アイドル特別試験開始から六日目。
その日の堀北クラスの空気は、昨日までと少し違っていた。
練習が始まる前から、
綾小路清隆はいつもより慎重に三人の様子を見ていた。
堀北鈴音は普段通り、静かに準備運動をしている。
軽井沢恵はいつものように文句を言いながらも、鏡の前で髪を整えていた。
櫛田桔梗は笑顔で二人に声をかけている。
一見すれば、何も変わらない。
だが、綾小路は昨日の違和感を覚えていた。
最後のターン。
着地の揺れ。
一瞬だけ崩れた櫛田の足元。
それが単なる疲労だったのか、別の兆候だったのか。
今日の練習で確認する必要があった。
「今日は最初に足元の確認をする」
綾小路が言うと、軽井沢が目を丸くした。
「え、発声じゃないの?」
「ああ。昨日の疲労が残っているかを見る」
堀北が櫛田を見る。
「櫛田さん、足は本当に大丈夫?」
櫛田はいつものように笑った。
「うん。大丈夫だよ。昨日はちょっとバランス崩しただけだから」
「無理はしない方がいいわ」
「ありがとう。でも本当に平気」
その笑顔は自然だった。
少なくとも、周囲にはそう見えた。
だが綾小路は、自然すぎる笑顔ほど見極めが難しいことを知っている。
「違和感があればすぐ言ってくれ」
「うん」
櫛田は頷いた。
軽井沢が腰に手を当てる。
「まあ、怪我したら元も子もないしね」
「珍しくまともね」
堀北が言う。
「珍しくって何よ!」
「いつもは汗も掻かないとか言っているから」
「それはアイドルとしての理想!」
「現実も見なさい」
「現実を見るアイドルなんて嫌!」
櫛田がくすくす笑う。
その笑い声に、ほんの少しだけ空気が和らいだ。
練習はいつもより軽いステップから始まった。
右へ一歩。
左へ一歩。
手を上げる。
振り返る。
ターン。
昨日より負荷は低い。
綾小路はあえて曲のテンポを落とした。
まずは確認。
問題がなければ、徐々に上げればいい。
最初の五分。
異常はなかった。
櫛田の動きは安定している。
軽井沢は相変わらず表情の切り替えが上手い。
堀北は笑顔こそまだ硬いが、動きはかなり柔らかくなってきている。
「堀北、今の入りは良かった」
綾小路が言うと、堀北が少しだけ眉を動かした。
「本当?」
「ああ。視線が前より自然だった」
軽井沢がにやにや笑う。
「お、褒められてるじゃん」
「茶化さないで」
「堀北さん、最近ちょっとアイドルっぽくなってきたよね」
「その言葉を喜ぶべきか判断に迷うわ」
櫛田が優しく言う。
「私はすごく良いと思うよ」
堀北は少しだけ視線を逸らした。
「……ありがとう」
ほんのわずかな変化。
最初なら絶対に出なかった反応だった。
綾小路はその様子をメモする。
『堀北――観客意識向上』
『軽井沢――表情維持良好』
『櫛田――現時点では問題なし』
だが、問題なしと書いた直後だった。
「次、テンポを上げる」
音楽が切り替わる。
少し速いリズム。
本番に近い速度。
三人が立ち位置につく。
堀北中央。
軽井沢右。
櫛田左。
曲が始まる。
最初の入りは良い。
堀北の視線が前を捉える。
軽井沢が自然に手を振る。
櫛田が笑顔で合わせる。
三人の動きは、これまでで最も揃っていた。
須藤たちが見学しながら小さく声を漏らす。
「おお……」
「普通にすげぇ」
「なんか完成してきてね?」
確かに形になっていた。
このままいけば、本番までに十分戦える。
そう思わせる出来だった。
中盤。
立ち位置が入れ替わる。
軽井沢が前に出て、堀北が一歩下がる。
櫛田が横へ流れる。
ここも成功。
次にターン。
櫛田が回る。
着地。
その瞬間。
「っ……!」
櫛田の表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
