倒れたチャッピーを見つめながら考える。
ローズがやったとは思えない。
昨日からずっと一緒に行動していた。
それは事実だ。
だが、傷だけはあまりにも似ている。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
森の静けさだけが、その答えを知っているようだった。
チャッピーの亡骸を後にし、三人は再び森の奥へ向かって歩き始めた。
誰も口を開かなかった。
ひまわりも空気を読んだのか、普段のように明るく話し掛けてくることはない。
森へ戻ると、先ほどまで聞こえていた鳥の鳴き声もいつの間にか途絶えていた。
静かだった。
静かすぎるほどに。
俺は何度か後ろを振り返る。
やはり誰もいない。
それでも、昨夜から感じている妙な視線だけは背中へ張り付いたままだった。
気のせいだ。
そう思おうとしても、身体は勝手に周囲を警戒してしまう。
「少し休みましょう。」
ローズが近くの倒木へ腰を下ろした。
俺たちもその隣へ座り、ひまわりが泉で汲んできた水を順番に配っていく。
冷たい水が喉を通ると、張り詰めていた身体が少しだけ楽になった。
しばらく誰も話さなかったが、やがて俺は静かに口を開く。
「まだ気になるのか。」
その言葉に、ローズは小さく頷いた。
「……あのチャッピー。」
「傷が?」
「うん。」
少しだけ俯いたまま続ける。
「やっぱり似てる。」
「私なら、ああやって倒す。」
「でも私はやってない。」
「だから分からない。」
その声には戸惑いが滲んでいた。
俺は昨日からずっとローズと行動を共にしている。
あのチャッピーを倒す時間などなかった。
それは間違いない。
だからこそ、あの傷だけが妙に引っ掛かる。
「考えても答えは出ないか。」
「……うん。」
ローズは静かに息を吐く。
「思い出そうとしても、何も思い出せない。」
それ以上は誰も何も言わなかった。
休憩を終え、三人は再び歩き始める。
森の景色は少しずつ変わり始めていた。
背の高い木々が減り、足元には色鮮やかな花が増えていく。
赤や黄色、小さな青い花まで咲いており、これまで歩いてきた森とはまるで別の場所のようだった。
「きれい……。」
ひまわりが思わず立ち止まる。
「こんな場所もあるんだ。」
ローズも周囲を見渡しながら頷いた。
「私も初めて来た。」
「ローズでも知らない場所があるんだな。」
「森は広いもの。」
その短い返事に、この森の果てしなさを改めて思い知らされる。
地図もなく、終わりも見えない。
歩いたことのない場所が残っていても不思議ではなかった。
その時だった。
ガサリ、と近くの茂みが揺れる。
三人の動きが同時に止まった。
ローズが反射的に前へ出る。
ひまわりも身構え、俺は近くに落ちていた枝を握り締める。
茂みがもう一度揺れた。
静かな森へ緊張が走る。
次の瞬間、草の隙間から小さな甲虫が姿を現した。
丸みを帯びた身体は黄金色に輝き、陽の光を受けてきらりと反射する。
ころころとした愛嬌のある姿は、昨日まで見てきたチャッピーとはまるで印象が違っていた。
「あれは……?」
俺が小さく尋ねる。
ローズは緊張を解き、小さく息を吐いた。
「コガネムシ。」
「襲ってこない。」
「臆病だから、人を見るとすぐ逃げる。」
その言葉通り、コガネムシは俺たちと目が合った瞬間、小さく身体を震わせると、慌てるように草むらの奥へ転がるように走り去っていった。
「かわいい。」
ひまわりが思わず笑う。
「昨日のチャッピーと同じ森とは思えないね。」
「全部が敵じゃない。」
ローズは逃げていったコガネムシを見送りながら静かに言った。
「襲うものもいれば、逃げるものもいる。」
「だから見分けることが大事。」
俺は小さく頷く。
少しだけ肩の力が抜けた。
この森には危険しかないと思っていた。
だが、生き物にもそれぞれの生き方があるらしい。
その時、不意に背中へあの感覚が戻ってきた。
誰かが見ている。
思わず振り返る。
木々が風に揺れているだけだった。
誰もいない。
それでも、ほんの一瞬だけ。
木の幹の向こうで、赤い何かが揺れたような気がした。
目を凝らす。
しかし次の瞬間には、そこには何もなかった。
「どうしたの?」
ひまわりが不思議そうに尋ねる。
俺はしばらく木立を見つめたあと、小さく首を横へ振った。
「……いや。」
「気のせいだったみたいだ。」
そう答えて歩き出す。
森は再び静けさを取り戻していた。