──思いも知らない所に、危険が潜んでいることもある。
だから、気をつけた方がいいよ? ってお話。
▽
春のある日、私は野山を散歩していた。かつて、小さな蜘蛛の妖を殺したところだ。今はこれといって妖のいない平和な場所で、春の麗らかな日差しが生い茂る木々の間から漏れている。秋は紅葉が綺麗だが、この時期に散歩するのも気持ち良くて気に入っていた。
いつか、お兄ちゃんを連れてきて一緒に散歩できたら嬉しい。今はまだ、それは叶わななそうだけれども。
ふと、ひらひらと白いものが眼前を舞っているのが目に入った。立ち止まってよく見ると、それは一匹の小さな蝶だった。手を差し出してみると吸い込まれるように指先に止まってくれて、私は観察してみることにした。
真っ白な蝶だった。体躯はほっそりとしているが存外に翅は大きい。翅には銀色の曲線が葉脈のように広がっており、鱗粉なのか、真っ白でふわふわとした何かが周りを縁取っいた。触覚の先端には小さな毛玉のようなものが付いていて可愛らしく、しかし瞳は薄紫色で怪しげな雰囲気を醸し出していた。
「何だろ、この子。……うわっ!」
初めて見た蝶に首を傾げると、突然私の口に目掛けて蝶が飛んできて、咄嗟に顔を横に向けることで避ける。ぽふん、と蝶が頬にぶつかる感覚があった。
ひらひらと舞っていた時とは違い、真っ直ぐ滑空するように飛びかかってきたので、顔を横に向けなければ口の中に入ったかもしれない。蝶は、あのように飛ぶことが出来る生き物なのだろうか。
「……妖?」
私から離れていく蝶に向けて私は呟く。ひらひらと舞うその姿は、まるで季節外れの雪のようだった。
妖だったとしても、ただの蝶だったとしても、口の中に入ろうとしていたように思う。ただ、その行動に何の意味があるかは分からなかった。
不思議な蝶との出会いも散歩のアクセントになって、私は鼻歌を奏でながら軽やかな足取りで散歩を続けた。
▽
後日の昼前、私の前には両手両足を縛られた一人の中年男性が転がっていた。意識はない。場所はあの森の中、蝶を見かけた場所。
──好奇心に負けた。
あの蝶が何をしたかったのか気になって仕方なかった。好奇心旺盛な年頃だから仕方がなかった。
近場で呑気に歩いているおじさんを見つけて、私の異能を球状に固めたものを背後から後頭部に当てて昏倒させ、異能で持ち上げてここまで連れてきて、準備していた縄でせっせと両腕と両脚を縛った。後ろ手に縛ったので横向きにしている。胸が上下しているから気絶しているだけで死んではいないはず。
好奇心旺盛な少女の前を歩いていたのだから仕方がなかった。ついでに言えば、煙草をポイ捨てしていた。ポイ捨てもそうだが、それ以前に喫煙しているのが問題である。お兄ちゃんが吸う可能性がある空気の中に異物を散布したのだから。よって、実験相手になってもらうことにしたのである。
「あ、いた!」
きょろきょろと辺りを見回してみると緑溢れる中に混入した雪の粒を発見し、近寄って手を差し出してみると先日のように指先に止まってくれた。
私の口に向かってきたら本末転倒なので口を開けないように注意をしながら忍び足でおじさんへ近付き、蔦状にいた異能を伸ばして口を開けさせ、そこへ指先を、指先に止まった蝶を近付けてみる。
「入った!」
蝶は俊敏に男の口に飛び込み、実験の第一段階成功に喜びの声を上げる。恐る恐る口の中を覗き込んでみると、意外と力持ちなのか舌を退かしながら口の奥へ、喉の方へと進んでいく蝶の姿が見えた。
「ふむ……」
名探偵・姫華ちゃんは、顎に手を当てて蝶の目的を考えてみる。蝶は自分のことを食べさせた、といえる。超面倒な自殺……な訳がなくて、体内に入ることが目的だろう。
だとすれば、名探偵でなくとも自ずと想像は付く。蝶の目的は、ほぼ分かった。
