翌日の放課後。
堀北クラスの教室には、
普段の特別試験前とはまったく違う種類の緊張感が漂っていた。
机を囲むように座っているのは、堀北鈴音、軽井沢恵、綾小路清隆。
そして、足首を固定された櫛田桔梗。
櫛田は大事を取って練習には参加できないが、教室には顔を出していた。
「本当にごめんね」
櫛田が申し訳なさそうに言う。
軽井沢はすぐに首を振った。
「だから謝らないでって。怪我なんだからしょうがないじゃん」
堀北も静かに頷く。
「今は治すことを優先しなさい」
「うん……ありがとう」
櫛田は笑った。
けれど、その笑顔はいつもより少し弱かった。
自分が抜けたことで、クラスに大きな穴が空いた。
それを誰より分かっているのは櫛田自身だった。
だからこそ、教室の空気も重い。
そして今日。 その空白を埋めるために、
彼らは一つの非常識な作戦へ踏み出そうとしていた。
軽井沢が机に突っ伏す。
「冷静に考えてさ」
「何よ」
堀北が聞く。
「担任の先生をアイドルにするって、どう考えてもおかしくない?」
「おかしいわ」
堀北は即答した。
「そこは否定しないのね」
「否定できる要素がないもの」
軽井沢は顔だけ上げて綾小路を見る。
「なのに、なんでその本人が一番冷静なの?」
綾小路は資料を見ながら答える。
「他に勝てる手段が少ないからだ」
「それで先生出す?」
「出せるなら」
「出せるなら、じゃないのよ」
堀北は腕を組む。
「現実的に見ても、茶柱先生が了承する可能性は低いわ」
「ああ」
「なら、説得材料が必要になる」
「用意している」
綾小路は一枚の紙を机へ置いた。
そこには、茶柱佐枝の起用理由が箇条書きでまとめられていた。
『身長・姿勢による舞台映え』
『教師としての威厳を逆に特別感へ変換』
『生徒とのギャップによる話題性』
『低音寄りの声質による差別化』
『クラスの危機に協力する物語性』
軽井沢がそれを読んで、顔を引きつらせる。
「めちゃくちゃ分析してる……」
櫛田も苦笑した。
「茶柱先生がこれ見たら怒らないかな?」
「怒るだろうな」
「分かってて使うの?」
「必要なら」
堀北は紙を手に取り、目を通した。
「内容は一応、筋が通っているわね」
「本気で言ってる?」
軽井沢が驚く。
「ええ。ただし、本人の感情を完全に無視している点を除けば」
「一番大事じゃん」
綾小路は表情を変えない。
「感情面は堀北と軽井沢に任せる」
「丸投げ!?」
「オレだけでは説得できない」
「自覚あったんだ」
堀北は静かにため息を吐く。
「確かに、あなた一人で交渉したら先生は即座に帰るでしょうね」
「昨日もほぼそうだった」
「誇らしげに言わないで」
その時、教室の扉が開いた。
茶柱佐枝が入ってくる。
いつものスーツ姿。 疲れたような表情。
だが、その目には明らかな警戒があった。
「……まだ諦めていなかったのか」
第一声がそれだった。
軽井沢が小声で呟く。
「開幕から拒否モード……」
茶柱は教卓へ立つと、腕を組んだ。
「昨日言ったな。私を納得させる理由を用意しろと」
「はい」
堀北が立ち上がる。
「私たちは、先生に協力していただきたいと考えています」
「だからなぜ私だ」
茶柱の声は低い。
「教師がアイドル衣装を着て、歌って踊る。
そんなものは教育現場の範囲を超えている」
「ですが、規定では教師の協力は禁止されていません」
綾小路が言う。
茶柱の視線が鋭くなる。
「お前は黙っていろ」
「はい」
綾小路は素直に黙った。
軽井沢が小さく吹き出しそうになったが、必死にこらえた。
堀北は続ける。
「櫛田さんが抜けたことで、私たちのチームは大きく崩れました。
代役は探しましたが、残り時間を考えると十分に仕上げるのは難しいです」
