仮面ライダーダッシュ   作:山都撫子

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第3話「掴み取れ、一本の未来」

 ガレージを兼ねた専用ピットのデスクの上で、駆のスマートフォンがまるで生き物のように激しく震え、無数の通知音を鳴らし続けていた。

 

「うわっ、また増えてる……」

 

 パイプ椅子に腰掛けた駆は、頭を抱えて画面を凝視した。

 

 画面に並ぶのは、有名まとめサイトのスクショや、SNSでのトレンドワード。

 

『神々の領域に到達した日本のアスリートライダー・速水駆、100億円の男レックスと互角の死闘!』

 

『チーム・ダッシュ、前日比インデックス400%の異常事態』

 

『脱サラランナーが世界を掴む? 独占密着記事はこちら!』

 

 さらにメッセージアプリを開けば、会社員時代の元同僚や、ろくに話したこともない他部署の上司から「お前いつの間にライダーなんかになったんだよ!」「今度一杯奢らせてくれ!」といった、調子の良い連絡が100件以上も届いている。

 

 ほんの数日前まで、アキレス腱を断裂して会社を辞め、世間から『終わった選手』と無視されていた男が、たった一つの勝利で一転して時代の寵児として祭り上げられている。そのあまりの現金さと速度に、駆の一般感覚は完全に悲鳴を上げていた。

 

「もう、贅沢な悩みねぇ、速水くん! 今の日本チームの市場価値(インデックス)のグラフ、見てよ!」

 

 輪がノートPCの画面を駆の目の前に突きつける。そこには、赤色で描かれたチーム・ダッシュの株価レーティングが、まるでロケットのように垂直に跳ね上がっているグラフが表示されていた。

 

「レックス選手を助けたあの動画、世界中で2億回再生を突破したわ。スポンサーの問い合わせも殺到してる。これで私たちの活動資金も少しは――」

 

「おい、浮かれてんじゃねえぞ、五代」

 

 ピットの奥から、缶コーヒーのプルタブを空け、口をつけながら織田が歩み寄ってきた。彼は駆の前に立つと、容赦なくその右足首のサポーターを上からガシッと掴んだ。

 

「がうっ!?」

 

 駆の口から情けない悲鳴が漏れる。激痛が走り、背中に冷や汗が伝った。

 

「ほら見ろ。アドレナリンが切れて、肉体はボロボロだ。親善試合での無理が祟って、右足首の『トップギア・レガース』の接続神経が炎症を起こしてやがる。速水、お前の脚は100億円のプロテクターに耐えられるほど、まだ頑丈にできてねえんだよ」

 

 織田はコーヒーの成分が混じった息を吐き出し、冷徹に言い放った。

 

「今日は一切のトレーニングを禁止する。メディアの取材も全部シャットアウトだ。大人しく街でもぶらついて、その錆びついた根性と故障(ジャンク)寸前の脚を冷やしてきやがれ」

 

「織田さん……。すみません」

 

 駆は痛む足首をさすりながら、静かに俯いた。

 

 世界トップの壁であるレックスには「本戦のバトルで追い越す」と大口を叩いたものの、今の自分の肉体は、たった一回の限界突破で壊れかけている。その理想と現実のギャップが、駆の胸に重くのしかかっていた。

 

 織田に追い出されるようにしてピットを出た駆は、キャップを深く被り、スポーツ用のサングラスをかけて下町の雑踏を歩いていた。

 

 街頭の大型ビジョンでは、相変わらず昨日のエキシビションのハイライトが流れている。画面の中で派手にポーズを決める仮面ライダーブリッツと、必死に泥を弾きながら滑り込む自分。

 

 ふと、周囲の喧騒から逃れるようにして、駆は一本の路地裏へと折れた。

 

 そこは、彼がまだ会社員だった頃、営業回りのルートとして毎日のように歩いていた、見覚えのある古い住宅街だった。

 

 サラリーマン時代、理不尽なノルマや上司の叱責に追われ、心が折れそうになるたびに、駆はこの先の坂道にあるある場所へ足を運んでいたのだ。

 

 坂を登りきった場所に、古びたコンクリート造りの建物が佇んでいた。

 

 剥げかけた看板には、『東都実業団・武道館』の文字。かつて高名な柔道家を数多く排出した、伝統ある実業団の道場だった。

 