次のステップへ入ろうとした足が、わずかに遅れる。
それでも櫛田は笑顔を戻そうとした。
だが、綾小路は即座に音楽を止めた。
「中止」
部屋に沈黙が落ちた。
軽井沢が振り向く。
「え?」
堀北も櫛田を見る。
「櫛田さん?」
櫛田は笑顔を作ろうとしていた。
「大丈夫、大丈夫。ちょっとだけ――」
言い終える前に、足元が崩れた。
堀北がすぐに支える。
軽井沢も駆け寄る。
「ちょっと、大丈夫!?」
櫛田は床へ座り込んだ。
顔には痛みが浮かんでいる。
それでも笑おうとしていた。
「ごめんね。ちょっと、ひねっちゃったかも」
綾小路はすぐにしゃがみ、足首の状態を確認する。
無理に触れず、様子を見るだけに留める。
軽井沢の顔が青くなる。
「え、これヤバいやつ?」
堀北は冷静に見ようとしているが、声には緊張が混じっていた。
「保健室へ行きましょう」
櫛田は首を振ろうとした。
「でも、練習が――」
「練習どころではないわ」
堀北の声は強かった。
「今無理をすれば、本番どころか日常生活にも響くわよ」
櫛田は黙った。
綾小路は立ち上がる。
「オレが保健室へ連絡する。須藤、手を貸してくれ」
「お、おう!」
須藤が慌てて駆け寄る。
櫛田は申し訳なさそうに笑う。
「ごめんね、みんな」
軽井沢が眉を寄せる。
「謝んないでよ。怪我したんだから」
「でも……」
堀北が櫛田の肩へ手を置く。
「櫛田さん。今は謝るより治すことを考えて」
その言葉に、櫛田は少しだけ目を伏せた。
「……うん」
保健室。
診断結果は、軽度の捻挫だった。
重傷ではない。
歩けないほどではない。
だが、激しいダンスはしばらく控えるべきだという判断だった。
本番まで残り八日。
完全に間に合わないわけではない。
しかし、無理をして悪化すれば終わり。
しかも本番で同じことが起きれば、堀北クラスのステージ全体が崩れる。
多目的室へ戻った頃には、空気はすっかり重くなっていた。
軽井沢は椅子に座り、腕を組んでいる。
堀北は壁にもたれ、静かに考え込んでいる。
綾小路はホワイトボードの前に立っていた。
櫛田は保健室で休んでいる。
その空席が、やけに大きく見えた。
「……どうするの?」
軽井沢が小さく聞いた。
「櫛田さんは無理をさせられないわ」
堀北が答える。
「でも、三人で出なきゃいけないんでしょ?」
「規定上は三名だ」
綾小路が言う。
「欠員のまま出場はできない」
軽井沢の顔がさらに曇る。
「じゃあ代役?」
「それが現実的だ」
「でも今から?」
軽井沢は声を荒げかけ、すぐに抑えた。
「今から一週間ちょっとで仕上げるなんて無理じゃない?」
堀北も頷く。
「簡単ではないわ。少なくとも、完全な初心者では厳しい」
「櫛田さんって、かなり大きかったんだね」
軽井沢の声には悔しさが混じっていた。
「笑顔とか、動きとか、空気とか。あの子がいるだけで安定してた」
堀北は黙る。
彼女も同じことを考えていた。
櫛田は、単に一人のメンバーではなかった。
堀北の硬さを和らげ、軽井沢の軽さを支え、全体の空気を整える役だった。
その存在が抜ける。
これは大きい。
綾小路はホワイトボードに現状を書き出す。
『本番まで八日』
『櫛田――激しい動き不可』
『三名出場必須』
『代役必要』
軽井沢が顔をしかめる。
「書くと絶望感増すんだけど」
「状況を明確にするためだ」
「分かってるけどさ」
堀北は静かに聞いた。
「候補は?」
「まず女子生徒から探すのが自然だ」
綾小路はクラス名簿を確認する。
「松下、佐藤、王」
軽井沢が首を傾げる。
「その辺ならやってくれるかもだけど……」
「問題は、残り八日で堀北と軽井沢の動きに合わせられるかだ」
