PREY @ PREY -Daddies Displayed Drawings- 作:砂漠谷
警戒の強まる軍事拠点に、繰り返し盗みに入るためには、『白い恋人』だけでは足りない。アレは防御に特化した"発"。そう悟った僕は、代わりに盗みに入ってくれる念獣の具現化修行を試みた。
最初は、土兎の念獣を具現化しようと考えた。
"円"でも見つけきれない隠密能力に、ゴキブリもかくやという逃走力。
――だが、それでは拡張性に困る。特に能力を持たない土兎の念獣は、それはそれで使いようがあるだろう。それでも、これから襲い来るかもしれない、
東ゴルトーの住民であることが、僕に将来の強さを求めた。
そんな折、誕生日に贈られた万年筆が視界に入った。
「ペン――筆。念獣は、具現化するんじゃなくて――描く?」
インクはもうある。黒でなく白だが、希望の少ない生活には白の方が明るく見えていいだろう。
万年筆をくるくると回して、水をインクに、家の壁や床に落書きをする。
前世では見る専だったのだが、今世の手先は随分と器用で、絵の上達も早い。
ある日、いつの間にか、もう片方の手にも筆が具現化されていた。
万年筆というよりはGペンに近い。インクを注ぎ込む持ち手部分は透明で、シリンジのようだ。
念ずると、書道家が新年に振るう大きな筆、程度までに大きくなる。
具現化したGペンの尻に手を当て、『白い恋人』のオーラを注ぎ込んだ。
――描ける。
キャンバスは"円"の内側。オーラを薄く広げ、それを三次元の白紙と定義する。
インクは"発"。『白い恋人』は、無色のオーラの上に、羽根の生えた白い兎を描き綴っていく。
十数分の精緻な作業の最後には、眼を入れる。
ゆえに、
黒い瞳孔は、まるで活きているかのように。この獣は
『
「ちょっと、ネーミングは下品かな」
いい得て妙と、個人的に気に入っていた。命名の意味を伝えると、母には叱られた。だが、決めたものを変えるのは難しい。
筆を振るい、軍拠点日々の糧を得る。それが僕の日課となっていた。
"円"という、薄く広いオーラのキャンバスを広げつつ、眼を念獣に入れるためのオーラをペン先に"凝"めるのは、右を向きながら左を向くような曲芸だ。結局、オーラが"凝"りやすい誘導をペン先に組み込んで、なんとか成立した。
直接の盗みは念獣が担当する。そうであっても、"円"の中でしか生存できない念獣を食糧に近づけるには、僕自身が駐屯地に侵入する必要があった。
必要なのは"隠"の精度、"円"の半径、ペン先の"凝"、そして念獣の素早い描写創造。これを並行する必要があった。
生半可な技量では到達できない。だが、必要性が僕を駆り立てる。
半年ほどで、侵入時に見つかることはほとんどなくなった。
描いている間に見つかる時は稀にある。そんな時は咄嗟に白濁のオーラを纏い、魔獣に化けて逃げおおせる。
兵士たちの間で、僕は"泥棒兎と頭獅子"という、人間に化ける群れの魔獣として扱われているようだった。
母たちはようやく、「ごめんなさい」ではなく「ごちそうさま」を言ってくれるようになった。
申し訳なさそうに、それでも、糧を無為にしないように、食事はきちんと摂ってくれている。
快復した母は、しかし物思いに耽ることが多くなっていた。手を具現化する頻度も減って、瞑想する時間が増えている。それでも、時折眼を開けて、こちらに微笑んでくれる。
それが、ひどく嬉しくて。
母と囲む食卓が、ただ永遠に続けばいいと、そう思っていた。
長くなった髪を後ろに雑に結ぶ。九歳にして、身長はもう母に迫っていた。成長痛の日々が続く。
住み慣れた小屋を出る。今日も盗みに。
「いってくる」
「……いってらっしゃい」
木の根を足掛かりに跳び歩く。泥や赤土がところどころあり、足場の悪い枯れかけの山林では、地面より硬い木の根の方が確実な大地となる。
母の庇護の外、地面に置かれた縄が示す境界から出る、その前に一息の深呼吸。
山に入ってくる他者に気が付かれてはならない。縄の内側ではそうそうバレることはないが、小屋の近辺から外れればそうはいかない。
