アイドル至上主義の教室へ   作:EXTERMINATION

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第10話 本番前夜

アイドル特別試験本番まで、残り一日。

校内の空気は、完全に通常の学校生活から逸脱していた。

 

廊下では誰かが小声で歌を確認している。

教室では振付を指でなぞる生徒がいる。

食堂では各クラスのステージ予想が勝手に語られ、

購買では「どのクラスが勝つか」という話題で持ちきりになっていた。

 

もはやこれは単なる特別試験ではない。

学校全体を巻き込んだ、奇妙な祭りだった。

 

だが、その中心にいる代表者たちにとっては、祭りという言葉では済まされない。

 

本番は明日。

一度きり。

 

失敗してもやり直しはない。

 

堀北クラスの多目的室には、張り詰めた空気が漂っていた。

 

堀北鈴音、軽井沢恵、茶柱佐枝。

 

三人は本番用衣装の最終確認を終え、最後の通し練習へ入ろうとしていた。

 

椅子には櫛田桔梗が座り、足を休めながら見守っている。

綾小路清隆はいつものノートを手に、音響機器の前へ立っていた。

 

「今日の練習は通しを二回までにする」

 

軽井沢が目を丸くした。

 

「え、少なくない?」

「疲労を残す方が危険だ」

「綾小路くんがまともなこと言ってる……」

「いつもまともだ」

「それはない」

 

堀北が即答した。

茶柱も低く言う。

 

「そこは同感だ」

 

綾小路は少しだけ黙った。

 

「……練習を始める」

「逃げた」

 

軽井沢が笑う。

その笑い声は少しだけ硬かった。

軽口を叩いてはいるが、緊張している。

 

当然だ。

 

明日、三人は大勢の前に立つ。

しかも普通のライブではない。

クラスポイントが懸かった特別試験。

 

笑われる可能性もある。

 

失敗すれば、クラス全体の評価に響く。

 

「軽井沢」

 

茶柱が声をかける。

 

「はい」

「緊張しているな」

「……そりゃしますよ」

「悪いことではない。緊張しない人間より、

緊張を理解している人間の方が本番に強いこともある」

 

軽井沢は少しだけ目を丸くした。

 

「先生、なんかいいこと言う」

「茶化すな」

「はい」

 

堀北は鏡の前に立ち、自分の衣装姿を見ていた。

 

淡いピンクのアイドル衣装。

 

フリル。

リボン。

 

数日前までなら、冗談でも着るとは思わなかった衣装。

だが今は、その衣装を着た自分が鏡の中にいる。

 

違和感はまだある。

それでも、恥ずかしさよりも、明日の舞台でどう見せるかを考えている自分がいた。

 

「堀北」

 

綾小路が声をかける。

 

「何」

「表情が硬い」

「本番前なのだから仕方ないでしょう」

「仕方ないで済ませるな」

「最後の最後まで容赦ないわね」

 

茶柱が堀北の隣に立つ。

 

同じピンク系衣装。

 

ただし茶柱の衣装は、淡い色合いでありながら、

どこか大人びた印象を持つデザインになっている。

 

軽井沢はそれを見て、何度目か分からない感想を口にした。

 

「先生、やっぱ似合ってますよ」

「まだ言うか」

「本当に思ってるんですって」

 

茶柱は鏡に映る自分を見て、わずかに眉を寄せた。

 

「……慣れとは恐ろしいな」

 

軽井沢はそのまま、じーっと茶柱の全身を見つめる。

 

そして。

 

「あ」

 

茶柱が嫌な予感を覚えたように目を細めた。

 

「……何だ」

 

軽井沢は恐る恐る口を開く。

 

「いや、その……衣装サイズは完璧なんですけど」

「けど?」

「ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、お腹が……」

 

沈黙。

空気が止まる。

 

茶柱の視線が、ゆっくり軽井沢へ向いた。

 

「軽井沢」

「はい」

「続きを言ってみろ」

 

軽井沢が一歩下がる。

 

「い、いや!?全然太ってるとかじゃないですよ!?