茶柱は櫛田へ視線を向ける。
櫛田は椅子に座ったまま、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、先生」
「お前が謝ることではない」
茶柱の声は少しだけ柔らかかった。
「怪我は仕方がない」
櫛田は目を伏せた。
そのやり取りを見て、堀北は一歩踏み込む。
「先生。私たちは本気です」
「それは見れば分かる」
「なら、力を貸してください」
茶柱はしばらく黙っていた。
そして、低く言う。
「堀北。お前は本当にそれでいいのか?」
「どういう意味ですか」
「担任をステージへ立たせる。普通に考えれば、笑いものになる可能性もある」
軽井沢が気まずそうに視線を逸らす。
茶柱は続ける。
「お前たち自身もそうだ。下手をすれば、クラス全体がネタ扱いされる」
堀北は少しだけ黙った。
だが、すぐに顔を上げる。
「それでも、勝てる可能性があるならやります」
茶柱の目が細くなる。
「随分と変わったな」
「変わったつもりはありません」
「最初なら、こんな馬鹿げた案に乗らなかったはずだ」
「今でも馬鹿げているとは思っています」
軽井沢が小声で言う。
「そこは言うんだ……」
堀北は続けた。
「ですが、この試験が馬鹿げているかどうかと、勝つべきかどうかは別です」
茶柱は黙った。
その言葉は、堀北らしかった。
軽井沢も立ち上がる。
「あの、先生」
「何だ」
「あたしも最初は、正直かなり嫌でした」
「だろうな」
「でも、やってみたら分かったんです。
思ったより難しくて、思ったより本気になっちゃって」
軽井沢は少し照れたように髪を触った。
「櫛田さんが抜けて、めちゃくちゃ不安です。でも、ここで諦めたくないんです」
茶柱は軽井沢を見る。
いつもの軽い態度ではない。
本当に悔しがっている目だった。
最後に、櫛田が口を開いた。
「先生」
茶柱が振り向く。
「私は出られなくなっちゃいました。
でも、みんながここまで頑張ってきたのを見てるので……
できれば、最後まで繋げてほしいです」
櫛田は笑おうとした。
けれど、少しだけ声が震えた。
「私の代わりなんて言い方は、先生に失礼かもしれません。でも……お願いします」
教室は静まり返った。
茶柱は目を閉じた。
長い沈黙。
その沈黙の中で、綾小路だけが冷静に茶柱を見ていた。
茶柱佐枝は情を完全に捨てられる人間ではない。
むしろ、生徒への思いを持っているからこそ、それを隠している。
だからこそ、今の言葉は届く。
茶柱はゆっくりと目を開けた。
「……一つ訊く」
「はい」
堀北が答える。
「お前たちは、私に何をやらせるつもりだ」
軽井沢の顔が明るくなる。
「それって――」
「まだ了承したわけではない」
即座に釘を刺される。
軽井沢は口を閉じた。
綾小路が紙を差し出す。
「先生の役割は、三人目のメンバーです。
ただし、櫛田の完全な代役ではありません。
堀北と軽井沢を支える大人の特別枠として起用します」
茶柱が紙を見る。
そして眉間に皺を寄せた。
「大人の特別枠?」
「はい」
「ふざけているのか」
「真剣です」
「だから余計に腹立たしい」
綾小路は続ける。
「先生は高校生二人とは異なる存在感を持っています。
無理に若いアイドルへ寄せるより、伝説感を出した方がいい」
軽井沢が小さく頷く。
「それはちょっと分かるかも」
堀北も慎重に言う。
「先生には、私たちにはない雰囲気があります」
茶柱は頭を押さえた。
「お前たちは私を何だと思っている」
「担任です」
綾小路が答える。
「そして現時点で、最も勝率を上げられる候補です」
「候補と言うな」
櫛田が控えめに言う。