(懐かしいな。ここで蓮見さんの試合用のサプリメントや、遠征用のスポーツ飲料の営業契約を取るために、毎日通ってたんだっけ……)

 

 駆の脳裏に、会社員時代の記憶が蘇る。

 

 当時、怪我で陸上を諦めたばかりの駆にとって、同じように満身創痍でありながらも、畳の上で命を懸けて戦う実業団のアスリートたちは、眩しく、そして心の支えだった。特にその中心にいたエース選手とは、営業の枠を超えて、スポーツの未来について熱く語り合った記憶がある。

 

懐かしさに誘われ、駆は錆びついた鉄扉をゆっくりと押し開けた。

 

「失礼します……」

 

 静まり返った館内に響いていたのは、歓声でも気合いの声でもなく、重い木製の棚や畳が擦れ合う、寒々とした生活音だった。

 

「あれ……?」

 

 駆が武道館の中央へと足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。

 

 何枚もの柔道畳が乱雑に積み上げられ、壁に掛けられていた歴代の優勝旗や賞状は、すべて段ボール箱の中に押し込められている。

 

 その中央で、一人静かに、巨大な木製の神棚を降ろそうとしている男がいた。

 

 紺色の警備員の制服を身に纏っているが、その背中、衣服の上からでも分かる圧倒的な広背筋と体幹の太さは、明らかに一般の人間のものではない。

 

「……誰だ。ここは今、関係者以外立ち入り禁止だぞ」

 

 男が振り返った。

 

 短く刈り込まれた髪に、鋭い眼光。しかし、その瞳の奥には、すべてを諦めたような深い陰りがあった。

 

「蓮見……さん……?」

 

 駆は思わず、サングラスを外して声を上げた。

 

 男の名前は、蓮見(はすみ)(たくむ)

 

 元・柔道男子100kg級日本代表候補。かつて『畳の上の怪物』と恐れられ、その豪快な一本背負いで世界を獲ると期待されていた、東都実業団の絶対的エースだった。

 

 蓮見は駆の顔を見ると、驚いたように目を見開いたが、すぐに自嘲気味な笑みを浮かべて神棚を床に置いた。

 

「速水……。いや、今は仮面ライダーダッシュだったな。昨日のテレビ、見たぞ。大した有名人じゃないか」

 

「蓮見さん、これは一体どういうことですか? なんで警備員の格好を……。実業団の練習は、柔道部は一体どうしたんですか!?」

 

 駆の矢継ぎ早の質問に、蓮見は静かに首を横に振り、誰もいなくなった広い道場を見渡した。

 

「廃部だよ。先月末で、東都実業団の柔道部は完全に解散した」

 

「え……っ!?」

 

「理由は単純だ。今の時代、すべてのスポーツ予算はWARBの利権に吸い上げられている。IOFのシステムに登録され、市場価値を稼げる一握りのトップアスリート以外は、企業にとってただの不良債権なんだよ」

 

 蓮見は、自分の厚いマメだらけの手のひらを見つめた。

 

「伝統だの、心技体だの言ったところで、数字が弾き出す経済効果の前には無力だ。会社は柔道部を潰し、その予算をWARBの下部組織への出資に回した。俺は……怪我もあったし、引退して、今はこうしてこの施設の解体警備を請け負ってるってわけだ」

 

「そんなの……そんなのっておかしいです!」

 

 駆は思わず大声を上げていた。

 

「蓮見さんの柔道は、たくさんの人に勇気をあたえてました! 俺だって、蓮見さんが畳の上で戦う姿を見て、会社員として辛い時も頑張れたんです! なのに、数字が足りないっていうだけで、そんな簡単に……っ」

 

「簡単に終わるんだよ、速水」

 

 蓮見の静かな、しかし重苦しい声が、駆の言葉を遮った。

 蓮見はゆっくりと駆に近づくと、その逞しい手で駆の肩をぽんと叩いた。

 

「お前は選ばれたんだ。誰もが羨む、WARBの、あの華やかなフィールドの上を駆けるライダーに。だったら、俺たちみたいな時代の型落ちのことは忘れて、前だけ見て走れ。……それがプロってモンだろ」

 

