──幼い一人の少女が、僕を見下ろしていた。
よく知る相手。否、よく知る、なんてものではない。毎日見ているのだから。
しかし、僕に視線を落とす少女の瞳は、僕の知らない昏《くら》く爛々とした光を孕んでいて。
「これで────」
鈴の鳴るような声。だが、そこにもまた、僕の知らない何かが滲み出ていて。
その瞬間から、僕の日常は永久に喪《うしな》われた。
▽
いつも通りの日々の、その延長線上の一幕。何も変わらない日常。そこに疑問を覚えることはない。
これから先も、ずっと続くもの。
いつも通りに学校へ行って、帰ってきて。祖父母、両親、兄、妹、そして僕の七人でいつも通りに食卓を囲んでいた。
兄は高校三年生、僕は中学一年生、そして三つ歳の離れた妹は小学四年生だ。
「優太《ゆうた》、学校はどうだった?」
「楽しかったよ!」
祖父が、朗らかに僕に語りかける。その表情は如何にも好々爺といったところだ。少し前まで冷徹な視線を向けられていた為に戸惑いもあったが、
「姫華《ひめか》は、どうだったの?」
「たのしかったよ!」
祖母が柔らかな笑みを称えて妹に語りかけると、天真爛漫で無垢な笑みを返す。
僕はそんな姿が堪らなく愛おしくて、隣に座る姫華の頭を撫でる。姫華は、ぽっと頬を染めて僕の方へと僅かに濡れた視線を向ける。
幼い僕は、その視線の意味をよく分かっていなかった。好意的な視線。ただ、それだけ。だから、それに続く「だいすき」という言葉は、もちろん家族に対するモノだと思っていた。
その時は、齢《よわい》と、兄妹という関係性を考えれば、異質ともいえるに湿り気と粘着性を持った響きには、気付くことなどなかった。
「無事、務めを果たしてきたようで何より」
食事が一区切りついた後、祖父が厳かな声を兄へと向ける。先程までの朗らかさは鳴りを潜めた、当主としての声。
「聞いてたほどじゃなかったな、あの牛鬼《うしおに》って奴は。確かに逃げ足と耐久力はあったが、退路を塞いで塵一つ残らないくらいに灼き尽くしてやったよ」
「……ふむ。当初は些《いささ》か汎用性に欠ける異能だと思うたが、まさかそれ程とはな。一柱を消し炭にしただけでも十分だ。我が家の復興もこれで為《な》されよう」
「あー……でも、残りの三つはアレだろ?」
兄さんはバツが悪そうに頭を搔き、まず親指を立てた。
「古くから伝わる大妖《たいよう》、酒呑童子《しゅてんどうじ》」
続いて、人差し指を立てる。
「妖《あやかし》共の総大将だが何の情報もない、
最後に、中指を立てる。
「そんで、蛇神の夜刀神《やつのかみ》。前二つも自信はねぇし、ましてや神殺しなんてさすがに無理だ」
それに対して祖父は、何処か楽しそうに目を細めた。
「まだ、お主は発展途上。これから力は強まろう。自信を持つが良い」
祖父は何処か楽しそうに目を細めた。
その視線は次に父へと向けられたが、それは兄さんに向けたものとは違って冷たさと嘲りを含んだものへと変わっていた。
「対して、お前は終《つい》ぞ異能を発現させなかったな。……その分、子種は良かったようだが」
「父さん、子供の前でそういう話は……」
名の知れた商社に務めている父、世間一般的に見れば十分に成功した人生であるといえるが、祖父はそこに価値を見出していない。
「お前如きが儂に口答えするか」
「ぐぅ、っ……!」
父さんが胸を押さえて苦しげに呻く。祖父の口角が愉しげに歪めると、苦しみから開放された父は脂汗を流して荒げた息を整えていた。
「おい、爺さん。やりすぎだろ」
「かかかッ、すまんすまん」
誰も言葉を発しない中で、兄さんが不機嫌そうに声を上げると祖父は好々爺《こうこうや》じみた柔らかな笑みを浮かべる。謝罪の言葉は父ではなく兄さんに対して向けられたものだった。
「お前さん達にも見苦しいものを見せてしもうて、すまなかったのぅ」
祖父の視線が僕らの方へと向けられる。
気付くと僕は、
しかし、それは直ぐに霧散し、代わりに脳内にぼおっと霧がかかったような感覚を覚えて全ては消え去る。
