アイドル特別試験に向けた本格的なレッスンは、
試験発表から三日目の放課後に始まった。
場所は校内の多目的室。
普段は軽い運動や発表練習に使われるその部屋には、
大きな鏡と音響設備が備えられており、
今回の試験において各クラスへ時間割で割り当てられていた。
堀北クラスが使用できるのは、放課後の二時間。
それを聞いた軽井沢恵は、
最初こそ「二時間ならまあ何とかなるかも」と楽観的な顔をしていた。
だが、部屋へ入って十秒後、その考えは間違いだったと悟ることになる。
多目的室の中央には、綾小路清隆が立っていた。
その横にはホワイトボード。
そこに書かれていたのは、今日のメニューだった。
『柔軟』
『基礎ステップ』
『発声』
『笑顔維持』
『視線移動』
『立ち位置確認』
『通し練習』
『反省会』
軽井沢は無言でホワイトボードを見上げた。
それから、ゆっくりと綾小路を見る。
「……ねえ」
「何だ」
「これ、二時間でやる量?」
「無駄を省けば可能だ」
「無駄って何?」
「休憩時間だ」
「最低!」
堀北鈴音は腕を組み、冷静にメニューを眺めていた。
「内容としては妥当ね」
軽井沢が信じられないものを見る目を向ける。
「堀北さん、正気?」
「短期間で仕上げる以上、基礎を詰め込む必要があるでしょう」
「いやそうだけど!そうなんだけど!」
櫛田桔梗は苦笑しながら二人の間に入る。
「まあまあ、最初から全部完璧にできるわけじゃないし、まずはやってみようよ」
その言葉だけを聞けば、櫛田はまさに王道のアイドル候補だった。
明るく、前向きで、周囲を安心させる。
だが、綾小路はそんな櫛田にも容赦しない。
「櫛田」
「うん?」
「その笑顔は練習開始前としては良い。
ただし疲労が出た後も維持できるか確認する」
「えっと……うん、頑張るね」
「では始める」
綾小路が音響機器を操作し、リズムだけの単調な音を流した。
まずは柔軟。
堀北は姿勢良く、淡々とこなしていく。
軽井沢は最初こそ余裕を見せていたが、
意外と硬い部分を指摘され、すぐに不満そうな顔になった。
櫛田は柔らかく、動きも滑らかだった。
だが、綾小路はその三人をじっと観察している。
その視線に軽井沢が顔をしかめた。
「ちょっと、そんな見ないでよ」
「動きを確認している」
「分かってるけど、なんか嫌」
「客席からはもっと見られる」
「それ言われると急に現実味出るからやめて」
堀北が静かに言う。
「軽井沢さん、あなたは観客から見られることには慣れているのでは?」
「見られるのと観察されるのは違うの!」
「同じでは?」
「違う!」
綾小路はメモを取る。
「軽井沢は監視されると集中が乱れる」
「書くな!」
柔軟の次は基礎ステップだった。
最初は単純な左右移動。
音に合わせて一歩ずつ足を動かし、最後にポーズを決める。
それだけなら簡単に思える。
少なくとも、軽井沢はそう思っていた。
だが、三十分後。
彼女は壁際で膝に手をついていた。
「……きつい」
「まだ基礎だ」
綾小路は淡々と言う。
「その基礎がきついの!」
「アイドルって、見た目より体力勝負なんだね」
櫛田も額にうっすら汗を浮かべながら言った。
それでも笑顔は崩していない。
堀北は息こそ乱れているが、動きはまだ安定していた。
「ステップ自体は難しくないわ。ただ、笑顔を維持しながらとなると話が変わる」
「そこが課題だ」
綾小路は頷く。
「踊るだけなら運動能力の問題だ。
だがアイドルは踊りながら、観客に余裕があるように見せる必要がある」
軽井沢が顔を上げる。
「だから汗も掻かないって言ったじゃん」
「掻いている」
「言わないでぇ!」
「今の問題は汗ではなく表情だ。疲れた時に顔が露骨に曇る」
「だって疲れてるもん!」
「観客には関係ない」
「鬼!」
堀北が小さく息を吐く。
「綾小路くんの言い方には問題があるけれど、指摘自体は正しいわ」
「堀北さんまで鬼側に行かないで!」
