/*/ ボォス星 カステポー ヴァキ市 BAR「ワックストラックス」 /*/
グラスが、小さく鳴った。
カステポーの信用に。
生き残りに。
再会に。
そう乾杯した直後、店の扉が開いた。
地下酒場の空気が、わずかに動く。
入ってきたのは、先ほどナイトギルドの預かり屋で見た若い男だった。
整った顔立ち。
気品のある立ち姿。
それでいて、周囲を測る目は騎士のもの。
隣にはファティマ。
預かり屋で爺さんを睨みつけていたあの男だ。
トローラはグラスを持ったまま片眉を上げた。
「おや、君は……」
若い男もトローラを認めた。
トローラは軽く片手を上げる。
「お、預かり屋以来だな、兄さん」
シューシャが隣で静かに礼をする。
若い男の連れのファティマも、小さく礼を返した。
トローラはカウンターの空いている席を顎で示す。
「ここはファティマ連れでも大丈夫だぜ。客は騎士しかいねぇ。表のカフェみたいに、一般人の目を気にしなくていい」
若い男は、店内を一度見回した。
それから、少しだけ警戒を解いて席に近づく。
ジョルジュがカウンターの奥から問うた。
「なんで知りなすったね、この店を」
若い男は、少しだけ間を置いて答えた。
「ボード・ヴュラードという男に……」
その名が出た瞬間、ジョルジュの手が止まった。
店の奥の空気が、ほんの少しだけ古くなる。
懐かしい名。
古い戦場。
古い友人。
そういうものが、酒場の壁の奥からゆっくりと戻ってきたようだった。
ジョルジュは低く笑った。
「……懐かしい名を聞いたぞ」
そして、グラスを一つ取り出す。
「そいつは、オレのおごりにしとく」
トローラは思わず口笛を吹いた。
「大したもんだ。初顔でマスターのおごりが出たぞ」
若い男は、少し困ったようにグラスを見た。
その横でファティマが静かに控える。
この店の客たちは、そのやり取りをちらりと見るだけで、すぐに視線を戻した。
見る。
測る。
詮索しない。
それがワックストラックスの礼儀だった。
その時、後ろから別の声がした。
「大したもんだ。初顔でマスターのおごりが出たぞ」
同じようなことを、もっと柔らかく、もっと慣れた声で言う男がいた。
コート姿。
立派な口髭。
身なりの良い紳士。
カステポーの地下酒場には少し不似合いなほど整った装いだが、歩き方には奇妙な余裕がある。
彼は若い男の近くへ寄り、にこやかに笑った。
トローラは、その姿を見た瞬間、内心で凍った。
(……これ、カイエンとレスターの話が語られる流れだ)
グラスを持つ指が、ほんのわずかに止まる。
頭の中で、原作の断片がつながる。
ミューズ・レイバック。
ワックストラックス。
ボード・ヴュラードの名。
ジョルジュのおごり。
口髭の紳士。
そして、この後に続く話。
(やばい)
トローラは、ゆっくりグラスを置いた。
(レスターとパルスェットが危ないじゃん!)
自分は知っている。
細かい日時はいつも曖昧だ。
だが、流れは知っている。
さっきからずっとそうだ。
シューシャを拾った時も。
ウリクルを戻した時も。
ジュノーンの本陣奇襲も。
「この後」が見えた瞬間に走らなければ、間に合わない。
トローラは椅子から立った。
ジョルジュが目だけで見る。
「どうした」
「マスター、勘定」
「今来たばかりだろう」
「急用を思い出した」
シューシャがすぐに立つ。
「マスター?」
「シューシャ、行くぞ」
「はい」
若い男――ミューズ・レイバックが、少し怪訝そうにトローラを見る。
「何かあったのか」
「まだ何も起きてねぇ」
トローラは金をカウンターへ置いた。
「だから行く」
ジョルジュの目が細くなった。
「妙な言い方をする」
「悪党騎士は勘がいいんだよ」
トローラはそう言って、グラスの残りを一気に飲み干した。
喉が焼ける。
だが、今はちょうどいい。
身体を走る方向へ持っていくには、少しくらい熱があった方がいい。
口髭の紳士が、面白そうにトローラを見る。
「急用とは穏やかではないね」
「この街で穏やかな急用なんてねぇよ」
トローラは肩越しに返した。
「兄さん」
ミューズへ向けて言う。
「そのマスターの酒は飲んどけ。初顔で奢られるのは珍しい」
「君は」
「俺は急用が出来た」
それだけ言うと、トローラは扉へ向かった。
シューシャがぴたりとついてくる。
店内の騎士たちは、また一瞬だけこちらを見て、すぐ視線を外した。
だが、ジョルジュだけは違った。
「トローラ」
「あ?」
「首狩りの噂とは、別件か」
トローラは少しだけ止まった。
そして、答える。
「たぶん別件だ。だが、放っとくと嫌な死に方をする奴がいる」
「知り合いか」
「まだ違う」
ジョルジュは黙った。
その答えで十分だった。
「なら、行け」
「最初からそのつもりだ」
トローラは地下酒場の扉を押し開けた。
階段の上から、ユモ通りの雑踏が聞こえる。
カステポーの夜は、まだ終わっていない。
騎士。
ファティマ。
ゴロツキ。
魔導士。
洒落者。
首狩り。
そして、これから危ないところへ向かうはずの誰か。
トローラは階段を駆け上がる。
シューシャが隣で問う。
「マスター。どちらへ」
「まず情報を拾う。レスターって男と、パルスェットってファティマを探す」
「お知り合いですか」
「まだな」
「では、なぜ」
トローラは階段を上りきり、月の差す通りへ出た。
目の前に、カステポーの混沌が広がる。
「死にそうだからだ」
シューシャは一瞬だけ黙り、それから静かに頷いた。
「了解しました、マスター」
「急ぐぞ」
「はい」
トローラは走り出した。
悪党騎士を名乗るゴロツキ。
だが、死にそうな奴の気配を嗅ぎ取った時だけは、誰よりも早く走る。
ワックストラックスの地下では、ジョルジュが空になったグラスを見ていた。
口髭の紳士が、少し楽しそうに言う。
「面白い若者だ」
ジョルジュは短く答えた。
「悪ガキだ」
そして、静かにグラスを磨き始めた。
「だが、生きてる悪ガキはよく走る」