空間を歪めるほどの超高速の応酬が、センターコートの空気を爆発的な風圧へと変えていた。
「あはは!ハヤミ君、いいスピード!最高に気持ちいいね!」
白銀と赤のラインを奔らせ、稲妻のごとき速度で肉薄するダッシュ。だが、その一撃必殺の拳が届く寸前、ウェイブはまるで意思を持つ水そのもののように形を変え、その軌道を逸らしてしまう。
ガギィィィン!
鋭い金属音がスタジアムに響き渡る。ダッシュの放った超高速のストレートは、ウェイブの両腕に備えられたフィン型ブレード『ウェイブフィン』のしなやかな傾きによって、完璧にその推進力を外側へと受け流されていた。
(芯を捉えられない……!)
バイザーの奥で、駆は歯を食いしばる。
これまでの死闘であれば、リニア・アンカーの爆発的な推進力による突進は、それだけで相手の防御を強引に粉砕する質量兵器となり得た。だが、今目の前にいる世界第8位のスターアスリート、イザベラ・コスタには、その破壊力が1ミリも伝わらない。
それどころか、ウェイブはダッシュが放った突進のエネルギーを自身の旋回運動へと滑らかに変換し、イルカが波間を跳ねるような軽やかさで三次元の軌道を描いていた。
「流れるよ〜〜〜!」
楽しげな鈴の音のような声と共に、ウェイブがダッシュの死角へと滑り込む。
エメラルドグリーンの流線型の装甲から、美しい水飛沫の粒子がパチパチと弾けた。彼女の動きには、戦う者が当然持つべき『殺気』や『敵意』といった濁りが一切存在しない。あるのはただ、世界最高峰の舞台で、同じ速度を持つライバルと打撃を交わし合うことへの、純粋極まる歓喜だけだった。
「受け取って!」
ウェイブフィンがしなやかに一閃され、エメラルドグリーンの水流エネルギーが新体操のリボンのように空間を舞った。ダッシュは辛うじてバックステップを踏んで直撃を避けたものの、鋭い水流の刃は胸部装甲を掠め、火花と共に駆の視界の端にあるHPゲージを僅かに削り取る。
『おおっとお!早くもブラジル代表、仮面ライダーウェイブがその異名に恥じぬ「リズム・クイーン」っぷりを発揮している!速水選手の神速の突撃を、まるで最初から知っていたかのように美しく受け流していく!これが世界の壁か、それとも温室のスターの真価か!?』
実況の絶叫がドローンを通じてスタジアム全体に響き渡り、観客席のボルテージはさらに跳ね上がる。頭上のホログラムスクリーンには、世界中からリアルタイムで投稿される数億件のコメントが、滝のような速度で流れ落ちていた。
『Bellaのステップ、マジで水みたいだな!』
『ダッシュ頑張れ! あのスピードに食らいついてるだけでもバケモノだ!』
『これが公式リーグの格調高いバトル……! 臨海地区の殺し合いとは大違いだぜ!』
耳を聾する大歓声の中、駆はリニア・アンカーを軋ませながら着地し、再びウェイブと対峙した。
エメラルドグリーンの人魚のような戦士は、ステップを刻みながら首元に手を当てている。変身してもなお、彼女のトレードマークであるイルカのネックレスが、装甲の上でキラリと輝いていた。
「ハヤミ君、難しい顔はナシって言ったじゃん!もっと笑ってよ!せっかくこんな最高の場所で、たくさんの人が私たちのスポーツを見てくれてるんだよ?」
「イザベラ選手……っ!」
ダッシュは息を荒らげながら、拳を強く握りしめる。
彼女の言う通りだ。ここには、昨夜見た『裏の投資市場』のような、他人の絶望を貪る陰惨な空気は表向き存在しない。富裕層のマネーゲームではなく、純粋な歓声が世界中から降り注いでいる。
だが、だからこそ――この圧倒的な『ポジティブさ』の濁流こそが、今の駆にとって何よりも恐ろしい脅威だった。
(戦いにくすぎる……。悪意がないから、次の動きの予測が立てられない……!)
