PREY @ PREY -Daddies Displayed Drawings- 作:砂漠谷
念で造られた本。グリードアイランドの『ブック』や、クロロ=ルシルフルの『
だが、それらの本とは似て非なる、これは白紙のスケッチブック。
何を表紙に、そして裏表紙に描くべきか。
歪んだ万年筆をくるりと回した、その時。
ガレヌが、病室の扉を開いた。向こうの部屋にいるのは、それに加えて二人の兵士。少年と、少女。双方ともにオーラを纏っていた。
「話は聞かせてもらった。ヘラ殿が患っている多重人格は、治ることなく、人格は全て消える――そういう理解で、よろしいでしょうか」
隻眼の軍人はヘラに向けて膝を付き、顔を見上げる。
ベッドに腰掛ける母さん――ノア母さんは、緋色の眼を揺らがせずに首をかしげた。
「以前も申した通り、あなたについて、あまり覚えていないの。――まずはこちらからね。私たちはヘラ。十二、いえ、今は十一の人格が宿る女性の身体。そして、クレオスの母よ。年齢は、良くわからないけど、三十歳手前、といった感じではないかしら」
ガレヌは顎を噛み締め、母の言葉を受け止めてから語る。
「そう、でしたか……。私は、ガレヌ=ロクサーヌと申します。かつて、ディーゴ総帥の部下として、ヘラ殿――人格が別たれる前の貴女の護衛を務めていたものです」
「――あら、そうなのですか」
母は、特に驚くことなく。一つ欠伸をしてからガレヌに問うた。
「では、私が総帥――あの人に怒りを抱く、その理由もご存じでしょうか。何か、もやもやと、めらめらと。知らないはずの彼への、やるせない怒りと喪失感が絶えないのです」
「それは……、存じております。ですが、私の口から言えることはございません。ただ、語れる地位にいる御方と、繋げることは可能です」
母は、瞳を僅かに揺らがせる。その中に、緋色とは違う色が僅かに混ざり、すぐに戻った。
「……うんと、私以外の私は、あまり知りたくないようですね。そうね。この国の、色々なところを見て回りたいわ。人格は綺麗な景色を見れば、かつての怒りを忘れて、安らかに消えていくでしょう。――でも、
「――」
ディーゴの名を口にしたとたんに、母は眼を見開き、歯を食いしばる。ここまで怒りを露わにした彼女を僕は知らない。
ガレヌは、顔を伏せる。
「承知致しました。――罪滅ぼしでもありましょう。権限と私財の限りを投じて、ヘラ殿の旅先を案内させていただきます」
そうして、母と、僕と、付き従う三人の旅は始まった。
余談ではあるが。
「ガレヌ閣下、それは職権乱用では?」
兵士の少年の疑念は右の拳で封じられ。
「ガレヌ様~、護衛配置のお仕事溜まってるんですけど、放置して大丈夫ですか~?」
兵士の少女の質問は左の脚で潰された。
そこからの数か月の経過は、永遠にも感じるほど永く。
思い返せば、瞬きよりも短かった。
母の人格は、一人ずつ消えていった。
個々の人格について、それぞれ詳しく語ることは、あえてしない。
セラ母さんは、名残惜しそうな笑顔で。
エリカ母さんは穏やかに抱きしめて。
アヤ母さんは、冷静に『
母の脳内から、どこでもないどこかへと、去っていった。
東ゴルトー国内の様々な場所を見に行った。ガレヌの運転する車に乗り、多くの景色を見るために。
独裁国家らしく、首都ペイジンの周囲に限れば、様々な観光スポットがあった。
少女と少年の二人は常にどちらかはおり、足が不自由となった母の介助を、僕と共にしてくれた。
少年の名前はハルタ。精悍な顔つきで、常に礼儀正しい。
少女の名前はローラ。生意気な表情で、時折挑発するような口ぶりをする。
母が景色を眺める側で、僕は普通の紙にスケッチをして、『未来日記』の表紙をどうすべきかと考える。
まだ、未来日記の表表紙は完成していない。ただ、裏表紙はある程度できている。
母の人格が消えていく前に、その手の仕草を一つずつ、黒い裏表紙に『白い恋人』の白のインクで描いたから。
最後に残った母の人格。緋色の瞳のノア母さん。
ノア母さんが望んだのは、景色ではなくディーゴの正体。
それを知るには、首都ペイジンの中心である、宮殿に赴く必要があった。
僕はあまり賛成できなかった。首都ペイジンは危険だ。きっと汚職官僚や兵士がわんさかいる。原作から、そうだと分かり切っている。いつ母さんが毒牙に掛かるか、わかったものではない。
それでも、真実を知りたいという母の願いを優先した。
結果がどうなろうと僕が守る。そう、決意を新たにして。
尋常の権限では宮殿に入ることはできない。特務部隊長であるガレヌでも困難だ。
だからこそ、ガレヌはその人に頼った。
マサドル=ディーゴの妹。東ゴルトーの『顔』。
すなわち、外務長官。
名をリベル=ディーゴという。
リベルは、宮殿の門に立ち、護衛を連れずに僕を待ち構えていた。