本当にちょっとだけ、たるんでるように見えるだけです!」

「ほう……?」

「アラサーって多少はそうなるじゃないですか!」

 

茶柱の目が細くなる。

 

「ほう……ほうほう……」

「だ、だって先生、お酒とか飲みそうだし……!」

「飲むが?」

「ですよね!?」

 

堀北が頭を押さえた。

 

「軽井沢さん、なぜ自分から地雷原へ突っ込むの……」

 

櫛田は苦笑している。

 

「でも、確かにちょっとだけ柔らかい感じはありますよね」

 

茶柱がゆっくり振り向く。

 

「櫛田」

「はい!」

「お前まで乗るな」

「す、すみません!」

 

軽井沢は慌ててフォローへ入る。

 

「いやでも逆にですよ!?そのくらいの方が大人のお姉さん感あっていいっていうか!」

「必死だな」

「必死です!」

 

綾小路は静かに鏡を見る。

 

「ですが、むしろその方がいいかもしれません」

 

全員が振り向いた。

茶柱の眉が動く。

 

「……どういう意味だ」

「完全に細すぎるより、少し柔らかさがある方が親しみやすさへ繋がります」

 

軽井沢が頷く。

 

「そうそう!それ!」

「つまり私は親しみやすい腹をしていると?」

「言い方……」

 

堀北がため息を吐く。

茶柱は鏡を見つめる。

確かに、学生時代のような体型ではない。

 

年齢。

生活。

酒。

色々ある。

 

だが。

 

「……まあ、教師が現役アイドル体型だったら逆に怖いか」

 

ぼそりと呟く。

軽井沢が吹き出した。

 

「先生、自分で言うんだ!」

 

茶柱は腕を組み直す。

 

「だが勘違いするな。これは多少だからな」

「そこ強調するんですね」

「重要だ」

 

櫛田が笑う。

 

「でも、そのくらいの自然さが先生らしくていいと思います」

 

茶柱は少しだけ黙った。

それから。

 

「……そういうものか」

 

軽井沢が頷く。

 

「はい。むしろリアルで好きです」

「リアルとか言うな」

 

だが茶柱の口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。

 

堀北が小さく頷く。

 

「その点は同意します」

「お前もか」

「はい。昨日までは抵抗がありましたが、今は本番でどう動くかの方が気になります」

 

茶柱は少しだけ目を細めた。

 

「それならいい」

「いいんですか?」

「衣装を気にして動けなくなるよりはな」

 

櫛田が椅子から笑顔で言う。

 

「三人とも、すごく素敵です」

 

その言葉に、軽井沢は照れたように笑った。

 

堀北は視線を逸らした。

茶柱はため息を吐いた。

 

「櫛田」

「はい」

「お前は褒めるのが上手すぎる」

「そうですか?」

「そうだ。だから無理に笑うなとも言った」

 

櫛田の笑顔が少しだけ止まる。

 

茶柱は続けた。

 

「明日は客席で見ていろ。お前が繋いだものを、私たちが引き継ぐ」

 

櫛田は目を伏せた。

そして、静かに頷いた。

 

「……はい」

 

多目的室の空気が少しだけ引き締まる。

 

綾小路は音楽を流した。

 

最後の通し練習。

 

前半。

堀北と軽井沢が前へ出る。

 

軽やかな曲調。

 

軽井沢が観客へ向けるように手を振る。

 

堀北は中央で、以前より柔らかい表情を作る。

 

まだ完璧ではない。

 

だが、最初の頃のような硬さはない。

 

中盤。

曲調が少し落ち着く。

 

茶柱が後方から前へ出る。

 

本番用衣装を着た彼女が歩くと、ただの練習室の空気が変わった。

 

ピンク系衣装。

本来なら可愛らしさを前面に出すもの。

だが茶柱が着ると、可愛さの中に妙な威厳が生まれる。

軽井沢が動きながら小さく笑いそうになり、必死にこらえた。

 

茶柱の視線が飛ぶ。

 

「軽井沢」

「すみません!」

「動きながら謝るな」

「はい!」

 

そのやり取りに堀北の表情が一瞬だけ緩む。

 

綾小路は見逃さない。

今の自然な笑み。

本番でも引き出せれば強い。

 

後半。

三人が並ぶ。

 

堀北、軽井沢、茶柱。

 

年齢も立場も雰囲気も違う。

普通ならまとまらない。

だが、まとまらないこと自体が印象になっていた。

 

曲が終わる。

 

三人が最後のポーズを決める。

 

沈黙。

櫛田が真っ先に拍手した。

 

「すごい……!」

 

軽井沢は息を吐く。

 

「今の良かった?」

 

綾小路は頷く。

 

「良かった」

「ほんとに?」

「ああ。本番前としては十分だ」

「えへへ~」

 

堀北が少しだけ安心したように息を吐く。

茶柱は綾小路を見る。

 

「修正点は?」

「細かいものはありますが、今から大きく変えるべきではありません」

「妥当だな」

 