堀北が続ける。
「櫛田さんの代わりに空気を整えられる人物が必要ね」
「そうだ」
綾小路は頷く。
「ただ歌って踊れるだけでは足りない」
「そんな都合のいい人いる?」
軽井沢がため息をつく。
教室は静まり返った。
その頃、他クラスでも櫛田の怪我の噂はすぐに広がっていた。
坂柳クラス。
神室真澄が廊下で聞いた情報を持ち帰ると、
坂柳有栖は椅子に座ったまま静かに目を細めた。
「櫛田さんが負傷、ですか」
「軽い捻挫らしいけど、ダンスは厳しいって」
神室は壁にもたれる。
「堀北クラス、結構痛いんじゃない?」
「ええ。櫛田さんは安定感の要でしたから」
森下藍が牛乳を飲みながら言う。
「足首は大事です」
神室が見る。
「急に普通のこと言うのね」
「足がなければ踊れません」
「それも普通ね」
坂柳は微笑んだ。
「ですが、綾小路くんなら何か手を打つでしょう」
神室が眉をひそめる。
「そんなに信用してるの?」
「信用というより、期待ですね」
坂柳は静かに言う。
「彼がこの状況をどう処理するのか。少し興味があります」
龍園クラス。
伊吹澪は噂を聞いて、少しだけ表情を変えた。
「櫛田が怪我?」
椎名ひよりが心配そうに頷く。
「大丈夫だといいですね」
西野武子も静かに言う。
「本番前に怪我はきついね」
龍園翔は椅子に座ったまま、低く笑った。
「……そうか」
伊吹が睨む。
「アンタ、笑ってる場合?」
「別に喜んじゃいねぇ」
龍園は静かに答える。
「ただ、こういう時に本性が出る」
「本性?」
「穴が空いた時、どう埋めるか。それでクラスの底が見える」
ひよりは少し寂しそうに言った。
「特別試験って、そういうところがありますね」
龍園は窓の外を見る。
「綾小路なら、普通の手は打たねぇだろうな」
一之瀬クラス。
一之瀬帆波は櫛田の怪我を聞くと、すぐに心配そうな顔になった。
「櫛田さん、大丈夫かな……」
網倉麻子も表情を曇らせる。
「軽い捻挫らしいけど、ダンスは難しいみたい」
姫野ユキは静かに言う。
「勝負だからって、怪我は嫌だね」
一之瀬は頷いた。
「うん。もし会えたら、お見舞いに行きたいな」
姫野は少しだけ一之瀬を見る。
「一之瀬さんは本当にそういうところ、真っ直ぐだよね」
「え?」
「何でもない」
その日の夕方。
堀北クラスでは、代役候補を検討する臨時会議が行われていた。
松下はスケジュール上、別の役割を引き受けている。
佐藤は軽井沢のサポートには向くが、ステージ中央の負荷には不安がある。
王は歌やダンスの経験が少ない。
誰も不適格というわけではない。
だが、櫛田の代わりとして即戦力になるかと言えば難しい。
「詰んでない?」
軽井沢が小さく言う。
「詰んではいない」
堀北が即座に否定する。
「でも厳しいのは事実よ」
「候補を広げる必要がある」
綾小路が言う。
堀北が眉をひそめる。
「広げる?」
「規定では、出場者は原則としてクラス関係者とされている。
だが、教員の協力は認められている」
軽井沢が首を傾げる。
「教員の協力って、指導とかじゃないの?」
「明確に出演禁止とは書かれていない」
堀北の表情が止まった。
「……待ちなさい」
「何だ」
「あなた、今とんでもないことを考えていない?」
軽井沢も嫌な予感を覚えた。
「え、まさか先生を出すとか言わないよね?」
綾小路は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
「待って待って待って!」
軽井沢が立ち上がる。
「先生って、誰!?まさか茶柱先生!?」
堀北は頭を押さえた。
「あり得ないわ」
「だが可能性はある」
「可能性という言葉で何でも通そうとしないで」
