仮面ライダーダッシュ   作:山都撫子

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第1話「その脚、再びスタートラインへ」

 ――――西暦2022年

 

 スタジアムを埋め尽くした超満員の観客から放たれる大歓声が

 地鳴りのように地響きを立てている。

 

 カッと照り付ける真夏の太陽。陽炎が揺れる赤い全天候型トラック。

 

 世界陸上男子100m決勝。

 

 世界最高峰のスピードスターたちが一堂に会するスタートライン。

 

 その第4レーンに、18歳の速水(はやみ)(かける)がいた。

 

 胸には日の丸。ユニフォームの下でしなやかに躍動する筋肉。当時の彼は『10年に1人の天才』『日本陸上界の至宝』と称され、その若き輝きに日本中が熱狂していた。

 

On your marks(位置について)……』

 

 場内にアナウンスが響き渡ると、それまで地鳴りのようだった歓声が、水を打ったように静まり返る。駆は深く息を吐き出し、スターティングブロックに足をかけた。

 

 視線の先には、100m先のゴールテープだけがある。脳内には雑音ひとつない。ただ、自分の鼓動と、爆発を待つ筋肉の緊縮感だけ。

 

Set(用意)──』

 

 腰が上がる。静寂が極限まで張り詰める。

 

 ──パァン!!

 

 電子ピストルの号砲と同時に、駆の肉体が弾け飛んだ。

 

 完璧なスタートダッシュ。

 

 頭を下げたまま、爆発的なピッチで地面を捉え、1歩ごとに加速していく。30メートル、50メートル。頭が起き上がった時、駆はすでに他を圧倒していた。

 

 頭一つ抜け出し、トップを独走する。

 

(いける……! 届く……!)

 

 風を切る音が心地いい。自分の世界で、自分が一番速い。

 

 栄光のゴールテープは、もう目の前だった。

 

 あと30メートル。あと20メートル。

 

 だが、その瞬間だった。

 

 ──ブツン。

 

 駆の右足の足首から、脳を直接突き刺すような、生々しく不吉な断裂音が響いた。それは、彼が築き上げてきた世界の崩壊を告げる音だった。

 

「が、あぁぁぁぁっ!?」

 

 激痛。

 

 踏み込もうとした右足に力が入らず、地面がぐにゃりと歪む。

 

 バランスを失った駆の肉体は、時速40キロ近い猛スピードのまま、無残に赤土のトラックへと転がり落ちた。

 

 何度も、何度も激しく地面に叩きつけられ、滑る肉体。

 皮膚が擦れる痛みなど、右足首を襲う灼熱の激痛に比べれば無に等しかった。

 

 トラックに顔を伏せ、苦悶に喘ぎながら、駆は必死に右手を伸ばした。

 

 だが、その視界の端を、隣のレーンを走っていたライバルたちが、凄まじい風を巻き起こしながら次々と通り過ぎていく。

 

 ドン、ドン、ドン、とトラックを蹴る力強い足音が、駆の耳元を通り過ぎ、遠ざかっていく。

 

 誰も駆を見向きもしない。ただ、前だけを見て、彼を置いていく。

 

 電光掲示板に表示される勝者たちのタイム。湧き上がる歓声。

 

 しかし、それは駆に向けられたものではなかった。

 

 静まり返る日本人観客の視線。憐れみ、落胆、そして「終わったな」という無言の判決。

 

 トラックの冷たい感触の中で、駆は涙を流しながら、遠ざかる背中を見つめることしかできなかった。

 

(待ってくれ……置いていかないでくれ……!)

