アイドル特別試験本番当日。
高度育成高等学校の校内ホールは、朝から異様な熱気に包まれていた。
普段は講演や式典に使われるその場所が、今日は完全に別の空間へ変わっている。
ステージ上には照明機材が並び、音響チェックの低い振動が床を震わせ、
客席には各学年の生徒たちが次々と集まり始めていた。
誰もが、この試験を単なる余興だとは思っていなかった。
1位はクラスポイント+200。
2位は+150。
3位は+100。
4でも+50。
数字だけを見れば、どのクラスも本気にならざるを得ない。
しかし今、客席に集まる生徒たちの表情にあるのは、損得勘定だけではなかった。
期待。
好奇心。
緊張。
そして、少しの悪ノリ。
それらが入り混じった、奇妙な熱気。
まさに、特別試験という名のライブ会場だった。
やがてステージ中央へ、真嶋が姿を現す。
その背後では既に照明が点灯し、
巨大モニターには派手なロゴが映し出されている。
『SUPER IDOL FESTIVAL』
その文字が現れた瞬間、会場のざわめきがさらに大きくなった。
真嶋はマイクを持つ。
そして、会場全体を見渡しながら静かに口を開いた。
「――これより、二年生によるアイドル特別試験」
一拍。
照明が一斉に点滅する。
「『スーパーアイドルフェスティバル』を開始する!」
その瞬間。
校内ホールが、大歓声と拍手に包まれた。
――だが。
観客席の一角だけ、別の意味で異様な空気を放っていた。
宝泉和臣が、なぜか完全武装だった。
頭には鉢巻き。
胸には大きく『帆波愛』と書かれた法被。
さらに両手には、やたらと巨大なプラカード。
『HONAMI LOVE』
『一之瀬帆波』
『今日も可愛い』
『世界一』
どれも無駄に完成度が高い。
しかも本人は真顔だった。
腕を組み、完全に戦闘態勢である。
隣に座る七瀬翼が引いていた。
「……宝泉くん」
「なんだ」
「その格好は何ですか」
「応援だろうが」
当然のように答える。
七瀬は頭を抱えた。
「そういうレベルではないと思います」
反対側では天沢一夏もドン引きしていた。
「うわぁ……」
宝泉が睨む。
「あ?」
「いやいやいや、何その装備」
「装備じゃねぇ」
「完全に装備だって」
天沢はプラカードを指差した。
「ていうか、それ手作り?」
「三日かけた」
「力の入れどころがおかしいよ!」
七瀬も小声で言う。
「宝泉くん、もし一之瀬先輩に見られたら……」
「見られるために持ってきたんだろうが」
即答だった。
天沢が顔を覆う。
「ダメだこの人」
宝泉は気にしない。
むしろ堂々としている。
ステージへ視線を向けたまま言った。
「ライブってのはな」
「はい」
「推しを全力で応援する場所だ」
「そうですか」
「中途半端が一番失礼なんだよ」
七瀬と天沢は顔を見合わせた。
言っていることだけ聞けば正論である。
だが、見た目が全てを台無しにしていた。
周囲の生徒たちもチラチラ見ている。
「あれ宝泉じゃね?」
「何やってんだアイツ」
「怖い怖い怖い」
だが宝泉は全く気にしない。
巨大プラカードを高々と掲げる。
『HONAMI LOVE』
その文字が照明を反射して輝いた。
天沢は小さく呟く。
「一之瀬先輩、逃げてください……」
七瀬も静かに頷いた。
「応援は本物なんでしょうけど……」
「愛が重すぎるよね」
そして宝泉は勢いよく立ち上がった。
「帆波ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
会場中へ響く大声。
七瀬と天沢は同時に顔を覆った。
「始まった……」
「始まっちゃった……」
舞台袖では、各クラスの代表者たちが最後の確認を行っていた。
一之瀬クラス。
