/*/ カステポー ヴァキ市 外縁市場 /*/
ヨーン・バインツェルは、ヴァキ市が嫌いだった。
人が多い。
声が多い。
匂いが多い。
笑い声も、怒鳴り声も、荷車の軋む音も、どこからか漏れるファティマ目当ての下卑た囁きも、全部が肌に刺さった。
田舎には、少なくともこういう密度はなかった。
だが、田舎にはもういられなかった。
“騎士の血”に覚醒した。
それだけで、周囲の目が変わった。
昨日まで近所の子供だったはずの少年を、大人たちは値踏みするように見るようになった。
役所。
地元の有力者。
騎士崩れ。
よく分からない仲介屋。
皆、別々の言葉で同じことを言う。
君には才能がある。
よい場所を紹介できる。
保護が必要だ。
後援者がいる。
つまり、どこかに連れていきたいのだ。
だから逃げた。
逃げて、ヴァキ市まで流れてきた。
そして、その判断が間違いだったことを、ヨーンはすぐに思い知った。
「おい坊主。どこから来た?」
市場の裏路地で、男が笑った。
笑いながら、退路を塞いでいる。
一人ではない。
三人。
いや、角の向こうにも気配がある。
ヨーンは荷袋を握りしめた。
「関係ない」
「関係あるんだなぁ、これが」
男はヨーンの腕を見た。
骨格。
反応。
視線の速さ。
騎士かどうかを、見慣れている目だった。
「若い騎士ってのは金になる。田舎から出てきたばっかりなら、なおさらだ」
「僕は騎士じゃない」
「そう言う奴ほど高く売れる」
別の男が背後に回る。
ヨーンは身構えた。
身体は動く。
力もある。
だが、戦い方を知らない。
剣もない。
この街の裏路地で、どこまでやっていいのかも分からない。
男の一人が、にやりと笑った。
「大人しくしとけ。騎士の卵を壊すと値が下がる」
その言葉で、ヨーンの中の何かが冷えた。
値。
売る。
壊す。
人間を、そういう目で見る連中。
吐き気がした。
男の手が伸びる。
ヨーンは反射的に払った。
力が入りすぎた。
男が吹き飛び、壁に叩きつけられる。
それが合図になった。
「やっぱ騎士だ!」
「押さえろ!」
「殺すなよ!」
複数の影が一斉に動いた。
ヨーンは身を引いたが、足元に投げ縄が絡んだ。
転ぶ。
腕を押さえられる。
口を塞がれかける。
その瞬間、路地の入口から声がした。
「おい」
低く、面倒くさそうな声だった。
「人買いども。子供相手に商売か。いよいよ落ちるとこまで落ちたな」
男たちが振り向く。
そこに、長身の騎士が立っていた。
トローラ・ロージン。
外套をだらしなく羽織り、腰に剣を下げ、目つきは悪い。
とても正義の味方には見えない。
だが、そこにいるだけで、路地の空気が変わった。
「なんだ、お前」
「通りすがりの悪党だ」
トローラは肩を回した。
「その坊主、置いてけ」
「は?」
「聞こえなかったか。置いてけ」
男の一人がナイフを抜いた。
「騎士様気取りかよ」
「気取りじゃねぇよ」
トローラは、薄く笑った。
「騎士なんて上等なもんじゃない。悪党で、負け犬の騎士だ」
次の瞬間、路地の空気が裂けた。
ヨーンには、何が起きたのか分からなかった。
トローラは剣を抜いたように見えなかった。
だが、男たちの武器が弾かれ、膝が崩れ、壁際へ投げ飛ばされていた。
殺してはいない。
でも、立てない。
それだけの力の差だった。
最後に残った男が、震えながら後ずさる。
「く、くそ……」
「逃げていいぞ」
トローラは言った。
「ただし次に子供を売ろうとしたら、今度は足を一本もらう」
男は悲鳴を上げて逃げた。
路地に静けさが戻る。
ヨーンは、地面に座り込んだまま、トローラを見上げていた。
助かった。
その事実が、少し遅れて胸に落ちてきた。
「立てるか、坊主」
トローラが手を差し出す。
ヨーンは一瞬迷った。
だが、その手を取った。
引き起こされる。
乱暴だが、痛くはなかった。
「名前は」
「……ヨーン」
「ヨーンか。“血”が出たばっかりだな」
ヨーンは身を硬くした。
「分かるのか」
「分かる。力の出し方が雑すぎる」
「俺は、騎士じゃない」
「今はな」
トローラは言った。
「だが、放っておいたら騎士崩れになる。今日みたいな連中に捕まるか、逆にああいう連中を叩き潰して回るか。どっちにしてもろくでもねぇ」
ヨーンは唇を噛んだ。
「なら、どうしろって言うんだ」
「習え」
「誰に」
「死に損なった中年騎士に」
トローラは、にやりと笑った。
