/*/ カステポー ヴァキ市 市場裏通り /*/
ヨーン・バインツェルは、少しだけ誇らしかった。
レスター騎士スクールの買い出し。
包帯。
消毒液。
保存食。
訓練用の木剣に塗る油。
どれも地味な用事だったが、隣にはバーシャがいた。
レスターのスクールに保護されている、壊れたファティマ。
そう呼ばれている。
だが、ヨーンにはどうしても、彼女が壊れているようには見えなかった。
「ヨーン様。油はそちらではなく、二つ隣の店の方が質が安定しています」
「分かるのか?」
「はい。匂いが違います。あと、容器の密閉が甘いです」
「すごいな、バーシャは」
ヨーンは素直に言った。
バーシャは少しだけ目を伏せる。
「私は、助言をしているだけです」
「でも、すごい」
その言葉が、少し大きかった。
市場の隅で、酒臭い男たちがこちらを見た。
「へぇ。ファティマ連れか」
「坊主、いいの連れてるじゃねぇか」
ヨーンは眉をひそめた。
バーシャが、すぐに袖を引く。
「ヨーン様。行きましょう」
「何だよ、あいつら」
「行きましょう」
だが、男たちの方が早かった。
一人が前を塞ぎ、もう一人が背後へ回る。
「そのファティマ、お前のか?」
ヨーンは胸を張りかけた。
自慢したかった。
バーシャはすごい。
壊れてなんかいない。
自分はそれを知っている。
だが、問いへの答えは別だった。
「違う。俺はマスターじゃない」
その瞬間、男たちの目が変わった。
「へぇ」
「じゃあ、所有者なしってことか?」
「迷子のファティマなら、保護してやらねぇとな」
バーシャの指が、ヨーンの袖を強く握った。
「ヨーン様。走ります」
「え?」
「今すぐ」
だが、もう遅かった。
男の手がヨーンの肩を掴む。
もう一人が、バーシャの進路を塞いだ。
通りから一本裏へ。
薄暗い路地へ。
強引に押し込まれる。
「離せ!」
「騒ぐなよ、騎士の坊や」
「保護だって言ってるだろ」
「ファティマはな、ちゃんとしたところへ届けねぇとなぁ」
その言い方で、ヨーンの中の血が沸いた。
これは保護ではない。
値踏みだ。
奪うための言葉だ。
「お前らッ……ぶっ殺す!」
ヨーンの身体に力が入った。
肩を掴んでいた男の手首が軋む。
骨が折れかけた。
その瞬間、バーシャが叫んだ。
「いけません! ヨーンさん!」
ヨーンは止まった。
バーシャの声が、震えていた。
「やめてください! 騎士が一般人に怪我をさせたら、一生表舞台に立てません!」
「え……?」
力が抜けた。
その隙に、男がヨーンを壁へ押しつける。
「うらぁ、ガキ! ファティマが出てけって言ってるだろ!」
「バーシャ!」
バーシャは、ヨーンを見なかった。
見られなかった。
「お願いします。離れていてください」
「何言ってるんだよ!」
「私は……慣れていますから」
その言葉が、ヨーンの胸を刺した。
「見ないでください。見ないで、ください」
「で、でも、バーシャ!」
男たちが嗤った。
「聞いたかよ。慣れてるってさ」
「大人しいファティマじゃねぇか」
「坊主は向こう向いてな」
ヨーンの視界が赤く染まる。
今度こそ、殺す。
そう思った。
その時だった。
「ばっかだな、お前」
路地の入口から、呆れた声がした。
トローラ・ロージンが立っていた。
外套をだらしなく羽織り、片手に買い物袋を下げ、いつも通り目つきが悪い。
だが、ヨーンには、その姿が救いそのものに見えた。
「トローラ!」
トローラはヨーンをちらりと見た。
「マスターでも所有者でもないって言ったら、ゴロツキ一般男性が群がってくるに決まってるだろ」
「だ、だって!」
「だってじゃねぇ。悪党のやり方を見てな」
トローラは男たちへ向き直った。
「よう、兄さん方」
笑っている。
だが、目は笑っていなかった。
「うちのファティマに、何してくれてるんだい?」
男の一人が、いやらしい笑みを浮かべて前へ出る。
「あぁ? 騎士様が一般人に手ぇ出していいんすかねぇ?」
「騎士じゃねぇよ」
トローラは歩いてくる。
「悪党だ」
「はっ。悪党だろうが何だろうが、一般人に手を出したら終わりだろ」
「何言ってる?」
トローラは、路地の壁に貼られていた古い賞金首の張り紙を指で叩いた。
「そこの張り紙が見えねぇのか?」
「え?」
「人買い、連れ去り、偽装保護。似たような面だな」
男たちの顔色が変わった。
「ち、違ぇよ。俺らはこの子を保護しただけだぜ」
「騎士領事に連れてこうとしただけだ」
「そりゃどうも」
トローラは頷いた。
その声は、妙に冷たかった。
