/*/ カステポー ヴァキ市 広場 /*/
人垣ができていた。
石畳の広場。
露店の旗。
夕方の光。
その真ん中で、騎士が二人倒れている。
一人は肩を押さえて呻き、もう一人は腹を抱えて膝をついていた。
立っている騎士は、あと一人。
その手には光剣があった。
「あのガキャ、騎士でもねぇのに……!」
騎士は光剣を握りしめたまま、唾を飛ばして怒鳴った。
「おい! 聞いてんのか!? 何カッコつけてんだよ!」
ヨーン・バインツェルは、バーシャを背に庇って立っていた。
息は荒い。
手は震えている。
だが、退かなかった。
「バーシャは嫌がってる!」
声が広場に響いた。
「お前たちには渡さない! どうせ売り飛ばすことしか考えてないくせに! 三人がかりで酷いことするな!」
人垣がざわついた。
「ひえー、強いね、あの子」
「見たか? 今の手刀」
「がんばれ、ボーズ!」
「そのファティマ、嫌がってんだろ! 騎士なら引けよ!」
声が増えた。
広場の空気が変わる。
ゴロツキ騎士の顔が歪んだ。
腕力ではなく、人目で不利になったと分かったからだ。
「うるせぇ! これは星団法の問題だ! 所有者不明のファティマを保護しようとしただけだ!」
バーシャは、ヨーンの背後で静かに立っていた。
だが、袖を掴む指に力が入っている。
ヨーンはそれを感じた。
「行こう、バーシャ!」
「はい」
「とんずらだ!」
ヨーンがバーシャの手を取ろうとした、その時だった。
人垣が、すっと割れた。
長身の男が入ってきた。
サングラス。
肩に引っかけた外套。
片手には酒瓶。
ふらりと歩いているようで、誰も触れられない。
広場の騒ぎの中心へ、当たり前のように入ってくる。
その男が姿を見せた瞬間、バーシャの顔色が変わった。
白くなる。
さらに白くなる。
唇から、血の気が引いていく。
「バーシャ?」
ヨーンが小さく呼んだ。
バーシャは答えない。
視線は、男から外れなかった。
ゴロツキ騎士は、その変化に気づかなかった。
自分の怒りしか見えていなかった。
「てめぇ!」
光剣を握ったまま、男の肩にわざとぶつかる。
「邪魔だ! どけ!」
男は、何もしなかったように見えた。
本当に、何もしていないように見えた。
ただ、肩が触れた。
それだけだった。
次の瞬間、ゴロツキ騎士が血を吐いた。
「が……」
目を見開く。
口から、赤いものが溢れる。
そのまま、膝から崩れた。
石畳に倒れる。
動かない。
死んだ。
広場が、完全に沈黙した。
ヨーンは息を呑んだ。
何が起きたのか、分からなかった。
だが、分かるものもあった。
あの感覚。
触れたようにしか見えないのに、内部を斬る。
見えない刃。
無手の斬撃。
トローラが一度だけ見せた技。
ヨーンの喉が震えた。
――ストラト・ブレード(七音剣)。
――トローラと同じ!?