 蓮見の言葉には、怒りも憎しみもなかった。ただ、圧倒的な時代のシステムに叩きのめされ、牙を抜かれてしまったアスリートの、深い絶望だけがそこにあった。

 

 会社を辞めて別の道を選んだ自分と、会社に残されて夢を奪われた蓮見。その残酷な対比に、駆は言葉を失い、ただ足元の割れた畳を見つめることしかできなかった。

 

 その時だった。

 

 武道館の入り口の強固な鉄扉が、凄まじい衝撃音とともに内側へ向かって吹き飛んだ。

 

 爆風とともに、白煙が道場内へと流れ込んでくる。

 

「ヒャッハハハ! おいおい、まだ片付けが終わってねえのかよ? 予定じゃ今日からここは、俺たちの新しい賭け試合のバンクになるはずだぜぇ!」

 

煙の向こうから、下品な笑い声とともに、数人のガラの悪い男たちが土足で畳の上へと踏み込んできた。その中心にいるのは、全身をボロボロのリングロープや、引きちぎられたパイプ椅子の装甲で覆った、異形の怪人・ブローラー・ファールだった。

 

「ファール……!」

 

 駆は即座に腰に手を伸ばしたが、今日に限って、織田に「絶対安静」を命じられたため、オリンピアドライバーはピットに置いてきてしまっていた。

 

「貴様ら、何者だ! ここはまだ解体前だ、土足で畳に上がるな!」

 

 蓮見が警備員として、毅然とした態度で男たちの前に立ちはだかる。

 

 しかし、ブローラー・ファールはその醜悪な顔を歪めると、右腕の鉄パイプを容赦なく蓮見へと振り下ろした。

 

「うるせえよ、型落ちの警備員が! 時代の最先端の邪魔をするなァッ!」

 

「ぐ、おおぉっ!?」

 

 鈍い金属音が静かな道場に響き渡り、蓮見の巨体が畳の上を激しく転がった。

 

 警備員の制服の肩口が裂け、そこからじわりと赤い血が滲む。ブローラー・ファールが容赦なく振り下ろした鉄パイプの直撃を、蓮見は辛うじて左腕の肉厚な前腕で受け止めたのだ。凄まじい衝撃に顔を歪めながらも、蓮見の眼光だけはまだ死んでいなかった。

 

「蓮見さん!!」

 

 駆が叫び、蓮見の身体を抱き起こそうと飛び出す。しかし、それを遮るように、数人の不良たちがニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら行く手を阻んだ。

 

「ヒャハハ! 見ろよ、元・日本代表候補が、今じゃ安月給の警備員で怪人の一撃に這いつくばってやがる! 惨めだねぇ!」

 

「おい、さっさとその神棚も畳も外へ放り出せ! ここは今日から、IOFの裏ルートから流れてきた極上の賭場に生まれ変わるんだよ!」

 

 ブローラー・ファールは、手にした鉄パイプをカン、カンと床に打ち付けながら、ゆっくりと道場の中央へ進み出てくる。その全身から放たれるのは、公式戦のクリーンなアスリートのオーラではない。プロレスの選考に漏れ、エゴを歪ませて暴力の快楽に溺れた、ドブネズミのような濁った殺気だった。

 

「やめろ……。そこは、俺たちの場所だ……」

 

 蓮見が床に血を吐き捨て、ボロボロになりながらも再び立ち上がろうとする。

 

「蓮見さん、もう無理をしないでください!」

 

 駆は蓮見を背後に下がらせると、怒りに震える拳を握りしめ、自身の胸ポケットに手を伸ばした。

 

 ――そこには、今朝、輪が「お守り代わりに」と無理やり押し込んできた、スプリンターメダルが確かにあった。

 

(ドライバーはピットにおいてきてしまった。でも、ここで引くわけにはいかない!)

