/*/ ヴァキ市 レスター騎士スクール 仮設訓練場 /*/
訓練場の床に、白い線が引かれていた。
踏み込み位置。
手刀の軌道。
衝撃波の抜け道。
若い騎士たちは、少し離れた場所で見学している。
中央に立つのは、ヨーン・バインツェル。
その正面に、バーシャ。
バーシャは、いつものように静かだった。
だが、教えている内容は、まったく静かではない。
「仁王剣は、手首の捻りで衝撃波を調整します」
バーシャは、右手を軽く上げた。
実際に打つわけではない。
軌道を示すだけだ。
「腕を振り切ると、真空剣になってしまいます。ですから、しっかり使い分けてください」
ヨーンは真剣な顔で頷く。
「仁王剣は、振り切らない」
「はい。衝撃を置く技です。真空剣は、空間を裂いて抜く技です」
バーシャは床の白線を指した。
「真空波と衝撃波を生むこの二つの技は、手刀の基本です。基本ですが、奥は深いです」
ヨーンは、自分の手を見た。
まだ少年の手。
だが、騎士の力を持った手。
その手が、空気を裂き、衝撃を置く。
想像しただけで、背筋が震えた。
「そして」
バーシャの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「真空剣と仁王剣を混ぜ、巨大なストーム・ウェーブを発生させる技があります」
見学していた訓練生たちが、ざわついた。
レスターも杖を持ったまま目を細める。
「真空斬り――ソニック・ブレードです」
ヨーンの目が見開かれた。
「ソニック・ブレード……」
「最高ランクの騎士剣です。ですが、ヨーンさんなら習得できるでしょう」
「ええっ!」
ヨーンの声が跳ねた。
「僕がソニック・ブレードを!? 本当に!?」
「はい」
バーシャは即答した。
「ただし、ヨーンさん。これらの技に頼ってはいけません」
ヨーンは一瞬、言葉を失った。
「頼っちゃ、いけない?」
「はい」
バーシャは静かに言った。
「戦いにおいて一番大切なことは、相手の攻撃ポイントを見切ることです」
その時、壁際で聞いていたトローラ・ロージンが顔を上げた。
「え?」
彼は少し驚いた顔で、バーシャを見た。
「バーシャ、もうそこまで教えてるの?」
「必要な段階です」
「いや、早くねぇか?」
「ヨーンさんは覚えが速いです。ただし、覚えが速い分、技に寄りかかる危険があります」
トローラは、少しだけ黙った。
それから、にやりと笑う。
「なるほどな」
ヨーンが振り返った。
「トローラ?」
「じゃあ、俺が手本を見せてやる」
トローラは壁から離れ、訓練場の中央へ歩いてきた。
「ヨーン。そこ立ってみろ」
「え?」
「バーシャが言ったろ。ソニック・ブレードに頼っちゃいけないって。それを教えてやる」
ヨーンは目を輝かせた。
「ええ!? トローラ、ソニック・ブレードできるの!?」
トローラは肩をすくめた。
「本当に強い奴は、強いって感じさせないものなんだよ」
「……トローラが言うと、嘘っぽい」
「おい」
レスターが横から言う。
「否定はしづらいな」
「ミハイルまで乗るな」
シューシャが訓練場の端で静かに言った。
「マスター。実演する場合、壁面保護板を展開します」
「頼む」
床と壁の端で、騎士スクールの簡易防護板がせり上がった。
訓練生たちは、さらに後ろへ下がる。
バーシャはヨーンの斜め後ろへ立った。
「ヨーンさん。よく見てください」
「うん」
「技そのものではなく、技が出る前を見てください」
トローラは中央に立った。
構えは雑だった。
いや、雑に見えた。
肩の力は抜けている。
足も自然。
手刀を構えているようにも、ただ立っているようにも見える。
ヨーンは困惑した。
「構えないの?」
「構えてるように見える構えは、もう遅い」
トローラは言った。
「強い技ほど、相手はそこを狙う」
次の瞬間、トローラの右腕が動いた。
速い。
だが、振り切らない。
手首だけが、わずかに捻られる。
空気が潰れた。
ドン、と訓練場の奥で衝撃が鳴る。
防護板が震えた。
「今のが仁王剣だ」
トローラは腕を下ろさない。
そのまま、今度は逆へ抜いた。
音が変わる。
細い。
鋭い。
空気が裂け、床の白線の先で、吊るしてあった薄い訓練布が真っ二つに裂けた。
「真空剣」
バーシャが言った。