軽井沢が驚く。

 

「え、先生と綾小路くんが普通に意見一致してる」

 

堀北が言う。

 

「不気味ね」

「お前たち、失礼だな」

 

茶柱はそう言いながらも、どこか柔らかかった。

 

 

その頃。

坂柳クラスでも、最後の練習が行われていた。

 

ステージ中央に置かれた椅子。

 

坂柳有栖はそこへ静かに座り、神室真澄と森下藍が左右に立っている。

神室はピンクではなく、坂柳クラスらしいクラシカルな衣装を見て、

まだ少し複雑な顔をしていた。

 

「明日本番か……」

「緊張していますか?」

 

坂柳が訊く。

神室は即答する。

 

「してない。面倒なだけ」

「そういうことにしておきましょう」

「何その言い方」

 

森下が真顔で言う。

 

「神室真澄は緊張を面倒に変換するタイプです」

「勝手に分析しないで」

 

坂柳は微笑む。

 

「悪くありません。明日もその気だるさを少し残してください」

「まだ言うの?」

「はい。あなたの自然な距離感は、私たちの舞台に必要です」

 

神室は少しだけ黙った。

 

「……変な褒め方」

「褒めています」

 

森下は牛乳を持っていた。

 

「明日に備えて補給しましょう」

 

神室はそれを見る。

 

「また牛乳?」

「最後の調整です」

「何が調整されるのよ」

 

坂柳は苺牛乳を受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

神室は呆れる。

 

「本当に気に入ってるじゃない」

 

坂柳は椅子に座ったまま、静かに微笑んだ。

 

「甘いものは悪くありません」

 

神室は自分の普通の牛乳を見て、小さく息を吐いた。

 

「……まあ、ここまで来たらやるしかないか」

 

森下が頷く。

 

「乳首も応援しています」

「黙ってて」

 

そのやり取りに、坂柳は楽しそうに笑った。

 

彼女は動かない。

 

だが、ステージの中心にいる。

 

その構成は、既に揺るがないものになっていた。

 

――コンコン。

 

不意に、教室のドアがノックされた。

神室が眉をひそめる。

 

「誰よこんな時に」

 

森下が真顔で立ち上がった。

 

「はいはい、橋本正義にパシらせたカツ丼ですかね」

「いつ頼んだのよ」

「空腹は芸術の敵です」

「アイドルでしょ今」

 

森下は気にせずドアを開ける。

 

すると、そこに立っていたのは、龍園クラスの時任裕也だった。

 

教室が一瞬静まる。

時任はやけに顔が赤かった。

しかも目をまったく合わせない。

 

「……?」

 

神室が怪訝そうに見る。

時任は何も言わず、ツカツカと教室へ入り込む。

 

一直線。

 

坂柳の前まで来る。

坂柳はきょとんとしていた。

 

「時任くん、どうされ――」

 

その瞬間。

時任が勢いよく一枚の封筒を差し出した。

 

ピンク色。

ハートのシール付き。

 

完全にラブレターだった。

 

沈黙。

 

教室の空気が止まる。

 

「・。・」

 

坂柳の目が、ぽかんと丸くなる。

時任は顔を真っ赤にしたまま叫んだ。

 

「そ、そういうことだから!!」

 

そして、そのまま全力で走り去っていった。

 

バタンッ!!

 

勢いよくドアが閉まる。

 

沈黙。

長い沈黙。

 

森下が静かに口を開いた。

 

「えーと、ラーメンじゃなかったですね」

 

神室が即座にツッコむ。

 

「カツ丼はどうしたのよ」

 

坂柳はまだ封筒を持ったまま固まっていた。

 

「・。・」

 

「坂柳?」

 

神室が顔を覗き込む。

すると坂柳が、見たこともないくらい狼狽した顔で小さく呟いた。

 

「あわわのわ……」

 

神室の目が点になる。

 

「は?」

「ぷ、プレデターを頂いてしまいました……どうしましょうどうしましょう」

「プレデターじゃなくてラブレターね?」

 

坂柳は完全に混乱していた。

 

「ら、ラブレター……」

「そう」

「私が……?」

「そう」

「な、なぜでしょう……」

「知らないわよ!」

 

森下が真顔で頷く。

 

「やれやれ、とりま一票は確実ですね」

 

神室が頭を抱えた。

 

「アイドル総選挙じゃないのよこれ」

 

坂柳はまだ封筒を見つめている。

耳まで赤い。

完全に処理が追いついていなかった。

 