 

 その時、武道館の割れた天井から、凄まじい風切り音とともに、見慣れたドローンが強烈な勢いで射出され、畳の真ん中へと突き刺さった。

 

「な、何だあぁっ!?」

 

 不良たちが飛び退く。煙の中から現れたのは、頑強なメタル仕様のドローン。

 

『ハヤミ・カケルのバイタル異常を検知。緊急搬送を完了しました!』』

 

 JP-01の音声とともにボトッと何かが落ちた。それは見覚えるのあるベルト型のツール・オリンピアドライバーだった。

 

『お前、本当にじっとしてねえランナーだな、速水!』

 

 通信機から、呆れたような、しかしどこか楽しげな織田の声が響いた。

 

『五代のナビのおかげで、お前の現在地が実業団の道場だって分かった瞬間に、嫌な予感がしてな。機材をドローンで飛ばしといて正解だった。おい、足首の炎症は治ってねえが……やれるか?』

 

「はい……! 織田さん、俺に今日走るなと言ったのは、脚を守るためですよね」

 

 駆はボックスからドライバーを掴み取り、自身の腰へと叩きつけた。カシャアアン! と強固な帯が腰を締め付ける。

 

「でも、目の前で夢を、大切な場所を踏みにじられている人がいるなら……俺の脚は、そのために動かなきゃ意味がないんですッ!!」

 

 駆はスプリンターメダルを天高く掲げた。

 

「変身ッ!!」

 

《START DASH!!!! Athlete Rider DAShhhh!!!!》

 

 眩い光の粒子が駆の全身を包み込み、流線型のスマートな戦士の装甲が顕現する。そのバイザーの奥の赤い電子眼が、鋭くファールを捉えた。

 

「へっ、やっぱりお前がダッシュか!レックスと戦って勘違いしてるようだが、ここはお前の大好きなだだっ広い場所じゃねえんだよッ!」

 

 ブローラー・ファールが吼え、全体重を乗せて突進してきた。その手にした鉄パイプが、空気を切り裂く不穏な音を立てる。

 

「はあぁぁぁッ!」

 

 ダッシュは、いつものように爆発的な一歩を踏み出そうとした。時速300キロを超える超高速の世界へ突入しようとした――その刹那。

 

 ――ピキィィン

 

「ぐっ……!?」

 

 右足首のトップギア・レガースから、過負荷を示す激しい白煙がプシューッと吹き出し、鋭い激痛が走った。今朝の炎症が完全に引き切っていない。最高速度(トップギア)に達するまでのタメの瞬間に、肉体が悲鳴を上げたのだ。

 

 さらに、この空間はあまりにも狭い。周囲はコンクリートの壁と、積み上げられた瓦礫、そして乱雑に割れた畳。スプリンタースタイルの真骨頂である長い直線の直線加速に必要な距離が、圧倒的に足りなかった。

 

「スピードが出ねえなぁ、おいッ!!」

 

 減速したダッシュの懐へ、ファールが瞬時に肉薄した。

 

 ファールはボクシングや陸上の綺麗なステップなど完全に無視し、ダッシュの胸ぐらを強引に両手で鷲掴みにしてきた。

 

「何っ!?」

 

「捕まえたぞ、スピードスター! 捕まえちまえば、お前の足の速さなんて何の意味もねえんだよッ!」

 

 ガシィィン! と不快な金属音が響き、ダッシュの身体が完全に固定される。

 

 そのまま、自由を奪われたダッシュの顔面や腹部へ向けて、トゲのついた強固な拳をゼロ距離から狂ったように叩き込み始めた。

 

「がはっ……、あぁっ……!?」

 

 激しい衝撃がダッシュの装甲を揺らす。狭い空間での泥仕合に強引に引きずり込まれ、自慢の速度を完全に殺されたダッシュは、避けることもできずにただ殴られ続けるサンドバッグと化していた。

 

「速水!!」

 

 蓮見が叫ぶ。

 

「ヒャハハハ! 終わりだ、100億円のイレギュラーが聞いて呆れるぜ! 伝統だの誇りだの言ってる奴らは、まとめてこの床に転がしてやる!」

 

 ファールはダッシュの身体を力任せに振り回すと、道場の中央の畳が剥がれたコンクリートへと激しく叩きつけた。

 

「う、あぐっ……!」

 

 上半身の装甲からバチバチと火花が散り、ダッシュは床に倒れ伏した。右足首のパーツが金属疲労で悲鳴を上げ、立ち上がろうとする膝がガクリと震える。

 

(狭い……。掴まれたら、加速できない。俺の走りが……届かない……!)

