仮面ライダーダッシュ   作:山都撫子

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第10話「蒼海の人魚」

 深い夜の静寂が、コントロールルームを不気味に支配していた。

 

 つい数時間前まで、臨海地区を恐怖に陥れていた、中国代表の陸旋羽(ルー・シュエンユー)がロストメダルによって変貌したファールとの死闘。その激闘の残響が、未だ壁一面に設置されたホログラムモニターの淡い光の中に溶け残っているようだった。

 

 部屋の中央、大型のメインコンソールの前には、治療を終えたばかりの駆が立ち尽くしていた。

 

 右脚にガチリと装着された鈍い銀色の強化プロテクター――非合法改造によって弱点を最高の推進器へと変貌させた追加武装『リニア・アンカー』が、歩行のたびに冷たい金属音を響かせる。4年前の国際大会でのアキレス腱断裂。そこから「終わった選手」と冷笑され続けた日々と、「二度と立ち止まりたくない」という強烈なトラウマ。そのすべてをねじ伏せるために、チーフメカニックの輪が突貫で組み上げた非合法な機材が、今も駆の脚を強固に締め付けていた。

 

 自らの内なるエゴから生まれたスプリンターメダルを手に、システムの檻の外にいたはずの怪物をねじ伏せた。その事実への高揚感は、しかし、目の前に浮かび上がる数字の羅列によって、氷の塊へと変えられていた。

 

「……これが、ルイ選手が置いていった、データの中身……」

 

 駆の喉から、掠れた声が漏れる。

 

 コンソールを操作していた専属アナリスト、五代輪の指先は、怒りと恐怖で小さく震えていた。彼女が徹夜で解析し、ホログラムとして空中へ展開したデータ。それは、IOF・国際オリンピア連盟の最高機密とされる暗号化ファイル――『裏の投資市場(アンダーグラウンド・インデックス)』の全貌だった。

 

「ひどい……こんなの、私が信じていたスポーツのデータなんかじゃない……!」

 

 輪が悲痛な声をあげる。高度な選手データや環境シミュレーションを処理し、現代の競技システムを誰よりも信頼していた彼女にとって、その画面に映し出されたものは耐え難い世界の闇そのものだった。

 

 そこに刻まれていたのは、フランス代表のルイ・シャルトリエが完璧に把握しているという、IOFの狂気的なビジネス構造の縮図だった。表舞台の華やかな栄光の裏側で、公式リーグで敗北し、システムからゴミのように切り捨てられたアスリートたちの市場価値が、天文学的な金額のマネーゲームの道具として弄ばれている。

 

 世界的な富裕層やプロモーターたちが、表舞台から追放された天才たちの絶望や復讐心を買い取り、彼らが怪物へと堕ちていくプロセスそのものに巨額の賭け金を投じていたのだ。あの狡猾で冷酷な怪物だった陸旋羽選手の暴走すらも、裏の市場にとっては最悪の娯楽として完璧に組み込まれたシナリオに過ぎなかった。

 

 駆は、自身の瞳に冷たく反射する明滅する青い文字を見つめた。

 

 ―――――

 

 緊急迎撃戦:終了(GAME SET)

 速水駆:+12,000,000(ランク外 ⇒ 第72位)

 

 ―――――

 

 脳裏に、あの戦いの結末が蘇る。

 

 一歩間違えれば、自分の右脚は今度こそ完全に破壊され、二度と走れなくなっていた無法の地獄。誰にも守られない泥沼の殺し合い。だが、そんな命懸けの悲劇すらも、世界中のオーディエンスを熱狂させて莫大な富を生み出すための、ただの極上の見世物でしかなかったのだ。

 

(俺は……勝ったんじゃない)

 

 駆の全身を、身の毛がよだつような恐怖が駆け巡る。

 

 他人の絶望を消費し、陸旋羽選手の狂気をエンターテインメントとして世界に提供した対価として、自分の市場価値がランク72位にまで吊り上げられた。守るべきアスリートを救ったつもりが、自分自身もまた、その残酷なシステムの歯車に組み込まれ、他者を食い物にする捕食者の一員にされてしまったのだ。

 

「う、あ……っ」

 

 恐怖のあまり、駆の膝がガタガタと震え出す。プロとしてこの世界に身を投じた22歳のアスリート。背負う覚悟は決めていたはずだった。だが、底なしの沼に囚われたように足元が重く、すくんで動かない。勝てば勝つほど、誰かを地獄へ突き落とすシステム。その檻のあまりの巨大さに、彼は圧倒されていた。

