スネージナヤにおける、
それらの定期メンテナンスや新開発に加え、執行官『傀儡』の身の回りの世話や彼女との共同作業など。
戦闘力なぞ皆無に等しい「あなた」だが、その技術開発筆頭のお付きとして裏方からスネージナヤの国益を支える頭脳労働。
それこそが、現在「あなた」が任されている重大な職務であった。
だが…今回下された任務の規模は、これまでの「本国でのデスクワーク」の域を遥かに超えていた。
「────以上が、今回の指令だ。…持てる知恵を尽くし、我が国にさらなる富と『変革の牙』をもたらすがいい」
───はっ!必ずや!
「あなた」は深々と頭を下げ、謁見の間を退出する。
手に握られた紙には、さきほど執行官統括「道化」から受け取った女皇陛下の紋章と共に『テイワット技術通商ロードマップ』の文字。
女皇陛下から言い渡されたのは、テイワットの殆どの国を巡る数ヶ月に及ぶ長期出張。
一般兵にも劣る「あなた」に、なぜこれほどの国家任務が下されたのか。
それはひとえに、執行官第七位「傀儡」───「あなた」の主人であるサンドローネの助手として彼女の技術を誰よりも理解し、支え続けてきたという実績があるからに他ならなかった。
───さて、これをどうやってあの主人に説明したものか……
廊下を歩きながら、じわりと顔に冷や汗がにじむのを感じる。
脳裏に思い浮かぶのは…自分を拾ってくれた大恩人であり、誰よりも我儘ばかりで、そして誰よりも不器用な「
自分がスネージナヤを離れると知った瞬間、彼女がどんな反応をするか……
想像するだけで胃がキリキリと痛むのを感じながら、「あなた」はいつもの研究室の重い扉を開ける。
そこには、案の定プロンニアの整備をしながら怪訝そうにこちらを見るサンドローネの姿。
「あら、遅かったじゃない。ただの定期報告に、なんでそんな時間がかかって──」
言いかけ、サンドローネの動きがピタリと止まる。
サンドローネの目に入ったのは、「あなた」の手にある女皇陛下の紋章が刻まれた『テイワット技術通商ロードマップ』と大きく書かれた紙。
そして、「あなた」のどこか申し訳なさそうな、けれど覚悟を決めた表情。
それだけで、天才たる彼女はすべてを察した。
「……それを、見せなさい」
奪い取るようにして書状を広げ、目を通していくサンドローネ。
稲妻、璃月、スメール、そしてフォンテーヌ…、テイワット中を巡る数ヶ月の長期出張。
指名された派遣人員の欄には、他でもない「あなた」の名前がはっきりと記されている。
読み進めるうちに、彼女の端整な顔がみるみると歪み、奥歯をギリ……と噛み締める音が静かな研究室に響いた。
「チッ、やってくれたわね……」
ぽつりと…掠れるような、しかし地獄の底から響くような低い声で彼女が呟く。
よく見ると、書状を持つ手が微かに震えているのがわかった。
───……?それは、どういう…
「あなた」が思わず首を傾げ、尋ねる。
すると彼女は一瞬ハッとしたように表情を切り替え、手元の書状をクシャリと握りつぶしそうになるのをグッと堪えながら、フイッと顔を背けた。
「……なんでもないわ。こっちの話よ」
───そうですか…?わかりました
「あなた」の返答を聞いてから、サンドローネは書状を持ったまま作業の手を止めてゆっくりとソファーまで移動し、どっかりと大きく座った後にはぁぁ……と非常に大きいため息を吐いた。
ファデュイにおいてのサンドローネは「女皇陛下の命令にさえ従えば、あとは好きにやっても問題ない」とよく口にしている。
実際、これまでも「あなた」を指名する他国への技術派遣や長期任務の打診は、いくつか存在していた。
しかし、その度にサンドローネは「そんなの、私の作ったマシナリーを数体送れば解決する話よね。「あなた」にはもっと大事な仕事があるんだから、余計に労力を取らないでちょうだい」と、自分の技術力と執行官の権限を
「あなた」を自分の手元から離したくない。