 

 声にならぬ絶望の叫びは、歓声にかき消されて消えた。

 あの日、速水駆の時間は、ゴール手前20メートルのトラックの上で、完全に停止した。

 

 ──時は流れ、2026年。

 

 世界は変わった。

 

 従来のオリンピックは廃止され、今や地球上で最も巨大な富と権力を生み出す国家対抗戦『World Athlete Rider Battle(WARB)』が、世界の中心に君臨していた。

 

『さあ!今夜も世界が熱狂するWARBの時間がやってまいりました!』

 

 大都会のビルの壁面を埋め尽くす巨大なホログラムスクリーンから、大音量の実況音声が街に降り注いでいる。横断歩道を埋め尽くす群衆のほとんどが足を止め、スマホやスクリーンを見上げて熱狂している。

 

 画面に映し出されているのは、巨大なドーム型スタジアム。

 

 そこで戦っているのは、もはや生身のアスリートではなかった。

 

 特殊なスーツと装甲を身に纏った戦士──アスリートライダーたちだ。

 

『ご覧ください! アメリカ代表、仮面ライダーブリッツの圧倒的な突進! ディフェンスに回ったライダーを文字通りタックル一本で粉砕したァーッ!!』

 

 画面の中の戦士こと仮面ライダーブリッツがド派手なポーズを決めると、上空を飛び交う無数のドローンカメラがフラッシュを浴びせる。

 

 画面の隅には視聴熱(オーディエンス・レート)のグラフがリアルタイムで乱高下し、さらにその下にはアメリカ企業の株価上昇を示す緑色の数値が目まぐるしくカウントアップされていく。

 

「すげえ……ブリッツ、また勝ったぞ!」

 

「今日のアメリカの経済効果、数百億ドル規模らしいぜ」

 

「日本代表は誰になるんだよ。早くまともな奴選んでくれよ、国債が下がるだろ」

 

 口々にそんな会話を交わしながら、熱狂に身を委ねる人々。

 

 現在のスポーツは、エンターテインメントであり、同時に国家の命運を握る経済戦争そのものだった。

 

 その熱狂の渦から逃れるように、フードを深く被った一人の青年が、足早に歩いていた。

 

 速水駆。今年で22歳になる。

 

 彼はかつての松葉杖を捨て、いまや普通のスポーツシューズを履いて歩いている。

 

 一見、怪我は完治しているように見える。だが、その歩調はどこか重く、無意識に右足をかばうような微かな違和感が混ざっていた。

 

 駆は一瞬だけ、街頭の巨大スクリーンを見上げた。

 

 画面の中では、華やかに勝ち名乗りを上げるアスリートライダーと、彼らを持て囃す世界が眩しく輝いている。

 

(WARB……世界最高峰のステージ。選ばれた天才たちの、神々の遊び)

 

 駆はふっと、自嘲気味に冷たい笑みを漏らした。

 

 かつてその『神々の領域』の入り口に立っていた男は、いまや世界の熱狂から完全に置いていかれた、ただの「観客」にすぎない。

 

 画面の中のブリッツの不敵な笑みが、まるで自分を冷笑しているように見えて、駆はすぐに視線を地面に落とした。

 

 ポケットの中で、駆の両拳が、爪が肉に食い込むほど強く握りしめられる。

 

「俺の脚は、もうあそこには届かない」

 

 呟いた声は、街を包むWARBの爆音にかき消された。

 

 心の中にあるのは、二度と立ち止まりたくないという強迫観念。しかし同時に、もう二度とあのスピードの世界へは戻れないという、冷酷な現実。

 

 駆はフードを目深に被り直し、自分の影を踏みつけるようにして、雑踏の中へと消えていった。

 

 

 夕暮れの光が差し込む、古びたロッカー室。

 

 壁に掛けられたカレンダーには、今日のデッドライン──『日本代表最終選考会・国内予選』の文字に赤い丸がつけられている。

 

 速水駆は、長椅子の端に腰掛け、静かにスパイクの紐を締めていた。

 

 かつて日本中を沸かせた日の丸のユニフォームではない。胸にあるのは、地方の小さな実業団のロゴだ。

 

「おい、聞いたか? 今日、国際オリンピア連盟(IOF)のスカウトが来てるらしいぞ」

 

「マジで? 誰を見に? やっぱり大同自動車の佐々木か?」

 

「だろうな。今シーズン無敗だし、ビジュアルもいいから中継映えする。間違っても……あの『ガラスの脚』を見に来たわけじゃないだろ」

 