櫛田が苦笑する。
「でも、恵ちゃんは表情が豊かだから、逆にそこを上手く使えたら強いと思うよ」
軽井沢は少しだけ黙った。
「……櫛田さんって、そういうフォロー上手いよね」
「そうかな?」
「うん。綾小路くんとは大違い」
「オレもフォローはしている」
「どこが?」
「改善点を出している」
「それはフォローじゃなくて添削!」
練習は続いた。
発声練習では、堀北が最初に躓いた。
声は通る。
滑舌も良い。
だが、どうしても命令口調に聞こえる。
「もっと柔らかく」
綾小路が言う。
堀北は眉を寄せる。
「柔らかく?」
「ああ。観客へ語りかけるように」
堀北は深呼吸した。
そして、ぎこちなく言う。
「み、みんな……今日は来てくれて……ありがとう」
沈黙。
軽井沢が口を押さえる。
櫛田が視線を逸らす。
綾小路はメモを取った。
「堀北、今のは不審者に人質を解放するよう説得しているように聞こえた」
「そこまで?」
「そこまでだ」
軽井沢が耐えきれず吹き出した。
「ごめん、今のはちょっと分かる!」
「軽井沢さん?」
「だって、みんなの部分に距離感ありすぎるんだもん!」
堀北は顔を赤くするわけではなかった。
ただ、静かに怒りを溜めているようだった。
「綾小路くん」
「何だ」
「見本を見せなさい」
「オレが?」
「人に言うだけなら誰でもできるわ」
軽井沢が目を輝かせる。
「あ、それ見たい!」
櫛田も笑顔で手を合わせる。
「綾小路くんのアイドル挨拶?」
「いや、それは必要ない」
「必要あるわ」
堀北は即答した。
追い詰められた綾小路は、少しだけ考えた。
それから、無表情のまま前へ出る。
「みんな、今日は来てくれてありがとう」
教室が凍った。
声は低い。
抑揚もない。
感情もない。
だが、妙に堂々としている。
軽井沢が真顔で言った。
「怖い」
櫛田が困ったように笑う。
「えっと……秘密組織の発表みたいだったかな」
堀北は勝ち誇ったように言う。
「あなたも人のことを言えないじゃない」
綾小路は静かに頷いた。
「オレは出演者ではない」
「逃げたわね」
「適材適所だ」
軽井沢は腹を抱えて笑った。
「駄目だ、プロデューサーが一番アイドル向いてない!」
「だから裏方をやっている」
妙に納得できる言葉だった。
その頃、龍園クラスも別室で練習を始めていた。
龍園翔は多目的室の端に座り、腕を組んで三人を見ている。
ひより、伊吹、西野。
三人は並んで立っていたが、その温度差は明らかだった。
椎名ひよりは穏やかに微笑み、伊吹澪は不機嫌を全身で表現し、
西野武子は落ち着いた様子で前を見ている。
「まず基本の立ち位置だ」
龍園が低く言う。
「ひよりが中心。伊吹が左。西野が右」
伊吹が即座に反応する。
「なんで私が中心じゃないの?」
「お前が中心だと会場が天下一武道会になる」
「どういう意味よ」
「観客が応援じゃなくて防御姿勢に入る」
西野が少しだけ笑った。
伊吹が睨む。
「西野、今笑った?」
「少し」
「正直ね」
ひよりが困ったように微笑む。
「私は中心で大丈夫でしょうか?」
「お前は立ってるだけで空気が柔らかくなる」
龍園は淡々と言う。
「そこに伊吹の動きを入れる。西野は崩れない。三人で妙な安定感を作る」
「褒めてるのか雑なのか分からないわね」
西野が言う。
「勝てばどっちでもいい」
龍園は音楽を流した。
龍園クラスの曲はまだ仮のものだったが、低音が強く、リズムがはっきりしている。
ひよりはゆっくりと動き、伊吹はキレのあるステップを踏み、
西野は大きく崩れず合わせていく。
意外にも、形になっていた。
ただし、アイドルらしいかと言われると微妙だった。
伊吹の目つきが鋭すぎる。
西野は落ち着きすぎている。
ひよりだけが癒しだった。
龍園はしばらく眺めてから言った。
「悪くねぇ」
伊吹が息を整えながら言う。
「どこが?」
「観客は忘れねぇだろ」
「悪い意味で?」
