/*/ ボォス星 カステポー ヴァキ市 ユモ通り タンクビル地下 /*/
ユモ通りのタンクビルは、地上から見れば何の変哲もない古い雑居ビルだった。
看板は色褪せ、入口の照明は少し暗い。
昼間は、香辛料の匂いを撒き散らす食堂と、部品屋と、古着屋と、どこか怪しい運送事務所が並んでいるだけに見える。
だが、地下へ降りる階段だけは、騎士には分かる。
金属の手すりに染みついた油の匂い。
階段の壁に刻まれた、古い傷。
表の通りでは決して出さない、騎士たちの呼吸。
その奥に、小さな看板があった。
WAX TRAX
ワックストラックス。
一般人には、あまり名を知られていない地味な地下酒場。
しかし、カステポーを訪れる騎士たちの間では、かなり知られたショットバーだった。
理由は単純だった。
宇宙の戦神と謳われたジョルジュ・スパンタウゼンが、ここのマスターを務めている。
騎士とファティマが、一般人の視線を気にせずに座れる場所。
酒を飲み、情報を交換し、時には仕事を拾い、時には揉めごとを店の外へ持ち出す場所。
そして、表向きにはただの地下酒場だが、実際にはイオタ宇宙騎士団の出張所兼情報基地でもある。
ジョルジュがここで拾った噂は、必要なら騎士団の本拠地へ流れる。
小さな揉めごとが、大きな紛争になる前に沈められることもある。
逆に、大きな戦争の予兆が、ここではただの酒場話としてグラスの底に沈んでいることもある。
そういう場所だった。
トローラ・ロージンは、その階段を降りていた。
隣にはシューシャ。
昼間の表通りでは目立つファティマも、この店へ入るなら話は別だった。
ここでは騎士がいて、ファティマがいて、酒がある。
それが普通だった。
「ここがワックストラックスだ」
トローラが言った。
「騎士の酒場ですか」
「そんな上品なもんじゃねぇ。ゴロツキの待合室だ」
「マスターには似合っています」
「お前、最近遠慮なく刺すようになったな」
「事実です」
「まあ、否定はしねぇけどよ」
扉を開ける。
地下の空気が流れた。
酒。
革。
油。
煙草。
古い木材。
そして、騎士の気配。
カウンターに座っていた何人かが、ちらりとこちらを見た。
長くは見ない。
この店で他人を見すぎると、揉める。
だから、見て、測って、すぐに視線を外す。
それがここの礼儀だった。
カウンターの奥で、グラスを磨いていた男が顔を上げた。
大柄ではない。
だが、そこに立っているだけで、酒場の奥行きが変わる。
ジョルジュ・スパンタウゼン。
宇宙の戦神。
今は、地下酒場のマスター。
ジョルジュはトローラを見るなり、片眉を上げた。
「なんだ、悪ガキか」
トローラは口の端を上げた。
「いきなりだな、マスター」
「お前ら、ユーバー公のところで諸共討ち取られたって話になってたぞ」
「ああ。間一髪で逃げ延びたんだよ」
「ほう」
「んで、ハグーダ戦に参加して稼いできた」
ジョルジュは、トローラの隣に立つシューシャを見る。
シューシャは静かに礼をした。
「シューシャと申します。トローラ・ロージンのファティマです」
ジョルジュの目が、一瞬だけ深くなった。
だが、何も詮索しない。
この店でそれは礼儀だった。
「座れ」
「助かる」
トローラはカウンターへ腰を下ろした。
シューシャも隣に座る。
ファティマが座っても、店の空気は大きく変わらない。
騎士とファティマのための場所だからだ。
ジョルジュがグラスを置いた。
「何を飲む」
「強いやつ」
「財布は」
「今日はある」
「珍しいな」
「だからハグーダ戦で稼いだって言ったろ」
「騎士は、口だけなら何でも言う」
「信用ねぇな」
「信用しているから、先に財布を聞いた」
「ひでぇ」
トローラは懐から金を出した。
ジョルジュはそれを見て、ようやく酒を注ぐ。
琥珀色の液体が、グラスの中で静かに揺れた。
「で」
ジョルジュが言った。
「ただ飲みに来た顔じゃないな」
トローラはグラスを指で回した。
少しだけ黙る。
それから、軽い調子で聞いた。
「マスターよー。デコース見てないかぁ?」
店の空気が、わずかに沈んだ。
デコース・ワイズメル。
ユーバーのところで、トローラと組んでいた悪党騎士。
知っている者は知っている名だった。
ジョルジュはグラスを拭く手を止めなかった。
「別行動だったのか」
「ああ。ユーバーの屋敷でやられてから、散った」
「この街には来ていないようだ」
「そうか」
トローラは酒を一口飲んだ。
喉が焼ける。
悪くない。
「死んじゃいねぇと思うんだがな」