一之瀬帆波は、白を基調にした王道の衣装に身を包み、
いつものように明るく微笑んでいた。
隣には網倉麻子。
そして、少しだけ気まずそうに立つ姫野ユキ。
「二人とも、大丈夫?」
一之瀬が声をかける。
網倉は笑って頷いた。
「うん。緊張してるけど、楽しみ」
姫野は小さく息を吐いた。
「私は帰りたい」
「姫野さん……」
「でも、逃げるとは言ってない」
一之瀬の顔がぱっと明るくなる。
「うん!」
姫野は視線を逸らした。
「そういう顔されると、余計に逃げられないんだよね」
網倉がくすりと笑う。
「もう完全に一之瀬ペースだね」
「違う」
姫野は否定したが、その声に本気の拒絶はなかった。
一之瀬は二人の手を取る。
「勝ちたい。でも、それ以上に、見てくれる人に楽しかったって思ってもらいたい」
その言葉は、いかにも一之瀬らしかった。
正面から。
まっすぐに。
何の奇策もなく、人を惹きつける。
それが一之瀬クラスの武器だった。
少し離れた場所では、龍園クラスが静かに待機していた。
椎名ひよりは淡い色の衣装を着て、落ち着いた表情で本を閉じる。
伊吹澪は腕を組み、不機嫌そうにステージを見ていた。
西野武子は落ち着いた様子で、マイクの位置を確認している。
そして龍園翔は、いつものように薄く口元を歪めながら三人を見ていた。
「最後の確認だ」
龍園が低く言う。
「ひより。入りで空気を取れ」
「はい」
「伊吹。綺麗にまとめようとするな」
「分かってる」
「西野。崩すな」
「了解」
伊吹が眉をひそめた。
「相変わらず指示が雑ね」
「必要なことは言った」
「最後の演出、本当にやるの?」
西野が訊く。
龍園は迷わず頷いた。
「ああ」
龍園は即答した。
「こっちが同じことをしても勝てねぇ」
意味は分かる。
余韻を作る。
観客の呼吸を止める。
そして、その後に熱を爆発させる。
それは王道アイドルではない。
だが、龍園クラスらしい。
「最後は笑うな」
龍園は言った。
「楽しそうに終わる必要はねぇ。何かを置いていったと思わせろ」
ひよりは小さく頷く。
「分かりました」
西野も頷いた。
「やるなら徹底した方がいいね」
伊吹はため息を吐く。
「……本当に変なクラス」
「今さらだ」
龍園は静かに笑った。
坂柳クラスは、さらに異質だった。
ステージ袖の奥。
坂柳有栖は、淡く上品な衣装を着て、専用に用意された椅子の横に立っていた。
神室真澄は不機嫌そうに髪を整え、
森下藍はなぜか本番直前にもかかわらず牛乳を飲んでいる。
「森下」
神室が低く言う。
「何ですか」
「本番前に牛乳飲むのやめなさい」
「少しでも胸を膨らませるためです」
「もう無理でしょ」
坂柳が微笑む。
「森下さんらしくて良いではありませんか」
「坂柳も甘やかさないで」
坂柳は椅子へ手を添えた。
「私たちは、私たちの形で戦います」
神室はその椅子を見る。
「本当に座ったまま全部やるのね」
「ええ」
「不安じゃないの?」
坂柳は静かに微笑んだ。
「不安がないと言えば嘘になります。ですが、私は私にできる形で勝負するだけです」
その言葉に、神室は少しだけ黙った。
坂柳は踊れない。
だが、それを隠していない。
むしろ、見せ方へ変えた。
動かないセンター。
椅子に座り、歌と存在感だけで空気を掴む。
それは坂柳有栖だから成立する作戦だった。
森下が真顔で言う。
「坂柳有栖は台風の目です」
神室は少し呆れる。
「またそれ?」
「周囲が動いて、中心は静かです」
坂柳は微笑む。
「悪くありません」
「採用するんだ……」
堀北クラスの舞台袖は、独特の緊張感に包まれていた。
堀北鈴音。
軽井沢恵。
茶柱佐枝。
三人は、淡いピンクを基調にしたアイドル衣装に身を包んでいた。