 ロッカーの影から、チームメイトたちのひそひそ話が漏れ聞こえてくる。

 

 『ガラスの脚』──それが、4年前の大怪我以降、駆につけられた蔑称だった。

 

 どんなにリハビリを重ねても、かつての『神々の領域』に迫る加速は戻らない。そればかりか、スタートブロックに立つたびに襲ってくるトラウマのせいで、今や予選を通過することすらギリギリの終わった選手。

 

 駆は何も言わず、ただ黙々と紐を強く結んだ。

 

 指先が微かに震えているのは、冷気のせいではない。心臓の奥が、冷たい拒絶反応を起こしているのだ。

 

(これで、最後だ……)

 

 駆は心の中で呟いた。

 

 今日のレースで結果が出なければ、実業団からの契約は打ち切られる。自分でも分かっていた。もう、引き際なのだと。あの日失った栄光の影を追いかけて、惨めにトラックを這い回る毎日は、もう終わりにしなければならない。

 

 ロッカー室の古びたテレビからは、大音量でWARBのニュースが流れている。

 

『──続いてのニュースです。全米ナンバーワンQB、仮面ライダーブリッツことレックス・ジョーンズ選手が、本日も驚異的な市場効果を叩き出しました!』

 

 画面の中のレックスは、高級車のボンネットに腰掛け、群がる記者たちを見下ろして不敵に笑っている。

 

『プレッシャー? そんなものは、俺のスタッツを1ミリも下げやしないさ。日本の選手たちにも言っておいてくれよ。”壊れるのが怖いなら、最初からレースに出るな”ってね』

 

 傲慢極まるビッグマウス。

 だが、それを裏付ける圧倒的な強さと市場価値が彼にはあった。

 

 駆はテレビの画面を見つめ、自身の右足首にそっと触れた。皮膚の上からでも分かる、硬く引き連れたアキレス腱の手術痕。世界はあんなにも眩しく、そして残酷に回っている。

 

「速水、時間だ。招集がかかるぞ」

 

 マネージャーの声に、駆は小さく頷き、立ち上がった。

 

 これが、自分の陸上人生の最後のスタートラインになる。そう自分に言い聞かせて。

 

 夜間照明が、冷たい雨上がりのトラックを白々と照らし出している。

 

 国内最終予選。地方のスタジアムとはいえ、WARBへの切符がかかっている可能性のあるレースだ。観客席には、一縷の希望を抱いた陸上ファンや、スマホでWARBの動向を追う若者たちがそれなりに埋まっている。

 

「男子100m決勝、選手の入場です」

 

 アナウンスと共に、駆は第8レーンへと足を進めた。

 

 大歓声はない。かつて地鳴りのようなコールを浴びていた男への視線は、今や「まだ走っているのか」という冷ややかな好奇の目に変わっている。

 

 中央のレーンには、今をときめく実力派の若手選手たちが、自信に満ちた表情で並んでいる。彼らの目には、駆のことなど端から映っていない。

 

 駆は第8レーンのスタート位置に立った。

 

 スターティングブロックが、まるで底なしの沼のように見えた。

 

 足を踏み込もうとした瞬間、心臓が跳ね上がる。

 

 脳裏に、あの4年前の音がフラッシュバックする。一瞬にして全身から冷や汗が噴き出し、右足の膝がガクガクと震え始めた。息が、うまく吸えない。

 

(落ち着け……これは最後のレースだ。走るだけでいい。ただ、まっすぐ走るだけで……!)