ルイの持つ完璧な規律、陸の放った絶望的な狂気。それらには明確な『意図』があった。だからこそ、そのエゴの隙を突くことができた。しかし、イザベラの行動原理は『楽しいから動く』、それだけだ。水が重力に従って高いところから低いところへ流れるように、彼女はただ、その瞬間に最も心地よいリズムで動いているに過ぎない。
「行くよ!テンポを上げるね!」
ウェイブの身体が前傾姿勢になったかと思った瞬間、彼女の姿がエメラルドグリーンの残像へと変わった。
速い。直線的な速度であればダッシュのリニア・アンカーが勝るかもしれないが、曲線の移動、加減速の滑らかさにおいて、ウェイブは通常の物理法則を無視していた。
ザザァァァン!
コート全体に、幻聴のような激しい波の音が響き渡る。ウェイブは一気に二階席までの高さを飛び越え、空中をイルカのようにスピンしながらダッシュの頭上へと襲いかかった。
「スプラッシュ・ターン!」
「くっ……!」
ダッシュは右脚のリニア・アンカーを爆発させ、上空に向けて迎撃の回し蹴りを放つ。医療用プロテクターの認可を得た銀色の装甲が、大気を引き裂く駆動音を鳴らした。
だが、ウェイブはその強烈な蹴りの風圧を察知した瞬間、空中で信じられないほどの柔軟性を見せ、身体を文字通り『ぐにゃり』としならせた。蓮見が「大蛇の胴体を掴んだようだった」と評した、異常なまでの脱力。
ダッシュの放った必殺の蹴りは、ウェイブの脇腹を数ミリメートル掠めただけで、またしても外側へと滑るように受け流された。
「あはは!捕まらないよ〜!」
「しまっ――」
力が完全に空を切ったその一瞬の隙。ウェイブはダッシュの脚を支点にするようにして身を翻し、ゼロ距離からその長い脚を綺麗に振り抜いた。
美しい軌道を描いたウェイブのハイキックが、ダッシュの側頭部に炸裂する。火花と共に、ダッシュの身体はセンターコートの床へと激しく叩きつけられ、何回転も転がった。
「が、はっ……!?」
衝撃が脳震盪となって駆の視界を激しく揺さぶる。バイザーの警告音がけたたましく鳴り響き、HPゲージが一気に半分以下へと減少していく。
『決まったぁぁぁ!仮面ライダーウェイブ、華麗空中からの変幻自在のドロップキック!仮面ライダーダッシュ、自慢の超高速キックを完全にいなされ、手痛い一撃を喰らってしまいました!』
スタジアムを埋め尽くす大歓声。ブラジルの国旗が観客席のあちこちで激しく振られ、イザベラの名前を呼ぶコールが地鳴りのように響く。
「ハヤミ君、大丈夫?起き上がれる?」
ウェイブは着地すると、すぐに好戦的な構えを解き、心配そうにダッシュへと歩み寄ってきた。どこまでも純粋で、どこまでも無邪気な、アスリートとしての気遣い。
床に手をつき、荒い息を吐きながら、駆はそのエメラルドグリーンのバイザーを見上げた。
全身の筋肉が痛む。だが、それ以上に駆の胸を支配していたのは、敗北の恐怖ではなかった。
(これが……絶望の深さを知った上で、なお笑うことを選んだ人間の、エゴの強さ……!)
織田の言葉が、脳裏でリフレインする。
あいつは現実逃避をしてるんじゃない。明日をも知れぬ貧民街で、昨日まで笑い合っていたダチが突然消えるような地獄を生きてきたからこそ、今、この瞬間を全力で楽しむという狂ったほどの覚悟を背負っているのだ。
それに比べて、自分はどうだ。
4年前の古傷に怯え、二度と立ち止まりたくないと、過去のトラウマを原動力に走っていた。陸旋羽を救えなかったことに責任を感じ、IOFの闇の大きさに恐怖して足をすくませていた。
(俺の走りの根底にあるのは、まだ『恐怖』だ。だけど……彼女の根底にあるのは『希望』なんだ)
その差が、この圧倒的な実力差となって現れている。力の抜き方、リズムの刻み方、その全てにおいて、イザベラ・コスタというアスリートは、駆よりも遥かに高い精神的境地に君臨していた。
「……ハヤミ君?」
ウェイブが首を傾げ、そっと手を差し伸べてくる。その親切な手すらも、今の駆にとっては己の覚悟の甘さを突きつけられているようで、ひどく眩しかった。
「……いいえ、大丈夫です」