堀北は表情を固めている。
軽井沢は何度も髪やリボンを確認している。
茶柱は腕を組み、完全に教師の顔で立っていた。
ただし、衣装はピンクだった。
その違和感は、もはや暴力的ですらあった。
軽井沢が茶柱を見る。
「先生」
「何だ」
「やっぱり似合ってます」
「本番直前に言うことか」
「だって本当に思ったんですもん」
茶柱はため息を吐く。
「軽井沢。今笑ったら本番前にステップ追加だ」
「笑ってないです!」
堀北は鏡代わりの黒い機材ケースに映る自分を見ていた。
ピンクの衣装。
最初は拒絶しかなかった。
だが今は、それを着て舞台へ立つ覚悟ができている。
「堀北」
綾小路清隆が声をかける。
「何」
「表情が硬い」
「本番直前にそれを言うの?」
「本番直前だから言う」
「相変わらずね」
軽井沢が横から言う。
「大丈夫だって。堀北さん、ちゃんと可愛いし」
堀北の動きが止まる。
「……軽井沢さん」
「何?」
「本番前に変なことを言わないで」
「変じゃないじゃん。本当だし」
茶柱が静かに言う。
「堀北。そういう言葉を受け流せるようになれ。観客はお前を見に来る」
「分かっています」
「見られるな。見せろ」
堀北は小さく息を吸った。
「はい」
櫛田桔梗は少し離れた場所から三人を見ていた。
出場はできない。
だが、今日の堀北クラスのステージには、確かに櫛田の存在も含まれている。
「みんな」
櫛田が声をかける。
三人が振り返る。
櫛田は笑った。
少しだけ寂しそうで、それでも心から応援している笑顔だった。
「頑張って」
軽井沢が頷く。
「任せて」
堀北も静かに言う。
「あなたの分までやるわ」
茶柱は短く言った。
「見ていろ」
櫛田の目が少し潤んだ。
「はい」
綾小路はその様子を見て、静かにノートを閉じた。
ここから先は、分析ではない。
本番だ。
やり直しはない。
各クラスの代表者たちは、それぞれの場所で最後の呼吸を整えていた。
客席のざわめき。
照明の熱。
ステージの緊張感。
すべてが本物だった。
そして――。
誰も知らなかった。
このアイドル特別試験が、既に高度育成高等学校の枠を超えてしまっていることを。
校内ホールの巨大モニター。
その映像は試験用ネットワークを通じて外部へ配信されていた。
最初は単なる校内イベントだった。
だが。
「高度育成高等学校がアイドル大会を開催」
という意味不明な話題性。
一之瀬帆波。
坂柳有栖。
椎名ひより。
堀北鈴音。
そして伝説の教師アイドル。
様々な噂が独り歩きし、動画配信視聴者数は異常な勢いで増加していた。
日本国内。
渋谷。
巨大スクリーンが並ぶスクランブル交差点。
本来なら企業広告が流れるはずの大型ビジョン。
その一角で。
なぜか。
『SUPER IDOL FESTIVAL』
のロゴが映し出されていた。
交差点を歩いていた人々が足を止める。
「何これ?」
「学校のイベント?」
「規模おかしくない?」
若者たちがスマートフォンを向ける。
観光客たちも見上げる。
そして海の向こう。
アメリカ。
ニューヨーク。
タイムズスクエア。
巨大広告群が輝く世界最大級の繁華街。
そこでも、複数の大型ビジョンへライブ映像が流れていた。
信号待ちの観光客が立ち止まる。
「What's this?」
「Japanese idol show?」
「High school students?」
理解はされていない。
だが、人を立ち止まらせるには十分だった。
東京。
ニューヨーク。
香港。
フランス・パリ。
イギリス・ロンドン。
国際宇宙ステーション。
世界中の都市。
世界中の巨大スクリーン。
その全てで。
今まさに。
高度育成高等学校のアイドル特別試験が始まろうとしていた。