神室はため息を吐きながら、静かに言った。

 

「坂柳、とりあえず落ち着きなさい」

「お、落ち着いています」

「全然落ち着いてないわ」

 

森下が真顔で分析する。

 

「坂柳有栖、CPU使用率が限界です」

「人をパソコンみたいに言わないで」

 

坂柳は封筒を胸元へ抱え、小さく深呼吸した。

 

だが、その直後。

 

「……ふ、ふふ」

 

神室が見る。

 

「え?」

 

坂柳は少しだけ口元を緩めていた。

 

「これは……困りましたね」

 

そう言いながら。

どこか、少しだけ嬉しそうだった。

 

龍園クラスでは、最後の通し練習が終わったところだった。

 

伊吹澪は額の汗を拭い、露骨に疲れた顔をしている。

 

「……もういいでしょ」

 

西野武子は落ち着いて水を飲んでいた。

 

「かなり揃ってきたね」

 

椎名ひよりは少し息を切らしながらも笑顔だった。

 

「はい。伊吹さんの動き、とても綺麗でした」

 

伊吹は視線を逸らす。

 

「いちいち褒めなくていい」

「本当のことですから」

 

龍園翔は腕を組み、三人を見ていた。

 

「悪くねぇ」

 

伊吹が睨む。

 

「それ何回目?」

「仕上がってきたって意味だ」

「最初からそう言いなさいよ」

 

龍園は静かに言う。

 

「明日は綺麗にやろうとするな」

 

西野が聞く。

 

「どういう意味?」

「一之瀬みたいな王道をやっても勝てねぇ。

坂柳みたいな特別感でもねぇ。堀北みたいな奇策でもねぇ」

 

ひよりは静かに聞いている。

 

龍園は続けた。

 

「こっちは、こっちの空気で会場を止める」

 

伊吹が眉をひそめる。

 

「止める?」

「目を逸らせねぇ空気を作れ」

 

伊吹はしばらく黙った。

 

そして、少しだけ口元を緩めた。

 

「……やっぱアンタのアイドル論、治安悪いわ」

「褒め言葉として受け取る」

「褒めてない」

 

西野が小さく笑う。

ひよりも穏やかに微笑んだ。

 

龍園クラスは最後まで王道ではない。

だが、その異質さには確かな強さがあった。

 

――その数十分後。

 

激しい通し練習を終え、伊吹が床へ座り込む。

 

「……疲れた」

 

西野も汗を拭きながら息を吐いた。

 

「かなり動いたね」

 

椎名ひよりは静かに水を飲んでいる。

龍園翔は壁にもたれたまま、無言で三人を見ていた。

 

その時。

ガラッ!!

 

勢いよく教室のドアが開いた。

 

「龍園さーん!!持ってきましたぜ!!」

 

現れたのは、石崎大地とアルベルト。

二人の手には大量のおにぎりが乗ったトレーがあった。

 

伊吹が少し目を丸くする。

 

「気が利くじゃない」

 

石崎が胸を張った。

 

「へへっ、まあな!」

 

アルベルトも静かに頷く。

龍園はおにぎりを見て、ふっと口元を歪めた。

 

「……お前ら」

 

石崎がニヤリと笑う。

 

「もちろん分かってますよ」

 

龍園の目が細くなる。

 

「例の塩は使ったんだろうな?」

 

石崎が親指を立てた。

 

「もちろんですよ!」

 

西野が怪訝そうに聞く。

 

「例の塩?」

 

龍園がゆっくり答える。

 

「は!か!た!の!塩!だ」

 

伊吹が真顔になる。

 

「は……?」

 

ひよりがぱっと顔を上げた。

 

「ああ、美味しいですよね。は!か!た!の!塩!」

 

西野が少し引いた顔をする。

 

「CMでしか見たことないわ……」

 

伊吹も呆れたように言った。

 

「私も……、てか塩なんてみんな同じでしょ」

 

その瞬間。

龍園が真顔になった。

 

「バカ言ってんじゃねぇ」

 

伊吹が目を細める。

 

「何でそこだけ本気なのよ」

 

ひよりが静かに立ち上がる。

そして。

 

「そうですよ、伊吹さん」

 

伊吹が嫌な予感を覚える。

 

ひよりは真剣な顔だった。

 

「は!か!た!の!塩!の秘訣とは――」

 

始まった。

完全に始まった。

 

石崎が「おっ」と感心した顔になる。

アルベルトも腕を組んで頷いている。

西野は少し笑いを堪えていた。

伊吹は頭を抱えた。

 