ダッシュは差し出された手を取らず、自身の力で、右脚のリニア・アンカーを踏みしめて立ち上がった。ガチリ、と冷たい金属音が響き、白銀の装甲が再び戦闘態勢へと移行する。
「まだ、第1ラウンドの途中ですから。俺は、絶対に立ち止まりません」
バイザーの奥で、駆の瞳にアスリートとしての獰猛な炎が灯る。
恐怖に殺されそうになっていた自分に、スポーツの純粋な輝きを思い出させてくれた太陽。ならば、その太陽に対して、怯えたまま戦うことこそが最大の非礼だ。
「あはは、そう来なくっちゃ!」
ウェイブは嬉しそうにステップを踏み、再びウェイブフィンを構えた。
スタジアムの熱気が、さらに一段階跳ね上がる。
スタジアムの全天を覆うホログラムスクリーンに、警告を告げる鮮烈な赤光が瞬いていた。
駆のバイザーの端で、残り少ないHPゲージが細かく震えながら明滅している。一歩間違えれば、過度なダメージによる強制変身解除――すなわち、第1ラウンドのテクニカルノックアウトを喫してしまう。その事実が、駆の心臓を物理的な重さで圧迫していた。
「速水!そこで足を止めるんじゃねえぞ!」
通信回線を通じて、コントロールルームから織田の荒々しいゲキが飛ぶ。
「相手の動きは水だ。力で押し潰そうとすれば、お前のエネルギーがそのままあいつの推進力に変換される。滑るなら滑るなりに、お前のリニア・アンカーをどう使うか考えろ!」
「速水くん、落ち着いて!」
輪の声も重なる。彼女の指先がキーボードを叩く強烈な打鍵音が、ノイズ混じりの回線越しに伝わってきた。
「イザベラ選手のデータ、柔軟性の数値がさらに上昇しているわ。彼女、私たちの攻撃をただ避けているんじゃない。自分の筋肉の緊張と緩和を、スタジアムに流れる音楽のリズムに完全に同調させているの。だから、どれだけ速度を上げても、その『波の谷間』に滑り込まれてしまう……!」
「リズムに……同調している……」
ダッシュのバイザーの奥で、駆は脂汗を流しながら、対角線上に立つウェイブを見据えた。
エメラルドグリーンとホワイト、そしてブラジル国旗を想起させるゴールドのラインが、彼女の細身で美しい装甲の上で脈動するように輝いている。ウェイブは、スタジアムを満たすサンバのリズムに合わせて、楽しげにステップを踏んでいた。
その首元でキラリと揺れるイルカのネックレスが、まるであらゆる暴力的な戦いへのアンチテーゼのように、優雅な光を放っている。
「ハヤミ君、すごいすごい! もっと遊ぼうよ!」
ウェイブの両腕に装着されたフィン型ブレード『ウェイブフィン』から、美しくも鋭いエメラルドグリーンの水流エネルギーが立ち上る。彼女には、敵を打ち倒して栄光を掴むという、ギラついたエゴがない。勝敗の先にある莫大なマネーゲームのことも、IOFが隠し持つ醜悪な裏の投資市場のことも、彼女の頭の中には存在しないのだ。
ただこの瞬間、同じ速度で走れるライバルと、スタジアムを埋め尽くす大観衆の前で、全力でスポーツを楽しむこと。その一点にのみ、彼女の魂は純化されていた。
――これほど恐ろしい、最凶の敵がいるだろうか。
駆の胸の奥で、再び冷たいトラウマの棘が疼き出す。
4年前の国際大会、断裂した右脚のアキレス腱。周囲からの嘲笑、絶望。「二度と立ち止まりたくない」という恐怖。それらの暗い情念を燃料にして、駆は走り続けてきた。
だが、イザベラ・コスタという怪物の前では、それらの『恐怖』や『恨み』といった負のエネルギーは、ただの重荷でしかなかった。澄み切った水に泥水を投げ入れても、ただ受け流されて薄まるように、駆の焦りが、そのまま攻撃の隙となって彼女に吸収されていく。
「おおおおおっ!!」
ダッシュは雑念を振り払うように叫び、右脚のリニア・アンカーを最大出力で解放した。
ガチリ、と銀色のプロテクターが音を立て、駆の身体を弾丸のように前方へと押し出す。
超高速の白銀の閃光。
ダッシュは、ウェイブの周囲に渦巻くホログラムの水流を、あえてリニア・アンカーのクローで力強く踏みしめた。水に滑るのではない。その流動する足場を強引に推進力へと変え、通常ではあり得ない鋭角な軌道でウェイブの死角へと回り込む。
「これなら……っ!」
完璧に捉えたはずだった。ダッシュの放った超高速の右ストレートが、ウェイブの側頭部へ向けてまっすぐに肉薄する。
