/*/ ジュノー ハグーダ=コーラス国境沿い ジャングル /*/
暑い。
とにかく暑い。
空気が水を含みすぎて、肺に入るたびに重かった。
葉の裏からは虫が落ち、枝の隙間からは名前も知らない鳥が鳴き、遠くでは砲声がまだ低く響いている。
トローラ・ロージンは、汗まみれの額を乱暴に拭った。
「暑いし、虫は多いし、最悪だな」
悪態をつきながらも、足は止めない。
背中には救急パック。
腰にはガットブロウとナイフ。
肩には偽装布。
騎士として戦場に立つ装備ではない。
これは、探すための装備だった。
ハグーダとコーラスの国境沿い。
ジャングル。
砲声。
撃墜されたマグロウ。
白いMH。
記憶の中にある断片が、今、この地形と重なり始めていた。
「原作の流れは知ってるけど、細かい日時までは分かんねぇからなぁ……」
トローラは、低い木の根をまたぎ、茂みの中へ身を沈めた。
転生者だとか、知識持ちだとか。
そんなものは、実際の戦場では大して便利ではない。
いつ誰がどの角度から来るかまでは分からない。
だから走るしかない。
探すしかない。
間に合うことを祈るしかない。
その時、遠くで空気が裂けた。
砲火。
弾幕。
木々の向こうで光が走り、撃墜されたマグロウの残骸が黒煙を上げているのが見えた。
トローラは息を止め、双眼鏡を上げた。
そして見た。
白いMHが、弾幕の中から飛び上がる。
細い。
美しい。
だが、弱々しくはない。
まるで空そのものを切り裂くように、白い騎体が戦場を跳ねた。
「ジュノーンだ!」
声が漏れた。
次の瞬間、背中に冷たいものが走る。
「……ってことは、この後か」
コーラス三世。
ウリクル。
そして。
川。
トローラは双眼鏡を下ろした。
「くそっ、先に川だ」
ジュノーンを追いたい。
あの白い機体がどう動くのか、騎士として見たい。
K.O.G.に砕かれた自分が、あの機体の何を見られるのか確かめたい。
だが、今は違う。
今、探すべきは白いMHではない。
川に捨てられるファティマだ。
「間に合えよ……!」
トローラは走った。
枝が頬を裂く。
虫が顔に当たる。
足元の湿った土が靴を取ろうとする。
だが、止まらない。
負けた騎士が次にやることは一つだ。
もう一度立つ。
そして、今度は誰かを落とさない。
川の音が聞こえた。
水が岩に当たる音。
そのすぐ向こうで、小さな影が動いていた。
ミミバ族。
数人。
何かを抱えている。
白い布。
細い腕。
人形のように軽い身体。
トローラは茂みに伏せ、息を殺した。
ミミバ族は周囲を確認し、短く何かを言い合う。
そして、その細い身体を川へ投げた。
水音。
白い影が流れに呑まれる。
トローラの奥歯が鳴った。
「いた……!」
シューシャだ。
まだ動くな。
ここで飛び出せば、あいつらと揉める。
時間を食う。
ミミバ族が去るまで待つ。
待て。
待て。
待て。
足音が遠ざかる。
葉擦れが消える。
トローラは茂みから飛び出した。
「くそっ!」
川へ飛び込む。
冷たい水が全身を叩く。
流れが強い。
白い影は、岩にぶつかりながら下流へ流されている。
片方の靴が外れ、くるくる回りながら水に消えた。
トローラは歯を食いしばり、腕を伸ばす。
「届、けぇッ!」
指先が布を掴んだ。
細い身体。
軽い。
軽すぎる。
トローラは片腕でシューシャを抱え、必死に岸へ泳いだ。
水を飲む。
岩に膝を打つ。
それでも離さない。
岸に上がった時、肺が焼けるようだった。
だが、そんなものはどうでもいい。
トローラはシューシャを草の上に寝かせた。
息がない。
顔色が悪い。
体温も落ちている。
「おい、冗談じゃねえぞ」
救急パックを開く。
気道確保。
水を吐かせる。
胸部圧迫。
人工呼吸。
強心剤。
もう一度、胸部圧迫。
「戻れ」
反応がない。
「戻れって!」
もう一度。
人工呼吸。
胸部圧迫。
強心剤の追加は危険だ。
でも、ここで戻らなければ終わる。
「お前、ここで終わる子じゃねえだろ!」
トローラは叫んだ。
「帰ってこい、シューシャ!」
その時、細い喉が震えた。
水が吐き出される。
弱い咳。
かすかな呼吸。
トローラは一瞬、動きを止めた。
そして、深く息を吐いた。
「……つながったか」
シューシャの呼吸は浅い。
だが、戻った。
生きている。
トローラは、乱暴に笑った。
「強い子で良かった」
自分の偽装キャンプは、川から少し離れた岩棚の奥にあった。
上からは枝葉で隠れ、横からは岩壁で見えにくい。
トローラはシューシャを抱え上げ、慎重に運んだ。
簡易ベッドに寝かせる。
乾いた布で包む。
保温剤を入れる。
脈を確認する。
呼吸を確認する。
片方だけ残った靴を見て、トローラは小さく舌打ちした。
「あとで探す……いや、無理か。悪いな。片方は川に持ってかれた」
当然、返事はない。
シューシャは眠っている。
だが、胸はわずかに上下している。
それだけで十分だった。
トローラは、キャンプの隠蔽布を戻し、簡易警報線を張った。
誰かが近づけば鳴る。
獣でも鳴る。
敵でも鳴る。
「ここで待ってろ。すぐ戻る」
彼は立ち上がった。
体中が痛い。
川で打った膝も、枝で裂いた頬も、K.O.G.に砕かれて以来ずっと軋む胸も、全部が文句を言っている。
だが、胸の奥だけは妙に熱かった。
間に合った。
一人、つながった。
なら、次だ。
「次はウリクルとコーラス三世だ」
トローラは救急パックを背負い直し、ジャングルへ向き直った。
砲声はまだ続いている。
白いMHは、どこかで戦っている。
原作の流れは、もう少しずつずれ始めている。
なら、もっとずらす。
砕けた空の下で、死ぬはずだった命を一つ拾えた。
次も拾う。
そう決めた。
「待ってろよ、ジュノーン」
トローラは笑った。
「負け犬騎士が、今度は間に合わせてやる」
そして、ジャングルの奥へ走り出した。