「でも先生、スタイルもいいですし、舞台映えすると思います」
茶柱の表情が止まった。
軽井沢も乗る。
「そうそう。普通にかっこいいし、絶対目立ちますって」
「やめろ」
「いや本当に!」
「やめろと言っている」
堀北は真面目な顔で頷く。
「客観的に見ても、先生の姿勢と声は強みになると思います」
「堀北まで……」
茶柱は疲れたように椅子へ座った。
「お前たち、私を褒めれば動くと思っていないか?」
「少しは」
綾小路が答えた。
「お前は本当に黙っていろ」
再び綾小路は黙った。
軽井沢は今度こそ笑いをこらえるのに失敗しそうだった。
茶柱は深く息を吐く。
「……仮にだ」
その一言で、全員の空気が変わる。
「仮に、私が協力するとして。私は歌も踊りも素人だ」
「それは問題ありません」
綾小路が即答する。
茶柱が睨む。
「なぜだ」
「残り時間を考えれば、先生に高度なダンスを求めるより、
存在感と歌、簡単な動きで構成した方が良いからです」
「私を動かさないつもりか」
「最小限にします」
「年寄り扱いするな」
「では効率的配置です」
「言い換えればいいと思うな」
軽井沢が小声で言う。
「でも先生、無理に踊るよりその方がカッコいいかも」
「……どういうことだ」
「なんか、ステージ中央で堂々としてる感じ。
若い子と同じことするより、大人の余裕みたいな」
茶柱は少しだけ黙った。
堀北も続ける。
「先生を無理に私たちへ合わせるのではなく、
先生がいることでステージ全体の印象を変える。
そういう方向なら、成立するかもしれません」
櫛田が笑う。
「先生が出てきたら、絶対みんな驚くと思います」
茶柱は目を閉じる。
「……驚くだろうな。悪い意味で」
「良い意味に変えます」
綾小路が言う。
「誰が?」
「全員で」
その言葉に、茶柱は静かに目を開けた。
しばらくしてから、低い声で言う。
「一週間だ」
教室が止まった。
軽井沢が恐る恐る訊く。
「え……?」
「一週間だけ付き合う」
その瞬間、軽井沢が立ち上がった。
「マジですか!?」
「騒ぐな。まだ条件がある」
茶柱は鋭い目で全員を見る。
「やるからには、半端な真似は許さん」
その声は教師のものだった。
だが、どこか違う。
教室の空気が変わる。
「堀北」
「はい」
「笑顔が硬い」
「先生まで……」
「軽井沢」
「はいっ」
「体力が足りない」
「うっ」
「櫛田」
「はい」
「今は治せ。無理に笑うな」
櫛田の表情が少しだけ揺れた。
茶柱は立ち上がる。
「綾小路」
「はい」
「妙な分析で私を怒らせるな」
「努力します」
「努力ではなく確約しろ」
「善処します」
「お前は本当に……」
茶柱はため息を吐いた。
だが、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。
放課後の多目的室。
茶柱は練習着に着替えて現れた。
いつものスーツではない。 動きやすい黒の上下。
それだけで、教室にいた生徒たちは少しざわついた。
軽井沢が小声で言う。
「……先生、普通にかっこよくない?」
堀北も否定しなかった。
「姿勢が綺麗ね」
櫛田は椅子に座ったまま、嬉しそうに見ている。
茶柱は鏡の前に立つ。
「最初に言っておく。私はアイドルなどやったことはない」
「はい」
「だが、舞台に立つ以上、手を抜くつもりはない」
その声には、妙な説得力があった。
綾小路が音楽を流す。
まずは簡単なリズム確認。
茶柱は一度だけ動きを見た。
そして、すぐに合わせた。
軽井沢の表情が変わる。
「え?」
堀北も目を見開く。
「……速い」
茶柱の動きは派手ではない。
だが、軸がぶれない。
一つ一つの所作が綺麗で、無駄が少ない。