ただその一心で、彼女は裏でこっそりと「あなた」に気付かれないように、必死に手を回し続けていたのだ。
しかし、今回は勝手が違いすぎた。
これまでに一度もなかった、女皇陛下による直接の
更にそれを直接手渡して伝えてきたのは、執行官にとって上司にあたる総括の「道化」。
自身のスタンスを逆手に取られたかどうかはさておき…結果的にはそうなってしまった形だ。
更には直属の上司から言い渡された以上、この後どのような言い訳を並べてもどんな代替案を用意しようとも、一切通用しない。
まさに完璧なチェックメイトを仕掛けられたのだ。*1
「(陛下のご指名、かつ総括からの直々の命令……。断れば、私たちの立場も印象も悪くなる。
……本当に、いい性格しているわね…)」
ソファーに上体を預けながら悔しそうに、けれどこれ以上はどうしようもないと肩を落とすサンドローネ。
───すみません、サンドローネ。僕がもっと……力があって、交渉できるような人間だったら……
ひどく申し訳なさそうに頭を下げる「あなた」に、彼女は更に一つはぁ…と大きいため息をつく。
「……いいのよ、別に「あなた」を責めているわけじゃないわ。これは私の問題なのだから」
そう言って彼女はどこか寂しげに、けれどいつも通り傲然と「あなた」を指差した。
「むしろ、これから数ヶ月もの間私が淹れるコーヒーが飲めないことを、せいぜい出張中に後悔していなさい。
……それと、荷物の準備を手伝わせなさい。「あなた」のことだから、どうせ旅先で不便な目に遭うに決まっているもの。ふんっ、こんなに気配りができる主人に感謝する事ね!」
───! はい、ありがとうございます!
途中から恥ずかしくなったのか顔が少し赤くなっているのを誤魔化すようにそっぽを向いた主人に、「あなた」は満面の笑みで返事をする。
こうして、「あなた」の長期出張の準備が始まるのだった。
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「ねえ、ハンカチは大丈夫?ちゃんと持った?あと、船酔い対策の薬はあるかしら?稲妻へは船で行くんでしょ?」
───ええ、ちゃんとありますよ。このように
「それと、マシナリーはちゃんと動いているかしら?ちゃんと性能をスネージナヤの
───勿論ですよ。主人からのマシナリーを大事にしないわけがないでしょう?…というか、そんなに強くしたんですか?
「当然よ。なんせ「あなた」は自分で戦うことができないんだもの、このくらいは当然でしょう?」
───うぐっ…た、確かにそうですね…
痛いところを突かれ、「あなた」は少し引き攣る頬と共に苦笑いしながら頷く。
それでもまだ不安なのか、「あなた」のコートの襟元を不器用にも優しく直しながら、サンドローネは言葉を紡ぐ。
「…それに、食事はちゃんと摂るのよ。他国の料理が口に合わなくても、間違っても抜くのは健康的にも絶対にダメよ。」
───はい、わかりました。しっかり三食忘れずに摂りますね
出発当日。その早朝、スネージナヤの列車が着く
まだ日が差し始めようとしたばかりで静かなそこでは、甲斐甲斐しく荷物の確認を何度も繰り返すサンドローネと、優しくそれに答える「あなた」の姿があった。
前日までに荷造りに携わった上でしっかりそこでも確認を済ませたのにも関わらず、いざ出発というこの場でも再び確認をしようとする彼女の姿に「あなた」は疑問が浮かぶものの、きっと自身が非力なばかりに不安にさせてしまっていると考え一つ一つ丁寧に答えていった。
「……それから、」
まだ言葉を続けようと何か言う事を探す彼女の唇を、突如ホームに鳴り響いた甲高い汽笛の音にかき消された。
列車の発車を告げる、無情な合図だ。
───あ、もう時間ですね。…サンドローネ、行ってきます。留守中の研究室に、マシナリーたちの自動メンテラインを組んでありますから大丈夫です!