 

 胸を強く叩き、無理やり恐怖を抑え込もうとする。だが、身体が言うことを聞かない。立ち止まりたい。逃げ出したい。そんな本能が、駆の肉体を縛り付ける。

 

『On your marks……』

 

 無情にも、開始の合図がかかる。

 

 駆は震える脚を、どうにかブロックへと押し当てた。視界が狭くなる。100メートル先のゴールが、果てしなく遠い異世界のように思えた。

 

『Set──』

 

 腰を上げる。競技場全体が、しんと静まり返る。

 

 その、誰もが息を呑んだ静寂の瞬間だった。

 

 スタジアムの電光掲示板の真上が、凄まじい爆音と共に爆散した。

 

 コンクリートの破片が雨のように降り注ぎ、観客席から悲鳴が上がる。

 

「な、なんだ!? 何が起きた!?」

 

 選手たちが一斉にスタート姿勢を崩し、パニックに陥る。

 

 もうもうと立ち込める黒煙を割って、スタジアムの中央へとゆっくりと降り立ってきたのは、人間の形を大きく歪めた「怪物」だった。

 

 全身が黒く煤けた鉄球のような、異常に肥大化した皮膚で覆われている。その右腕は、人間のそれではなく、巨大な砲丸がそのまま変形したような、悍ましい金属の塊と化していた。

 

 その胸部には、不気味に明滅する、歪んだ歯車のようなメダルが埋め込まれている。

 

「ファ、ファールだ……! 怪人が出たぞ!!」

 

 観客の誰かが叫んだ。

 

 華やかなWARBの裏で、才能の限界に絶望したアスリートたちが手を染めるという、禁断の闇ドーピング──その成れの果て。

 

「選考委員会……IOF……誰も彼も、俺を認めなかった……!」

 

 ファールは、鉄錆の擦れるような、呪詛に満ちた声で吠えた。

 

 その正体は、かつてこの競技場で落選し、表舞台から消えた元・砲丸投げの選手だった。

 

「俺の人生を狂わせた陸上なんて……この世から消えてなくなれぇぇぇっ!!」

 

 ファールが右腕の巨大な鉄球を天に掲げると、その周囲にエネルギーの砲丸が何十個も生成される。そしてそれを、無差別に、観客席やトラックへと向かって力任せに投げ放った。

 

 破壊の雨がスタジアムを蹂躙する。

 

 爆風が吹き荒れ、美しい赤土のトラックが無残に抉られていく。

 

 さっきまで駆の隣のレーンにいた選手たちも、スパイクを脱ぎ捨てる勢いで、一目散に出口へと逃げ惑う。

 

 駆もまた、逃げようとした。

 

 だが、身体が動かなかった。

 

 激しい爆音と、人々の悲鳴。そして、抉られていくトラックの光景が、4年前のあの日の絶望と完全に重なってしまったのだ。

 

(動け……動けよ、俺の脚……!)

 

 必死に右足に力を入れようとするが、足首の古傷が、まるで本物の鎖で縛られているかのように重く、1歩も前に進めない。駆はその場にへたり込み、ただ迫り来る破壊を恐怖の目で見つめることしかできなかった。

 

「ハハハハ! 逃げ惑え! 敗者の痛みを、お前たちも味わえ!」

 

 ファールは、逃げ遅れた審判員や選手を容赦なく吹き飛ばし、スタジアムの破壊を楽しんでいる。

 

 その時、スタジアムの全自動スピーカーから、ノイズ混じりの冷徹な電子音声が鳴り響いた。

 

『──警告。エリアJ-01に規定違反者(ファール)を確認。これより、国際オリンピア連盟(IOF)による、臨時の日本代表適性テストを開始します』

 

「何だと……!?」

 

 ファールが忌々しそうに空を見上げる。

 

 スタジアムの上空に、数機の高性能ドローンがどこからともなく飛来した。ドローンはファールの周囲を旋回しながら、その戦闘の様子を全世界へと生中継し始める。画面の向こうでは、この惨劇さえも『WARBのコンテンツ』として消費されようとしているのだ。

 

 と同時に、1つのドローンが重々しい一本のベルト──オリンピアドライバーをどこからともなく運び1人の男の前に重厚な金属音を立てて地面に転がった。そして、その横にピカピカと輝く一枚のスプリンターメダルもあった。

 

『──適合候補者を検索中。該当者、1名。速水駆。ドライバーを装着し、速やかに戦闘(プレイ)を開始してください』

 

 機械的な音声が、へたり込んでいる駆に向かって告げる。

 