もちろん、当の生徒たちは誰も知らない。
もし知ったら。
堀北は倒れる。
軽井沢は絶叫する。
坂柳は処理落ちする。
龍園は不敵に笑う。
一之瀬は泣く。
茶柱は職員室へ辞表を書きに行くかもしれない。
だが、そんなことは関係なく。
世界最大級の舞台は整っていた。
◯
最初の出番は、一之瀬クラスだった。
会場の照明が落ちる。
客席のざわめきが静まる。
ステージ中央に、一之瀬帆波が立った。
左右に網倉麻子と姫野ユキ。
音楽が流れ始める。
明るく、爽やかで、手拍子しやすい曲。
一之瀬が最初の一歩を踏み出した瞬間、会場の空気が変わった。
笑顔。
それだけで、観客の視線が集まる。
一之瀬は難しいことをしていない。
だが、その自然な明るさが強かった。
「みんなー!今日は来てくれてありがとうっ!」
その声がホールに響く。
客席から歓声が上がる。
網倉が横で笑顔を振りまき、姫野は少し控えめながらも、
落ち着いた動きで全体を支えている。
姫野の表情は派手ではない。
だが、嫌々だった頃とは違う。
今はちゃんとステージに立っている。
一之瀬が最初の一歩を踏み出す。
照明が白く弾けるように広がり、会場全体へ明るいイントロが流れ始めた。
一之瀬の弾むような歌声がホールへ響いた瞬間、
客席の空気が一気に柔らかく変わる。
網倉がその横で軽やかにターンし、
姫野も少し遅れて動きを合わせる。
三人のステップは難しいものではない。
だが、その分だけ観客も自然にリズムへ入り込める。
一之瀬は笑顔のまま客席へ大きく手を振り、
前列の歓声へ真正面から応えていく。
その動きには一切の迷いがなかった。
だがサビへ入る直前。
客席から、一際大きな声が飛ぶ。
「一之瀬ぇぇーーーっ!!」
その歓声に、一之瀬がぱちりと目を瞬かせた。
ほんの少しだけ驚いたように。
「っ……」
一之瀬は頬を朱に染めながら、ぎこちなく両手を口元へ添えた。
観客席がざわつく。
「え……?」
一之瀬は明らかに照れていた。
やるべきか迷っている。
それでも勇気を振り絞るように。
小さく。
本当に小さく。
客席へ向かって、そっと投げキッスを送った。
それは慣れたアイドルのファンサービスではない。
計算された仕草でもない。
むしろ逆だった。
恥ずかしそうに。
顔を真っ赤にして。
それでも頑張って応えようとしている。
その『うぶさ』が、男子生徒たちへ致命傷だった。
「…………」
「…………」
前列男子が固まる。
次の瞬間。
「うおおおおおおおおおお!!」
ホールが爆発した。
「今のヤバいだろ!!」
「反則だって!!」
「一之瀬ぇぇぇ!!」
網倉が思わず吹き出しそうになる。
姫野ですら少し目を丸くしていた。
一之瀬本人は、自分でも何をしたのか分かっていないような顔で、
耳まで真っ赤になっている。
「え、えっと……!」
だがその初々しい動揺すら、今の会場には完全にプラスだった。
網倉はそんな一之瀬を支えるように左右を駆け、
明るい表情でテンポ良くフォーメーションを繋いでいく。
姫野は派手ではない。
だが、一歩一歩を確実に合わせ、
少し気だるげな雰囲気すら独特の味になっていた。
サビへ入る直前、一之瀬が中央でくるりと回る。
ふわりと衣装が揺れ、照明がその姿を包み込む。
「一緒に盛り上がっていこうね!」
その言葉に合わせるように、客席から自然と手拍子が広がっていく。
一之瀬が前へ出る。
網倉が笑顔で合わせる。
姫野が一拍遅れず静かに続く。
三人の動きはどこまでも王道だった。
明るく。
楽しく。
親しみやすい。
それなのに、不思議なくらい目が離せなかった。
一之瀬の笑顔が会場全体を巻き込み、
観客たち自身がライブを作っているような空気が生まれていく。