「ぁ……」
「あなた」が荷物を手に取り、一歩下がって頭を下げる。
すると、さっきまであれほど口酸っぱくあれこれ言っていた彼女が、小さく漏れた声の後に急に借りてきた猫のように静かになり、直していた襟元から名残惜しそうに手を離した。
「……ふん、わかってるわ。あんたがいない間、私が退屈して死ぬとでも思ったのかしら?自惚れてんじゃないわよ」
落ち着いたようにいつもの傲然とした態度を取り繕って胸を張り腕を組む彼女だったが──その瞳が、まるで迷子の子どものように酷く寂しげに揺れているのを、「あなた」は見逃さなかった。
───(っ…やっぱり、僕のせいでこんなに不安な思いにさせているんだ……)
自分が戦えないから、彼女は護衛のマシナリーを精鋭クラスにまで改造し、出発の瞬間まで心配を重ねなければならなかった。
主人にここまで余計な心労をかける助手など、助手失格だ。
───(出張中、時間を見つけてせめて構想は練ろう。……今度は僕の力で彼女を安心させられるような、そんな強い
心の中で静かに、けれど固い決意の炎を灯しながら、「あなた」は列車へと乗り込む。
大きな発車音と共に動き出した列車の車窓から見えなくなるまでずっと、スネージナヤの冷たい朝霧の中でこちらを静かに見つめ続けていた主人の姿を、その目にしっかりと焼き付けながら。
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……………
………
……
「……何か、いつもと違って物足りないわね…。何なのかしら…?」
出発の日から暫く後、研究室にて。
静まり返ったそこでサンドローネが自身で淹れたコーヒーを飲みながら書類に目を通していると、不意にそんな独り言が零れる。
いつもと同じ品質の良い豆を使い、同じ手順で淹れたはずなのに。
口の中に残るのは、酷く単調な苦味だけ。
最近はお茶の用意も何かと「あなた」に任せることが多かったため、自身で淹れたのは久々というのもあるのかもしれない。
そんな口の中に残る苦味を誤魔化すように、再び書類へと視線を落とした──そんな時だった。
「…ん?ねえ「あなた」、この書類なんだけど………、ぁ……」
ふと書類の不備を見つけ、咄嗟に声をあげたサンドローネ。
しかし、話しかけた相手がいないという事実を失念していたためその言葉は誰にも届かず、静かな部屋の中で虚しく霧散してしまった。
「………」
そうだ、「あなた」はまだ出張中なんだ。
頭では理解していたつもりではあったが…どうやら本当に理解していた
「……まだ、帰らないのかしら…」
コンコン。
「…?どうぞ」
そんな彼女のささやかな不満を遮るように、研究室の扉が控えめにノックされた。
返事をすると静かに扉が開かれ、自身の部下が封筒を持ちながら告げてきた。
「失礼致します、「傀儡」様。先程出張中の「あなた」様より、手紙が届きました」
入室してきた部下の言葉に、サンドローネは持っていたカップを少し乱暴にテーブルへと置くと、その端整な顔を一瞬で普段の執行官としてのそれへと切り替えた。
「そう、ご苦労様」
「…お忙しいようでしたら、この場で読み上げま「必要ない、そのくらいちゃんと自分で読むわ」…失礼いたしました、こちらです」
部下の言葉を無理矢理遮って即座に手紙を受け取った後、部下に退室するように無言のジェスチャーで促してから自身は封を丁寧に開ける。
中には綺麗に三つ折りにされた一枚の紙と一緒に、稲妻と璃月それぞれの特産物の一つである晶化骨髄と夜泊石がそれぞれ一つずつ添えられていた。
「あら、綺麗な石……っと、今はこっちね」
添えられていた特産物に目を輝かせたのも束の間、本来の目的を思い出したサンドローネは静かに切り替えて手紙を開いた。
『サンドローネ様、お元気ですか。稲妻での商談は無事成功しました!
道中、海乱鬼の連中に襲われかけましたが、主人のマシナリーが強すぎて一瞬で塵になりました。さすが我が主人とそのマシナリーです!お礼代わりにメンテナンスを普段より丁寧に行ってきました。
ここ璃月は凄いですね!貴重な石がこれでもかと沢山ありました!その中でもマシナリーの装甲に最適そうな夜泊石の最高級品を手に入れたので、少しですが送りますね。是非使ってみてください』
「ふんっ、私のマシナリーが強いのは当然よ。……ふふっ。でも、怪我がなさそうで良かったわ」
一度読んでから、添えられた夜泊石と晶化骨髄をまるで少しの衝撃で大破する割れ物の如く慎重かつ丁寧に研究室の一角に飾りつける。
そして席に戻ってから、自身が満足するまで手紙の内容を何度も読み返しては少し嬉しそうに頬を緩ませる可愛らしい主人の姿がそこにあった。
……………
………
……
それから暫く後。
主人が寂しさを隠しきれなくなってきた中、稲妻と璃月での任務を終えた「あなた」からの報告の手紙は、ついにテイワットの知恵の都──スメールの砂漠地帯から届くようになっていた。
コンコン。
ガタガタッ!