 

「おいおいおい!何だよこのお通夜みたいな空気は!どんよりしすぎて部屋の気圧が下がってんじゃん!」

 

 その時、コントロールルームの重苦しい静寂を木端微塵に打ち砕く、屈託のない声が響き渡った。

 

 部屋の強化セキュリティドアが、アポなしの乱暴なノックと共に、ガコンと勢いよく開放される。

 

「ハーーーローーーー!!突撃お邪魔しまーーーす!!」

 

 爆音の挨拶と共に部屋へ飛び込んできたのは、部屋にいた全員の思考を一瞬でフリーズさせるほどの、圧倒的な熱量を持った太陽だった。

 

 長いウェーブのかかったダークブラウンの髪に、海を思わせるエメラルドグリーンのインナーカラー。日焼けした健康的な小麦色の肌。オーバーサイズの白いシャツの裾から覗く引き締まった脚は、サンダルを履いて楽しげにステップを踏んでいる。

 

「……何者だ、貴様」

 

 部屋の入り口付近、大木のようにどっしりと構えて腕を組んでいた公式コーチ・蓮見が、太い眉を不快そうに寄せた。現役時代は世界を沸かせた実力派の柔道家。アスリートは常に正道を進むべきという頑固な信念を持つ彼は、規約違反を繰り返す織田たちの改造機材に苦言を呈していた最中だった。威圧感すら漂う蓮見の重厚な視線。だが、闖入者はそんな頑固親父のプレッシャーなど、完全に右から左へ聞き流していた。

 

「あ!あなたがウワサのハヤミ君!?画面で観るより何倍もカワイイじゃ〜〜〜ん!!」

 

「え? え、あ、はい……っ!?」

 

 駆が呆気に取られて硬直した一瞬の隙を突き、その美女は猛烈な勢いで距離を詰めてきた。初対面という概念を完全に無視したスピードで駆の肩を組み、そのまま「ぎゅっ」と勢いよく抱きついてきたのだ。

 

「わわわわわ!?近い、近いです!誰ですかあなた!?」

 

「私はイザベラ!イザベラ・コスタ!ブラジル代表だよ!みんなからはベラって呼ばれてるから、ハヤミ君もベラって呼んでね!」

 

 イザベラは顔を真っ赤にしてパニックになる駆の頭を、よしよしとグシャグシャに撫で回す。22歳になり、元日本記録保持者としてのプライドを胸に過酷な世界へ戻ってきた駆だったが、彼女の規格外の精神的距離感の前には、まるで可愛い弟のように扱われて照れるしかなかった。

 

「おい、離れないか。いくら他国の代表選手とはいえ、所属外の人間がこのエリアへ無断で立ち入ることは規約違反だ。しかるべき処置を取るぞ」

 

 蓮見が地響きのような低い声で一歩踏み出し、イザベラの腕をガシリと掴んで駆から引き離そうとする。柔道家としての圧倒的な体躯と風格。しかし、イザベラはその強固な掴みすら、水のように柔らかく身を翻して受け流し、逆に蓮見の分厚い手の甲にバチンとハイタッチを求めた。

 

「まーまー硬いこと言わずに! 挨拶挨拶!」

 

 これには百戦錬磨の蓮見も「ぬうっ……」と眉間に皺を寄せ、二の句が継げずに腕を組み直すしかなかった。

 

 彼女の小麦色の肌から、微かに南国の海の香りと、健康的な汗の匂いが漂う。エメラルドグリーンの瞳を三日月のように細めて笑う彼女の首元には、イルカを模した小さなネックレスがキラリと輝いていた。

 

「ブラジル代表……って、次の公式リーグで、私たちが戦う……!?」

 

 輪が驚愕してデスクから立ち上がる。

 

 画面上のデータを素早く切り替えると、そこに表示されたのは、世界ランキング第8位、蒼海の人魚(リズム・クイーン)。SNSフォロワー数世界第1位を誇る、世界最高峰の女性アスリートライダー――仮面ライダーウェイブの基本プロフィールだった。

 

「そうそう!明日の試合、ハヤミ君たちが相手でしょ?だから、挨拶がてら偵察に来ちゃった!……って言っても、こんな難しい数字ばっかりの部屋にいたら頭痛くなっちゃうね!」

 