クライマックス。
一之瀬が両手を大きく広げる。
網倉と姫野が左右でぴたりと揃う。
最後に三人が笑顔のまま客席へ手を振った瞬間、
ホール全体が温かな歓声と拍手へ包まれた。
一之瀬クラスは、完璧に王道をやり切った。
姫野は舞台袖へ戻ると、少し息を吐いた。
「……疲れた」
一之瀬が笑顔で近づく。
「姫野さん、すごく良かった!」
「抱きつかないで」
「ごめん!」
網倉が笑う。
「でも本当に良かったよ」
姫野は少しだけ視線を逸らす。
「……まあ、悪くはなかったかも」
一之瀬の笑顔がさらに明るくなった。
次は龍園クラス。
低いベース音が、腹の底を震わせるように響いた。
照明は青紫へ落ち、ステージ全体が夜のような暗さへ包まれる。
その中央へ、椎名ひよりが静かに歩き出した。
歓声を煽ることはしない。
大きく手を振ることもしない。
ただ、ゆっくりと視線を上げる。
それだけなのに、客席のざわめきが自然と止まっていく。
「――……」
ひよりの歌い出しは、囁くように静かだった。
柔らかい。
だが、その声には妙な引力がある。
まるで物語を読み聞かせるように、観客をゆっくりステージへ引き込んでいく。
その左右で、伊吹澪と西野武子が同時に動き出した。
伊吹のステップは鋭い。
踏み込む音が聞こえそうなほど強く、
切り裂くようなターンが暗い照明の中で映える。
腕を振る。
身体を捻る。
その一つ一つが無駄なく速い。
可愛らしく見せるダンスではない。
まるで戦闘の間合いを詰めるような動き。
だが、その危うさが逆に目を奪った。
西野は対照的だった。
派手に感情を爆発させることはない。
しかし、一定のリズムを崩さず、二人の間を繋ぐように動き続ける。
ひよりの静けさ。
伊吹の鋭さ。
その両極端を、西野が絶妙に支えていた。
サビへ入る。
照明が一瞬だけ赤く変わる。
伊吹が大きく前へ踏み込み、鋭く腕を振り抜く。
その背後で、ひよりが静かに歌声を重ねる。
激しいのに静か。
静かなのに熱い。
普通なら噛み合わないはずの空気が、
龍園クラスのステージでは奇妙な一体感になっていた。
客席には手拍子が少ない。
だが、誰一人として目を逸らしていない。
むしろ、息を呑みながら見入っている。
曲が進むにつれ、ひよりの声が少しずつ熱を帯びていく。
伊吹の動きはさらに鋭くなる。
西野がその二人を繋ぎ、ステージ全体のバランスを崩させない。
そして終盤。
三人が同時に前へ出た瞬間、会場全体の空気が一気に張り詰めた。
それはアイドルライブというより。
何か危うい熱狂へ、観客ごと引きずり込むようなステージだった。
そして、最後。
音が止まった。
普通ならここで決めポーズ。
笑顔。
手を振る。
だが、龍園クラスは違った。
ひよりがゆっくりと床へしゃがむ。
続いて伊吹。
そして西野。
三人が同時に膝を落とし、手に持っていたマイクを静かに床へ置いた。
コン。
小さな音がホールに響いた。
それだけだった。
三人は笑わない。
手も振らない。
ただ前を見る。
会場全体が、数秒間、完全に黙った。
誰も拍手しない。
誰も声を出さない。
その沈黙こそが、龍園の狙いだった。
ライブが終わったのではない。
何かを置いていった。
そんな錯覚。
次の瞬間。
遅れて、拍手が爆発した。
歓声というより、どよめきに近い。
だが、確かに強い反応だった。
伊吹は舞台袖へ戻るなり、龍園を睨んだ。
「本当に黙ったじゃない」
龍園は薄く笑った。
「だから言っただろ」
西野は息を吐く。
「思ったより効いたね」
ひよりも静かに微笑んだ。
「少し怖いくらいでした」
龍園は三人を見た。
「悪くねぇ」
伊吹は小さく笑った。
「それ、今日だけは褒め言葉として受け取っておくわ」