…コンコン。
「……え、ええ。どうぞ」
「…失礼いたします、「傀儡」様。現在スメールに滞在している「あなた」様より、第二信がとど──「ありがとう受け取っておくわ。今ちょっと忙しいからもう大丈夫よ」…か、かしこまりました。それでは失礼します」
一度目のノックの後に何か慌ただしいような音が室内から聞こえ、二度目の後に少し頬に朱がさした状態で部屋の主人が扉の前に姿を現し、報告を聞き終える前にまるで捲し立てるように告げてから手紙をひったくるように受け取る。
直後に、バタン!と部下の顔のすぐ目の前で勢いよく扉を閉め、鍵をかける。
「ふぅ……っ、あ、危なかった……」
誰もいなくなった室内で、サンドローネは大きく胸を撫で下ろした。
もう意味がないのに衣服の乱れがないかを軽く確認し、誰もいないはずなのにきょろきょろと周囲を見回してから、ようやく手元の手紙へと視線を落とす。
焦る心を落ち着かせるように一つ深呼吸をして、丁寧に封を切る。
中から出てきたのは、砂漠の細かい砂粒がほんの少しだけ紛れ込んだ手紙と遺跡ドレイクや遺跡重機と思わしき戦闘機械の駆動コアが合計三つ。
そして、見慣れた「あなた」の丁寧な文字だった。
『スメールの砂漠に到着しました。ここでは烈日と砂嵐に苦戦していますが、三食きちんと食べています。果実が意外と美味しいですよ!
また、マシナリーのおかげもあって遺跡の自律装置や守衛らしき機械から非常に興味深い
壊れやすいのもあったので全部は難しかったですが、頑丈そうなのを少し送りました。次は最終目的地のフォンテーヌへ向かいます』
「ふふっ…何それ、変なものに興味が行きすぎよ。ちゃんと仕事しているのかしら?……でも、本当にちゃんと食べているのね」
読みながら自身のではなく「あなた」のデスクに
そして「あなた」のデスクに力なく寝そべったまま、「あなた」が仕事の際に愛用しているペンを器用に指先でくるくると弄びながら、その状態のままでプロンニアに話しかける。
「ねえプロンニア。あいつったら、スメールで遺跡重機のコアを回収したらしいわ。しかも、それを興味深いですって。ふふっ、本当に困った助手よね……」
普段からはまるで想像もつかない様子でだらけながらもまるで自分の事のように嬉しそうに声色を明るくして話す主人に、プロンニアはまるで反応の仕方に困るように駆動音を出すだけだった。
……………
………
……
「(ひっ…!こ、
更に暫く後。
研究室の前に来た手紙を届けに来たサンドローネの部下は、研究室の前に着いた瞬間の扉から放たれる謎の虚無の感覚に驚愕の反応を見せる。
いつもやこれまでならマシナリーの軽快な駆動音やカチャカチャと金属の音などが響いているはずの場所から、今はまるで地獄の底のような重苦しい静寂と、外の雪とは別次元の凍り付くような冷気が這い出ていた。
「傀儡」の助手が長期出張に向かったという話を、実は直属の部下たちは知っている。
そのため原因自体は理解しているのだが、いかんせんそれによって起きる影響を測り切れていなかった。
その助手が不在になってからというもの、最初はそこまででもなかった
コンコン…。
「……入りなさい」
ノックしてから返ってきたのは、いつもの傲然さは微塵もなく、魂が抜け出ているような力ない主人の声。
恐る恐る扉を開けると、そこには自身のデスクに力なく突っ伏したまま、完全に抜け殻のようになっているサンドローネの姿があった。
本来人目があれば最低限でも何かしら取り繕うこともしていたはずの彼女の姿は、そこには一切なかったのだ。
「あ、あの……「傀儡」様。先程、フォンテーヌに出張中の「あなた」様より……手紙が届きました」
「あなた」の手紙。
その単語が鼓膜に届いた瞬間、死んだようだった主人の身体がビクッと跳ね上がる。
「……っ!、さっさと渡しなさい!!」
つい数秒前の様子からは考えられない程凄まじいキレと速度で奪い取られた封筒には、フォンテーヌ科学院の公式の刻印。
サンドローネは部下の存在など完全に視界どころか認識からすらも締め出し、もどかしそうに、けれど破かないように細心の注意を払って手紙を広げた。
これまでは必ずあったはずの、同梱されている何かしらの道具や特産物などが今回の手紙にはなかったが、最早そんな些細なことは今のサンドローネにとって何も関係がなかった。
『サンドローネ様、お元気ですか。
フォンテーヌでの任務と科学院との技術交流はすべて無事に完遂しました!