「レスター騎士スクールってのがある。礼法、退き際、ファティマとの接し方、ナイトギルドの使い方。ついでに、こういう人買いに捕まらない歩き方も教えてくれる」
「学校?」
「そんな綺麗なもんじゃねぇ。騎士の更生施設みたいなもんだ」
「俺は行かない」
「じゃあ、また売られるか?」
ヨーンは黙った。
トローラは少しだけ声を低くする。
「この街は、お前が思ってるより汚い。力だけある子供は、金になる。騎士でも、騎士じゃなくてもな」
「……」
「嫌なら、まず生き残る方法を覚えろ」
ヨーンは、逃げ道を見る。
もう誰も塞いでいない。
逃げようと思えば逃げられる。
だが、逃げた先に何があるのかも、少し分かってしまった。
「……そのスクールに行けば、僕は売られないのか」
「少なくとも、俺とレスターがいる間はな」
「信用できるのか」
「できないだろ」
トローラは即答した。
ヨーンが目を丸くする。
「俺は悪党だぞ。信用するな。見て判断しろ」
「……変な人だ」
「よく言われる」
トローラは背を向けた。
「来い。腹減ってるだろ」
「なぜ分かる」
「顔が飢えてる」
「……」
「飯食わせて、寝床を出して、朝からしごかれる。嫌なら飯だけ食って逃げろ」
ヨーンはしばらく迷った。
そして、歩き出した。
トローラの後を、少し距離を置いてついていく。
口は悪い。
目つきも悪い。
正義の騎士には見えない。
でも、助けてくれた。
それだけは、確かだった。
/*/ ヴァキ市 レスター騎士スクール 仮設訓練場 /*/
レスター騎士スクールは、想像していた学校とは違った。
古い倉庫を改造した訓練場。
壁には木剣、訓練用防具、古い騎士団旗、ナイトギルドの規約表。
奥には小さな事務室。
そして、修理中のMH部品や訓練用の騎士礼装まで雑多に置かれている。
ミハイル・レスターは、杖をついて立っていた。
まだ完全には治っていない。
だが、目は鋭い。
「また拾ってきたのか」
レスターが言った。
トローラは肩をすくめる。
「人買いに捕まってた」
「それは拾うしかないな」
「だろ」
レスターはヨーンを見た。
「名は」
「ヨーン・バインツェル」
「騎士の血に覚醒したばかりか」
ヨーンはまた身を硬くする。
「みんな分かるのか」
「分かるほど雑だ」
レスターは淡々と言った。
「ここでは、まず力を抑えることを覚えろ。騎士は力を出す前に、出してよい場面を判断する」
「僕は騎士になりたいわけじゃない」
「なら、騎士崩れにならない方法を覚えろ」
同じようなことを言われ、ヨーンは言葉に詰まった。
その時だった。
訓練場の奥から、一人のファティマが現れた。
白い肌。
静かな目。
動きは正確で、反応も鈍くない。
むしろ、ヨーンが今まで見た誰よりも、周囲をよく見ているように思えた。
彼女は、訓練生の一人に木剣の角度を指摘していた。
「踏み込みの前に肩が上がっています。そのままでは、相手に初動を読まれます」
「え、あ、はい」
「剣だけでなく、呼吸も揃えてください。騎士様の身体は速いですが、速さだけで動くとファティマが追う前に崩れます」
助言は的確だった。
声も、動きも、壊れているようには見えない。
だが、周囲の者は彼女をこう呼んだ。
「バーシャさん、こっちも見てもらえますか」
バーシャ。
壊れたファティマ。
そう聞いていた。
だが、ヨーンにはそう見えなかった。
バーシャは振り向いた。
ヨーンと目が合う。
その瞬間、周囲の音が少し遠くなった。
なぜかは分からない。
ただ、胸の奥に細い糸が引かれたような気がした。
バーシャは、静かにヨーンを見た。
長すぎず、短すぎず。
値踏みではない。
憐れみでもない。
ただ、見ている。
「新しい訓練生ですか」
バーシャが言った。
レスターが頷く。
「そうだ。ヨーン・バインツェル。騎士の血に覚醒したばかりで、街で人買いに捕まりかけていた」
「それは危険でした」
バーシャはヨーンへ歩み寄った。
ヨーンは一歩下がりそうになり、踏みとどまる。
「私はバーシャと呼ばれています」
「……ヨーン」
「はい。ヨーン様」
その呼び方に、ヨーンは少し戸惑った。
だが、彼女の口からは、その次の言葉が出てこなかった。
普通のファティマなら、言うはずの言葉。
マスター。
その言葉だけが、なかった。
バーシャは穏やかに続ける。
「手を見せていただけますか」
「手?」
「はい。先ほど、力を使いましたね」
