PREY @ PREY -Daddies Displayed Drawings- 作:砂漠谷
あの日から、僕たちの関係は、少しずつ変わっていった。
僕は盗ってくる人。母は食べる人。
母も人間だ。飢えに耐え続けることは難しい。最初は拒んでいたが、翌日からおずおずとレーションを口にしていく。
会話は減った。笑顔も減った。それでも、これ以外に方法は思い付かなかった。
母が立って、こちらを見て、声を掛けてくれる、それが何より代えがたかっただけだ。
盗みの技術は、必然的に鍛えられていった。大きな音を立てるような下手は打たない。頑丈な倉庫をわざわざ狙うことはなく、トラックに積み込まれている食糧をちょろまかすだけ。
人と人の死角を狙いつつ、日々の食料を集める。盗んで帰って食べさせて、その繰り返し。
下手をこいても銃弾なら防げる。そう調子に乗っていた頃に、さすまたで捕らえられかけた時には死を覚悟した。
なんとか逃れて生き延び、それ以降油断は捨てた。
発見される頻度も減り、三年の間、食料調達を続けていった。
母たちはようやく、「ごめんなさい」ではなく「ごちそうさま」を言ってくれるようになった。
長くなった髪を後ろに雑に結ぶ。八才にして、身長はもう母に迫っていた。成長痛の日々が続く。母に近づいている、それだけで心地いい。
住み慣れた小屋を出る。今日も盗みに。
「いってくる」
「……いってらっしゃい」
木の根を足掛かりに跳び歩く。泥や赤土がところどころあり、足場の悪い枯れかけの山林では、地面より硬い木の根の方が確実な大地となる。
母の庇護の外、地面に置かれた縄が示す境界から出る、その前に一息の深呼吸。
山に入ってくる他者に気が付かれてはならない。縄の内側ではそうそうバレることはないが、小屋の近辺から外れればそうはいかない。
オーラを練り上げる。"円"と"隠"の合わせ技で、野生動物にも感づかれにくいように、体表から静かにオーラの膜を広げる。
感知のためではない。これは水槽に水を注ぐような、準備の作業。
「『
槍を具現化する。もっとも、槍なのはその輪郭だけ。柄は空洞なシリンジ。穂先は、Gペンに近い形状をしている。
穂先の反対側、水晶球のように丸い石突部分を握り、そこから変化した白いオーラを流し込む。『
ダイタランシーの性質が、具現化した槍に装填される。
シリンジに念が十分溜まったら槍を振るう。自分のオーラで薄く満たされた"円"の内側を、立体的なキャンバスとして。描くように、踊るように、白い海蛇のシルエットを精緻化していく。
一分も経たずに、三匹の海蛇を描き終えた。早描きの習得にはだいぶ苦労したものだ。
最後に穂先にオーラを込め、未だ動かない海蛇の眼に瞳孔を点ずる。
"円"の最大半径は、現在
そうして僕は、存在を"隠"す念の外側に、一歩、踏み出した。
違和感。二つ目に近い駐屯地に忍び込むが、いつもより警備がザルだ。軍用犬や車両が少ない、そもそも兵士の態度が腑抜けている。この駐屯地には五度ほど忍び込んだが、他のいくつかの駐屯地と比べ、練度は高かったはず。
すでに、盗みは日常になっていた。そんな日常を歪めること自体に、無意識の抵抗があったのかもしれない。
気配を隠して、実際の盗みは念獣に任せる。僕自身は忍び込んで、食糧を持って帰るだけでいい。
帰路につく。更なる違和感。村と村を繋ぐ道を歩む通行人が極端に少ない。空を泳ぐ念獣に探させると、煤で汚れた服を着た村人が十数人、兵士に連れられ、列をなして歩かされていた。ひどく疲弊した様子だ。
見覚えがある。彼らは――僕らが住む山の、麓近くの村人たち。