ただ、以前話されていた
ですが、これですべての指令は終わりです! 本日、スネージナヤ行きの
──例の手がかりは、未だになし。
本来なら落胆するはずの報告。
しかし、今のサンドローネの胸中を埋め尽くしたのは、そんなものを遥かに凌駕するほどの特大の衝撃と、跳ねるような歓喜だった。
「……ん?近日…?本日、乗り込む……?」
歓喜のまま再度読み直して、ふと思考が冷静になるサンドローネ。
手紙はすぐ送られてくるわけではなく、場合にもよるがどんなに早くても1~2日ほどのタイムラグが発生する。
その事実も踏まえて、彼女の脳内で付近の交通網の計算を瞬時に行い始める。
……つまり、早ければ明日か明後日に「あなた」はこの研究室に戻ってくる。
「やった…じゃなくて、ちょっと……噓でしょ!?」
ガタガタガタッ!!
さっきまでの虚無虚無オーラはどこへやら。
サンドローネは弾かれたように椅子を蹴立てて立ち上がると、部屋全体を急いで見渡す。
そこには物が散らかっているわけではないものの、小さい汚れや数日分の薄い埃、そして何より「あなた」が不在の間に稼働を止めていた使用していないマシナリーたちの、僅かな錆や調整不足が、天才である彼女の目には致命的な不完全として映り込んだ。
ごみ溜めのような惨状こそプライドが許さないため避けていたが、「あなた」がいない研究室は彼女にとって「手入れをする意味を失いかけていた空間」でしかなかったのだ。
「(あいつ、マシナリーの僅かな異音や埃に関しては私よりうるさいんだから……!こんな部屋、見せられるわけないじゃない!)」
サンドローネは頭を抱え、壁際で瞳に当たる部分の光を消し静かにスリープモードに入っていたプロンニアのもとへ向かうと、途端に怒鳴り散らした。
「ちょっとプロンニア!いつまで寝ているのよ!!あいつが、「あなた」が帰ってくるのよ!!」
主人の怒号と、鼓膜にあたるセンサーに叩き込まれた「あなた」の帰還というワード。
その瞬間、プロンニアの瞳にカチッ!と眩い光が灯り、まるで主人の焦りが伝播したかのように凄まじい駆動音を立てて超高速の
「プロンニアは部屋全体の空気の入れ替えと、「あなた」がいつも使っている工具一式の磨き直し!それから、コーヒーメーカーの完全な
プロンニアは両腕のギミックをカチャカチャと目まぐるしく変形させ、まるで戦場に赴くような緊張感で部屋の窓へと向かい始める。
「他のマシナリーたちも!さっさと清掃に入りなさい!!テーブルとデスクは私がやるわ!」
それまで停止していたりノロノロと動いていたマシナリーたちが新たな命令を聞いた瞬間、瞬時に切り替えて高速で行動を開始する。
完璧主義の主人による、怒涛のガチ洗浄命令。
それによって瞬く間に、部屋の雰囲気は騒がしくも熱気のある普段の姿が戻ってきたのだ。
「ひっ……!?」
そのあまりの温度差とドタバタ劇に部屋の隅で完全に空気と化していた部下が、小さく悲鳴を漏らした。
サンドローネはそこでようやく部下の存在を思い出し、顔を真っ赤にしたままこれみよがしに指を突きつける。
「……っ、あんたまだそこにいたの!?突っ立ってないで、暇なら倉庫からコーヒー豆とお茶菓子を持ってきなさい!「あなた」がいつ帰ってきてもいいように、完璧な状態で用意するのよ!!」
「は、はいっ!只今ーーーーっっ!!」
そう言ってビューン!!っと、怒鳴られた部下は脱兎のごとく研究室を飛び出していった。