隣の姫華はそんな僕の姿をじっと見つめていた。僕が顔を横に向けて視線を合わせると、その視線は祖父の方へと向けられ、再び僕へと戻ってくる。その瞳の奥の感情は読めなかった。
僕は兄さんへと視線を向ける。
兄さんは妖《あやかし》と戦っている。現代の日本において、闇に紛れて人に害をもたらす存在。
かつて、それこそ何百年も前は、誰もが存在を認識して夜が来るのを怯えていたこともあるらしいが、兄さんたち異能者《いのうしゃ》たちの活躍によって数を大幅に減らし、一般人はその存在を認識することなく日々を過ごしている。
──但し、大妖《たいよう》と呼ばれる存在だけは依然として存在していた。
数百年前から存在し続ける、妖たちの頂点。
しかし、その一柱を兄が下した。数百年の停滞に、諦観に、大きな変化を加えた──。
そういう、ことらしい。僕たちにはそれ以上のことは知らされていなかったし、それ以外の事は難しくてよく分からなかった。
ただ揺るぎないのは兄さんが僕にとってのヒーローだということ。いずれ、僕はその隣に立って一緒に戦う。それが、夢だった。
「ねぇ、おにいちゃん」
とんとん、と腕を突つかれて、姫華が僕に囁きかける。祖父たちが話を続けていく中でも、その小さな声は妙にはっきりと聞こえた。
「わたしのこと、すき?」
姫華は続けて問いかけてくる。唐突な質問。ただ、それに対する返答など決まっている。
「好きだよ」
家族として。
姫華は大事な妹だ。愛すべき存在、護るべき存在。僕が姫華よりも先に生まれたのは、妹を護るためなのだと自覚している。
「だいすき?」
「うん、大好きだよ」
潤んだ瞳、熱を孕んだ瞳。
僕は間髪入れずに答えると、姫華は満面の笑みを浮かべた。一瞬、瞳が澱み妙な熱を孕んだように見えたが、瞬きの後にそれは消えて、そこには心温まる最愛の妹の純粋無垢な笑顔があった。
「……ぬっ?」
不意に耳に届いたのは、そんな、祖父の怪訝そうな声。僕を含めた家族全員が、祖父へと視線を向けた。
祖父は変わらずそこに座っていた。
直後、そのしわくちゃの首の中心に一本の赤い線が真一文字に刻まれて。
「あはっ」
何故か、目の前の光景がスローモーションになった。
怪訝そうな表情のままの祖父の顔は、その首から先だけが、ぐらりと真後ろに倒れて、落ちる。
綺麗な断面から赤みを帯びたタールのような赤黒い血飛沫が吹き出し、真横にいた祖母の顔を汚した。
絶叫。
普段決して怒ることのない穏やかな気質の祖母が、顔面を蒼白にして聞いた事のない甲高い声を上げる。
それを皮切りに遅くなっていた時間の流れが戻る。頭を失った祖父の体は、テーブルに突っ伏すように倒れ、止まることのない赤黒い血が机を汚し、父と母は立ち上がって祖父から距離を取るように後ずさり、僕は誰かに腕を掴まれてリビングから強引に連れ出された。
僕の視線は、祖父の鋭利な刃物で切られたような綺麗な断面に向いたまま固定され──そして、それを見た。
──流れ出る血の中、食道の穴から一匹の小さな蜂が這い出てくる瞬間を。
しかし、それが何なのか思考が追いつく前に、その蜂は跡形もなく消し飛んだ。塵となり、空気へ融《と》けて消えていく。
「あははっ!」
再び、誰かの嗤《わら》い声。
その声の主を探す前に、僕は強引にリビングから離れた奥の和室へと連れていかれた。僕の手を引いていたのは兄だった。
兄は真剣な顔付きで、僕を普段布団が収納されている襖《ふすま》の奥へと押し込む。
何が何だか、僕には分からなかった。
ただ、祖父の首の断面はくっきりと脳内に刻まれている。
祖父は、死んだ。
否、
その事実を正しく認識すると、徐々に恐怖が体を流れていく。血の気が引くのを感じる。
家の奥、先程までいたリビングの方から底知れない冷気のようなものが流れてくるのを感じる。悲鳴が聞こえた。女性の声。それは、母の声に似ていた。恐怖に支配された僕は、何をすることも出来ずに目に涙が滲む。頭の中はぐちゃぐちゃで何も考えられない。