ヨーンは渋々、手を出した。
バーシャは触れない。
少し離れた位置から、指の震え、手首の力み、肩の入り方を見る。
「力は強いですが、使い方が怖いのですね」
ヨーンは目を見開いた。
「怖い?」
「はい。自分がどこまで壊せるか分からない方の手です」
図星だった。
人買いの男を吹き飛ばした時、自分でも怖かった。
壊すつもりはなかった。
でも、壊せた。
そのことが怖かった。
「……ファティマなのに、分かるのか」
トローラが横から言った。
「ファティマだから分かるんだよ、坊主」
バーシャはトローラを見た。
「トローラ様。坊主という呼び方は、本人が嫌がる可能性があります」
「じゃあ、若造」
「それも同様です」
「面倒だな」
「言葉は騎士の動作にも影響します」
レスターが少し笑った。
「さっそく助言されているな、トローラ」
「うるせぇ」
ヨーンは、バーシャを見たままだった。
壊れたファティマ。
そう呼ばれる彼女は、壊れているようには見えなかった。
ただ、一つだけ欠けている。
マスターという言葉が、出てこない。
それがなぜか、ヨーンにはひどく気になった。
「君は……」
ヨーンは言いかけて、止まる。
何を聞けばいいのか分からなかった。
バーシャは静かに首を傾げる。
「はい」
「壊れているのか」
訓練場が一瞬静かになった。
レスターが目を細める。
トローラは口を挟まなかった。
バーシャは怒らなかった。
悲しみもしなかった。
ただ、少し考えてから言った。
「そう扱われています」
「自分では?」
「分かりません。ですが、私は騎士様へ助言できます。歩けます。話せます。危険を判断できます」
そこで、ほんのわずかに間が空く。
「ただ、出てこない言葉があります」
「言葉?」
「はい」
バーシャは、静かに言った。
「誰かを、そう呼ぶための言葉です」
ヨーンは、それが何か分からなかった。
だが、その言葉が出てこないことが、彼女にとってとても大きな欠落なのだと感じた。
トローラが、軽く手を叩いた。
「よし。湿っぽい話はそこまでだ」
ヨーンが振り返る。
「逃げたけりゃ飯食ってから逃げろ。残るなら、今日からここで寝泊まりだ」
「勝手に決めるな」
「じゃあ決めろ。逃げるか、残るか」
ヨーンは訓練場を見た。
レスター。
トローラ。
訓練生たち。
そして、バーシャ。
人買いの路地とは違う。
ここにも騎士はいる。
だが、あの路地の男たちとは違う目をしている。
少なくとも、バーシャを値踏みするような目ではない。
「……飯は」
ヨーンは小さく言った。
「食べる」
トローラが笑った。
「よし。第一関門突破だ」
「残るとは言ってない」
「飯食って寝たら、明日の朝には残ってる」
「決めつけるな」
バーシャが静かに言った。
「食堂は奥です。手を洗ってください。手首に軽い擦過傷がありますので、後で消毒します」
ヨーンは、自分の手首を見た。
縄の跡が残っている。
気づいていなかった。
「……ありがとう」
バーシャは、少しだけ頷いた。
「どういたしまして、ヨーン様」
また、あの言葉は出てこない。
けれど、ヨーンはなぜか安心した。
マスターと呼ばれなかったことに。
まだ何者でもない自分を、彼女が無理に何かへ押し込めなかったことに。
トローラはその横顔を見て、少しだけ目を細めた。
運命の出会い、などという綺麗な言葉は似合わない。
ここはヴァキ市の古い倉庫。
騎士崩れの更生所みたいな訓練場。
片方は人買いに捕まりかけた少年。
もう片方は、名前を伏せた壊れたファティマ。
だが、たぶん。
こういう場所でしか、始まらない縁もある。
「レスター」
「何だ」
「こいつ、しばらく頼む」
「分かっている」
「バーシャ」
「はい」
「見てやってくれ。こいつ、放っておくと力の使い方を間違える」
「承知しました」
ヨーンが眉をひそめる。
「僕のことを勝手に決めるな」
トローラは笑った。
「嫌なら、明日逃げろ」
「……」
「でも今日は飯だ」
ヨーンは何も言い返せなかった。
バーシャが食堂の方を示す。
「こちらです」
ヨーンは、彼女の後を歩いた。
その背を見ながら、胸の奥で何かが小さく鳴る。
それが憧れなのか、警戒なのか、同情なのか、まだ分からない。
ただ一つだけ、ヨーンは思った。
この人を、二度とあの裏路地の男たちのような連中に触れさせたくない。
その思いが、彼の騎士としての最初の形になることを、まだ誰も知らなかった。