 

 絶望がダッシュの脳裏を支配しかけた、その時だった。

 

 タッ、タッ、タッ、と。

 

 割れた畳を踏みしめる、重く、確かな足音がダッシュの前に近づいてきた。

 

 血に汚れた警備員の制服を脱ぎ捨て、白いアンダーシャツ一枚になった蓮見が、ダッシュを庇うようにしてファールの前に立ちはだかったのだ。その背中は、どんな壁よりも大きく、分厚かった。

 

「蓮見……さん……ダメだ、逃げて……」

 

 ダッシュが声を絞り出す。

 

 だが、蓮見は逃げなかった。その大きな足でしっかりと畳を踏み締め、腰を深く落とした。その瞬間、彼の全身から、これまで隠されていた本物の柔道家の、圧倒的な気迫(エゴ)が解き放たれた。

 

「速水。お前はさっき、俺の柔道を見て会社員時代を頑張れたと言ったな」

 

「え……?」

 

「俺も同じだ。お前が怪我で脚を壊して、それでもスーツを着て毎日毎日、泥臭く頭を下げて営業回りをしている姿を見て……俺は、まだ戦えるって思ってたんだよ」

 

 蓮見の大きな手が、自身の胸の奥の誇りを鷲掴みにするようにして熱く吼えた。

 

「伝統が数字に負けたんじゃない! 俺が、俺自身の誇りを諦めかけていたから、この場所を奪われそうになってるんだ! ……速水、スピードが出せないなら、走るな!」

 

「走るな……?」

 

「柔道はな、相手の力が大きければ大きいほど、それを逆手にとって投げるんだ! 喧嘩のルール無用に、まともなステップで付き合う必要はない。……奴の暴力を、お前の速度で巻き取れ!!」

 

 ――その瞬間。

 

 連盟のデータには決して現れない、一人の柔道家の『命懸けの誇り』に呼応するように、ダッシュのドライバーが眩い赤い光を放ち始めた。

 

『周辺の精神熱気(ボルテージ)の急上昇を確認! 新規アタッチメント・メダルを生成します!』

 

 上空のJP-01から、輪が遠隔で調整を完了させた、黄金に輝く武骨な輝きを放つ新たなメダル――グラップメダルが撃ち出された。それはまるで、伝統の技を受け継ぐバトンのように、倒れ伏すダッシュの手の中へと真っ直ぐに吸い込まれていった。

 

「蓮見さん……。俺たちの走りを、技を、ここに証明しましょう!」

 

 ダッシュは痛む脚を叱咤し、気迫とともに立ち上がった。手の中の黄金のメダルを、スロットへと力強く叩き込み、ドライバーの右側にあるスターターレバーを強烈に引き絞る。

 

《Rei》

 

《HAJIME!!!! Athlete Rider DAShhhh!!!!》

 

バイザーの奥の電子眼が真紅から深遠なる「藍色」へと染まり、ダッシュの全身の駆動システムが、最高速度を追求する陸上競技(スプリンター)から、絶対的な剛性と重心制御を誇る柔道(グラップ)へと再構築されていく。

 

 白銀と紅の軽量流線型装甲は瞬時に弾け飛び、代わりに現れたのは、まるで白銀と蒼の柔道着をデジタルにアップデートしたかのような、多層構造の重厚なプロテクターだった。

 

 両肩と両拳には、高分子の超吸着カーボンで成形された強固なマニュピレーターが装着され、全身の関節部からは過負荷を防ぐための油圧ダンパーの駆動音が「シューッ、コン!」と力強く鳴り響く。

 

 仮面ライダーダッシュ・グラップスタイル

 

 その佇まいは、さながら畳の上に君臨する、無敵の不動明王のようだった。

 

『警告。非公式戦闘を検知。IOF連盟規約に基づき――これより、全世界へリアルタイムの緊急パブリック・中継を開始します』

 

 公式戦しか流さないはずのIOFの配信ネットワークが強制ジャックされ、この下町のうらぶれた武道館の映像が、世界中のスポーツファン、そして駆の元同僚たちの端末へと一斉にストリーミングされ始めた。

 

『なんだこれ!? 公式のエキシビションじゃないぞ!?』

 

『ダッシュの新しいフォームか? 赤じゃなくて……青!?』

 

『待て、あの場所、廃部になった東都実業団の道場じゃないか?』

 