だが、私の好奇心はまだ満たされてはいなかった。だから、これから何が起こるのか、観察を続けることにした。
近くの樹の上へ登り、太い枝へ座ってぷらぷらと足を揺らせて様子を眺めてみる。やがて、男は目を覚ました。
「痛ててて……! なんだ!? 何処だここ!? ぐっ……、頭が、いてえ……。なんだ、これ、気持ちわりぃ……」
男は当然、自分の置かれた状況が分からずに困惑していたが、やたらと痛がっている。頭上の私のことには気付いていないようだった。
「……?」
最初は後頭部が痛いのだと思ったが、暫く見ているとどうやら違うようだ。痛みに喘いでごろごろと転がった後、しきりに米噛み付近を地面に擦り付けている。それは、痒みを抑える為の仕草のようにも見えた。
それから一時間程見ていたが、それ以上の変化は見られず飽きたので、一日目の観察は終了とした。
観察二日目。
昨日と同じ枝に座って見下ろしてみると、びっくりした。男は寝ている、或いは気を失っているようだったが、なんと両腕と両足の拘束が解けていたのだ。誰かが来たのだろうか、いや、それなら未だここにいるのはおかしい。
じっと目を凝らしてみると両手の手首に擦過傷が見えた。それなりに出血している。どうやら腕の縄を強引に引き千切って、その後に脚の縄を解いたようだった。
そこは分かった。
でも、疑問が二つ。
一つ目はやはり、何故この場所にいるのかというもの。拘束を解くことで力を使い果たして気絶した、と考えてるのが自然だろうか。
二つ目は、人間の力で縄を引き千切ることができるのか、というもの。ホームセンターで買った麻縄で手首をぐるぐる巻きにして、きちんと両手の真ん中も縦にぐるぐると巻いた。完璧な拘束である。出来るのはもぞもぞと全身を動かすくらいのはず。
だが、目の前にある現実として男は自由を得ている。かといって、再び縛ることはしない。観察日記なのだから。万一、何も起こらずに逃げることがあれば話は別だが。
やがて、男が目を覚ました。
「逃げなきゃ……。でも、腹が減った……食いもん……」
のっそりと起き上がった男は憔悴しているようだった。丸一日森に放置されていたのだから精神的な疲労も、肉体的な疲労もそれなりのものではあるだろう。
逃げるのを最優先にするのかと思ったが違った。男は周囲の茂みを探っている。先程の発言から、恐らく食べ物を探しているのだろう。逃げる為の体力が足りないのだろうか。
男はふらついた足取りで森の奥へと向かっていく、私は木々の上を飛び跳ねてその後を追う。
「あ……あぁ……!」
三〇分ほど歩いて、男は群生している木苺を見つけた。大袈裟に涙まで流して飛びつき、一心不乱に木苺を貪っている。木苺を貪る中年男性の姿は、なかなか見るに堪えないものだった。
「腹、減った……」
木苺を貪り尽くすと、男は再び食べ物を探して森の中を彷徨い始めた。まだ逃げる体力がないのだろうか。足取りはまだふらついており、まるでゾンビか何かのようだった。
それから一時間ほど歩いていたが何も見つからず、男は前のめりに倒れて動かなくなった。気になって音を立てずに枝から下りて近づいてみると、どうやら寝ているようだった。
──木苺を食べた後に逃げれば良かったのに。
私は男の判断能力が低いのだと判定し、冷ややかな視線を向けてから、二日目の観察を終了とした。
観察三日目。
私は、とある物を準備していた。男は昨日の場所で倒れたままだったので、顔の近くにビニール袋をそっと置いた。
中身は水のペットボトルと生肉である。ゾンビっぽかったので生肉にしてみた。牛肉や豚肉は高かったので、最も安価な鶏胸肉を買った。五百グラムもあるので、食料としては十分だろう。実験に介入するのは如何かとは思ったのだが、このまま何も起こらずに死んでしまうよりは、求めている食べ物をあげてみようと判断した。