「衝撃ではなく、切断です」
ヨーンは、手を握った。
見えた。
いや、見えた気がした。
仁王剣と真空剣。
似ている。
けれど違う。
手首。
肘。
肩。
踏み込み。
力の抜ける方向。
すべてが少しずつ違う。
トローラはヨーンを見た。
「で、混ぜる」
空気が変わった。
トローラの手刀が、今度はゆっくり上がる。
ゆっくりなのに、訓練場の空気が先に逃げ始めるような感覚があった。
バーシャが静かに告げる。
「ヨーンさん。見てください。肩ではありません。足です」
「足?」
「踏み込みの前、重心が半歩沈みます」
トローラの足が床を噛む。
次の瞬間、腕が走った。
真空波と衝撃波が絡み合う。
目に見えないはずのものが、波のように見えた。
ストーム・ウェーブ。
訓練場の奥に置かれた厚い標的板が、中心から歪み、斜めに裂け、背後の防護板へ叩きつけられた。
音が遅れて来た。
ヨーンは、しばらく声を出せなかった。
「……すごい」
その一言だけが出た。
「すごいよ! 今の、すごい!」
「だから駄目なんだよ」
トローラの声が、急に冷えた。
ヨーンは目を瞬かせた。
「駄目?」
「ああ」
トローラは、標的板の残骸を指した。
「派手だ。強い。撃てれば気持ちいい。相手が雑魚なら、それで終わる」
彼はヨーンへ向き直る。
「でもな、強い相手はそこを見てる」
ヨーンの喉が鳴った。
「そこ?」
「お前が技を撃とうとする場所だ」
トローラは床を軽く蹴った。
「さっきバーシャが言ったろ。相手の攻撃ポイントを見切れって。今から、それを身体で覚えろ」
「え?」
「構えろ。今見た真似でいい。撃つつもりで立て」
ヨーンは木剣を置き、手刀で構えた。
さっき見たトローラの動き。
仁王剣。
真空剣。
それを混ぜる。
イメージする。
ストーム・ウェーブ。
胸が熱くなる。
撃てるかもしれない。
いや、少なくとも動きは見えた。
今のトローラの動きは見えた。
あれなら――。
「……いくぞ」
トローラが言った。
次の瞬間、ヨーンには見えた。
トローラの右腕が、ゆっくり横へ動く。
肩が回る。
肘が伸びる。
手首がわずかに返る。
見える。
見える。
今まで稽古で相手をした騎士たちより、ずっと簡単に動きが見える。
大したことない。
これなら避けられる。
楽勝――。
そう思った。
だが、足が動かなかった。
ヨーンは目を見開いた。
おかしい。
見えている。
腕の軌道も、踏み込みも、重心の移動も見えている。
なのに、自分の身体が遅い。
どうした。
動け。
動けよ。
トローラの腕は、まだゆっくり動いている。
それなのに、ヨーンの身体はもっと遅かった。
まるで泥の中に沈んだように、腕も足も反応しない。
違う。
これはトローラが遅いのではない。
自分が遅い。
自分の認識だけが、何かに置き去りにされている。
次の瞬間、トローラの横薙ぎの腕が振り切られた。
巨大なソニック・ブレードが、訓練場の床へ叩きつけられる。
斬撃ではない。
地面そのものを抉る、暴風だった。
床の砂と砕けた石片が、一斉に跳ね上がる。
土砂が散弾のように広がり、ヨーンへ襲いかかった。
「っ!」
ヨーンは腕を上げようとした。
遅い。
全てが遅い。
避ける前に、細かい砂と石片が身体へ叩きつけられる。
視界が散る。
反射的に目を細めた、その瞬間。
トローラが、もう目の前にいた。
すり足。
踏み込んだ音すらない。
ただ、距離が消えていた。
トローラの右手が開かれる。
拳ではない。
無手。
だが、掌の前で空気が潰れた。
衝撃波がヨーンの顔面を叩く。
「がっ……!」
頭が揺れた。
視界が白くなる。
怯んだところへ、トローラの左拳が下から入った。
腹部へのアッパー。
当然、手加減はされている。
だが、ヨーンの身体は簡単に浮いた。
足が床から離れる。
回避できない。
踏ん張れない。
空中では、どんなに力があっても、何もできない。
そこへ、トローラの人差し指が伸びた。
指一本。
真空突き。
音が細く鳴った。
ヨーンの額の前、紙一枚の距離で止まる。
止まったはずなのに、額の皮膚が冷たく震えた。
そこで、訓練は終わった。
ヨーンは尻から床に落ちた。
呼吸が荒い。
身体は傷だらけではない。
大きな怪我もない。
だが、完全に負けていた。
何もできなかった。