「俺に……戦えって言うのか?」

 

 駆は信じられない思いで、目の前のベルトを見つめた。

 

 自分は走ることすらできなくなった、終わった選手だ。怪人と戦うなんて、そんな大役ができるわけがない。

 

「おい、お前……そこにいたのか」

 

 ファールのぎらつく赤い複眼が、恐怖に震える駆を捉えた。

 

「知っているぞ、速水駆。かつての天才スプリンター。お前も、俺と同じ『世界に捨てられた負け犬』だな……!」

 

 ファールは嘲笑いながら、駆へと歩を進める。その右腕に、一撃で人間を肉片に変えるであろう、巨大なエネルギー砲丸がチャージされていく。

 

「負け犬同士、仲良くここで消え失せろ!」

 

 ファールが右腕を振りかざす。

 

 その背後、避難通路の影で、逃げ遅れた一人の幼い少女が、恐怖で泣き叫びながら瓦礫によって意識を失った母親の体を揺さぶっているのが、駆の視界に入った。

 

(あの子も……置いていかれるのか)

 

 その光景を見た瞬間、駆の脳裏の奥底で、何かが激しく弾けた。

 

 トラックの上で倒れ、誰の背中も追えなくなったあの日の自分。

 

 世界から置いていかれ、暗闇の中で立ち止まることしか許されなかった、この4年間の屈辱。

 

(いやだ……)

 

 駆の瞳に、激しい、猛烈な「拒絶」の炎が灯る。

 

(もう、負け犬のままで終わるのはいやだ! 誰かの背中を、ただ見送るだけの人生なんて……真っ平御免だ!!!)

 

「俺は……二度と、立ち止まりたくない!!!」

 

 駆の絶叫が、スタジアムの爆音を切り裂いた。

 

 その瞬間、彼の胸の奥底──アキレス腱の断裂と共に凍りついていた『エゴ』の核が、凄まじい熱量を持って融解し、青白い精神エネルギーとなって体外へと噴き出した。

 

「な、何だ、この光は……!?」

 

 振り下ろされようとしていたファールの巨腕が、その光の圧力に押されて思わず止まる。

 

 地面に転がっていたスプリンターメダルが、駆の放つエネルギーを吸い上げ、まるで命を得たかのように宙へと浮かび上がった。メダルは激しく明滅し、かつて駆が夢見た『世界の頂点』を象徴するような、黄金と鮮烈なブルーの輝きを放ち始める。

 

 駆はもう、震えていなかった。

 

 その目は、迫り来る怪物の脅威ではなく、自分の目の前にある新たなスタートラインを真っ直ぐに見据えていた。

 

 泥臭くてもいい。終わった選手と嘲笑われてもいい。

 

 それでも俺は、もう一度、誰も追いつけないあのスピードの世界へ戻る。

 

 駆は地を這うように手を伸ばし、転がっていた重厚な金属のベルト──オリンピアドライバーを力強く掴み取った。

 

 バックルを腰へと押し当てると、自動的に強固な帯が伸び、カチャリと冷徹な音を立てて駆の身体に固定される。

 

《On your marks》

 

 中央のメダルスロットが開き、待機音が鳴り響く。

 

 駆は宙に舞うスプリンターメダルを右手で掴み取ると、躊躇なく、そのスロットへと叩き込んだ。

 

《Set》

 

「変身!!!」

 

 メダルを押し込み、ドライバーの右側にあるスターターレバーを強烈に引き絞る。

 

《START DASH!!!! Athlete Rider DAShhhh!!!!》

 

 スロットから爆発的な光の粒子が噴き出し、駆の足元へと流れ込んだ。地表を走る光は、瞬時にして一本の光のレーンをスタジアムの空間に形成する。

 

 駆はその光のトラックを蹴って、前方のファールへと向かって猛然と走り出した。

 

 1歩2歩と踏み出すたびに光の粒子が彼の肉体を包み込み、強固な装甲へと編み上げられていく。

 