ジョルジュは短く答えた。
「あの手合いが死んだなら、もっと騒ぎになる」
「だよな」
トローラは笑った。
少しだけ安堵が混じった笑いだった。
シューシャは横で静かに見ている。
何も言わない。
トローラはグラスを置いた。
「で、最近この街はどうだ」
「相変わらずだ」
「その言い方、だいたい悪い意味だな」
「ここ数か月、“手合い”と称して“首狩り”をやっている奴がいる」
トローラの目が細くなった。
「首狩り」
「ああ。騎士同士の勝負を装い、負けた相手を殺す。決闘でも仕事でもない。腕試しと称した狩りだ」
「カステポーらしいと言えば、らしいが」
「らしすぎるのも困る」
ジョルジュはグラスを棚へ戻した。
「お前さんも、MHを手に入れたんなら気をつけな」
トローラは顔をしかめた。
「どこで聞いた」
「ここは酒場だ」
「答えになってねぇ」
「十分な答えだ」
シューシャが少しだけトローラを見る。
トローラは肩をすくめた。
「拾ったわけじゃねぇ。預かりものだ」
「そういうことにしておこう」
「本当だ」
「なら、なおさら気をつけろ。預かりものを壊すと面倒だ」
「王様にも同じこと言われた」
ジョルジュの眉が、ほんの少しだけ動いた。
だが、それ以上は聞かない。
聞かないが、覚えた。
そういう顔だった。
トローラは酒をもう一口飲む。
「首狩り野郎の名前は」
「まだ確証はない」
「特徴は」
「若い騎士ばかり狙う。特に、最近MHを得た者、名を上げたばかりの者、ファティマを連れている者」
シューシャの視線がわずかに動く。
トローラは、鼻で笑った。
「俺じゃねぇか」
「そうだ」
「狙われるって?」
「可能性はある」
「へぇ」
トローラはグラスを置いた。
その顔に、少しだけ楽しそうな色が混じる。
ジョルジュはそれを見て、低く言った。
「自分から探しに行くなよ」
「まだ何も言ってねぇ」
「顔が言っている」
「悪党騎士の顔は、だいたいそう見えるんだよ」
「お前の場合は分かりやすい」
シューシャが静かに言う。
「マスター。カステポー到着初日です。まず休息を推奨します」
「分かってる」
「首狩りを探しに行くのは推奨しません」
「まだ行くって言ってねぇだろ」
「顔が言っています」
「お前もか」
ジョルジュが小さく笑った。
「良いファティマだな」
「だろ」
トローラは即答してから、少しだけ照れたようにグラスを見る。
「……まあな」
シューシャの横顔が、ほんの少し柔らかくなる。
ジョルジュはそれを見て、何も言わず酒瓶を置いた。
「もう一杯いるか」
「いる」
「金は」
「ある」
「なら飲め。飲んで、今日は寝ろ」
「皆して生活指導してくるな」
「生きている騎士は、寝られる時に寝る」
「宇宙の戦神が言うと説得力あるな」
「地下酒場のマスターだ」
「宇宙の戦神だろ」
「昔の話だ」
「昔話を看板にしてるくせに」
ジョルジュは笑わなかったが、否定もしなかった。
店の奥では、別の騎士たちが低い声で情報を交換している。
どこそこの道で竜が出た。
どこそこのガレージに怪しいMHが入った。
どこそこの自治区で、騎士が消えた。
カステポーの情報は、こうやって酒と一緒に流れていく。
トローラは、ふと入口の方を見た。
デコーズは来ていない。
まだ行方は分からない。
だが、死んだとは思えない。
あいつが死ぬなら、もっと派手に死ぬ。
そう思える程度には、トローラはデコースを知っていた。
「デコースが来たら」
トローラは言った。
「俺が探してたって伝えといてくれ」
ジョルジュは頷いた。
「伝えておく」
「あと、俺がファティマ拾ってMH背負わされたってのは言うな」
「それはもう伝わる」
「何でだよ」
「カステポーだからだ」
トローラは天井を仰いだ。
「情報早すぎるだろ、この街」
「だから生き残れる」
ジョルジュは静かに言った。
「騎士も、ファティマも、街もな」
トローラは黙った。
それから、グラスを掲げる。
「じゃあ、カステポーの信用に」
ジョルジュが短く返す。
「生き残りに」
シューシャが静かに言う。
「再会に」
トローラは少しだけ笑った。
「いいな、それ」
三つのグラスが、小さく鳴った。
ユモ通りの地下酒場ワックストラックス。
騎士とファティマが一般人の目を気にせず息をつける場所。
情報が集まり、噂が沈み、時に戦いの火種が見つかる場所。
トローラ・ロージンはそこで、デコーズの不在を知り、首狩りの噂を聞いた。
そして、悪党騎士を名乗るゴロツキは、また面倒なものに近づいていく予感を覚えていた。