人除けはされている。周囲に通行人はいなかった。
僕たちを除けば、この人だけが、この場に立っていた。
仁王立ちで。
「――やあ。久方ぶりだね、義姉殿。そしてはじめましてだ、甥の少年。ようこそ、我ら人民の城へ!」
体躯は小さい。140センチほどの身長には、ぎらつく強い意志と、決して少なくない量のオーラが宿っていた。
返事をすべき母は車椅子に座し、常に発現し続ける緋の眼、それによる心身の衰弱に耐えるため、眠っている。
となると必然、ガレヌが言葉を返すことになる。
「リベル閣下、お言葉ですが、一般人民との血縁を匂わせる発言は……」
「だからそのために人除けまでしたのではないか! 甥を出迎えられぬなど叔母失格! 愚兄のようになりたくはないしな」
「リベル閣下、その愚兄という表現も控えていただけると……」
「はあ。お前はいつもそう、堅いな。で、甥の少年。君の名は、なんという? ああ、扉はこっちを使ってくれ」
僕に尋ねるリベル。その瞳は、どんな顔料でも表現できないほどに黒く、それでいて、内に光を蓄えているような熱を感じた。
なんなんだ、この人は。我こそは親類縁者なり、と身内面をしてこちら側に踏み入ってくる。
彼女は僕らを流れるように、城壁の内側に案内する。大門ではなく、勝手口のような小さな扉を開く。
「クレオス……です」
僕の名乗りに、リベルは目を見開き、そして納得したように目を伏せて頷く。演技じみて見えるほどに、深く頷く彼女。その意図は読み取れなかった。
「ふむ。クレオス、か。ヨルビアン西部の古代語で、たしか栄光という意味があったか。母君の栄光となれるように、精進することだ」
その言葉に小さく頷く。"母の栄光となる"、それは僕にとって、自然に受け入れられる言葉でもあった。
「義妹殿を愚兄の部屋へと案内するのだろう? ついてきてくれ。ああ、今は愚兄はいない。いるのは――そっくりさんだ」
「私はここからは入れない。リベル閣下に案内していただけ」
案内人は、ガレヌからリベルへと引き継がれる。母を車椅子から降ろし、母を背負ってリベルの後ろについていく。
かつ、かつ、と階段を上っていく。
贅を尽くした装飾が手すりを彩っている。その構造は原作でも見覚えがあるが、細部の模様まで記憶している訳ではない。目新しさはあった。
城の内側ですれ違う人間は、大きく二種類に別けられた。触らぬ神にはなんとやら、というように、声を掛けられぬよう頭を下げる人種。そして、心のそこからこちらを――というか、リベルを崇敬するように最上級の敬礼を取る人種。
「この城にいるのは、私の味方と私の敵だけだ。――あまり面白いものではないよ」
敬礼に軽く手を掲げて返しながら、
ノックは三回。少し時間を空けて、二回。
「リベル=ディーゴ外務長官です。失礼します」
あまりにも形式的に。何の抑揚もない声で、返事も待たずにリベルはその部屋の中に入った。
中にいるのは一人の、肥満体の男。
パジャマを着た三十路の男が、高級そうな絨毯の下で土下座をしていた。
「リベル=ディーゴ閣下様! この私めに、何の御用でしょうか……!」
見事な土下座だ。黄金比の螺旋図を想起させる。スケッチブックに自然に手を添えてしまった自分に気が付いて、それから手を放す。今はそんな状況ではない。
「
背負っていた母は、いつの間にか目を覚ましていた。地面にゆっくりと降ろす。
母は膝で自然に歩き、影武者に近づく。
「――いいえ、あまり……ねえ、そこのあなた」
母は、ディーゴの影武者の肩に手を置き、言葉を掛ける。
「はひっ、なんでございましょう!」
「
攻撃の意図はなく。それでいて自然に。母のオーラは膨らんでゆく。
「母さん!」
僕は影武者から母を引き離す。精孔が開いたらことだ。
「あっ、そうね」
それに抵抗せず、母は影武者から距離を取った。
頭を上げた影武者は、おそるおそるこちらを見る。
母の瞳に吸い寄せられるように視線を動かし――動きを、止めた。
「え?」
影武者は、なにかを見ている。空に視線を彷徨わせている訳ではなく、一点に固定されていて。
だが、そこには何もなく。
影武者は、ゆっくりと立ち上がり、その何かに敬礼する。
「『総帥のお言葉を、復唱させて頂きます!』」
その言葉には、そして動きには、影武者のモノではない、何かしらの"念"を感じさせた。
すわ念攻撃か。咄嗟に母を抱えて部屋の入口にまで退避する。だが、リベルは何も構えていない。
「大丈夫、アレはガレヌの操作系能力。おおかた、伝言用に仕込んでいたんだろうね」
そして、何者かが憑いたように、影武者はぽつり、ぽつりと語り始めた。
「『ヘラよ……すまない。私は知らなかった。見抜けなかったのだ』」