「印象に残れば勝ちだ」
「それ本当にアイドルの考え方?」
龍園はわずかに口元を歪めた。
「綺麗にまとまるだけなら一之瀬に勝てねぇ。だったら違うやり方でいく」
ひよりが小さく頷く。
「龍園くんは、いつも勝ち方を考えていますね」
「当然だ」
伊吹はため息をついた。
「嫌な当然ね」
同じ頃、坂柳クラスではさらに独特な練習が行われていた。
坂柳有栖は椅子へ座ったまま、神室真澄と森下藍の動きを見ている。
神室は明らかに面倒そうにステップを踏み、
森下は妙に真剣な顔でぎこちなく動いていた。
「神室さん」
坂柳が静かに言う。
「何」
「嫌そうな表情はそのままで構いません」
神室が止まった。
「は?」
「無理に楽しそうにする必要はありません。その気だるさもまた個性です」
「それ、私に努力するなって言ってる?」
「いいえ。嫌々ながらも逃げない姿勢を見せてください」
「どんなアイドルなのよ」
森下が真顔で口を挟む。
「反抗期アイドルですか」
神室が森下を見る。
「黙ってて」
坂柳は楽しそうに微笑む。
「悪くありませんね」
「採用しないで」
森下はステップを再開する。
だが、三拍目でなぜか逆方向へ動いた。
神室が思わず止まる。
「森下、そっちじゃない」
「こちらに何かある気がしました」
「何もない」
「直感です」
「アイドルの振付に直感を混ぜないで」
坂柳は微笑む。
「森下さんは予測不能性がありますね」
「褒められていますか?」
「ええ」
神室は頭を抱える。
「このクラス、誰か止めて……」
机の上には、相変わらず牛乳が置かれていた。
普通の牛乳。
苺牛乳。
コーヒー牛乳。
森下がそれらを指差す。
「練習後は補給しましょう」
神室はため息をつく。
「本当に飲む流れなの?」
坂柳は苺牛乳を手に取った。
「悪くありません。甘いものは疲労回復にも役立ちます」
「意外と楽しんでない?」
「ふふ。何事も経験です」
神室は自分が最も常識人側に回っていることに気づき、少しだけ絶望した。
一之瀬クラスの練習は、4クラスの中で最も正統派だった。
一之瀬帆波は明るく声を出し、網倉麻子がそれを支え、
姫野ユキが少し離れた場所で練習している。
ただし、姫野の表情は一貫して虚無だった。
「姫野さん、もう少し笑ってみようか」
一之瀬が優しく言う。
姫野は無表情で答える。
「笑ってる」
「えっと……もう少しだけ」
「これ以上は有料」
網倉が吹き出した。
「姫野さん、それ本番で言ったら逆に人気出るかも」
「出なくていい」
一之瀬は苦笑する。
「でも、姫野さんの落ち着いた感じ、私は好きだよ」
姫野は少しだけ目を逸らした。
「そういうこと言うから断りづらいんだよね」
「ごめんね?」
「謝らなくていい」
一之瀬の笑顔は強かった。
無理に押しつけず、それでも相手を前へ向かせる。
その空気は、確かに王道アイドルに近かった。
網倉がリズムに合わせて手を叩く。
「帆波ちゃん、今のステップすごく良かったよ」
「本当?」
「うん。見てて元気出る」
一之瀬は嬉しそうに笑う。
「ありがとう。みんなで楽しいステージにしようね」
姫野は小さく呟いた。
「眩しい……浄化されそう」
「え?」
「何でもない」
一之瀬クラスは派手ではない。
だが、確実に人を惹きつける空気があった。
綾小路が最も警戒するのも当然だった。
堀北クラスの練習は後半に入っていた。
今度は三人で簡単な動きを合わせる。
右へ一歩。
左へ一歩。
手を上げる。
視線を客席へ向ける。
最後に笑顔。
たったそれだけ。
しかし、三人で揃えるとなると難しかった。
堀北は動きが正確すぎて硬い。
軽井沢は表情は良いが、時々リズムより早く動く。
櫛田は安定しているが、二人に合わせようとしすぎて個性が薄くなる。
綾小路は一度音楽を止めた。
「堀北、正確さを少し崩していい」
「正確さを崩す?」
「今は綺麗すぎて機械的だ。少し余裕を見せろ」