違和感は、危機感へと変わる。早足は駆け足に、そして、全力疾走に。"隠"すら解き、オーラを脚部に集中させて野を駆け、山のある方角へ急ぐ。
風向きが変わった瞬間。乾いた熱気がこちらに流れ込む。
――現実を拒絶するように。普段通りの日常の象徴を、あの山を確認するために、走った果て。
そこには、いつもの土色と緑はなく。
見上げた斜面が、裾から頂にかけて赤く染まっていた。
木々が纏う煌々とした炎の光が、瞳孔に飛び込んできて。
防護服を着た兵士たちは、山の外縁で木々に炎を吹き付けていた。
「っ、アアァ!」
無意識だろうか。槍を具現化していた。Gペンの意匠を持つ穂先で、火炎放射器を持つ兵士に向けて、走る勢いのままに突き込む。
「誰だ、止まれぇ!」
足音で気が付かれたのか、兵士はこちらに火炎放射器を向ける。
邪魔だ。『白い恋人』の粘性が炎の直撃を阻み、そのまま兵士の胸骨を貫いた。
「ぅぐっ……」
小隊の別メンバーが火炎放射を止め、小銃を構える。
お前達に時間は割けない。一分一秒が惜しい。白を"纏"い、銃弾を背で受け止め、母の元へと走る。
具現化した槍を消すと、穂先についた血と脂は地面に落ちて焼失した。
背に受けた着弾の感覚は、すぐに忘れた。
炎は、小屋に近づくにつれて強くなった。白いオーラの粘液によって、炎が皮膚を直接炙ることはない、
それでも熱は身体を苦しめ、煙は息を吸わせない。
それがどうした。走り続ける。
視界の彩度は下がっていき、白と灰色で塗り替えられていく。
小屋の影が見える。燃えている。周りの縄は焼き切れているようだった。
急げ。きっと生きている。あの小屋で、息を潜めて、きっと。
煙を吸わないように、息を止めて走る。視界は徐々に暗くなっていく。オーラの鎧は剥がれ始め、炎は身を焦がし始める。
それでも、僕は小屋にたどり着く。
扉を蹴破る。虎の毛皮はとうに炭になっており、その上にいるのは、
一つは母。横たわる身体のそこかしこに火傷を負い、ぴくりともしない。
一つは防護服を着て酸素ボンベを背負った男。その手には剣が、母に向けられて――。
「ゃめろ……!」
喉から絞り出したのは掠れた声だった。
男は剣をこちらに向ける。
母はまだ、きっと寝ているだけで。
今の僕に出来るただ一つ、オーラを振り絞って具現化した槍を、『
ふらつきながら投げた槍を、男は軽く躱す。槍は床に突き刺さり、僕は力尽きて地面に倒れる。煙が薄くなり、肺に酸素を吸い込む。視界の彩度は、少しだけ戻った。
「――息子がいたか」
ゆっくりと、男は僕に近づく。目を"凝"らさなくても分かるほど、その剣には確かにオーラが籠っていた。
立て、母を守れ。腕に力を込め、立ち上がろうとするも、酸素がまだ届いていない。指が震えるだけだった。
首筋に、男が剣を据える。熱された金属が肌を焼く。
「子に罪はないが……致し方あるまい」
その、背後で。
炎の揺らめき、木の爆ぜ音に紛れて、立ち上がる人影が一つ。
その虹彩は、緋を基調とした虹色に輝いて。
背には、複数の手を浮かべ。
生きて、母は立ち上がった。
冬眠能力、『
具現化された槍が消失する際に霧散するオーラ。それは、母を叩き起こすのに十分な念が籠っていた。
叫ぶ。オーラを振り絞り、こちらに駆け寄る母。
「クレオス!!」
「っなァ!?」
「はあああ!!」
男は振り向きざまに剣を振るうが、母の方が数瞬速い。紫の虹彩が強まった刹那、男の顎に拳を叩き込んだ。
ふらつく男は、剣を地面に突き立てて転倒を避ける。その隙に、母は僕の首根っこを掴んで、焼け焦げた小屋を飛び出た。