「うわ、長いやつだこれ」

 

ひよりは止まらない。

 

「まず、焼塩製法による粒の均一性が――」

「待って」

「さらに海水由来の旨味成分が――」

「誰か止めて」

「おにぎりに使用した際、米との親和性が――」

 

龍園は静かにおにぎりを食っていた。

 

石崎も真面目に聞いている。

アルベルトは感心している。

 

伊吹と西野だけが取り残されていた。

 

数分後。

西野がぽつりと呟く。

 

「……練習時間、減ってない?」

 

伊吹が即座に指差した。

 

「この塩講座のせいよ!!」

 

ひよりはそこでようやく我に返る。

 

「あ……」

 

龍園はおにぎりを食い終え、静かに言った。

 

「まあいい」

 

伊吹が睨む。

龍園は薄く笑った。

 

「美味かったからな」

 

石崎がガッツポーズする。

 

「よっしゃ!」

 

アルベルトも静かに親指を立てた。

伊吹は深くため息を吐く。

 

「……このクラス、本当に何なのよ」

 

一方の一之瀬クラスでは最後の練習は、明るく終わろうとしていた。

 

一之瀬帆波はいつものように笑顔で、網倉麻子と姫野ユキへ声をかける。

 

「二人とも、ここまで本当にありがとう」

 

網倉は笑った。

 

「それ本番後みたいな言い方だよ」

「えへへ、でも言っておきたくて」

 

姫野は少し疲れた顔で言う。

 

「私はまだ明日もあるんだけど」

「うん。明日も一緒に頑張ろうね」

「……一之瀬さんって、本当に真っ直ぐだよね」

「そうかな?」

「そう」

 

姫野は少しだけ視線を落とす。

 

「最初は本当に面倒だった」

 

網倉が苦笑する。

 

「それはみんな知ってる」

「でも、今は……まあ、やるならちゃんとやりたいとは思ってる」

 

一之瀬の顔が明るくなる。

 

「姫野さん!」

「抱きつかないで」

「ごめん!」

 

網倉が笑う。

 

「明日は楽しもう。勝ちたいけど、それだけじゃなくて」

 

一之瀬は頷いた。

 

「うん。見てくれる人に、楽しかったって思ってもらえるステージにしよう」

 

王道。

あまりにも王道。

だからこそ、強い。

 

――そしてまたレッスンをして。

 

網倉と姫野は、机へ突っ伏しながら完全に疲れ切っていた。

 

「……もう足上がんない」

「私も……」

 

一之瀬だけは、なぜかまだ元気だった。

 

「二人とも、お疲れ様!」

 

網倉が半笑いになる。

 

「一之瀬さん、体力どうなってるの……」

 

姫野も小さく頷く。

 

「アイドル適性高すぎる」

 

一之瀬は少し照れながら笑った。

 

「えへへ。でも、もっと勉強したいなって思って」

 

そう言って。

鞄から何枚かのDVDケースを取り出した。

網倉と姫野がぽかんとする。

 

「……何それ」

「アイドルアニメ!」

 

一之瀬は得意げだった。

机へ並べられる。

 

『アイドルマスター シンデレラガールズ』

『ラブライブ!』

 

完全にガチだった。

姫野が目を細める。

 

「いや、どこから持ってきたの……」

「布教用!」

 

一之瀬はキラキラした顔で言う。

 

「一緒に見よ!面白いし勉強になるよ!」

 

網倉が苦笑する。

 

「勉強熱心だなぁ」

 

姫野はため息を吐いた。

 

「……帰れる空気じゃなくなった」

 

数分後。

教室の照明が少し落とされ、三人は机を寄せて画面を見ていた。

 

オープニング曲が流れる。

 

一之瀬が目を輝かせる。

 

「あ、この回好きなんだよね!」

 

網倉が笑う。

 

「詳しいね」

「うん!輿水幸子ちゃんがすごく可愛くて!」

 

姫野がぽつりと言う。

 

「誰」

 

一之瀬が勢いよく振り返った。

 

「えっ、知らない!?」

「そんな驚く?」

 

一之瀬は完全にスイッチが入っていた。

 

「幸子ちゃんはね、カワイイに全力なの!でもちゃんと努力家で――」

 

網倉が笑いを堪える。

 

「始まった」

 

さらに一之瀬は止まらない。

 

「あとラブライブだと、にこちゃんと真姫ちゃんの『にこまき』が――」

 

姫野が真顔になる。

 