オーラを練り上げる。"円"と"隠"の合わせ技で、野生動物にも感づかれにくいように、体表から静かにオーラの膜を広げる。
具現化するGペンは、大腿骨ほどの大きさだ。持つというより握る。そうして描き始める。今回は兎ではなく海蛇。数分で三匹を描き終え、眼を入れる。視界を与えられた念獣は、"円"の外側も見通す。兵士や奇妙なものが見えたら知らせろと指示を与え、周囲を泳がせる。
"円"の最大半径は、現在
準備を終えた僕は、存在を"隠"す念の外側に、一歩、踏み出した。
違和感。二つ目に近い駐屯地に忍び込むが、いつもより警備がザルだ。軍用犬や車両が少ない、そもそも兵士の態度が腑抜けている。この駐屯地には五度ほど忍び込んだが、他のいくつかの駐屯地と比べ、練度は高かったはず。
『泥棒兎』の、駆除のための遠征。居残りの兵士がそれを述べた瞬間、違和感は、危機感へと変わる。僕は血相を変えて踵を返し、あの山へと。早足は駆け足に、そして、全力疾走に。"隠"すら解いて、わき目も振らずに。
一時間ほどだろうか。風向きが変わった瞬間。乾いた熱気がこちらに流れ込む。
――現実を拒絶するように。普段通りの日常の象徴を、あの山を確認するために、走って、走って、その果てに。
そこには、いつもの土色と緑はなく。
見上げた斜面が、裾から頂にかけて赤く染まっていた。
木々が纏う煌々とした炎の光が、瞳孔に飛び込んできて。
防護服を着た兵士たちは、山の外縁で木々に炎を吹き付けていた。
「っ、アアァ!」
無意識だろうか。大筆を具現化していた。Gペンの意匠を持つ穂先で、火炎放射器を持つ兵士に向けて、走る勢いのままに突き込む。
「誰だ、止まれぇ!」
足音で気が付かれたのか、兵士はこちらに火炎放射器を向ける。
邪魔だ。『白い恋人』の粘性が炎の直撃を阻み、そのまま兵士の胸骨を貫いた。
「ぅぐっ……」
小隊の別メンバーが火炎放射を止め、小銃を構える。
お前達に時間は割けない。一分一秒が惜しい。白濁を"纏"い、銃弾を背で受け止め、母の元へと走る。
具現化した筆を消すと、穂先についた血と脂は地面に落ちて焼失した。
背に受けた着弾の感覚は、すぐに忘れた。
炎は、小屋に近づくにつれて強くなった。白いオーラの粘液によって、炎が皮膚を直接炙ることはない、それでも熱は身体を苦しめ、煙は息を吸わせない。
それがどうした。走り続ける。
視界の彩度は下がっていき、白と灰色で塗り替えられていく。
小屋の影が見える。燃えている。周りの縄は焼き切れているようだった。
急げ。きっと生きている。あの小屋で、息を潜めて、きっと。
煙を吸わないように、息を止めて走る。視界は徐々に暗くなっていく。オーラの鎧は剥がれ始め、炎は身を焦がし始める。
それでも、僕は小屋にたどり着く。
扉を蹴破る。虎の毛皮はとうに炭になっており、その上にいるのは、
一つは母。横たわる身体のそこかしこに火傷を負い、ぴくりともしない。
一つは防護服を着て酸素ボンベを背負った男。その手が、母に向けられて――。
「やめろ……!」
喉から絞り出したのは掠れた声だった。
男はこちらに眼を向ける。山火事の最中にいるとは思えない、冷え切った瞳だった。
彼は軍刀を抜く。その軍刀は、瞳と対照的に、周囲の炎で赤熱しており、明らかにオーラが籠っていた。
――母はまだ、きっと寝ているだけ。
今の僕に出来るただ一つ、オーラを振り絞って具現化した大筆を、『
ふらつきながら投げた槍を、男は軽く躱す。
大筆は床に突き刺さり、僕は力尽きて地面に倒れる。
煙が薄くなり、肺に酸素を吸い込む。視界の彩度は、少しだけ戻った。
ゆっくりと、男は僕に近づく。目を"凝"らさなくても分かるほど、握られたその剣には、確かにオーラが籠っていた。
立て、母を守れ。腕に力を込め、立ち上がろうとするも、酸素がまだ届いていない。指が震えるだけだった。
男はこちらに駆け寄る。何か話しているようだが、よく聞き取れない。
男は、その軍刀を、倒れた僕の首筋にゆっくりと近づけていく。
その、背後で。
炎の揺らめき、木の爆ぜ音に紛れて、立ち上がる人影が一つ。
その虹彩は、緋を基調とした虹色に輝いて。