しかし――。
「あはは! そっちかぁ!」
ウェイブは驚くほど自然に、まるで最初からそこに駆が来ることが分かっていたかのように、上半身を異常な角度で後方へと反らした。関節の可動域を完全に無視した、大蛇のような脱力回避。
ダッシュの拳は、彼女のバイザーのわずか数ミリメートル上を空しく通過し、突進の慣性によってダッシュの姿勢が一瞬だけ崩れる。
「――っ!?」
「私のリズムは、止められないよ!」
姿勢を崩したダッシュの懐へ、ウェイブが滑るように踏み込んできた。
そこからの連撃は、まさに『悪夢』のような洗練さだった。
ウェイブフィンが空を切り裂き、流麗なエメラルドグリーンの光の刃がダッシュの胸部、脇腹、そして肩口へと、正確無比に叩き込まれていく。痛い。しかし、その打撃には「相手を破壊してやろう」という悪意のある力みが一切ない。だからこそ、攻撃の予兆である『殺気』が全く感知できない。
ただ純粋なサンバの拍子に乗せて、最も効率的に、最も美しくエネルギーを伝達する――究極のアスリートの打撃。
「がはっ……! あ、ぐ……っ!」
ダッシュの身体が、打撃の衝撃で何度も仰け反る。
回避しようとしても、その極限の思考速度すら、ウェイブの流れるようなリズムの連打には追いつかない。避けたはずの場所に、あらかじめ水が満ちるように、彼女の次の蹴りが配置されているのだ。
『おおっとぉ! これは一方的になってきた!仮面ライダーダッシュの神速の猛攻を、仮面ライダーウェイブが完璧にいなし、逆に怒涛のステップ連打を叩き込んでいく!速水選手、防御姿勢をとるのが精一杯か!?』
実況の絶叫がスタジアムをさらに加熱させる。
スクリーンには、世界中のオーディエンスが熱狂するコメントが怒涛の勢いで流れ落ちていた。
『Bellaの独壇場だ!』
『リズムが狂ってない、いや、完全に試合そのものを支配してる!』
『ダッシュ、HPがもうミリ残しだぞ! 耐えられるか!?』
駆の視界の端で、HPゲージはついに10%を切り、危険を告げるブザー音が脳内に直接響き渡る。意識が朦朧とする中、駆はなんとかバックステップを踏んで距離を取ろうとする。
「ハヤミ君、最高のフィニッシュ、いっくよー!」
ウェイブが頭上で大きく両手を叩き、首元のイルカのネックレスが眩いエメラルドグリーンの光を放った。
《Home Straight》
スタジアムの音響が最高潮に達し、サンバのドラムロールが鳴り響く。
ウェイブの背後に、スタジアムの天井にまで達する巨大なエメラルドグリーンの津波のホログラムが立ち上った。彼女はその津波のうねりそのものを背負うようにして、天空へと高く跳躍する。
人魚のようにしなやかな体躯が、空中で美しく一回転した。
重力を否定するような、圧倒的に優雅な急降下ダイブ。
「
《SPLASH FINISH!!!》
「うおおおおおっ!!」
ダッシュは、右脚のリニア・アンカーを絶叫と共に床に突き立て、最後の迎撃を試みようとした。だが、すでに削り切られた体力と、全身の装甲を襲うダメージの蓄積により、アンカーの駆動が一瞬だけ遅れる。
そのわずかな遅れが、勝負を完全に決定づけた。
天空から降り注いだエメラルドグリーンの光の津波と、ウェイブの必殺の急降下キックが、ダッシュの胸元へと真っ直ぐに炸裂した。衝撃波がセンターコート全体を激しく揺らし、白い霧のような水飛沫のホログラムが、スタジアム全体へと豪快に吹き荒れる。
「がはあああああああっ!!!」
ダッシュの絶叫が、水流の爆音の中に掻き消された。凄まじい衝撃に晒されたダッシュの身体は、フィールドの床を弾丸のように転がり、スタジアムの外壁近くまで吹き飛ばされて激突した。
チィィィィィン―――――
駆のバイザーの奥で、限界警告を知らせるレッドライトが激しく明滅し、そのまま沈黙する。
HPゲージは完全にゼロを示し、全身の装甲からバチバチと激しい火花が散った。
システム上、第1ラウンドの敗北が確定する。白銀と赤の装甲を纏ったまま、駆動を停止したダッシュの胸元で、オリンピアドライバーが静かに休止状態へと移行する。
ピィィィィーッ!!!
