アイドル特別試験開始から四日目。
堀北クラスの空気は、既に妙な方向へ完成し始めていた。
多目的室の鏡前。
軽井沢恵は床へ座り込み、完全に死んだ目をしている。
「もう無理……」
その横で櫛田桔梗が苦笑した。
「まだ開始三十分だよ?」
「三十分で人間ってここまで疲れるの?」
「それは恵ちゃんが最初に全力出しすぎたからじゃないかな……」
軽井沢は床へ突っ伏した。
「だってアイドルって最初のインパクト大事じゃん……」
「だからって最初から全力疾走する必要はない」
綾小路清隆は淡々と言った。
「ライブは短距離走じゃなく持久戦だ。前半で崩れれば後半の印象が死ぬ」
「アンタ、最近ライブを戦場か何かだと思ってない?」
「近いものはある」
「怖いって!」
堀北鈴音は壁際で水を飲みながら、静かに息を整えていた。
数日前と比べれば、動きはかなり安定してきている。
ステップの精度。
視線移動。
立ち姿。
どれも急速に改善されていた。
ただし。
「堀北」
「何」
「笑顔」
「……やっているわ」
「やっているが硬い」
「あなた、本当にそれしか言わないわね」
軽井沢が顔を上げる。
「でもちょっと分かるかも」
「あなたまで?」
「なんか最近の堀北さん、頑張って笑ってる感すごいんだもん」
櫛田が慌ててフォローへ入る。
「でも、前よりずっと柔らかくなってるよ!」
「そうかしら」
「うん。最初は本当に怖かったし」
「櫛田さん?」
「ご、ごめんね?」
堀北は小さくため息を吐いた。
自分でも分かっている。
表情が不自然なのだ。
笑おうと意識すればするほど、逆にぎこちなくなる。
綾小路は腕を組みながら三人を見る。
「今日は通しを増やす」
軽井沢の顔が死んだ。
「増やす?」
「本番を想定して曲を最後まで流す」
「待って、まだ基礎段階じゃないの!?」
「基礎だけでは本番に間に合わない」
「ブラック企業!ここブラック芸能事務所!」
「うるさい。始めるぞ」
音楽が流れる。
仮曲とはいえ、テンポはかなり速い。
軽快なリズム。
大きな動き。
短い間隔で変わる立ち位置。
そして何より厄介なのが、笑顔を維持しろという綾小路の指示だった。
一分後。
軽井沢の笑顔が消えた。
「はい軽井沢、今死んだ」
「分かってる!」
「観客はもっと分かる」
「だからって言い方!」
櫛田はまだ笑顔を保っていた。
だが額には汗が浮いている。
堀北は真顔だった。
「堀北」
「分かってるわよ」
「まだ何も言っていない」
「どうせ笑顔でしょう!」
「正解だ」
軽井沢が吹き出しそうになる。
「ちょっと待って、会話だけ聞くと地獄なんだけど」
綾小路は音楽を止めた。
「今の問題点を整理する」
軽井沢が床へ崩れ落ちる。
「休憩!」
「三分だ」
「短い!」
「本番中に休憩はない」
「アイドルってもっと夢ある職業じゃないの!?」
櫛田が壁にもたれながら笑う。
「でも、ちょっとずつ揃ってきてる気はするよ」
その言葉通りだった。
最初はバラバラだった三人の動きも、少しずつ形になり始めている。
堀北の正確さ。
軽井沢の華やかさ。
櫛田の安定感。
まだ未完成だが、それぞれの役割が見え始めていた。
綾小路はメモを取る。
『堀北――表情改善継続』
『軽井沢――体力不足』
『櫛田――安定。ただし突出不足』
軽井沢がそれを見る。
「ねえ、毎回私たちを分析対象みたいに書くのやめてくれない?」
「必要だからだ」
「最近アンタのノート見てると怖いんだけど」
「現状把握は重要だ」
「気持ち悪いわね」
「絶対アイドルプロデューサー向いてないって……」
だが、綾小路の分析は的確だった。
実際、三人とも短期間で成長している。
特に堀北の吸収速度は異常だった。
「次は視線練習だ」
「まだあるの……」
軽井沢が絶望した顔をする。
「観客を見ろ。ただし一人だけを見るな。全体を包むように視線を流せ」
堀北が眉をひそめる。
「難しい注文ね」
「だが必要だ。アイドルは、自分を見てもらうだけじゃなく、相手へ見られていると思わせる仕事でもある」
軽井沢が顔をしかめた。
「時々アンタの言うこと妙に深いのよね……」
櫛田が鏡へ向き直る。
「じゃあ、みんなを見てる感じかな」
「近い」
櫛田は自然だった。
目線が柔らかい。
空気が和らぐ。
男子生徒数人が思わず見入ってしまう程度には完成度が高い。
綾小路は頷く。
「そこは強みだ」
「ありがとう」
「だがやはり印象が綺麗にまとまりすぎている」
「またそれ?」
櫛田が苦笑する。
堀北が呆れたように言う。
「あなた、本当に褒め方を知らないのね」
「必要以上に甘くしても意味がない」
「そういうところよ」
軽井沢が鏡へ向かう。
そして軽く手を振った。
「みんなー!」
男子たちが少しざわつく。
「おお……」
「なんかそれっぽい」
軽井沢は得意げだった。
「どう?」
「良い」
綾小路が即答する。
「自然に観客へ意識を向けられている」
「でしょ?」
「ただしテンションが少し軽すぎる」
「褒めた後に毎回刺すのやめない?」
「改善点だからな」
最後は堀北だった。
彼女は静かに前へ出る。
視線を上げる。
そして。
「……みんな」
ぎこちない。
だが、最初よりは明らかに柔らかい。
軽井沢が目を丸くした。
「あ」
櫛田も笑顔になる。
「堀北さん、今ちょっと良かった!」
堀北が一瞬止まる。
「……本当?」