背後で、僕たちの団欒の場所が崩れる音がした。
僕を背負って、母は走る。僕は、母の焼け爛れた肌がこれ以上痛まぬように、白い念を延ばすことしかできなくて。
「母さん……」
「大丈夫か!? クレオス、しっかりしろ! ゆっくり、浅くていいから確実に息を吸え!」
ああ、レイ母さんの声色か。そのようなことをぼんやりと考える。視界はゆるやかに動いていて、だが思考はさらに鈍化していた。
バシャン、と水に飛び込む音がして、意識が鮮明さを取り戻す。
近くの沢はほとんど干上がっていた。だが、二人して飛び込める水の深みがあったのか。母の濡れた髪が、視界に舞う。
母の美しい顔は、左半分が火傷で覆われて、瞳だけが、緋く輝いていた。
――ノア母さん。
「息、してる、わよね?」
「……大丈夫、ありがとう、母さん」
そう言うしかなかった。母は肩で息をして、その瞳は涙を湛えながら震えていた。
怒りだ。僕への怒りか、自分への怒りか、あの兵士への怒りか、その全てが入り混じったものか。
確かめる余裕はなかった。水たまりから立ち上がり、母の手を取り、起こそうとして――。
「母さん、足――」
膝をつく母の足には、指がほとんど無く。
つま先からは黒焦げた骨が見えていて。
背が伸びた息子を背負い、靴を履く間もなく、家から飛び出て。
燃える木の葉を、火の灯る木の根を蹴り走ったその代償は、明らかだった。
「ああ、大丈夫よ、これくらい。包帯でぐるぐるに巻けば、いつも通り歩けるように――痛っ」
「それは――」
謝るより先に、やることがあるだろ。
ふらつく母を支え、そのまま背負う。これ以上歩かせるわけにはいかない。
吸って吐く。血管に酸素が滞りなく巡ってゆく。
大丈夫だ、きっと大丈夫。指先の感覚が戻り、震えは収まっていく。
念獣を一匹も描けなさそうなほどかすかなオーラ量であっても、全身からかき集め、眼に集中させる。
視界の範囲で、沢の下流に火の危険はない。他は炎に覆われていてよく見えないし、再度立ち入ろうとは思わない。
道は一本。踵を返し、下流に向かおうとする直前。
沢に踏み込む、僕らではない、もう一人の足音がした。
「……待て」
炎から、熱された剣が這い出る。
それを持つのは、穴の開いた防護服を纏った、一人の男。
母に剣を向けた、あの男だ。
酸素ボンベに繋がったマスクはすでに持っておらず、右の眼窩に瞳は見えず、体液が垂れ流されている。
「誰が、待つか!」
逃げなければ。沢の下流、麓には燃やすものなどもうないはずだ。
炎から、この男から、軍から逃げて。
逃げた先に母を救うものがあると信じて。
背後で男のオーラが爆ぜ、その一部が塊を成し、僕たちを通り越す。
それは眼前に着弾し、地面に穴を開けた。
念弾だ、しかし外れた――と、そう判断したのが間違いだった。
着弾地点の人頭大の穴。その場から、さらにオーラが飛び出てくる。
兎の群れ、否、角と翼を持つ、動物状の念弾。それらが、僕らめがけて猛スピードで突撃してくる。
振り絞れ。念を発しろ!
「ァああ、『
兎の念が迂回しないことに賭け、前面だけに白い粘液の防護膜を分厚く置く。
防護膜に念兎の群れは衝突し続ける。木の爆ぜる轟音を塗りつぶす、ドウドウという着弾音。兎の角が防護膜を押し込むが、貫くには少し足らない。
数秒か、それとも十秒ほど経ったか。着弾は止まる。
振り向かずとも分かる。すでに、十歩後ろに男がいた。
「待て、といったよな。大罪人、ヘラ=テオゴン。そしてその息子だろう」
男は剣を地面に突き立てる。ジュ、と沢に残った湿り気が、熱された鉄で飛ぶ。
背負う母の体が、強張った。