 イザベラは、裏の投資市場の凄惨なデータが表示されているホログラム画面を一瞥すると、「うへえ」と大袈裟に顔をしかめ、ひらひらと手を振って画面を消去してしまった。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 駆は彼女から半歩距離を取り、息を荒らげながら問いかけた。その瞳には、先ほどまでの捕食者としての恐怖と、困惑が混ざり合っている。

 

「イザベラ選手……あなた、陸選手のあの事件を知っているんですよね? さっきまで画面に映っていたデータも、見たんですよね?IOFは、負けたらすべてを失う残酷な場所なんです。勝っても負けても、誰かが破滅していく、狂った檻なんです!なのに……なのに、どうしてそんなに笑っていられるんですか!?」

 

 駆の悲痛な叫びが、部屋に響く。

 

 勝利の重圧、市場価値の呪い、他者を踏みつける恐怖。それらに押し潰されそうになっている駆にとって、イザベラの規格外の明るさは、理解不能な現実逃避のように思えたのだ。

 

 だが、イザベラは駆の言葉に怒ることも、呆れることもしなかった。

 

 彼女はただ、三日月のように目を細めた笑顔をそのままに、駆の目をまっすぐに見つめ返した。そのエメラルドグリーンの瞳の奥には、軽薄な陽気さとは一線を画す、地獄を見てきた者だけが持つ絶対的な強さの光が宿っていた。

 

「ハヤミ君」

 

 イザベラはそっと駆の肩に手を置き、その耳元で、弾けるような声で言った。

 

「人生なんて、楽しんだもん勝ちじゃん?負けてもさ、明日またプールで泳げるなら、私は最高に幸せだよ。金のためでも、国のためでもない。私は世界中のみんなと、楽しくスポーツがしたいだけ!」

 

「スポーツが、したいだけ……?」

 

「そう! 泣いてる時間があるなら、笑おうよ!難しい顔して走っても、足が重くなるだけで損しちゃうよ?……よし、挨拶はこれでおしまい!明日の試合、ガチンコで楽しもうね!」

 

 イザベラは駆の胸をポンと叩くと、パニックのまま硬直している倫や、腕を組んでジロリと彼女を睨み据えている蓮見に向かってバチンとウィンクをしてみせた。

 

「じゃあね!終わったらみんなで美味しいご飯行こ!プールで待ってるから!」

 

 嵐のようなテンションのまま、イザベラはサンダルを鳴らして部屋を去っていった。ドアが閉まった後も、彼女が残していった太陽のような陽気なエネルギーの残響が、部屋の空気を僅かに軽くしていた。

 

「な、何だったんだあいつは……嵐のようだな」

 

 部屋の隅で、ずっと静観していたセコンドの織田が、フッと獰猛な笑みを浮かべて呟いた。

 

「織田さん……彼女は……」

 

「あいつの笑顔はな、現実逃避じゃねえよ、速水」

 

 織田はポケットから手を抜くと、去っていったドアの向こうを見据えた。

 

「イザベラ・コスタ。ブラジルの貧民街育ちだ。昨日まで一緒に笑ってサッカーをしてたダチが、翌日には銃撃や麻薬でいなくなる、そんな日常を生きてきた。あいつはな、絶望を知らないんじゃねえ。絶望の深さを知った上で、なお笑うことを自分で選び取った、狂ったエゴの塊だ」

 

「絶望を知った上で、笑う……」

 

 駆は、自身の胸元に手を当てた。イザベラ選手に叩かれた場所が、妙に温かい。

 

「楽しんだ人が勝ち」

 

 IOFという巨大なシステムの呪いに縛られ、勝つためのエゴにハメ殺されそうになっていた自分たちの前に現れた、真逆の価値観を持つ太陽。

 

「世界中のみんなと、スポーツがしたい……か」

 

 駆の瞳から、少しずつ怯えの色彩が消え、アスリートとしての純粋な輝きが戻り始める。

 

 嵐のような闖入者が去ったあとのコントロールルームには、微かに南国の海の香りが残されていた。

 

 壁面のホログラムモニターは、輪の操作によって再び静かに明滅を始めている。しかし、そこに映し出されているのは、先ほどまでの血生臭い裏の投資データではない。明日、スタジアムで行われる公式リーグ『日本代表VSブラジル代表』の、極めて高精度な試合シミュレーションデータだった。

 

「……信じられない」

 