三番目は坂柳クラス。
ステージ中央には、一脚の椅子が置かれていた。
それだけで、客席がざわつく。
坂柳有栖がゆっくりと姿を現す。
神室真澄と森下藍が左右へ続く。
坂柳は椅子に座る。
動かない。
立ち上がらない。
その時点で、他クラスとは完全に違った。
静かなピアノの旋律が、ホール全体へゆっくりと広がっていく。
それはアイドルライブというより、舞台劇の幕開けに近かった。
照明は淡い金色。
ステージ中央には、一脚の椅子。
その上へ、坂柳有栖が静かに腰を下ろす。
歓声を煽ることもない。
手を振ることもない。
ただ、優雅に座る。
それだけで、会場の視線が自然と彼女へ集まっていく。
「――……」
坂柳が歌い始める。
声量は強くない。
むしろ穏やかで、静かな歌声。
だが、その一音一音が不思議なほど耳へ残った。
まるで会場全体を包み込むように、ゆっくりと空気を支配していく。
その左右で、神室と森下が動き始める。
神室の動きはしなやかだった。
鋭さではなく流れ。
坂柳を中心に円を描くように動き、視線を自然と中央へ誘導していく。
森下は独特だった。
一拍遅いようにも見える。
だが、その微妙な間が奇妙な余韻を生んでいる。
普通ならズレに見えるはずの動き。
それなのに、坂柳の静けさと重なることで、
まるで計算された演出のように成立していた。
坂柳は動かない。
だからこそ、神室と森下の動き全てが彼女を彩るための流れに見える。
まるでステージ中央に重力が存在するかのようだった。
サビへ入る。
照明がさらに坂柳へ集まる。
神室が大きくターンし、森下が静かにその後ろを流れる。
だが、観客の目は最後には必ず坂柳へ戻る。
動いていないはずなのに、一番目が離せない。
その異質さが、会場全体を飲み込んでいた。
坂柳が静かに視線を上げる。
ほんの小さな微笑み。
それだけで、客席の空気が変わる。
誰も騒がない。
誰も叫ばない。
ただ、息を呑んで見入っている。
曲の終盤。
神室と森下が左右へ静かに下がる。
照明は完全に坂柳一人へ集中した。
椅子へ座ったまま。
立ち上がらないまま。
坂柳は静かに最後のフレーズを歌い続ける。
その歌声は透明だった。
強く張り上げるわけではない。
感情を激しくぶつけるわけでもない。
それなのに。
一音ごとに、会場の奥深くへ染み込んでいく。
まるで静かな水面へ落ちた雫が、ゆっくり波紋を広げていくように。
ホール全体が、その声に呑まれていた。
誰も騒がない。
誰も叫ばない。
ただ、息をすることすら忘れたように、坂柳有栖という存在を見つめている。
客席前列の女子生徒の一人が、小さく目元を押さえた。
「……やば」
その隣では、男子生徒が呆然と立ち尽くしている。
さらに後方。
感極まったように涙を拭っている生徒までいた。
「なんで……」
「なんで泣いてんだ俺……」
自分でも理由が分からない。
ただ坂柳の歌声には、人の感情を静かに揺らす力があった。
坂柳は静かに最後のフレーズを歌い切る。
そして最後に、そっと胸元へ手を添えた。
まるで一つの舞台が静かに幕を下ろすように。
会場には、美しい余韻だけが残っていた。
その直後、拍手が起きた。
大きな拍手だった。
熱狂ではない。
だが、深く印象に残る拍手。
坂柳クラスは、美しさと異質さで会場を支配した。
舞台袖へ戻った神室は、少し疲れた顔で言う。
「……悔しいけど、かなり良かったと思う」
坂柳は微笑む。
「ありがとうございます」
森下は真顔で言った。
「椅子が勝ちました」
神室が即座に返す。
「坂柳が勝ったのよ」
坂柳は楽しそうに笑った。
そして最後。
堀北クラスの番が来た。
会場の空気は既に熱を持っている。
一之瀬の王道。
龍園の沈黙。