「あ……食いもんの匂い……、肉ッ……!」
私が枝に登るのと同時に男は目を覚ましたようだった。浅ましくも食べ物の匂いに誘われたらしい。
男はビニール袋の中身を見るなり鶏肉のパックの包装を破り捨てて貪りついた。いきなり現れた食べ物なのに警戒心がない。いくらお腹が減っているとしても、生肉を食べることに躊躇がない。
正直、ドン引きした。
なので、帰ることにした。三日目の観察は早々に終了とした。
観察四日目。
男はまだ同じところにいた。傍らには肉の入っていた発泡スチロールのトレーと、空になったペットボトルが転がっていた。どうやら、あと後に寝たらしい。
危機感はないのだろうか。まさか、このまま謎の人物提供の生肉と水によって生きていこうとしているのだろうか。ヤバい奴を対象にしてしまったのかもしれない。
ただ、蝶の目的を考えると都合の良い話ではある。男は、あの蝶に操られているのだろうか。
ともあれ、昨日と同じように生の鶏胸肉五百グラムと水を置いてから枝の上に座る。
「食いもん、だ……」
昨日のように直ぐに男は目を覚ました。ただ、声は弱々しく体を起こす様子もない。体を横たえたままビニール袋に手を伸ばし、弱々しい声からは考えられない獰猛さで鶏肉を食べて水を飲み干し、また眠った。
そろそろ、何か起きそうな予感がある。
私は、四日目の観察を終了とした。
観察五日目。
男の体に変化があった。腹部が膨らんでいる。考えていた変化の中では、かなり嫌な部類のものである。とはいえ、観察は続けよう。
昨日と同じように肉と水を置いた。包装を取るのは面倒だろうから、肉は地面に直置きにした。多分、気にしない。
予想通り、直ぐに目を覚ました男は無言のまま手を伸ばして肉に齧り付いた。この時、私はすぐ横に立っていたのだが、男は気付かなかった。その目は虚ろだった。
そこで、気付いたことがある。男は同じ場所にいるというのに、悪臭がしない。体臭ではなく、排泄物だ。垂れ流しになっているかと思いきや、汚れた様子がない。まさか、排泄だけは別のところでしているのだろうか。しかし、その場から動いた形跡はない。
「あなた、トイレはどうしてるの?」
初めて、男に声をかけた。ぴくり、と瞼が痙攣して瞳がこちらを向いた。しかし、その焦点はあっていない。そして、返答はなかった。代わりに聞こえたのは寝息だった。
私は、五日目の観察を終了とした。
観察六日目。
不思議なことが起きた。なんと、肉と水を置いても手を出さなかったのだ。一応、目を覚まして視線を向けはした。だが、その後は動かずに寝てしまった。
腹部は、以前よりも膨らんでいる。シャツがはち切れそうだった。一方で、頬は痩けている。アンバランスさが気持ち悪かった。
私は、六日目の観察を終了とした。
観察七日目
一応、肉と水は準備していたが、昨日の肉と水はそのままだったのでビニール袋はそこらに放っておいた。
腹部は変わらない。ただ、手脚が萎びていた。骨に皮が付いているだけのように、枯れ木のようになっていた。
胸は上下している。まだ生きているようだ。
私は、七日目の観察を終了とした。
観察八日目。
もう肉と水を持ってくるのは止めた。
目が無くなっていた。あの虚ろな目はもう無い。眼窩は落ち窪んでいる。その中が少し気になったが、覗くのは止めた。
腹部は変わらない。ただ、一瞬だけ波打ったような気がした。
膨らんだ腹部で分かりづらいが、胸は上下している。まだ生きているようだ。
私は、八日目の観察を終了とした。
観察九日目。
──そろそろ、何かが起こるような気がした。
※少し長くなりそうなので二話に分けます。
前半です。後半は数日中に投稿します。
※番外編と銘打っていますが、本編に関係の無い話は書きません。