手を上げる。
足を引く。
視線を向ける。
ただそれだけなのに、妙に絵になる。
綾小路は静かに目を細めた。
予想以上だった。
茶柱は音楽が止まると、息を乱すことなく言った。
「この程度なら問題ない」
軽井沢が口を開けた。
「先生、何者……?」
茶柱は少しだけ視線を逸らした。
「昔、少しだけな」
「昔?」
堀北が訊く。
茶柱は答えない。
代わりに、鏡へ向かって立ち位置を確認する。
その姿には、ただの教師ではない何かがあった。
軽井沢が半分冗談で言う。
「まさか先生、昔アイドルだったとか?」
茶柱はゆっくりと振り返った。
そして、真顔で言った。
「私は永遠の15歳だからな」
沈黙。
多目的室の空気が完全に止まった。
堀北は目を逸らした。
軽井沢は反応に困った。
櫛田は笑顔のまま固まった。
綾小路だけがメモを取った。
『茶柱先生――自己設定あり』
茶柱の眉が動く。
「綾小路、何を書いた」
「重要事項です」
「消せ」
軽井沢が耐えきれず吹き出した。
「先生、それ本気で言ってます?」
「何だその反応は」
「いや、ちょっと……想像以上に強い設定で……」
堀北が静かに言う。
「先生。永遠の15歳は、さすがに少々無理があるかと」
「堀北」
「はい」
「次の練習量を倍にする」
「発言を撤回します」
櫛田が笑った。
久しぶりに、無理のない笑顔だった。
その笑顔を見て、茶柱は一瞬だけ表情を緩める。
そしてすぐ、厳しい顔に戻った。
「笑っている場合ではない。今日から一週間、徹底的にやる」
「はい」
堀北が頷く。
「はいはい」
軽井沢も疲れたように返事をする。
「返事は一回だ」
「はい!」
茶柱の声が多目的室に響く。
「まず堀北。お前は動きより表情だ。鏡の前に立て」
「はい」
「軽井沢。お前は体力。ステップを繰り返せ」
「えっ」
「返事」
「はい……」
「綾小路。お前は曲と構成を修正しろ。私を入れるなら、今の流れでは合わない」
「分かりました」
指示が速い。
しかも的確だった。
綾小路はすぐに理解する。
茶柱はただ協力するだけではない。
完全に指導側にも回れる。
これは大きい。
軽井沢はステップを踏みながらぼやいた。
「なんか、プロデューサーが二人に増えた気がする……」
堀北は鏡の前で茶柱に笑顔を直されていた。
「堀北、口角だけ上げるな。目が笑っていない」
「難しいです」
「難しくてもやれ」
「はい」
「お前は真面目すぎる。観客を採点官だと思うな」
堀北は少しだけ黙った。
「観客を何だと思えばいいんですか」
茶柱は鏡越しに堀北を見る。
「味方にしろ」
その一言に、堀北は息を呑んだ。
「評価されると思うから硬くなる。味方にすると思え」
綾小路はその言葉を聞いて、静かにメモへ書き込んだ。
『茶柱先生――指導適性高い』
茶柱は振り返らずに言う。
「綾小路」
「はい」
「また何か書いたな」
「有益な記録です」
「後で確認する」
「分かりました」
軽井沢が小声で言う。
「完全に先生に主導権取られてるじゃん」
「問題ない」
綾小路は答えた。
「勝率は上がった」
茶柱佐枝。
担任。
教師。
そして、本人曰く永遠の15歳。
誰も予想しなかった形で、堀北クラスの三人目は決まった。
櫛田の負傷によって生まれた空白。 それは大きな損失だった。
だが同時に、堀北クラスはまったく別の武器を手に入れた。
若さではない。
可愛さだけでもない。
経験、威厳、違和感、そして圧倒的な存在感。
茶柱がステージに立つ。
その事実だけで、アイドル特別試験はさらにおかしな方向へ進み始めていた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。