「難しい注文ね」
「軽井沢は勢いで先に行きすぎる」
「うっ」
「櫛田は二人を気にしすぎている。もっと前に出ていい」
櫛田は小さく頷く。
「分かった」
軽井沢が息を吐く。
「ねえ、アイドルってこんな難しいの?」
「難しい」
綾小路は即答した。
「人前で簡単そうに見せる仕事ほど難しい」
その言葉に、三人は少しだけ黙った。
これまでアイドルという言葉には、どこか軽い響きがあった。
歌って踊って笑う。
それだけのように思えていた。
だが実際にやってみると、そんな単純なものではない。
足を動かす。
手を伸ばす。
声を出す。
笑う。
観客を意識する。
その全てを同時に成立させなければならない。
堀北は鏡に映る自分を見た。
硬い表情。
不自然な笑顔。
普段なら絶対に見せない姿。
「……情けないわね」
小さな呟きだった。
綾小路はそれを聞いていた。
「最初からできる必要はない」
堀北が振り向く。
「あなたにしては珍しく慰めるのね」
「事実だ。最初から完成していたら、成長を見せる余地がない」
「結局それなのね」
「だが本当にそうだ」
軽井沢が両手を腰に当てる。
「まあ、堀北さんがどんどんアイドルっぽくなっていったら、確かに面白いかも」
「面白がらないで」
櫛田も微笑む。
「一緒に頑張ろう、堀北さん」
堀北は二人を見た。
軽井沢は軽い調子。
櫛田は柔らかい笑顔。
普段なら、素直に頷く相手ではない。
だが今は、同じ舞台に立つ仲間でもあった。
「……ええ」
その返事は小さかったが、確かに前向きだった。
練習終了後。
三人は完全に疲れ切っていた。
軽井沢は床に座り込み、櫛田は壁にもたれ、
堀北ですら息を整えるのに時間がかかっている。
綾小路だけが平然とメモをまとめていた。
軽井沢が恨めしそうに見る。
「なんでアンタだけ疲れてないの?」
「オレは踊っていない」
「ずるい」
「プロデューサーだからな」
「その単語、便利に使いすぎ」
堀北は水を飲み、静かに言った。
「今日だけで分かったわ」
「何がだ」
「この試験、見た目以上に厄介ね」
「ああ」
「でも、勝てない試験ではない」
綾小路は頷く。
「その通りだ」
櫛田が笑う。
「明日も頑張ろうね」
軽井沢は大げさにため息をついた。
「明日もこれやるのかぁ……」
「明日は今日より増える」
綾小路が言う。
軽井沢の顔が固まった。
「……は?」
「今日確認した弱点をもとに、メニューを修正する」
「悪化してない?」
「改善だ」
「言い方!」
堀北は呆れながらも、少しだけ笑った。
本当にほんの少しだけ。
けれど、鏡の中に映ったその表情は、昨日よりも少し柔らかかった。
綾小路はそれを見逃さず、メモに短く書き加える。
『堀北――笑顔の兆候あり』
堀北がそれに気づく。
「何を書いたの?」
「秘密だ」
「見せなさい」
「プロデューサー用の資料だ」
「都合のいい言葉ね」
軽井沢が立ち上がりながら言った。
「まあ、でもさ」
三人の視線が向く。
軽井沢は少し照れくさそうに髪を整えた。
「ちょっとだけ、アイドルっぽかったんじゃない?あたしたち」
櫛田が笑顔で頷く。
「うん。少しだけね」
堀北は一瞬黙り、それから静かに答えた。
「少しだけなら、認めてもいいわ」
その言葉に、軽井沢は満足げに笑った。
まだ何も完成していない。
歌もダンスも表情も、未熟なままだ。
それでも、堀北クラスの三人は確かに最初の一歩を踏み出した。
しかし同時に、他クラスもまた、それぞれの異常な方向へ進み始めている。
王道の一之瀬。
美と違和感の坂柳。
熱狂と支配の龍園。
そして、理論と成長の堀北クラス。
アイドル特別試験は、まだ始まったばかりだった。
だがその時点で既に、この試験が普通のライブで
終わるはずがないことだけは、誰の目にも明らかだった。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。