 メインコンソールの前に座る輪が、キーボードを叩きながら愕然とした声をあげる。

 

 イザベラ・コスタ――先ほど駆の頭を我が物顔で撫で回していったあの奔放な美女の、アナリストとしての客観的な分析結果。それが画面上に弾き出されていた。

 

「これ、本当に水泳選手(スイマー)のデータなの……? 身体構造の柔軟性が、通常のアスリートの基準値を完全に逸脱しているわ。特に関節の可動域と、肉体の受け流しの反応速度が異常。これじゃあ、まるで……」

 

「水、そのものってか」

 

 部屋の隅で、大型のレンチを肩に担いだ織田が、不敵な笑みを浮かべて言葉を継いだ。

 

 織田はコンソールに近づくと、画面上に表示された『仮面ライダーウェイブ』の装甲データを指差し、駆を振り返る。

 

「速水、明日の公式戦はこれまでのストリートバトルのような泥沼の殺し合いとはわけが違うぞ。相手はSNSフォロワー数世界第一位、世界中の子供たちのカリスマ、通称『Bella(ベラ)』だ。IOFという巨大な温室の頂点に君臨する、正真正銘のスターアスリートライダーだ」

 

 駆は自身の右脚を見つめた。ガチリと噛み合っているリニア・アンカーの強固な装甲。陸とのあの死闘を生き抜くために、ルールを無視して組み上げた非合法なカスタムパーツ。

 

「公式コーチの俺の目から見ても、あのイザベラという選手は侮れん」

 

 大木のようにどっしりと腕を組んだまま、蓮見が地響きのような声で言った。その厳格な眼差しは、部屋の床をじっと見据えている。

 

「先ほど、一瞬だが奴の腕を掴んだ。その時の感覚が忘れられん。まるで大蛇の胴体を掴んだかのように、こちらの力が一切芯に届かず、綺麗に外側へと逃がされた。柔道の達人でも、あそこまで完璧に脱力できる者はそうはいない。正道を進むアスリートとしての鍛錬の格が違う」

 

 頑固な柔道家である蓮見にそこまで言わしめる相手。

 

 駆は小さく息を呑んだ。脳裏に、先ほどのイザベラの言葉が、弾けるような笑顔と共に蘇る。

 

『金のためでも、国のためでもない。私は世界中のみんなと、楽しくスポーツがしたいだけ!』

 

 その言葉は、IOFの残酷なビジネス構造に怯え、勝つことの恐怖に囚われていた駆の心を、強烈に揺さぶっていた。

 

 ルイは完璧な規律で相手を圧殺する。

 

 レックスは冷徹な戦術で数字を掴み取る。

 

 マルコは神の瞳ですべてを支配する。

 

 そして、陸は悪魔の超回転で対戦相手の希望ごと全てを破壊した。

 

 世界最高峰のアスリートライダーたちは全員、血を吐くような重い信念や、システムに呑まれた歪んだエゴで動いている。

 

 なのに、あのイザベラだけは、何故あんなにも真っ直ぐに「スポーツを楽しもう」と言い切れるのだろうか。

 

「……織田さん」

 

 駆は、静かにモニターを見据えるメカニックを呼んだ。

 

「さっき、彼女の過去について話してくれましたよね。ブラジルの貧民街で育ったって。昨日まで一緒に笑っていた友達が、翌日にはいなくなるような、そんな過酷な場所で生きてきたって……」

 

 織田はフッと息を漏らし、レンチをゴト、と作業台に置いた。

 

「ああ。あいつの育った環境は、お前らが知る『日本の日常』とは根底から違う。生きるか死ぬかの境界線が、すぐ足元に転がっているような場所だ。スポーツなんてな、飯を食うための手段か、さもなきゃ命を繋ぎ止めるための数少ない娯楽でしかねえんだよ」

 

 織田の言葉を、輪が静かに引き継ぐ。彼女が端末を叩くと、イザベラの、IOFが公式には決して公表しない幼少期の記録が、古いニュース記事と共に画面に浮かび上がった。

 

「治安の劣悪なエリアでのストリートサッカー、銃撃戦に巻き込まれて壊滅したコミュニティ……。彼女は、幼い頃から大切な人たちが突然消えていく絶望を、嫌というほど目の当たりにしてきたのね。だから、彼女は決めたのよ」

 

 輪の瞳に、深い哀悼と、それ以上の畏敬の念が宿る。

 

「『泣いてる時間があるなら、笑おう。』って」

 