男は、倒れた騎士を見下ろしてもいなかった。
興味がない。
人が一人死んだことなど、足元の小石より軽い。
そんな顔で、ゆっくりヨーンを見た。
「へーーー?」
声は、間延びしていた。
明るい。
軽い。
そして、寒い。
「キミかぁーーー? 噂になってる強いガキってのはーー?」
男は、酒瓶を軽く揺らした。
「ねぇ、ボク?」
サングラスの奥で、目が笑っている気がした。
「どんくらいつよいの?」
ヨーンの背筋が凍った。
なんだ。
なんだ、こいつ。
変な奴だ。
足元がふらついているように見える。
酒瓶を持っている。
構えもない。
なのに、どこからでも斬られる気がする。
ヨーンは男の動きを見た。
見える。
いや、見えるのか。
肩の動き。
足の向き。
重心。
見えているようで、どこにも焦点が合わない。
違う。
これは、見えているのではない。
前にトローラと稽古した時と同じだ。
見えていると思わされている。
遅く見える。
ゆっくり見える。
けれど、身体が追いつかない。
スローハンド。
ヨーンは、ようやく理解した。
こいつは強い。
ただの強い騎士ではない。
トローラと同じ側にいる。
いや、もしかすると、それ以上に壊れている。
バーシャが、ヨーンの前へ出ようとした。
「バーシャ!」
ヨーンが止めるより早く、バーシャの気配が変わった。
壊れたファティマ。
そう呼ばれていたはずの彼女が、そこにいなかった。
戦場のファティマがいた。
ヨーンを死なせないためだけに、起動したものがいた。
バーシャの声が、低く響いた。
「ヨーンさんを、死なせはしません」
次の瞬間、バーシャの姿が三つに分かれた。
分身。
いや、そう見えるほどの機動。
三方向から、同時に走る。
空気が裂けた。
ヨーンが見たことのある真空波とは違う。
もっと鋭い。
もっと速い。
バーシャはソニック・ブレードを放ちながら、男へ突っ込んだ。
ヨーンの前に出る。
庇うために。
男は笑った。
すり足。
ただそれだけで、バーシャの三つの影の間をすり抜けた。
すり抜けた、というより、最初からそこにいなかったかのように外れた。
そして、男はヨーンの前にいた。
近い。
近すぎる。
酒の匂いがした。
サングラスの奥の目が、ヨーンを見ている。
その瞬間、バーシャが叫んだ。
「ヨーンさん!」
男の手が動いた。
首。
狙いは、ヨーンの首だった。
ヨーンには見えた。
見えたと思った。
だが、やはり身体は遅い。
避けられない。
なら。
ヨーンは咄嗟に、左腕を上げた。
首と刃の間へ、左腕を差し込む。
音がした。
骨ではない。
肉でもない。
何かが切断される、嫌な音。
左腕が飛んだ。
それでも、ほんの僅かに抵抗が生まれた。
太刀筋が逸れる。
首を通るはずだった線が、肩口をかすめて外れた。
熱い。
遅れて、痛みが来た。
ヨーンの身体が後ろへ倒れる。
視界が揺れる。
左腕がない。
だが、生きている。
バーシャの悲鳴が聞こえた。
「ヨーンさん!」
男は、少しだけ首を傾げた。
「へぇ」
その声には、感心が混じっていた。
「今ので生きるんだ」
バーシャがヨーンの前に着地する。
顔色は、もう青白いを通り越していた。
だが、立っている。
ヨーンの前に立っている。
男の前に。
狂乱の貴公子。
デコース・ワイズメルの前に。
人垣は、もう消えかけていた。
逃げる者。
腰を抜かす者。
祈る者。
誰も、声を出せない。
ヨーンは、薄れる意識の中で、バーシャの背中を見た。
小さな背中。
壊れたファティマと呼ばれた背中。
その背中が、世界で一番遠い壁みたいに見えた。
「バー……シャ……」
「喋らないでください!」
バーシャの声が震えていた。
ヨーンは、まだ右手で石畳を掴もうとした。
立たなければ。
逃げなければ。
だが、身体が動かない。
デコースは、楽しそうに笑った。
「いいねぇ。キミ、面白いよ」
その時、広場の向こうから、怒鳴り声が響いた。
「ヨーン!」
トローラの声だった。
次の瞬間、広場の空気がまた変わった。
悪党で負け犬の騎士が、全速でこちらへ来る。
ヨーンは、そこで意識を手放しかけた。
最後に見えたのは、デコースの笑み。
バーシャの震える背中。
そして、自分の左腕が落ちた石畳だった。
ヨーン・バインツェルは、騎士として初めて、本物の怪物に触れた。
そして、左腕一本と引き換えに、生き残った。