「じゃあ、騎士領事まで一緒に行こうか。賞金首に似た兄さん方が、ファティマを保護してましたって、目撃者もまとめてな」
「いや、それは……」
「それとも」
トローラは低く言った。
「ここで目撃者全員、黙らせるか?」
男たちは凍りついた。
トローラは剣を抜いていない。
手も出していない。
だが、ヨーンには分かった。
この人は、本当にやるかもしれない。
綺麗な騎士の理屈ではなく、悪党の顔で、必要ならやる。
男の一人が舌打ちした。
「……ちっ。面倒くせぇ」
「だから保護だって言ってんだろ」
「行くぞ」
男たちはヨーンから手を離した。
バーシャからも距離を取る。
トローラは懐から札を数枚抜き、地面にばら撒いた。
「手間賃だ。受け取りな」
「何の真似だ」
「善意で保護しようとしたんだろ? だったら手間賃くらい出してやるよ」
男たちは屈辱に顔を歪めた。
だが、札は拾った。
拾わなければ、もっと惨めだった。
拾っても、惨めだった。
男たちは逃げるように路地を出ていった。
ようやく、ヨーンの肩から力が抜けた。
「……なんで、殺さなかったんだ」
トローラが振り返る。
「お前が表舞台に立てなくなるからだ」
「僕は……」
「殺したかったか」
ヨーンは答えられなかった。
殺したかった。
本気で。
けれど、それを口にしたら、何かが戻れなくなる気がした。
バーシャが小さく言う。
「ヨーンさん。怪我は」
「僕はいい!」
ヨーンは彼女を見た。
「バーシャこそ……さっき、慣れてるって、何だよ」
バーシャは目を伏せた。
「すみません」
「謝るな!」
ヨーンの声が震えた。
「謝るなよ……」
トローラが、買い物袋をヨーンの頭に軽く押しつけた。
「怒るなら、覚えろ」
「何を」
「ファティマを守るには、力だけじゃ足りねぇってことだ」
ヨーンは黙った。
「騎士の力で一般人を殴れば、お前の方が終わる。正面から怒って殺せば、お前は守りたいものの前から消える。だから、まず場を読む。相手の弱みを掴む。法律でも、賞金首でも、騎士領事でも、金でも、何でも使う」
「それが、騎士のやり方なのか」
「違う」
トローラは言った。
「悪党のやり方だ」
ヨーンはトローラを見上げた。
口は悪い。
やり方も綺麗ではない。
でも、バーシャを守った。
ヨーンを止めた。
そして、誰も傷つけずに、連中を退かせた。
「僕は……どうすればよかった」
「まず、バーシャがどういう立場か覚えろ」
トローラは言った。
「マスターでも所有者でもないお前が、表で自慢したら危ない。相手が善人なら笑って終わる。相手がゴロツキなら、今日みたいになる」
ヨーンは拳を握った。
「じゃあ、僕がマスターならよかったのか」
バーシャが静かに顔を上げた。
トローラの目が細くなる。
「違う」
短い否定だった。
「守りたいから所有する、って考えたら、あいつらと同じ穴に落ちる」
「でも!」
「守るってのは、相手を自分のものにすることじゃねぇ」
トローラは、ヨーンの目を見た。
「バーシャが隣に立つかどうかは、バーシャが決める。お前が勝手に決めるな」
ヨーンは何も言えなくなった。
バーシャが、そっと言った。
「ヨーンさん」
「……何」
「助けようとしてくださって、ありがとうございます」
「僕は、助けられなかった」
「止まってくださいました」
「え?」
「私の声で、止まってくださいました。それは、とても大切です」
ヨーンは、唇を噛んだ。
悔しかった。
情けなかった。
でも、バーシャの言葉だけは、胸の中に残った。
トローラは路地の外へ歩き出した。
「帰るぞ。レスターに説教される前に、こっちから報告する」
「……僕、怒られるのか」
「怒られる」
「バーシャも?」
「バーシャは悪くねぇ」
バーシャが小さく言う。
「私も、注意が足りませんでした」
「お前はそう言うな」
トローラは振り返らずに言った。
「今日悪かったのは、口を滑らせたヨーンと、群がったゴロツキどもと、見回りをサボってた街だ」
「僕だけ名指し……」
「お前が一番学ぶ日だからな」
ヨーンは俯いた。
だが、足は動いた。
バーシャの隣を歩く。
少し距離を取りながら。
勝手に守るのではなく、隣に立つということが、まだ分からない。
だが、その言葉だけは覚えた。
騎士は、怒って殺すだけでは駄目なのだ。
守るには、汚いものも知らなければならない。
そして、守りたい相手を、自分のものにしてはいけない。
ヨーン・バインツェルの中に、騎士への憧れと、一般ゴロツキ男性への嫌悪と、ファティマを守ることの難しさが、同時に刻まれた日だった。