/*/ ジュノー コーラス王朝 王宮 臨時MH格納区画 早朝 /*/
その日は、朝から城が鳴っていた。
最初は、遠雷のように聞こえた。
低く、長く、石壁の奥を震わせる音。
だが、雷ではない。
空は晴れている。
鳥も飛んでいる。
王宮の庭には朝の光が落ちている。
それでも、城の奥から、ずっと音が響いていた。
ううううううう――
金属が軋む音ではない。
故障した駆動部の異音でもない。
もっと生き物に近い。
もっと、喉の奥から漏れるような音だった。
トローラ・ロージンは、ベルリンの格納区画前で朝飯代わりの硬いパンを齧りながら、その音に顔をしかめた。
「……ジュノーンのボディ鳴りか」
隣に立つシューシャが、静かに頷いた。
「はい」
「泣いてんのか」
シューシャは、少しだけ目を伏せた。
「はい。泣いてます」
トローラはパンを持ったまま、格納区画の奥を見た。
白い騎体。
コーラスの未来を背負う機体。
だが今は、戦う前から怯えている子供のように、城中へ声を漏らしている。
「何て言ってる」
シューシャは、耳ではなく、もっと別の場所でその音を聞いているようだった。
「怖い、怖いと」
トローラは黙った。
パンを噛む音だけが残る。
しばらくして、彼は苦く笑った。
「俺にはどうしようもないな」
「マスター」
「俺は悪党騎士でゴロツキだ。MHの泣き声を慰める趣味も、機能も、資格もねぇ」
シューシャは首を横に振らなかった。
ただ、ジュノーンの方を見ていた。
「ですが、聞こえてはいるのですね」
「うるせぇくらいにな」
トローラはパンを飲み込み、腕を組んだ。
「怖いか。そりゃ怖いだろうよ。戦場に出されるんだからな。しかも、綺麗な顔して、綺麗な王様乗せて、綺麗なファティマ乗せて、綺麗に死にそうな連中ばっかり周りにいる」
「マスター」
「分かってる。俺が言っても仕方ねぇ」
ジュノーンは鳴り続けている。
城の廊下を歩く侍従たちも、整備兵たちも、騎士たちも、その音を聞いていた。
誰も大声では話さない。
機体の怯えが、城全体を薄く包んでいた。
トローラは、ちらりと自分の後ろを見た。
白いベルリンがいる。
まだ自分の騎体という実感は薄い。
それでも、シューシャが隣に立ち、コーラス三世が貸すと言い、ソープやヴィラードが面白がり、逃げ場がなくなった結果、トローラはそこにいる。
「シューシャ」
「はい、マスター」
「お前、ベルリンが泣いたら分かるか」
「分かると思います」
「そん時は教えろ」
「はい」
「俺には泣き声の中身までは分からねぇ。だが、鳴ってるのは分かる。だったら、せめて無視しねぇ」
シューシャの表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「はい」
その時だった。
ジュノーンの鳴りが、少し変わった。
怯えに混じっていた震えが、ふっと細くなる。
格納区画の奥がざわめいた。
整備兵が声を落とす。
「来た……」
「クローソー様だ」
トローラは目を細めた。
クローソー。
その名を聞いただけで、空気が変わった。
小さな影が、ジュノーンへ近づいていく。
華々しい足取りではない。
急いでもいない。
ただ、泣いているもののそばへ行くように、静かに歩く。
トローラは、無言で見ていた。
シューシャも、見ていた。
クローソーはジュノーンの足元へ立ち、そっと寄り添った。
触れたのか。
触れていないのか。
遠目にはよく分からない。
だが、その瞬間、ボディ鳴りが変わった。
ううううううう――
長く震えていた音が、少しずつ低くなる。
揺れていた金属の声が、収まっていく。
泣いていた子供が、誰かに背中を撫でられて息を整えるように。
城中を満たしていた怯えが、薄れていく。
トローラは、小さく息を吐いた。
「……すげぇな」
シューシャが答える。
「はい」
「俺には無理だ」
「マスターには、マスターにできることがあります」
「都合のいい慰めか?」
「いいえ」
シューシャは、真面目な顔で言った。
「マスターは、戻れと叫べます」
トローラは一瞬、言葉を失った。
ジュノーンの鳴りは、もうほとんど収まっていた。
そして、次の瞬間。
白いMHの奥から、別の音が響いた。
エンジン。
ジュノーンのエンジンが起動する。
整備兵たちが一斉に動いた。
「起動確認!」
「反応安定!」
「ボディ鳴り、収束!」
「駆動系、立ち上がります!」
格納区画に歓声が上がりかけて、すぐに抑えられる。
まだ神聖なものに触れているような空気があった。
トローラは、白い騎体を見上げた。
さっきまで泣いていた機体が、今は静かに立ち上がろうとしている。
怖い怖いと泣いていたのに。
誰かが寄り添っただけで、もう一度起き上がる。
「……少年漫画かよ」
トローラは小さく笑った。
シューシャが首を傾げる。
「少年漫画?」
「いや、こっちの話だ」
トローラはパンの残りを口へ放り込み、ベルリンの方へ歩き出した。
「行くぞ、シューシャ」
「はい、マスター」
「ジュノーンが泣き止んだなら、次は俺たちの番だ。ベルリンも拗ねる前に見てやらねぇとな」
「ベルリンは拗ねますか」
「王騎だぞ。きっと面倒くさい」
「マスターほどではないと思います」
「言うようになったな、お前」
シューシャは小さく笑った。
その笑顔は、川から引き上げられた時の弱さだけではない。
トローラのファティマとして、隣に立とうとする光があった。
背後では、ジュノーンのエンジンが安定していく。
クローソーが寄り添い、泣き声は収まり、白い機体は目を覚ました。
トローラは一度だけ振り返る。
「怖いなら、怖いでいい」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
ジュノーンへか。
ベルリンへか。
シューシャへか。
それとも、K.O.G.に砕かれてなお、もう一度MHへ乗ろうとしている自分へか。
「怖くても、立てりゃ勝ちだ」
シューシャが答える。
「はい。マスター」
白いジュノーンが起動する朝。
負け犬騎士トローラ・ロージンは、白いベルリンの方へ歩いていった。