 スマートフォンの画面、街頭の大型ビジョン。昨日まで駆を「ただのラッキーな脱サラランナー」と見ていた世間の視線が、再びこの一戦に釘付けになる。画面の隅に表示されたチーム・ダッシュの市場価値(インデックス)の数字が100、200、500と、見たこともない速度でカウントアップを始めた。

 

「チッ、着替えたところで何が変わるかよぉ! まとめて圧殺してやるわぁッ!」

 

 ブローラー・ファールが激昂し、地響きを立てて突進してきた。全体重を乗せた、ヘビー級の残虐な右ストレートが、ダッシュの顔面へと一直線に迫る。

 

 だが、グラップスタイルのダッシュは、もう一歩も引かなかった。避けるためのステップすら踏まない。

 

 ファールの鉄拳がダッシュの顔面を捉える直前、ダッシュは両腕を十字に交差し、厚強な前腕のプロテクターでその一撃を真っ向から受け止めた。凄まじい衝撃波が走り、足元のコンクリートの床がバリバリと蜘蛛の巣状に割れる。だが、ダッシュの身体は、ミリ単位すら後退していなかった。

 

「な、何だと……!? 俺のパワーを、完全に止めた……!?」

 

「スピードだけが、俺の走りじゃない。……蓮見さんに教わった柔道、ここで見せてやる!」

 

 ダッシュの両拳のマニュピレーターが、意思を持つように「ガシィィン!」と音を立てて怪人の手首、そして強固なリングロープの襟元を完璧にロックした。超吸着カーボンが怪人の皮膚と同化するように食い込み、如何なるラフプレイでも絶対に離れない強固なホールドが完成する。

 

「離せ! 離しやがれ、この野郎っ!」

 

 ファールはパニックに陥り、ダッシュの胸を蹴りつけ、後ろへ、前へと不格好に力を込めて暴れ狂う。

 

 しかし、グラップスタイルのダッシュは、蓮見の体幹データをトレースしたかのように、完全に床へ根を張っていた。怪人が暴れれば暴れるほど、そのエネルギーはすべて、ダッシュの装甲の油圧ダンパーへと吸収・蓄積されていく。

 

「後ろに引けば、前へ崩れる。前に来れば、後ろへ回る……!」

 

 バイザーの奥で、駆の一般感覚が、かつて営業中に蓮見から聞いた柔道の極意を数式のように弾き出す。

 

 ファールが怒りのままに前進し、全体重をかけてダッシュを押し潰そうとした、その瞬間――。

 

 ダッシュは完璧なタイミングで力を抜いた。いや、怪人の前進の勢いに、自分自身の爆発的な『一歩の踏み込み』の速度をさらに上乗せしたのだ。

 

「しまっ――」

 

 ファールの巨体が、ガクリと前方に大きく傾く。崩しの成立。

 

 ダッシュは鋭く腰を落とし、怪人の懐のさらに深く、ゼロ距離へと一瞬で滑り込んだ。自身の背中をファールの胸にピタリと密着させる。

 

「これで、一本だァァァッ!!!」

 

《IPPON》

 

 ダッシュはファールの腕を巻き込みながら、陸上選手としての強靭な大腿四頭筋と背筋、そして柔道の美しいキレを融合させ、体幹を極限まで捻りあげた。

 

 武道館の空気が、巨大な渦となって鳴動した。

 

柔よく剛を制す。怪人が誇っていた喧嘩破天荒なヘビー級のパワーが、そのまま自分自身を地球の引力へと叩きつけるための最強の推進力へと反転する。

 

 ブローラー・ファールの巨体が、綺麗な、あまりにも美しい放物線を描いて宙を舞った。世界の上下が逆転したような錯覚の中、武道館の割れた天井から覗く青空を仰ぎ見る。

 

《GRAP FINISH!!!》

 

 ダッシュが両腕を引き絞り、畳の無くなった床へと怪人を全力で叩きつけた。

 

 文字通り、武道館全体が激震した。

 

爆音とともに、残っていた窓ガラスがビリビリと音を立ててすべて粉砕され、衝撃波が同心円状に広がって周囲の不良たちを吹き飛ばす。完全なる一本。

 