スタジアム全体に、第1ラウンドの終了を告げる無情なシグナルが鳴り、警告音とともに赤い『DOWN』の文字がホログラムで空中へ大きく叩きつけられた。
『決まったぁぁぁぁぁッ!!!第1ラウンドを先取したのは、仮面ライダーウェイブ!圧倒的な『リズム・クイーン』の神髄を見せつけ、仮面ライダーダッシュのHPを完璧に削り切りました!』
その瞬間、スタジアムは割れんばかりの大歓声に包まれた。ブラジルの国旗が激しく振られ、世界中から彼女の勝利を祝福するコメントが滝のように流れ落ちる。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
駆は、ダッシュの装甲を纏ったまま、冷たいコートの床に大の字になって横たわり、荒い息を吐き出していた。全身を苛む激しい疲労感と衝撃。だが、それ以上に彼の心を支配していたのは、敗北の悔しさを通り越した、底知れない『圧倒』だった。
(強すぎる……。これが、世界のトップアスリートの壁……!)
自分の走りが、リニア・アンカーの力が、一切通用しなかった。陸旋羽とのあの死闘を生き抜き、恐怖をねじ伏せて走ってきたつもりだったが、イザベラ・コスタという怪物の、悪意のない、しかし圧倒的に洗練された希望のエゴの前には、自分の走りはあまりにも拙く、速度が重すぎたのだ。
「速水くん……!」
コントロールルームのモニターの前で、輪が悲痛な声をあげ、デスクに両手をついていた。彼女の高度なシミュレーションでも、イザベラの「脱力」による物理法則を超えた戦闘リズムを完全に解析し、対策を立てることは、この短時間では不可能に近かった。
「本当に水そのものになりやがったな」
織田は持っていた缶コーヒーを強く握りしめ、チッと苦々しく舌を鳴らした。だが、その瞳の奥には、速水の敗北に対する怒りではなく、イザベラというアスリートに対する、底知れない畏敬の念が宿っていた。
「……これが、絶望の深さを知った上で、なお笑うことを選んだ人間の、エゴの強さ」
蓮見が、重々しく腕を組み直しながら呟いた。その厳格な眼差しは、床に横たわるダッシュの姿を、父親のような深い静寂で見つめていた。
フィールド上では、土煙と水飛沫のホログラムがゆっくりと晴れていく。
その中央で、ウェイブの全身を覆うエメラルドグリーンの光が、フッと収束するように消えていく。変身を解除することなく、エメラルドグリーンの優美な装甲を纏ったまま、ダッシュの方へと軽快な足取りで駆け寄ってきた。
装甲の隙間からパチパチと弾ける細かな水流の粒子が、彼女の激しい運動を物語るようにきらめいている。ウェイブは、同じく装甲を纏ったまま横たわるダッシュのそばまで来ると、その顔を覗き込むようにして、しゃがみ込んだ。
そして、バイザーの奥にあるはずの、世界中を魅了する大輪のひまわりのような無邪気な笑顔が伝わってくるような、明るく弾んだ声を響かせた。
「あはは!ハヤミ君のスピード、最高に気持ちいい!」
「え……?」
ダッシュは、バイザーの奥で、呆気にとられたように彼女のエメラルドグリーンのバイザーを見つめ返した。
負けて床に倒れ、満身創痍になっている自分。それに対して、彼女は一切の蔑みも、勝利の傲慢さも見せず、ただ純粋に「ハヤミ君と走れて、戦えて、最高に楽しかった」という喜びだけで、その場を明るく満たしていたのだ。
「私ね、こんなにワクワクしたの、本当に久しぶりだよ!ハヤミ君が私の波を掴もうとしてくれた時、心臓がバクバクしちゃった!」
ウェイブはそう言うと、ダッシュのメタリックなヘルメットの上から、よしよしと彼の頭をごしごしと撫で回した。