「クソったれ、あれはどういうことだ⋯⋯」
兄が忌々しげに呟く。僕とは違い、今の事態をある程度は察しているようではあった。
「寄生型か? ……だが、能力は術者依存のはずだ。だとするとアイツは……。クソっ、考えても仕方ねえか。もう、どうしようもない」
兄は悲壮感を滲ませ、けれども何かを決心信じたかのように目付きを鋭くする。
不意に、兄は乱雑に、でも確かな優しさを感じる手つきで僕の頭を撫でた。安心を覚えるのと同時に、リビングの方へ、あの惨劇の場へ赴くつもりなのだと察した。その温もりが離れるのがとてつもなく寂しくて、涙を浮かべて袖を引く。
兄は、柔らかな笑みを浮かべた。
「直ぐ終わるさ。兄ちゃんが強いのは、優太も知ってるだろ? だから、待っててくれ」
あぁ、そうだ、僕は兄の強さを知っている。何度も何度も武勇伝を聞いて、その度に目を輝かせた。兄はどんな相手だろうと、その力で捻じ伏せてきたのだ。
だから、今回だって。
僕は頷きを返して兄を見送る。兄は最後に微笑みを浮かべて、襖の戸を閉めた。
暗闇が、辺りを支配する。
遠くで、音が聞こえる。
悲鳴。嗤い声。怒号。
何かが壊れる音。
日常が崩れ去る音。
僕はただ恐ろしくて、兄の撫でてくれた温もりを忘れないようにしながら、両手で耳を塞ぎ、目を固く瞑っていた。
それから、どれだけの時が経っただろうか。
数時間経ったような、けれどあっという間でもあったような、不思議な感覚だった。恐る恐る耳を塞いでいた手を外してみると、もう何も物音は聞こえない。暗闇の中は、静寂に満ちていた。
けれど、決して動きはしない。いずれにしても、恐怖で動くことなど出来はしなかったが。
僕は待つ。兄が僕を迎えに来ることを。
また、あの笑顔を浮かべて頭を撫でてくれることを。
ひたひたと、小さな足音が聞こえた。
段々と、こちらへ近づいてくる。
僕の隠れている襖の前で足音は止まった。
そして、ゆっくりと、襖が開かれる。
「
目の前に、尊敬する兄の顔があった。
僕は安堵を覚える筈
──もし、
何者かにその髪を掴まれて中空に、僕の目線と会うように、ぶら下げられた兄の生首。ナニカの力で不自然に口を動かされて、歪な動きで歪んだ声を上げる。
僕が待っていた慈愛に満ちた視線はなく、代わりに落ち窪んだ眼窩からは血の涙が流れていた。
そして、まるでボールか何かのように脇へと放り投げられた。鈍い音を立てて床に落ちた頭部はごろりと転がる。僕はそれを、唖然として視線で追う。
「ねぇ」
頭上から声が降りてくる。そう、そうだ、目の前には兄をこんな風にした下手人ががいるのだ。きっと次は僕の番なのだという恐怖に息を荒げながら、恐る恐る顔を上げる。
──幼い一人の少女が、僕を見下ろしていた。
見知らぬ誰かではない。
ついさっきまで、取り留めのない会話をしていた相手。一緒に育っていた大事な家族。
そこにいたのは、僕の大切な妹──姫華《ひめか》だった。
その瞳は、爛々《らんらん》とした昏い輝きを持っており、背中に怖気が走った僕は視線を逸らす。
だが、逃げ場を失わせるかのように、視線の先には決して認識したくない
襖が開いた瞬間に流れ込んだのは、初めて嗅ぐ、生臭さを纏った鉄錆の臭い。それは血の臭いなのだと本能的に察する。
先ほどの光景を思えば、全ての元凶は目の前にいる姫華であることは間違いない。きっと、この家の中は、この襖の外は、凄惨な状況になっているのだろう。
だというのに、姫華には返り血一つ浴びていない。服にすら何の汚れもなく、先ほど食卓を囲んでいた時と何ら変わりはない。
その口は、三日月型を弧を描き、姫華はちろりと舌の先端で唇を湿らせる。
いつも天真爛漫で光り輝いていた目は、その中に泥を溜め込み闇に沈みきっていた。
しかし、そこには獲物を狙う肉食獣のような鋭い光も僅かに潜んでいて。
「これでふたりっきりだね、おにいちゃん」
少女は愉《たの》しげに、妖艶に、そして獰猛に、嗤《わら》った。