 床に埋まるほどの威力で叩きつけられたブローラー・ファールは、その衝撃でメダルが内部から粉々に砕け散り、全身を覆っていたパイプ椅子の装甲がパラパラと灰になって霧散していった。後に残されたのは、意識を失い、大の字になって白目を剥いている元レスラーの男の姿だけだった。

 

「ひ、ひえぇぇぇっ! 化け物だぁっ!」

 

 ボスを失った不良たちは、腰を抜かしながら、割れた扉の向こうへとクモの子を散らすように逃げ去っていった。

 

 静寂が戻った道場に、ホバリングするドローンJP-01の機械駆動音だけが虚しく響く。

 

 すると突然、ドローンのレンズから、何重もの青いホログラムのプロジェクション・スクリーンが空中へと鮮やかに展開された。

 

 激しく数値を更新し続けるグリッド線の向こう側で、IOFのメインシステムが、この非公式戦の全データを冷徹に弾き出し、空間に巨大な文字を浮かび上がらせていく。

 

 ―――――

 

 緊急迎撃戦:終了(GAME SET)

 勝者:仮面ライダーダッシュ(グラップスタイル)

 オーディエンス・レート:82%

 日本・インデックス:前回より5%低下

 

 ―――――

 

 変身を解除し、ジャージ姿に戻った駆は、呆然とその数値が消えた空間を見つめた。右足首の痛みを一瞬忘れるほどの、とんでもないリザルトがそこに刻まれていた。

 

 隣に立つ蓮見は、少し呆れたように、しかしその武骨な顔をこれ以上ないほど破顔させて歩み寄ってきた。

そして、駆の肩をガシィッ! と強い力で叩いた。

 

「見事な一本だった、速水。……どうやら俺たちの柔道も、まだ世界に通用するらしいな」

 

「はい! 蓮見さんの技は、数字なんかじゃ測れない本物です!」

 

二人のアスリートが笑い合う中、割れた入り口から、パチ、パチ、パチ、とゆっくりとした拍手の音が近づいてきた。

 

 入ってきたのは、咥え煙草を指に挟んだ織田と、タブレットを小脇に抱えた輪だった。

 

「いやぁ、驚いたわ! 速水くんの今の戦闘データ、市場価値がまた跳ね上がってる! 日本の伝統競技である柔道の力をWARBに組み込むなんて、新しいスポンサーが泣いて喜ぶわよ!」

 

 輪が画面を見せながら興奮気味に捲し立てる。

 

「フン、不器用なランナーには、これくらい泥臭いブレーキという関節技がお似合いだってことだ」

 

 織田は蓮見の前に立った。その鋭い目が、蓮見の引き締まった身体と、その奥にある死んでいないエゴを見定めている。

 

「蓮見巧。お前、警備員なんかで一生燻ってるつもりか?」

 

「……何?」

 

 蓮見が眉をひそめる。

 

「うちのチーム・ダッシュは、見ての通り資金もなけりゃ、走る馬鹿も一匹しかいねえ弱小だ。だがな、世界を相手に大番狂わせを起こすためのシートは、まだ空いてる」

 

 織田は不敵に笑い、蓮見に手を差し伸べた。

 

「伝統だの利権だの、上から目線で俺たちのスポーツを弄ぶIOFの面中に、お前のその重たい一本背負いをブチ込んでやりたくはねえか?」

 

 蓮見は驚いたように目を見開き、それから隣で「おねがいします!」と目を輝かせている駆を見た。

 

 伝統ある道場は無くなるかもしれない。だが、自分が畳の上で培ってきた魂は、あの歪んだWARBのフィールドの上でこそ、もう一度輝けるのではないか。蓮見の胸の中で、かつて世界を目指した怪物のエゴが、完全に目を覚ました。

 

「……速水」

 

 蓮見は警備員の帽子を床に置くと、織田の手をガシッと力強く握り返した。

 

「速水、お前が変身したあの力を最大限に引き出させたい。その手助けを、俺にさせてくれねぇか?」

 

「もちろんです、蓮見さん!」

 

 駆は嬉しそうに声を弾ませた。

 

 割れた看板の向こうから、燃えるような夕暮れの光が差し込み、新しく結ばれた一人の戦士とサポートする仲間を静かに、しかし熱く照らし出していた。

 

 チーム・ダッシュに、最強の盾が加わった瞬間だった。

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