「わわわ! 近い、近いです、イザベラ選手……っ!」
駆はバイザーの中で顔を真っ赤にしてパニックになりながらも、彼女のその精神的距離の近さに、知らず知らずのうちに心が救われていくのを感じていた。
他者を踏みつける恐怖、システムの呪縛、敗北の絶望。
そうしたすべての暗い感情が、彼女の無邪気な声と、ヘルメット越しに伝わる温かいグローブの感触によって、優しく洗い流されていくようだった。
「もー、ベラって呼んでって言ったじゃん!はい、やり直し!」
「あ、う……ベ、ベラ選手……」
「うん、よくできました!」
ウェイブは満足そうに笑うと、ダッシュに向けて、そっと右手を差し出した。
「ほら、立って立って!試合はまだ終わってないんだからね?」
駆は、その差し出されたエメラルドグリーンのグローブを、バイザーの奥からじっと見つめた。幼少期に多くの仲間を失い、絶望の深さを誰よりも知っているからこそ、今、目の前にあるスポーツの輝きを信じ、笑顔を守るために戦う。その彼女の『エゴ』は、今の自分よりも遥かに強固で、美しい。
(俺は……負けたんだ)
駆の胸の奥に、確かな悔しさが、しかし同時に、それ以上の「この人に追いつきたい」という純粋なアスリートとしての情熱が沸き上がってきた。
恐怖に背中を押されて走るのではない。
あの太陽のように眩しい笑顔に、自分の本当の『速さ』で追いつき、共に笑い合うために。
「……はい!ベラ選手」
ダッシュの白銀のグローブが、ウェイブの手を力強く握り返す。グッと引き上げられる力を借りて、右脚のリニア・アンカーをフィールドの床に踏みしめ、彼はしっかりと立ち上がった。
休止状態だったオリンピアドライバーが微かに駆動音を響かせ、次のラウンドに向けてシステムが再起動のプロセスを開始する。
スタジアムを吹き抜ける風が、微かに南国の海の香りを運んでくる。
第1ラウンドを失い、後がない状況。しかし、駆の瞳から、恐怖の色は完全に消え去っていた。
*
インターバルを告げるブザー音が、スタジアムの喧騒を一時的に遠ざける。
各チームのピットとなるコントロールルームとの通信回線が、緊急帯域で結ばれた。
「速水くん、スーツの再起動システムは正常よ。でも、第2ラウンドで同じ戦い方をしたら、またイザベラ選手のリズムに呑み込まれてしまうわ」
輪の焦燥に満ちた声が、駆のヘルメットのレシーバーに響く。
「……分かっています、五代さん」
駆は静かに呼吸を整えながら、自身の駆動を再開したリニア・アンカーに意識を向けた。
先ほど、イザベラにしなやかに蹴りを受け流されたあの瞬間。まるで力を吸い込まれるように完全に重心を逸らされた感触。
『大蛇の胴体を掴んだようだった』
脳裏に、前日蓮見が口にしていた言葉が鮮明に蘇る。大蛇の胴体を掴むとき、相手の力に合わせて強引に握ろうとしても、柔軟な筋肉のうねりによって容易に滑り抜けられてしまう。
しかし、もしも――。
(掴むのではなく、受け流される力そのものに同調し、それを起点にして自分の『体軸』を固定できたら?)
駆には、これまで臨海地区のストリートバトルや、過酷なグラップスタイルで叩き込んできた体幹の強さがある。これまでは、リニア・アンカーによる爆発的な直線速度だけに頼りすぎていた。だが、グラップスタイルの本質は、ゼロ距離の密着状態から強固な「軸」を固定し、相手の体勢を崩すことだ。
(逃がされる力を拒まない。むしろその軌道に身を委ね、受け流される瞬間にリニア・アンカーを支点として、超至近距離から爆発力を叩き込む……!)