坂柳の静止。
どれも強かった。
並のステージでは埋もれる。
舞台袖で、軽井沢は深く息を吸った。
「……ヤバいね」
堀北も静かに頷く。
「ええ。どのクラスも想像以上だったわ」
茶柱は二人を見る。
「怖気づいたか?」
軽井沢は首を振った。
「まさか」
堀北も顔を上げる。
「ここまで来て、逃げる理由はありません」
茶柱は小さく頷いた。
「なら行くぞ」
綾小路は三人の前に立つ。
「最後に確認する」
軽井沢が苦笑する。
「まだ分析?」
「いや」
綾小路は三人を見る。
「観客の予想を裏切れ」
堀北が静かに目を細める。
軽井沢が笑う。
茶柱は腕を組んだ。
「随分と雑な指示だな」
「必要なことは全部やりました」
綾小路は言う。
「後は、本番で見せるだけです」
櫛田が三人へ向かって笑った。
「いってらっしゃい」
軽井沢が手を振る。
堀北は頷く。
茶柱は短く言った。
「行ってくる」
照明が落ちる。
客席がざわめく。
堀北クラス。
櫛田の怪我により、担任教師を投入した異例のチーム。
噂だけが先行していた。
茶柱先生が出るらしい。
ピンク衣装らしい。
堀北がアイドルをやるらしい。
軽井沢は似合いそう。
綾小路が裏で何かしているらしい。
会場中が、期待と疑念を混ぜてステージを見つめていた。
最初に現れたのは、堀北鈴音と軽井沢恵だった。
二人の姿を見た瞬間、客席がざわつく。
ピンク衣装。
堀北が。
あの堀北鈴音が、王道のピンク系アイドル衣装を着ている。
その衝撃は大きかった。
だが、笑いは起きなかった。
堀北が顔を上げていたからだ。
恥ずかしさで逃げるのではなく。
誤魔化すのでもなく。
ステージの中央に立ち、観客を見る。
軽井沢が隣で華やかに手を振る。
「みんな、今日は見ていってね!」
歓声が上がる。
軽井沢は自然だった。
可愛く見せることに迷いがない。
だが、その隣の堀北が、今日は違った。
硬い。
だが逃げていない。
その真剣さが、逆に目を引いた。
曲が始まる。
明るく、少し大人っぽさも混ぜたメロディ。
堀北と軽井沢が動き出す。
前半は二人。
軽井沢が観客を引き込み、堀北が中央で成長した姿を見せる。
堀北の笑顔は完璧ではない。
けれど、作り物だけではなかった。
これまでの練習。
失敗。
腹立たしさ。
悔しさ。
それでも逃げずに積み上げたもの。
それが、表情に出ていた。
客席から声が上がる。
「堀北さん、すごい!」
「軽井沢かわいい!」
「本当にアイドルしてる!」
堀北の耳にも届いた。
一瞬、動きが硬くなりかける。
だが、軽井沢が隣で小さく言った。
「見せるんでしょ」
堀北は息を吸う。
そして、前を向いた。
中盤。
曲調が変わる。
照明が少し落ちる。
会場がざわめく。
来る。
誰もがそう感じた。
ステージ後方。
そこに、茶柱佐枝が現れた。
淡いピンクの衣装。
フリル。
リボン。
だが、立っているのは茶柱佐枝。
会場が一瞬、完全に止まった。
その沈黙は、龍園クラスの時とは違う。
驚き。
困惑。
そして、理解が追いつかない空白。
茶柱は動じなかった。
むしろ、その沈黙を受け止めるように、ゆっくりと一歩前へ出た。
ピンク色の威圧感。
その言葉が、これほど似合う存在はない。
軽井沢は笑いそうになるのを必死にこらえた。
堀北も表情が揺れた。
だが、茶柱の視線が二人を締める。
崩れるな。
そう言われた気がした。
茶柱が中央へ立つ。
その瞬間、ステージの空気が変わった。
若さだけではない。
可愛さだけでもない。
大人が本気で、しかも逃げずにピンクの衣装を着て、アイドルの舞台へ立っている。
その異常さ。
その覚悟。
そのギャップ。
すべてが観客の視線を奪った。
客席のどこかから、最初の歓声が上がった。