「何その単語」

「春巻き?」

「すごく尊いんだよ!」

「急に熱量が怖い」

 

だが気づけば。

 

網倉も笑いながら画面を見ていた。

姫野も最初ほど嫌そうではない。

 

ライブシーン。

 

仲間同士のぶつかり合い。

ステージへ向かう覚悟。

それらは、今の自分たちとどこか重なっていた。

 

一之瀬が笑う。

 

「ほら、この演出とかすごく参考になるよ!」

 

網倉が頷く。

 

「あー、確かに観客の煽り方うまいかも」

 

姫野もぼそっと言う。

 

「……曲、普通にいい」

 

一之瀬が嬉しそうに振り向いた。

 

「でしょ!?」

 

そのまま三人は、気づけば普通にアニメ鑑賞を楽しんでいた。

 

時々笑って。

時々真面目に見入って。

そして時々、一之瀬のオタク早口解説に圧倒されながら。

 

アイドル特別試験。

 

その裏側では、こんな穏やかな時間も確かに流れていた。

 

夜。

堀北クラスの最後のミーティングが終わった後、

堀北は一人で少しだけ多目的室に残っていた。

 

鏡の前に立つ。

衣装はもう脱いでいる。

 

だが、鏡に映る自分の姿が、少し前とは違って見えた。

 

「まだ残っていたのか」

 

声をかけたのは綾小路だった。

 

堀北は振り返る。

 

「あなたこそ」

「片付けだ」

「そう」

 

短い沈黙。

堀北は鏡を見る。

 

「不思議ね」

「何がだ」

「最初は、こんな試験に本気になるなんて思っていなかったわ」

「そうだな」

「でも今は、負けたくない」

 

堀北は静かに言った。

 

「ただポイントが欲しいだけではなくて、

ここまでやったからには、ちゃんと結果を出したいと思っている」

 

綾小路は堀北を見る。

 

「それは良い変化だ」

「あなたにそう言われると、少し癪ね」

「なぜだ」

「何となくよ」

 

堀北は小さく息を吐く。

 

「私は、笑顔が苦手だったわ」

「今も得意ではない」

「分かっているわ」

「だが、前よりは良い」

 

堀北は少しだけ黙った。

 

「……ありがとうと言うべきかしら」

「必要なら」

「相変わらずね」

 

その時、扉が開いた。

軽井沢が顔を出す。

 

「あ、いたいた。二人とも何してんの?」

「片付けよ」

 

堀北が答える。

軽井沢はにやりと笑う。

 

「ふーん?」

「何よその顔」

「別にー」

 

綾小路は無視して資料をまとめる。

軽井沢は堀北へ近づき、少し真面目な顔になった。

 

「明日、頑張ろうね」

 

堀北は軽井沢を見る。

 

「ええ」

「先生も巻き込んじゃったし、櫛田さんの分もあるし」

「そうね」

「勝ちたいよね」

「ええ」

 

二人の間に、少し前までなら考えられなかった空気があった。

仲が良いというほど単純ではない。

だが、同じ目的へ向かう仲間としての距離は、確かに縮まっていた。

 

そこへ茶柱も入ってきた。

 

「まだいたのか」

 

軽井沢が笑う。

 

「先生こそ」

「忘れ物だ」

 

茶柱はそう言って机の上の資料を取る。

 

そして、三人を見る。

 

「明日は一度きりだ」

「はい」

 

堀北が答える。

 

「失敗を恐れるな。だが、手は抜くな」

「分かっています」

 

軽井沢も頷く。

 

「明日は汗も掻かない完璧アイドルでいきます」

 

茶柱は冷静に返す。

 

「汗は掻け。倒れるな」

「そこ真面目に返さないでくださいよ!」

 

堀北が小さく笑った。

綾小路も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

茶柱はそれに気づいたのか、気づかなかったのか、静かに言った。

 

「行くぞ。明日に備えて休め」

「はい」

 

四人は多目的室を出た。

廊下は静かだった。

昼間の喧騒が嘘のように、校舎は落ち着いている。

だが、その静けさの奥で、明日の熱が確かに待っている。

 

一之瀬。

龍園。

坂柳。

堀北。

 

4つのクラス。

 

4つのアイドル像。

 

王道。

異質。

静止。

 

そして、ピンク色の伝説。

 

本番前夜。

 

それぞれの偶像たちは、最後の眠りにつく。

 

明日、誰が会場の空気を奪うのか。

 

その答えは、もうすぐ明らかになる。




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