 白色のアンダーアーマーに白銀と紅のアーマーが形成されていく。頭部を包むマスクは、流線型のヘルメットと、シャープな複眼バイザー。胸部には心臓を守るように配置された、金メダルを模した強固なチェストガード。そして何より、両脚を包み込むのは、超高密度のチタン合金で成形された脚部装甲。

 

 最後の爆発的な一歩を踏み出した時、そこにはもう、怪我に怯える青年は落選していなかった。

 

 光のゴールテープを突き破るようにして姿を現したのは、日本の代表アスリートライダー・仮面ライダーダッシュその人であった。

 

「バカな……! IOFのシステムに適合したというのか!? あの落ちこぼれが!」

 

 ファールは驚愕に一歩後退り、すぐさま怒りに身を任せて右腕の巨大な鉄球を叩きつけてきた。

 

「変身したところで、お前の脚は壊れているんだよ!!」

 

 時速数百キロに達する砲丸弾が、ダッシュの脳めがけて一直線に飛来する。

 

 生身の駆であれば、恐怖で一歩も動けなかっただろう。しかし今の彼には、世界のあらゆる景色がスローモーションのように見えていた。

 

 ダッシュは右足を一歩、引き絞るようにしてトラックを踏みしめた。

 

 アキレス腱の手術痕が、オリンピアドライバーのエネルギーによって完全に補強され、限界を超えた肉体リミッターが解除される音がシステムから響く。

 

 ダッシュが地を蹴った瞬間、彼がいた場所のコンクリートがクレーター状に爆散した。

 

 残像を残し、ダッシュの身体は横方向へと文字通り消えた。

 

「何っ!?」

 

 ファールが目を見開いた時には、すでに砲丸弾は空を切り、ダッシュはファールの真横、十数メートルの位置に涼しい顔で着地していた。

 

『──視聴熱(オーディエンス・レート)急上昇。全世界中継、接続開始』

 

 上空を舞うドローンカメラのレンズが一斉に赤く発光し、ダッシュの姿を捉える。

 

 スタジアムの巨大スクリーンには、ダッシュの変身と同時に世界中の人々が驚き、熱狂し始めていることを示すパーセンテージが、30%……50%……と爆発的に跳ね上がる様が映し出されていた。

 

「この感覚……戻ったのか?」

 

 装甲の内で、駆は自分の脚に伝わる圧倒的なパワーに打ち震えていた。

 

 踏み込めば踏み込むほど、大地が自分に応えてくれる。風が、自分を追い抜いていく。

 

 4年間、暗闇の中で立ち止まっていた男が、ついに光の世界へと帰ってきたのだ。

 

「調子に乗るなァァッ!」

 

 ファールは狂ったように、周囲のエネルギーを総動員し、十数発の砲丸弾を同時に生成。ダッシュを包囲するようにして一斉に放った。逃げ場のない、全方位からの面制圧攻撃。

 

 だが、ダッシュのバイザーの奥で、複眼がギラリと光った。

 

「俺は、もう二度と、誰の後ろも走らない!」

 

 ダッシュは前方を真っ直ぐに見据え、両腕を大きく振って、弾幕の真っ芯へと向かって突撃を開始した。

 

 超高密度のチタン合金で成形された脚部装甲・トップギア・レガースが限界を超えて駆動し、排気口から青いプラズマの炎が噴き出す。

 

 100mを2.4秒──時速150キロに達する超高速の世界。

 

 迫り来る砲丸弾のわずかな隙間を、ダッシュはミリ単位のステップで、踊るようにすり抜けていく。

 

 ドローンカメラがその軌跡を捉えるたび、世界中のタイムラインは「あの速水駆が帰ってきた」「なんて美しい走りだ」という驚愕と賞賛で埋め尽くされていく。

 

「化け物め、当たれ、当たれぇぇっ!」

 

 焦るファールは、さらに攻撃の密度を上げる。だが、速度を上げたダッシュの全身から、凄まじい衝撃波──ソニックブームが発生し始めた。

 

 空気を切り裂く青い衝撃波が円錐状にダッシュの身体を包み込み、接近する砲丸弾を触れることなく次々と粉砕していく。

 