駆のバイザーの奥で、確かな突破口が形を成していく。
『第2ラウンド、スタート!!』
実況の合図とともに、再びピィィーッという高音のシグナルがスタジアムに鳴り響いた。
「ハヤミ君、それじゃあ第2ラウンド、いくよ!」
ウェイブがステップを刻み、エメラルドグリーンの光の粒子をパチパチと弾けさせながら、再び津波のごとき超々高速の三次元軌道を描いて肉薄してくる。
「おおおおおっ!!」
ダッシュもまた、右脚のリニア・アンカーを爆発させ、白銀の閃光となって真っ正面から突進した。
空間を歪めるほどの超高速の応酬が、再びセンターコートの空気を爆発的な風圧へと変えていく。
ウェイブフィンから繰り出される、鋭い水流を纏ったしなやかな打撃。ダッシュはそれを恐れることなく、自らその連撃の渦中へと飛び込んでいく。
「あはは、いい突進!でも、やっぱり流しちゃうよ!」
ウェイブがダッシュの鋭い右ストレートを誘うようにして、そのフィン型ブレードを傾けた。
金属音が響き、ダッシュの推進力が外側へと逃がされ、姿勢が崩れかける。
いつもの、完璧な脱力による受け流し。ウェイブが勝利を確信し、ダッシュの背後へと回り込もうとした、まさにその刹那――。
(――今だ!!)
ダッシュはあえて、威力を逃がされる外側の軌道へ、抵抗せずに全身の体重を委ねた。しかし、その瞬間に、グラップスタイルで培った強靭な体幹を極限まで引き締め、己の『軸』を鉄柱のように固定する。
《HAJIME!!!! Athlete Rider DAShhhh!!!!》
ダッシュの姿が
「えっ……!?」
ウェイブのバイザーの奥で、イザベラが目を見張る。ダッシュは、受け流されたはずの軌道から、リニア・アンカーを支点にして強引に身体をコマのように高速反転させたのだ。
マニピュレーターの受け流しのエネルギーと、リニア・アンカーの爆発力が瞬時に掛け合わされ、超至近距離で相殺を超えたすさまじいカウンターの軌道が生まれる。
「はぁぁぁぁっ!!」
自転の凄まじい遠心力をすべて乗せた、ダッシュの左脚の超高速ハイキックが、ウェイブの首元へと容赦なく一閃された。
完璧なまでのクリーンヒット。
極限のゼロ距離から叩き込まれた白銀の衝撃が、ウェイブのエメラルドグリーンの装甲を激しく歪ませ、激しい火花がスタジアムの夜空に散った。
「きゃああっ!?」
受け流しを完全に封じられ、強烈な一撃をまともに喰らったウェイブの身体が、フィールドの端まで吹き飛び、床を激しく転がった。
『な、何が起きたぁぁぁ!!!あの『リズム・クイーン』の完璧な受け流しを、仮面ライダーダッシュが超至近距離からの泥臭くも極限のカウンターで撃ち破った! ウェイブのバイザーが大きく揺れている!』
スタジアムの大歓声が、爆発的な音響となってドームを震わせる。
転がるウェイブに、ダッシュは追撃の手を一切緩めない。
「止まらない……俺は、立ち止まらない!」
《START DASH!!!! Athlete Rider DAShhhh!!!!》
右脚のリニア・アンカーが真っ赤に過熱し、紅のプラズマの尾を引いてダッシュが滑走する。
今度は、恐怖に支配されるための走りではない。目の前の眩しいライバルを、自分自身の速さで超えるための、魂の猛攻だ。
床を蹴り上げて立ち上がろうとするウェイブへ、ダッシュの神速の連撃が容赦なく叩き込まれていく。
直線的な突進、ステップを駆使した鋭角な切り返し、そしてアンカーを叩きつけるような重撃。
泥臭く、それでいて一切の迷いがないダッシュの攻勢に、ウェイブのHPゲージは驚異的な速度で削り取られていく。
「あはっ、強い……本当に強いよ、ハヤミ君!」
ウェイブは攻撃を浴びながらも、バイザーの奥でどこか嬉しそうに呟き、最後の抵抗を試みる。
だが、自分の軸を完全に確立したダッシュの速度は、もはや何者にも流されはしなかった。
ダッシュの最後の一撃となる必殺のストレートが、ウェイブの胸部装甲へ完璧に突き刺さる。
激しい爆発光とともに、ウェイブのHPゲージが瞬時にゼロを指し示し、システムアラートがけたたましく鳴り響いた。
ピィィィィーッ!!!
フィールド全体に、第2ラウンドの終了を告げるシグナルが鳴り渡る。メインスクリーンに躍り出たのは、日本の勝利を告げる鮮烈な文字だった。
『取り返したぁぁぁぁぁッ!!!第2ラウンドを制したのは仮面ライダーダッシュ!これで1対1!勝負の行方は、運命の最終ラウンドへと持ち込まれました!』
割れんばかりの日の丸の歓声が、スタジアムの夜空へとどこまでも高く響き渡っていった。