 駆の胸の奥が、ドクンと激しく脈打った。

 

 悲惨な現実に心を折られ、怪物へと堕ちていった陸旋羽。

 

 古傷のトラウマに縛られ、二度と立ち止まりたくないと、恐怖を原動力に走り続けてきた自分。

 

 だが、イザベラは違う。彼女は絶望を知らないのではない。絶望の深さを誰よりも知っているからこそ、それに心を支配されることを拒絶したのだ。ただただ前を向き、スポーツがもたらす純粋な輝きを信じ抜くために、「笑顔」という名の最も強固な武装を選び取ったのだ。

 

「現実逃避なんかじゃねえ」

 

 織田が駆の肩を荒っぽく叩いた。

 

「あいつはな、IOFの狂ったシステムにも、裏の投資市場の数字にも、1ミリも呑まれてねえんだよ。あいつにとってスポーツは、人を救うものでも、支配するものでもねえ。『人を笑顔にするためのもの』だ。根底にある信念の強さだけで言えば、あいつは今のアスリートライダーの中で、間違いなく最凶のバケモノだぞ」

 

「人を、笑顔にする……」

 

 駆は自身の胸に手を置いた。スプリンターメダルの温かさが、手のひらを通じて伝わってくる。

 

 自分は人を救うために走ると決めた。それは、自分がかつて「終わった選手」と突き落とされたからだ。だが、イザベラの目指す先は、そのさらに向こう側――ただ救うだけでなく、その先の幸福までをスポーツで繋ぎ止めようとしている。

 

「速水」

 

 それまで黙って聞いていた蓮見が、駆の前に立ちはだかった。その巨体が、父親のような安心感と、勝負師としての厳格さを持って駆を見下ろす。

 

「迷いは消えたか。恐怖に足をすくまれているようでは、あの太陽のようなエゴには到底太刀打ちできんぞ。お前が磨いてきたその脚で、正々堂々、奴の『笑顔』と畳の上で――いや、フィールドの上で組み合ってこい」

 

「はい……!」

 

 駆の瞳から、完全に怯えが消え去った。

 

 他者を蹴落とすシステムの檻。他人の絶望を消費する捕食者。そんな呪縛は関係ない。

 

 自分も、陸も、最初はただ、走るのが、スポーツをするのが楽しかったからここにいたはずなのだ。その純粋な原点を、あのブラジルの太陽が思い出させてくれた。

 

「五代さん、織田さん、蓮見コーチ。……俺、行ってきます」

 

 追加武装『リニア・アンカー』が、決意を秘めた駆動音を鳴らす。

 

 プロとして、アスリートとして、そして仮面ライダーとして。速水駆は、世界最高峰のセンターコートへ向けて、力強く一歩を踏み出した。

 

 

 翌日――。

 

 IOFが誇るメインスタジアムのセンターコートは、割れんばかりの大歓声と熱気に包まれていた。

 

 頭上をパブリックドローンが無数に飛び交い、スタジアムの全方位に設置された超巨大ホログラムスクリーンには、世界中からリアルタイムで投稿される数億件もの応援コメントが滝のように流れ落ちている。

 

 ―――――

 

 【IOF OFFICIAL TOURNAMENT:MATCH 02】

 

 試合形式:BO3(Best of 3 / 2ゲーム先取制)

 勝利条件:1ダウン2本先取で1ゲーム獲得

 獲得条件:HP完全消失で1ダウン

 特殊勝利条件:過度なダメージによる強制変身解除は強制敗北(TKO)

 

 ―――――

 

 この日の公式リーグ、第一試合のカードとルールがアナウンスされると、地鳴りのような歓声がスタジアムを大きく揺らした。

 

『――公式リーグ、第4節!日本代表・速水駆選手VSブラジル代表・イザベラ・コスタ選手!!現代の超高速バトルが、今ここに開幕します!!』

 

 実況の絶叫と共に、コートの全域に最新のホログラム粒子が展開される。

 

 コートの片側に立ち、観客席からの凄まじい歓声を全身に浴びながら、駆は静かに呼吸を整えていた。

 

 前回の戦闘データを輪が徹底的に解析し、織田の手によって最適化された『オリンピアドライバー』が、駆の腰で鋭い駆動音を立てている。右脚のリニア・アンカーは、蓮見コーチによる決死の特例申請により、「アスリートの古傷を保護するための医療用プロテクター兼・特殊衝撃吸収材」として、今回に限りIOF公式から正式に使用が認められていた。ルールという檻の中で戦うための、チーム全員の執念の結晶が、今、駆の脚を支えている。