「――――捉えた」

 

 爆煙を突き抜け、ファールの目の前に躍り出たダッシュ。その驚異的な加速のまま、ファールの分厚い胸板に向けて、強烈なストレートを叩き込んだ。

 

「ぐはぁっ!?」

 

 時速150キロの質量がそのまま拳に乗った一撃。数トンという打撃力を超えた速度の暴力がファールの巨体を捉え、その巨躯はスタジアムの芝生の上を何十メートルも無様に転がっていった。

 

 遠くの避難通路でその光景を見ていた少女が、涙を拭い、呆然とダッシュの背中を見つめている。

 

 ダッシュは拳を小さく引き、静かに構え直した。

 バイザーに映るファールの残HPは残り僅か。

 

「次の一歩で、決着だ」

 

「オ、オレが……負け犬のお前に、力負けするはずがねえ……!」

 

 芝生の上に這いつくばったファールは、胸のメダルから泥のような黒いエネルギーを全身に噴出させながら、狂ったように立ち上がった。

 

 その肉体は歪に膨れ上がり、スタジアムの瓦礫や引きちぎられた鉄柵を磁石のように吸い寄せ、さらに巨大な、トゲだらけの鋼鉄の要塞へと変貌していく。

 

「お前のアキレス腱、今度こそ完全に粉砕してやるッ!!」

 

 ファールが咆哮すると同時に、スタジアムの地面が激しく揺れた。ダッシュの足元にあるトラックそのものを、地中から突き上げる鋼鉄の杭で次々と破壊し始めたのだ。

 

 目の前の路面が次々と爆散し、鋭利な鉄の破片が牙のようにダッシュへ襲いかかる。

 

「直線しか走れないお前に、この地獄が突破できるかァ!」

 

 ファールの言う通り、ダッシュが変身しているスプリンタースタイルの弱点は『急な方向転換ができない』ことにある。超高速の直線加速は凄まじいが、行く手をこれだけの障害物で塞がれ、ジグザグの回避を強要されれば、速度は劇的に低下してしまう。

 

 だが、装甲の内で、駆の目は冷徹にファールを見据えていた。

 

 ダッシュは腰を深く落とし、右足のトップギア・レガースにエネルギーを最大充填していく。排気口から、バチバチと激しい青い火花が散る。

 

「最終コーナーだ。一気に駆け抜けるッ!」

 

《FINAL LAP》

 

 オリンピアドライバーのスターターレバーレバーを押し込み、もう一度強烈に引き絞る。

 

 ドライバーから緊迫したカウントダウンの音声が鳴り響く。

 

 ダッシュが爆発的な一歩を踏み出した。

 

 時速150キロ、そしてリミッターをさらに解除し、時速200キロ、250キロへと一瞬で加速していく。

 

「死ねぇっ!」

 

 ファールが腕を振ると、ダッシュの進路を完全に塞ぐように、十数メートルもの巨大なコンクリートの壁が地中からせり上がった。正面衝突すれば、いかにアスリートライダーといえど無傷では済まない。しかし、ダッシュは減速しなかった。それどころか、さらに足のピッチを上げる。

 

(壁を避ければ速度が落ちる。なら──)

 

 激突の直前、ダッシュは速度を維持したまま、せり上がった壁の垂直な側面へと飛び移った。

 

 金属とコンクリートが激しく擦れ合い、凄まじい火花が夜闇を照らす。

 

 ダッシュは、重力を無視して壁の側面を真横に疾走していた。凄まじい遠心力と速度によるGが駆の肉体を襲うが、オリンピアドライバーがそれを物理エネルギーへと変換し、耐え切る。

 

「何だと!?」

 

 驚愕するファール。ダッシュは壁の端に達した瞬間、その脚力で壁を強く蹴りつけた。

 

 反発力によって、ダッシュの身体は弾丸のように直角に方向を転換。ファールの死角へと凄まじい軌道を描いて跳んだ。

 