「茶柱先生ー!」
それをきっかけに、会場が爆発した。
笑いではない。
冷やかしでもない。
純粋な歓声。
茶柱はほんのわずかに眉を動かしたが、すぐに表情を戻す。
そして、歌い始めた。
低く、落ち着いた声。
堀北と軽井沢の明るさとは違う。
だが、その声が入った瞬間、曲に深みが出た。
軽井沢が華やかに動く。
堀北が中央へ戻る。
茶柱が後方から支える。
三人のバランスは、普通ではない。
だが、強かった。
あまりにも印象に残る。
堀北は曲の終盤で前へ出る。
本来なら、最も不安だった場面。
観客を見る。
逃げない。
見られているのではなく、見せる。
その時、客席に座る櫛田が見えた。
櫛田は笑っていた。
自分の代わりに立つ三人を見て、心から応援していた。
堀北の表情が、自然に緩んだ。
笑顔。
今までで一番自然な笑顔だった。
軽井沢が横で目を丸くする。
茶柱も気づく。
綾小路も舞台袖で静かに見ていた。
その瞬間、堀北クラスのステージは完成した。
最後のサビ。
照明が一気に開き、ステージ全体が淡いピンク色の光へ包まれる。
中央には堀北。
最初は笑顔すらぎこちなかった少女が、今は真正面から観客を見つめていた。
その左右で、軽井沢が華やかに舞う。
髪を揺らし、笑顔を振りまき、会場の熱をさらに押し上げていく。
そして後方。
茶柱佐枝が静かに立つ。
派手に動かない。
だが、その存在感だけでステージ全体へ一本の芯が通っていた。
若さ。
華やかさ。
大人の威厳。
本来なら交わるはずのない三人が、今だけは完全に一つの景色になっている。
それはまるで、一夜限りの伝説そのものだった。
曲が終わる。
三人が最後のポーズを取る。
一瞬の静寂。
そして。
校内ホールが、大きな拍手と歓声に包まれた。
軽井沢は息を切らしながら、小さく呟いた。
「……やった?」
堀北は前を見たまま答えた。
「分からないわ」
茶柱は静かに言った。
「少なくとも、やり切った」
その言葉に、堀北は小さく頷いた。
舞台袖に戻ると、櫛田が待っていた。
「すごかった……本当にすごかったよ!」
軽井沢が笑う。
「櫛田さんの分までやったよ」
櫛田は頷いた。
「うん。ちゃんと届いた」
堀北は少しだけ視線を逸らす。
「あなたがいなければ、ここまで来られなかったわ」
櫛田の目が揺れた。
「堀北さん……」
茶柱は二人を見て、静かに息を吐いた。
「まだ結果は出ていない。気を抜くな」
軽井沢が笑う。
「先生、そこでそれ言うんですか」
「当然だ」
綾小路が近づく。
「良いステージだった」
堀北が見る。
「あなたが素直に褒めると不気味ね」
「そうか」
軽井沢が言う。
「でも今日は褒められていいよね?」
「ああ」
綾小路は頷いた。
「全員、想定以上だった」
茶柱が目を細める。
「私もか」
「はい」
「変な記録は残していないだろうな」
「残しています」
「イレイザーしろ」
「善処します」
軽井沢が吹き出した。
堀北も少し笑った。
櫛田も笑った。
茶柱は呆れたようにため息を吐いた。
だが、その表情は少しだけ柔らかかった。
全てのステージが終わった。
一之瀬クラスは王道で会場を明るくした。
龍園クラスは沈黙で記憶を奪った。
坂柳クラスは静止で空気を支配した。
堀北クラスは、異質なギャップと成長で会場を沸かせた。
どのクラスも強かった。
どのクラスも、本気だった。
結果発表は、この後すぐ。
校内ホールの熱は、まだ冷めていない。
そして誰もが、次の瞬間を待っていた。
このアイドル特別試験を制するのは、どのクラスなのか。
その答えは、まもなく告げられる。
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