リベルは、黙って影武者の、否、ディーゴ総帥の言葉を聞き逃さぬよう耳に入れる。母は、強張った身体で、それでも総帥の言葉に聞き入っている。僕は警戒を解かない。リベルの態度が正しいとは限らない。
「『あの男に会わせたのが間違いだった。独裁者の愛人より、自由な国の富豪の妻の立場の方が、良いだろうと考えたのだ――間違いだった』」
総帥は頭を下げる。顔から滴り落ちる液体が、カーペットを濡らした。
泣いているのか。母を捨てた男が、殊勝な面をして、泣いているのか。
「『奴は君の瞳を狙い、隙を見て襲い掛かった。君は奴を咄嗟に殺した。――大国の要人だ。庇いきれなかった。君をこの宮殿から追い出し、行方不明ということにする。それで、君の命は護れると思っていた』」
そのふざけた事実に、僕は怒りを抑えきれず唇を噛み、それでも怒声にはしない。母が口を閉ざしているのだから、僕が口を開く道理はない。
「『私は逃げた。怖かったのだ。人を見る目のない男が、暗殺と謀殺と、そして革命に怯えながら、この国を導けるはずがないと。――赦してくれ。いや、許さなくてよい。ただ、私への怒りに、吞み込まれないでくれ。以上だ』」
総帥は――いや、影武者に戻った彼は、操作される負荷に疲労したのか、そのまま突っ伏し、涙と鼻水で絨毯を汚しながら気絶した。
母は強く握り締めていた拳を、緩め、解いた。
「ふ、ふふ、ははは、は……遅い……遅いよ。マサドル、あなたが愛したヘラはもういない。心を十二に割って、その最後の一つも、もう消えます」
大きく母は息を吐く。その吐息には、十年以上もの間、人格の裏で滾っていた怒りが全て籠められていたかのように、渦を巻いていた。
「愛する女の窮地も、自分の息子の存在も知らず。あなたは遠い何処かで、一匙の後悔を抱えながら、道楽に興じているのでしょう……ふふ、こんなに情けない男を、あの時の私は愛していたのですか」
マサドル=ディーゴは、僕を知らない。
その事実に動揺は無かった。父ではなく、母を捨てた男。僕にとってはそれだけだ。
怒りの吐息に籠ったオーラ。瞳のように渦を巻いたそれから現れるのは、黒表紙のスケッチブック。未完成の『
表表紙は未だ漆黒。ただ、裏表紙には、十二彩色に煌めく両の瞳が新たに、今まで描いた十二対の掌に囲われるようにして刻まれていた。
「ねぇ。クレオス。かつてのあなたの世界は、山小屋で閉じていた。生まれる前の記憶を抱きしめていた。かつての私の世界が、この宮殿で閉じていて、マサドルへの愛を噛み締めていたように」
それは。
否定できない。
一人の男に裏切られ、怒りで人格を燃やし尽くされる女性と。
一つの漫画に熱狂し、結局は下らない原因で命を手放した男。
並列ではない。同義でもない。
でも、どこか似ていた。
母は、言葉を続ける。
「あなたには、それだけで終わってほしくない。世界は開いている。いろいろな人を抱きしめられる。私は、あんまり他人を抱きしめる機会が無かったから、色々な自分を抱きしめた」
緋色の瞳の焦点、それが少し揺らぎ、再度僕の顔に定まる。
「――あなたには、色々な人を、その人の色々を、抱きしめて、噛み締めて。それが、私の――私たちからの、お願い」
心の奥底に。魂にすら、刻み込む。その意気で。
決して忘れないように。歪んだ万年筆を握りしめ、掌に筆先を突き刺し、痛みと共に言葉を放った。
「必ず。多くの人を、その人の様々な色を。抱きしめて、噛み締めて、呑み込んで、血肉にする。――そうだ、表紙、描くよ」
「ええ。約束よ。お願い」
母の側に座り、具現化されたスケッチブックを手に取る。
『
母が寝床にしていた毛皮の虎。
それを基礎にして、僕が時折纏う、獅子の鬣を意匠として加える。
一時間と少し、だろうか。時間の感覚を忘れ、精密な筆運びで描き続けていた。いつの間にか、リベルは影武者を連れて部屋の外に出ていたようだ。
母は、『
いきおい余って、虎に翼を描いてしまったのも、母は微笑んで眺めていた。
そして、最後の一筆。虎獅子の瞳に、縦に割けた瞳を刻む。
「できた。母さんの守護獣だ」
「ふふ、名前は、なんというの?」
考えてなかった。――ふと、思い浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「粉雪。この子の名前は、
それを聞いた母は安心したように笑って。
「ふふ、素敵ね。――あなたが、生まれてきてから、とても、楽しかった。みんな、そう。ありがとう、クレオス……ほん、とうに」
言葉は途絶えた。母の瞳には、もう緋の色はなく。
空に視線を揺らす、薄茶の虹彩に変じていた。
それが最期の言葉だと気付くのに、十秒ほど掛かって。
血が乾き、こびり付いたその手で、母のてのひらを握る。
握り返す母の手は、哺乳瓶を握る赤子の手のように、白かった。
序章は終、といったところでしょうか。
次話から第一章ですかね。