 

 そして――対戦相手の入場ゲートから、その太陽が姿を現した。

 

 長いウェーブのダークブラウン髪をなびかせ、エメラルドグリーンの瞳を輝かせたイザベラが、観客席に向けて大きく両手を振る。その瞬間、スタジアムのボルテージは最高潮に達した。世界中から集まったファン、そして画面の前の子供たちが、声を限りに彼女の名前を叫ぶ。

 

「ベラーーーー!!」

 

「Bella!!最高の試合を見せてくれ!!」

 

 イザベラは首元のイルカのネックレスにそっと触れると、コート中央のネット越しに、駆に向けてバチンとウィンクをして見せた。

 

「ハヤミ君!準備はいい?難しい顔はナシだよ!思いっきり楽しもうね!」

 

「……はい!イザベラ選手!俺も、全力であなたに挑みます!」

 

 駆はポケットから、鈍い輝きを放つスプリンターメダルを取り出した。

 二人のアスリートが、同時にオリンピアドライバーのコアへとメダルを装填する。

 

《On your marks》

 

《Take your marks》

 

「変身!!」

 

「Henshin《変身》!」

 

 二人の叫びと同調するように、眩い光の粒子がコートを包み込む。

 

《START DASH!!!! Athlete Rider DAShhhh!!!!》

 

駆の全身に、風を切り裂くような白銀と赤のラインが走り、超高速スプリンターとしての戦闘形態――仮面ライダーダッシュ・スプリンタースタイルへと変身を遂げる。

 

《SPLASH WAVE!!!! Athlete Rider WAVeeee!!!!》

 

 同時に、対角線上の光の中から、圧倒的な透明感を放つエメラルドグリーンの戦士が産声をあげた。

 

 ブラジルカラーを水色寄りへと昇華させた、ターコイズとホワイト、そしてゴールドの美しい流線型の装甲。女性ライダーらしい細身のシルエットに、肩アーマーは極限まで小さく、イルカや人魚を思わせるしなやかな長い脚。水滴のような大型の複眼バイザーからは常に水飛沫の粒子が美しく舞い散っている。

 

 ブラジル代表、仮面ライダーウェイブ・スプラッシュスタイル。

 

『さあ! 運命の第1ゲーム、第1ラウンド――レディ・ゴー!!!』

 

 試合開始を告げた瞬間、空間を歪めるほどの超高速のバトルが、センターコートで爆発した。

 

 ダッシュはリニア・アンカーの爆発的な推進力を解放し、拳を構えて上空から襲いかかる。超高速の突進から放たれる、一撃必殺の鋭い一突き。

 

 しかし、ウェイブはその突進を恐れるどころか、楽しげな笑い声をあげながら、滑るように身を翻した。

 

「流れるよ〜〜〜!」

 

 ウェイブの身体が、まるで空間そのものを水に変えてしまったかのように、滑らかに、流れるように三次元の軌道を描く。ダッシュの猛烈な一撃は、彼女の両腕に装着されたフィン型ブレード『ウェイブフィン』のしなやかな動きによって、完璧に受け流されてしまった。

 

 芯を捉えさせない。相手の突進力をそのまま自身の旋回運動へと変換し、ウェイブはイルカのように空間を跳ね、潜り、ダッシュの死角へと滑り込んでいく。

 

「嘘だろ……!?俺の速度に、完全に動きを合わせている……!」

 

 バイザーの奥で、駆は目を見張った。

 

 速さを競う競技の頂点に立つ彼女は、力で戦うのではない。相手の力を利用し、流れに身を任せ、戦闘そのものを完璧なリズムで支配しているのだ。

 

「あはは!ハヤミ君、凄い凄い!もっと高く跳びなよ!スポーツって楽しいで書くんだよ!」

 

 ウェイブフィンから放たれるエメラルドグリーンの水流エネルギーが、美しい飛沫をあげてダッシュの装甲を弾いていく。その攻撃には、一切の悪意も、相手を傷つけようという残虐性も存在しない。

 

 ただ純粋に、世界最高峰のライバルと刃を交え、打撃を繋ぐことそのものを心から楽しんでいる――そんな圧倒的なポジティブさの濁流に、駆は全身を巻き込まれていくのだった。

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