 上空を舞うドローンカメラが、そのアクロバティックかつ命知らずな美技を完璧なアングルで捉える。

 

『──オーディエンス・レート、80%を突破! 視聴熱、臨界点!』

 

 スタジアムの巨大スクリーンに表示された世界中のコメントが、凄まじい速度で流れていく。

 

『嘘だろ、あの壁を足場にした!?』

 

『これが……日本の「ダッシュ」か!』

 

 世界が熱狂している。その莫大な精神エネルギーが中継ドローンを介してオリンピアドライバーへとフィードバックされ、ダッシュの輝きはさらに増していく。

 

「これで、終わりだァァァッ!!」

 

 宙に舞ったダッシュは、空中で身を翻し、右足をファールに向けて真っ直ぐに突き出した。

 

 全身のソニックブームが右足の足先に集中し、巨大な青い光のドリルとなって空間を歪める。

 

《SPRINTER FINISH!!!》

 

「が、ああああああっ!」

 

 ファールは必死に両腕の鋼鉄の盾を掲げて防ごうとした。

 

 しかし、時速300キロに達したダッシュのスプリンターフィニッシュの威力は、もはや一介のファールが防げるレベルを超えていた。

 

 スタジアム全体を激しい閃光と爆風が包み込んだ。

 

 ダッシュの右足が、ファールの鋼鉄の盾を文字通り消し飛ばし、その胸の中央に埋め込まれたメダルへと容赦なく突き刺さる。

 

「オレの……オレの栄光がぁぁぁっ!」

 

 ファールの絶叫と共に、胸のメダルに無数の亀裂が走り、次の瞬間派手に粉砕された。黒いエネルギーが霧散し、光のゴールテープが弾けるようなエフェクトがスタジアムを駆け抜ける。

 

 巨大化していた鋼鉄の要塞は消え去り、そこにはただ、変身を解除され、泥のように意識を失って倒れた元アスリートの男の姿だけが残されていた。

 

 しんと静まり返るスタジアム。

 

 巻き上がった煙が夜風に流されていく中、ダッシュはファールの背後に、スライディングの姿勢のまま静かに着地していた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

装甲の内で、駆は激しく肩を上下させていた。

 

 全身の細胞が悲鳴を上げている。だが、右足首には痛みを上回る、確かな『走れた』という高揚感が残っていた。

 

 上空から、数機のドローンカメラがゆっくりと降下し、ダッシュの目の前でホバリングをしながらレンズを向けてくる。世界中が、この新しい『日本代表』の顔を待っているのだ。

 

 ダッシュはゆっくりと立ち上がった。

 

 そして、レンズの向こうにいるであろう、世界中の観客、そして自分を置いていった世界に向けて、バイザーの奥の目を強く光らせる。

 

「――――帰って来たぞ。日本」

 

 駆の静かで、しかし確かな意志を孕んだ声が、ドローンを通じて世界中へと発信された。

 

 直後、スタジアムの巨大スクリーンに、IOFからの正式な試合結果(リザルト)が表示される。

 

 ――――

 

 適性テスト:合格(CLEAR)

 オーディエンス・レート:87%(歴代初参戦記録更新)

 アスリート・ステータス:日本代表・仮面ライダーダッシュとして承認

 

 ―――――

 

 その文字が点灯すると同時に、ダッシュの全身から光の粒子が抜け、変身が解除された。

 

 駆は元の実業団のユニフォーム姿に戻り、その場に力なく膝をつく。

 

「……走れた。本当に、俺は……」

 

 自分の両手を見つめ、それからしっかりと大地を踏みしめている右足を見つめる。

 4年間、夢にまで見たあの速度の中に、自分は確かにいた。

 

 スタジアムの夜空には、今もWARBのロゴが冷たく、しかし怪しく輝いている。

 

 世界の中心で待つ、レックスをはじめとする、怪物じみた世界各国の代表アスリートライダーたち。そして、この狂った大会を統べるIOF。

 

 速水駆の第二の陸上人生──世界を相手にした、最も過酷で、最も熱いレースが、今ここにスタートした。

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