「本当だ」
綾小路も頷いた。
「今のは悪くない」
堀北は少しだけ黙った。
その直後。
「じゃあもう一回だ」
「厳しいわね!」
軽井沢がツッコむ。
その頃。
龍園クラスでは、完全に別方向の練習が進んでいた。
龍園翔は椅子へ座ったまま、三人の動きを見ている。
伊吹澪は不機嫌そうにステップを踏み、西野武子は淡々と動き、
椎名ひよりが中央で柔らかく歌っていた。
奇妙な構図だった。
だが、不思議と目を引く。
龍園が低く言う。
「悪くねぇ」
伊吹が息を整えながら睨む。
「本当にそう思ってる?」
「ああ。お前の不機嫌そうな顔が逆に目立つ」
「褒めてないでしょ」
「個性だ」
西野が少し笑う。
「龍園って、時々発想おかしいよね」
「勝てりゃ何でもいい」
龍園はひよりを見る。
「お前はそのままでいい」
「そのままですか?」
「空気を柔らかくしろ。伊吹と西野がどうしても圧になる」
伊吹が不満そうに言う。
「私そんな怖い?」
三秒沈黙した。
「何でそこで黙るのよ!」
ひよりが困ったように笑う。
「でも、伊吹さんの動きは本当に綺麗ですよ」
「……そう?」
「はい。キレがあります」
伊吹は少しだけ視線を逸らした。
龍園はその様子を見ながら口元を歪める。
「ククッ……」
軽い笑み。
だが声は静かだった。
「悪くねぇ空気だ」
龍園クラスは、決して王道ではない。
だが、妙な中毒性があった。
一方、坂柳クラスはさらに異質だった。
多目的室中央。
そこには一脚の椅子が置かれている。
神室真澄はその椅子を見て顔をしかめた。
「……何これ」
坂柳有栖が優雅に微笑む。
「センターです」
「椅子が?」
「私が座ります」
神室が止まった。
「は?」
森下藍が真顔で頷く。
「坂柳有栖は運動が苦手です」
「知ってるわよ」
「なので動かない方向へ進化します」
「ポケモンみたいに言わないで」
坂柳は楽しそうだった。
「無理に踊る必要はありません。ならば、動かないことを演出へ変えればいい」
神室は少し考える。
「……なるほど」
「観客全員が激しく動くアイドルを想像しているなら、
逆に動かないセンターは印象へ残ります」
森下が椅子を見つめる。
「王座みたいですね」
「いい表現です」
坂柳は静かに椅子へ腰掛けた。
スポットライト役の照明が落ちる。
神室と森下が左右へ立つ。
そして、坂柳が静かに歌い始めた。
その瞬間。
空気が変わった。
激しい動きはない。
派手なパフォーマンスもない。
それでも視線が自然と中央へ吸い寄せられる。
神室が小さく呟く。
「……うわ」
森下も珍しく真顔だった。
「特別感があります」
坂柳は微笑む。
「アイドルとは、特別であることですから」
神室は腕を組む。
「なんか悔しいけど、これは強いかも」
「でしょう?」
坂柳クラスは、美と異質さへ全振りしていた。
その頃、一之瀬クラスでは。
「もう一回いくよ!」
一之瀬帆波の明るい声が響いていた。
網倉麻子が笑顔で合わせ、姫野ユキは少し疲れた顔をしながらも動きを続けている。
王道だった。
とにかく王道。
見ていて安心する。
だが、それが逆に強い。
姫野が息を吐く。
「一之瀬さん、元気ありすぎ……」
「えへへ、ごめんね?」
「謝りながら笑顔なのズルい」
網倉が笑う。
「でも、帆波がいると空気明るくなるよね」
姫野は小さく頷いた。
「……まあ、それは分かる」
一之瀬は嬉しそうに笑う。
「ありがとう!」
その笑顔だけで、空気が少し軽くなる。
綾小路が警戒する理由がよく分かる空気だった。
夜。
堀北クラスの練習は終了していた。
軽井沢は床へ倒れ込み、櫛田は壁にもたれ、堀北ですら肩で息をしている。
綾小路だけが平然と資料を整理していた。
軽井沢が恨めしそうに見る。
「なんでアンタだけ元気なの?」
「踊っていないからな」
「ずるい」
「役割分担だ」
堀北は水を飲みながら鏡を見る。
今日の自分。
まだ未熟だ。
笑顔も不自然。
動きも完璧ではない。
だが数日前より、確実にアイドルらしくなっている。
それが少し悔しかった。
「……変な気分ね」
「何がだ」
綾小路が聞く。
「最初はこんな試験、馬鹿馬鹿しいと思っていたのに」
「今は違うのか」
堀北は少し考える。
「まだ馬鹿馬鹿しい部分はあるわ」
軽井沢が笑う。
「そこは否定しないんだ」
「でも」
堀北は鏡へ映る三人を見る。
「負けたくないとは思っている」
櫛田が笑顔で頷く。
「うん。私も」
軽井沢は大げさにため息を吐いた。
「はぁ……こうやって青春っぽくなっていくのかぁ……」
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど疲れる!」
綾小路はその様子を見ながら、静かにメモを書き込んだ。
『連携向上』
『堀北の変化あり』
『軽井沢の空気作り有効』
『櫛田は依然安定』
そして最後に、短く一行。
『他クラスも予想以上に強い』
龍園。
坂柳。
一之瀬。
どのクラスも、単なる余興として処理していない。
本気で勝ちに来ている。
だからこそ、この試験は面白くなりつつあった。
ただ、この時点ではまだ、誰も知らない。
数日後。
このバランスが、大きく崩れることになるということを。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。