バタンと扉の閉まる音を聞きながら、サンドローネ自身も「あなた」と自身のデスクを綺麗にするために拭き始めた。
忙しない中でも彼女の口元に浮かぶのは、どれだけ隠そうとしても溢れ出てしまう特大の、あるいは待ち焦がれた喜びの笑みだった。
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そして当日、「あなた」が帰ってくる日。
出発時と同じく人影のない、朝霧がうっすらと立ち込めて少し肌寒く息が白い、そんな
プロンニアを伴ったサンドローネは腕を組んだまま、冷たい足元をコツコツと苛立たしげに鳴らしていた。
あれから一睡もせずに部屋やマシナリーなどの全てを磨き上げそのまま駅へ駆けつけたせいで、僅かに目の下にクマが浮いている。
その脳裏には、「あなた」の顔を見た瞬間に叩きつけてやるための数々の文句が、山ほど用意されていた。
─遅すぎるのよバカ。
─私をどれだけ退屈させる気なのかしら。
─これに懲りたら二度と私の側を離れるんじゃないわよ。
まだまだたくさんあるが…それらを全て、そう傲然と言い放ってやるつもりだった。
ガタゴトと重い音を立てて、待望の列車がホームへとゆっくり停止する。
蒸気が吐き出され、開いた乗降口からマシナリーと共に──数ヶ月前と変わらない、けれど少しだけ旅慣れた風貌の「あなた」が、大きな荷物を抱えて姿を現した。
───あっ!
ホームに降り立ち、辺りを見回した際に主人を見つけて弾けたような満面の笑みを浮かべる「あなた」。
その瞬間───。
彼女の頭の中に先程まであったはずの、悶々とした憎まれ口や用意していた文句など言いたいことの全てが、文字通り綺麗さっぱりと吹き飛んだ。
「──あ、……」
気が付けば、腕を組んでいたことすら忘れてサンドローネは「あなた」のもとに駆け出していた。
───良かった、ただいま戻りました!サンドロー、ネ…うわっと!?
突然起きた自身の主人の猛突進に、「あなた」が驚きの声をあげる。
しかし彼女は止まらない、他人の目など最早どうでもよかった。
ホームに降り立ったばかりの「あなた」の胸へと、その小さな身体ごと強く、とても強く体当たりするように抱きついていた。
───さ、サンドローネ……?あの、ここ人目あるかもしれないんですし…何より僕、服に旅の汚れがついてて……
「……うるさい、黙りなさい」
慌てる「あなた」の言葉を遮り、サンドローネは「あなた」のコートの胸元へと深く、深く顔を埋める。
嬉しさや安堵などから溢れ出しそうになる涙を、「あなた」の胸の中に隠すようにして。
抱きしめる両腕にこれまで数ヶ月分の寂しさと愛おしさの全てを込めて、身体と共に微かに震える声で彼女は呟いた。
「…おかえりなさい、「あなた」」
押し当てられた胸元から伝わる主人の温もりと、言葉にできないほどの特大のデレに「あなた」は一瞬呆気に取られ──それからこれ以上ないほど優しい笑みを浮かべて、小さくも愛おしい主人の背中にそっと手を回すのだった。
「傀儡」→おかえりなさい、あなた
「あなた」→ただいま、サンドローネ
プロンニア→(後方保護者面)
アンケートの回答、本当にありがとうございました!
予想以上にイッテイイヨー!が多くてびっくりしているのが正直なところですw
いつになるかはわからないですが、ダメ!死刑!の票にも入ってるのを考慮して章を分けて出そうかなと思っております。
大まかなプロット以外全て未定ですが、暖かい目で見守ってくださると嬉しいです。