/*/ ヴァキ市 騎士公社ストア前広場脇 オープンカフェ /*/
桜子は、注文した甘い菓子を一口食べてから、急に専門家の顔になった。
さっきまで広場でゴロツキに絡まれ、怒っていた少女とは別人のようだった。
小柄で、十代前半にしか見えない。
だが、テーブルの上に並べられたファティマ用インナーと購入記録を見る目は、明らかに職人のものだった。
「まず、化繊は駄目」
桜子は言った。
ヨーン・バインツェルは、慌ててメモを開いた。
「化繊は駄目……」
「ただの肌荒れで済むと思わないで。最初は発疹。数日で、細かい切り傷みたいになって、皮膚がぐしゃぐしゃになる」
ヨーンの手が止まった。
「ぐしゃぐしゃ……」
「ムスケル・スクラッチと言うわ」
桜子は淡々と続ける。
「精神ダメージを受けて、代謝機能が落ちた時に出やすい。だから、マスターを失った直後とか、強い不安状態のファティマに人間用の服を着せると、かなり危ない」
ヨーンは、隣に座るバーシャを見た。
バーシャは静かにしている。
表情は変わらない。
だが、ヨーンには今の説明が、自分たちのすぐそばにある危険の話だと分かった。
「ファティマは丈夫なんじゃないの?」
「丈夫よ」
桜子は頷いた。
「でも、自然治癒力は人間よりかなり低い。そこを勘違いする騎士が多いの。怪我に強いから、勝手に治ると思ってしまう」
「違うんだ」
「違う。ムスケル・スクラッチまで出たら、服を替えただけでは自然回復しない。医者でも普通には治せないわ」
「じゃあ、どうするの?」
「抗アレルギー・ペースト。グルーミンドープ。ほか、お薬一式」
桜子は指折り数えた。
「処方はファティマなら誰でも知ってる。だから、本人に聞くのが一番早い。でも、問題はそこじゃない」
「そこじゃない?」
「ファティマは、聞かれなければ言わないことがある。命令されたら、合わない服でも着る。痛くても、我慢する。だから、騎士側が知らないと事故になる」
ヨーンは深く頷き、メモに書き込んだ。
「聞く。命令しない。素材確認。異常が出たら薬一式……」
桜子は、少しだけ目を細めた。
「あなた、ちゃんとメモ取るのね」
「知らないと、バーシャを困らせるから」
バーシャが静かに言った。
「ヨーン様は、今日多くのことを覚えておられます」
ヨーンは少し顔を赤くした。
「まだ全然足りないよ」
トローラはカップを傾けながら、にやりと笑った。
「分かってるなら上等だ」
桜子は、そこでバーシャを見た。
「あなた、バーシャって呼ばれてるのね」
「はい」
「反応は鈍くない。姿勢も悪くない。衣料管理もできる。なのに、周りは壊れたファティマ扱い」
バーシャは答えなかった。
桜子はそれ以上、踏み込まなかった。
代わりにヨーンへ向き直る。
「いい? ファティマを守るって、剣で守るだけじゃないの。服、素材、薬、休ませ方、買い物の手続き、全部よ」
「うん」
「分からないなら、知っている人に聞きなさい。恥ずかしがって放置する騎士が、一番危ない」
「分かった」
ヨーンはさらに書き込んだ。
その途中で、ふと顔を上げる。
「あ、それと」
「何?」
「マイトに聞いてみたかったんだけど」
「私に?」
「ファティマって、男はいないの?」
桜子は、少しだけ瞬きをした。
トローラもカップを止めた。
シューシャは黙っている。
バーシャも静かにヨーンを見た。
ヨーンは慌てて言う。
「いや、変な意味じゃなくて。街で見るファティマって、女の人が多いから」
桜子は少し考えてから答えた。
「男のファティマはいるにはいるわ。でも、あまり作られない」
「どうして?」
「幼体時の安定が悪いから」
桜子は専門家の口調に戻った。
「発育、調整、情動制御、外形の安定。女型より難しい。失敗した時の負荷も大きい。だから、よほど明確な目的がない限り、作る側は避ける」
「そうなんだ……」
ヨーンがメモしようとした時、トローラが低く言った。
「それだけじゃねぇ」
桜子がトローラを見る。
トローラはカップを置いた。
表情が少し重かった。
「作られた後の生存性も悪い」
ヨーンの筆が止まる。
「生存性?」
「ああ」
トローラは、広場の方へ視線を向けた。
さっき桜子に絡んでいたような男たち。
ファティマを値踏みする連中。
人間の弱さと汚さを、安っぽい笑いで隠す連中。
「はぐれになった時、少女型のファティマは酷い目に遭わされても、生き残る場合が多い」
ヨーンの顔が強張った。
トローラは続けた。
「だが、男のファティマは違う。一般ゴロツキ男性の嫉妬を買う。綺麗で、従順で、自分より価値がある男型のファティマなんて、連中には我慢ならねぇんだろうな」
桜子は何も言わなかった。
否定もしなかった。
「だから、壊される。辱められる。見せしめみたいに扱われる。結果、死ぬことが多い」
ヨーンは、メモを取れなかった。
手が止まっていた。
「そんなの……」
「あるんだよ」
トローラは短く言った。
「嫌な話だがな」
ヨーンは拳を握った。
「人間って、そんなことまで」
「する」
トローラは即答した。
「だから、お前は人間を嫌いになるかもしれない。ゴロツキ男を見れば、全員殴りたくなるかもしれない」
ヨーンは黙る。
「でもな」
トローラは、少し身を乗り出した。
「怒りで殴るだけなら、今日の広場の連中と大差ない。守りたいなら、知れ。仕組みを知れ。薬を知れ。逃げ道を知れ。相手を殺さずに退かせるやり方を知れ」
ヨーンは、ゆっくり頷いた。
「……うん」
「それでもどうにもならない時だけ、剣を抜け」
桜子が、少しだけトローラを見直したような顔をした。
「口は悪いのに、まともなこと言うのね」
「悪党に正論を吐かせるな。口が曲がる」
「もう曲がってるんじゃない?」
「言うじゃねぇか、最年少マイト」
桜子はふんと鼻を鳴らした。
ヨーンは、止まっていた筆をもう一度動かした。
男のファティマは少ない。
幼体時の安定が悪い。
はぐれになった時の生存性が悪い。
一般ゴロツキ男性から嫉妬と暴力を向けられやすい。
怒るだけでは駄目。
知ること。
守る方法を増やすこと。
ヨーンはメモを書き終え、バーシャを見た。
「バーシャ」
「はい」
「僕、まだ何も知らない」
「はい」
「でも、覚える」
バーシャは静かに頷いた。
「それは、とても大切なことです」
桜子は菓子をもう一口食べた。
「じゃあ次。洗濯と保管の話をするわ。これも馬鹿にするとすぐ傷むから」
ヨーンは慌てて新しいページを開いた。
「お願いします」
トローラは椅子にもたれた。
広場の喧騒が少し遠くなる。
剣の稽古ではない。
だが、これも騎士の稽古だった。
ファティマを守るための、もっと地味で、もっと面倒で、もっと逃げてはいけない稽古だった。