背には、複数の手を浮かべ。
生きて、母は立ち上がり、叫ぶ。
オーラを振り絞り、こちらに駆け寄ってくる。
「クレオス!!」
男は振り向きざまに剣を取り落とし、拳を振るう。
しかし、母の方が数瞬速い。紫の虹彩が強まった刹那、男の顎に拳を叩き込んだ。
ふらつく男は、地面に膝を付く。
その隙に、母は僕の首根っこを掴んで、焼け焦げた小屋を飛び出た。
背後で、僕たちの団欒の場所が崩れる音がした。
具現化された大筆が消失する際、霧散するオーラに籠った息子の気配。それは、母を目覚ますのに十分な念が籠っていた。
息子を背負って、覚醒した母は走る。
僕は、母の焼け爛れた肌がこれ以上痛まぬように、白い念を延ばすことしかできなくて。
「母さん……」
「大丈夫か!? クレオス、しっかりしろ! ゆっくり、浅くていいから確実に息を吸え!」
ああ、レイ母さんの声色か。そのようなことをぼんやりと考える。視界はゆるやかに動いていて、だが思考はさらに鈍化していた。
バシャン、と水に飛び込む音がして、意識が鮮明さを取り戻す。
近くの沢はほとんど干上がっていた。だが、二人して飛び込める水の深みがあったのか。母の濡れた髪が、視界に舞う。
母の美しい顔は、左半分が火傷で覆われて、瞳だけが、緋く輝いていた。
――ノア母さん。
「息、してる、わよね?」
「……大丈夫、ありがとう、母さん」
そう言うしかなかった。母は肩で息をして、その瞳は涙を湛えながら震えていた。
怒りだ。僕への怒りか、自分への怒りか、あの兵士への怒りか、その全てが入り混じったものか。
確かめる余裕はなかった。水たまりから立ち上がり、母の手を取り、起こそうとして――。
「母さん、足――」
膝をつく母の足には、指がほとんど無く。
つま先からは黒焦げた骨が見えていて。
最近背が伸びた息子を背負い、靴を履く間もなく、家から飛び出て。
燃える木の葉を、火の灯る木の根を蹴り走ったその代償は、明らかだった。
「ああ、大丈夫よ、これくらい。包帯でぐるぐるに巻けば、いつも通り歩けるように――痛っ」
「それは――」
謝るより先に、やることがあるだろ。
ふらつく母を支え、そのまま背負う。これ以上歩かせるわけにはいかない。
吸って吐く。血管に酸素が滞りなく巡ってゆく。
大丈夫だ、きっと大丈夫。指先の感覚が戻り、震えは収まっていく。
念獣を一匹も描けなさそうなほどかすかなオーラ量であっても、全身からかき集め、眼に集中させる。
視界の範囲で、沢の下流に火の危険はない。他は炎に覆われていてよく見えないし、再度立ち入ろうとは思わない。
道は一本。踵を返し、下流に向かおうとする直前。
沢に踏み込む、僕らではない、もう一人の足音が、背後からした。
「……待て。お前たちは――」
炎から、足音が這い出る。あの男。
母に剣を向けた、あの男だ。
「誰が、待つか!」
逃げなければ。沢の下流、ふもとには燃やすものなどもうないはずだ。
炎から、この男から、軍から逃げて。
逃げた先に母を救うものがあると信じて。
背後で男のオーラが爆ぜ、その一部が塊を成し、僕たちを通り越す。
それは眼前に着弾し、地面に穴を開けた。
念弾だ、しかし外れた――と、そう判断したのが間違いだった。
着弾地点の人頭大の穴。その場から、さらにオーラが飛び出てくる。
兎の群れ、否、翼を持つ、動物状の念弾。それらが、僕らめがけて猛スピードで突撃してくる。
振り絞れ。念を発しろ!
「ァああ、『
兎の念が迂回しないことに賭け、前面だけに白い粘液の防護膜を分厚く置く。
防護膜に念兎の群れは衝突し続ける。木の爆ぜる轟音を塗りつぶす、ボフボフという着弾音。兎の頭部が防護膜を押し込むが、貫くには全く足らない。
数秒か、それとも十秒ほど経ったか。着弾は止まる。
振り向かずとも分かる。すでに、十歩後ろに男がいた。
「待て、といったよな。軍の食糧を奪っていたのは、お前か? 共に来てもらう。殺しはしない。少なくとも、今すぐには」
男は剣を地面に突き立てる。ジュ、と沢に残った湿り気が、熱された鉄で飛ぶ。
背負う母の体が、強張った。