「茶柱先生は姿勢が良く、声も通る。身長もある。ステージ上の存在感は十分だ」
軽井沢が顔を引きつらせる。
「いや、スペック分析しないでよ!」
「それに、担任としてクラスの事情を理解している」
堀北は冷たく言った。
「最大の問題は、本人が絶対に了承しないことよ」
「そこは交渉する」
「誰が?」
綾小路は静かに言った。
「全員で」
軽井沢は椅子へ崩れ落ちた。
「終わった……私たち、ついに先生をアイドルにしようとしてる……」
堀北は額に手を当てたまま動かない。
「この学校に来てから色々なことがあったけれど、今が一番理解できないわ」
その時、多目的室の扉が開いた。
そこには茶柱佐枝が立っていた。
「まだ残っていたのか」
教室の空気が凍った。
茶柱は三人の顔を見る。
そして綾小路を見る。
「……何だ、その目は」
綾小路は静かに一歩前へ出た。
「茶柱先生」
「断る」
即答だった。
まだ何も言っていない。
軽井沢が小さく呟く。
「早っ」
堀北も思わず黙った。
綾小路は表情を変えない。
「まだ用件を言っていません」
「お前がその顔で近づいてくる時点で、ろくな話ではない」
茶柱は冷たく言い放つ。
「特別試験に関する相談です」
「断る」
「クラスの危機です」
「断る」
「櫛田が負傷しました」
茶柱の表情が少しだけ変わった。
「……それは聞いた」
「代役が必要です」
「生徒から選べ」
「即戦力が足りません」
茶柱は目を細める。
「まさかとは思うが」
綾小路は静かに言った。
「先生に、ステージへ立っていただきたい」
沈黙。
長い沈黙。
軽井沢は顔を覆った。
堀北は完全に目を逸らした。
茶柱はしばらく綾小路を見つめていた。
そして。
「お前は馬鹿なのか?」
その声は、これまでで一番低かった。
綾小路は淡々と答える。
「勝つための選択肢です」
「私は教師だ」
「教師の協力は認められています」
「そういう意味ではない」
「規定上は可能です」
「規定で人を殴るな」
軽井沢が小さく吹き出しそうになる。
堀北がそれを肘で止めた。
茶柱は深く息を吐いた。
「話にならん。私は帰る」
そう言って踵を返そうとする。
だが、その時。
堀北が口を開いた。
「先生」
茶柱が止まる。
堀北は少し迷った後、静かに頭を下げた。
「櫛田さんの怪我で、私たちはかなり厳しい状況にあります」
軽井沢も立ち上がる。
「私からもお願いします。先生、少しだけでも考えてくれませんか」
茶柱の背中がわずかに動いた。
櫛田の不在。
堀北と軽井沢の真剣な声。
茶柱は振り返らない。
それでも、完全には突き放さなかった。
「……明日までだ」
「先生?」
堀北が顔を上げる。
茶柱は低い声で言った。
「明日までに、私を納得させる理由を用意しろ」
そして今度こそ、多目的室を出て行った。
扉が閉まる。
沈黙。
軽井沢がぽつりと言った。
「……え、ワンチャンあるの?」
堀北は信じられないような顔をしていた。
「あるのかしら……」
綾小路はノートを開いた。
そして、新たな項目を書き込む。
『茶柱先生――交渉余地あり』
軽井沢がそれを見て叫んだ。
「もう候補者扱いしてる!」
堀北は深くため息を吐いた。
「本当に、どこへ向かっているのかしら。この試験は」
綾小路は静かに答える。
「勝利だ」
その言葉だけは、ぶれなかった。
櫛田の負傷によって生まれた空白。
その空白を埋めるために、
堀北クラスは最もあり得ない選択肢へ手を伸ばそうとしていた。
教師。
担任。
茶柱佐枝。
まだ誰も知らない。
その選択が、アイドル特別試験そのものの空気を変えてしまうことを。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。