見えていたのに。
見えていたはずなのに。
「どうよ」
トローラが、指を下ろした。
「今のがスローハンドだ」
ヨーンは、まだ呼吸を整えられない。
「スロー……ハンド……?」
「ああ」
トローラは、抉れた床と、散った砂を見下ろした。
「星団でも飛び抜けて速い天位クラスの騎士が、極限の速度で動いた時に起きる。視覚や認識が追いつかねぇ。だから逆に、相手の動きがゆっくり見える」
ヨーンは拳を握った。
「ゆっくり……見えた」
「だろうな」
「でも、僕の身体が……動かなかった」
「お前の身体が遅くなったんじゃねぇ」
トローラは短く言った。
「俺が、お前の認識より先に動いてた。お前の目が、後から帳尻を合わせようとして、ゆっくり見せただけだ」
ヨーンは言葉を失った。
見えているのに、間に合わない。
それがどれほど怖いことか、初めて知った。
バーシャが静かに言った。
「ヨーンさん。今の現象は、相手を見切ったのではありません。見切ったと錯覚させられた状態です」
「錯覚……」
「はい。非常に危険です」
トローラは頷いた。
「そしてもう一つ」
彼は、床に刻まれたソニック・ブレードの痕を指した。
「ソニック・ブレードを始めとする騎士技の多くは、見せ技でもある」
ヨーンが顔を上げる。
「見せ技?」
「ただ派手なだけって意味じゃねぇぞ」
トローラは言った。
「初手で意識をそっちに引っ張る。相手に“あの大技を避けなきゃ”と思わせる。そうやって、こっちがやりやすい方向に引きずる」
ヨーンは、さっきの流れを思い返した。
巨大なソニック・ブレード。
地面へ叩きつけられた暴風。
巻き上がる土砂。
自分は、その大技に意識を奪われた。
そして、散弾のような土砂に視界を潰され、すり足の接近を許した。
顔面への衝撃波。
腹部へのアッパー。
空中で逃げ場を失ったところへの真空突き。
ソニック・ブレードは、とどめではなかった。
始まりだった。
目を奪うための一手だった。
「……技そのものじゃなくて」
ヨーンは呟いた。
「技を見せて、動かされた」
「そうだ」
トローラは少しだけ笑った。
「お前、飲み込みはえぇな」
ヨーンは悔しそうに唇を噛んだ。
「何もできなかった」
「最初はそんなもんだ」
「見えたと思ったのに」
「それが一番危ない」
トローラは、ヨーンの前にしゃがんだ。
「見えてると思った時ほど、騎士は死ぬ。特に相手が格上ならな」
バーシャが続ける。
「だから、技に頼ってはいけません。相手の攻撃ポイントを見切ること。相手が何を見せ、何を隠しているかを読むこと。それが重要です」
レスターが杖をつきながら近づいた。
「ソニック・ブレードを撃てることと、ソニック・ブレードで勝てることは違う」
ヨーンは、ゆっくり立ち上がった。
膝が震えている。
腹も痛い。
顔面には、衝撃波の余韻が残っている。
それでも、目は落ちなかった。
「もう一回」
トローラは片眉を上げた。
「今ので懲りなかったのか」
「懲りた」
「じゃあ何で」
「今度は、ゆっくり見えた時に、自分が何を見落としてるのか知りたい」
トローラは、少しだけ口元を上げた。
「いい顔だ」
バーシャが静かに頷く。
「良い判断です。恐怖で止まるのではなく、現象を分析しようとしています」
「バーシャ、お前も容赦ねぇな」
「必要です」
「だろうな」
トローラは立ち上がった。
「じゃあ、二本目だ。ただし、今度はソニック・ブレードそのものを見るな」
ヨーンは頷いた。
「何を見る?」
「俺の足」
トローラは床を軽く踏んだ。
「それと、砂が動く前の空気だ」
ヨーンは息を吸った。
怖い。
さっきの感覚が、まだ身体に残っている。
見えているのに動けない恐怖。
大技に目を奪われ、次の手で殺される感覚。
だが、逃げなかった。
バーシャの声が横から響く。
「ヨーンさん。技ではなく、起点です。腕ではなく、重心。光ではなく、影を見てください」
「うん」
ヨーンは構えた。
トローラが、また力の抜けた姿勢で立つ。
今度は、何も楽勝とは思わなかった。
目の前の悪党は、強い。
強いと感じさせないまま、強い。
だから怖い。
だから、見る。
訓練場に、二度目の緊張が満ちた。
「いくぞ」
トローラの声が落ちる。
ヨーンは、今度こそ腕ではなく、足を見た。