/*/ カステポー ヴァキ市 広場 /*/
トローラ・ロージンは、広場へ踏み込んだ瞬間、すべてを見た。
血溜まり。
倒れたゴロツキ騎士。
石畳に広がる赤。
ヨーン・バインツェルの左腕。
ヨーンの前に立つバーシャ。
そして、酒瓶を片手に笑うデコース・ワイズメル。
トローラの顔から、いつもの軽口が消えた。
「デコース」
デコースは嬉しそうに笑った。
「やあ、トローラ。探してたんだろ?」
トローラは返事をしなかった。
視線は、ヨーンではなくバーシャに向いていた。
バーシャの顔色は蒼白だった。
だが、その目はもう、壊れたファティマ・バーシャのものではなかった。
デコースは、バーシャを見て笑う。
「そこの人形。何考えてんだ貴様!」
声が跳ねた。
「あっぶねーだろぉ! 三分身ソニック・ブレードの衝撃波と一緒に飛び込んできやがって! そーれーはー、ブレイクダウン・タイフォーンじゃねぇかってーの! びっくりしたぁ! ボクちゃんじゃなきゃ死んでたぞ!」
バーシャは答えない。
ヨーンの前から動かない。
デコースは、そこで急に笑いを止めた。
「だーーが、そんなことはどうでもいい」
広場の空気が冷えた。
「問題は、ボクの前に出たってことだ」
バーシャの指先が、わずかに動く。
デコースはそれを見逃さない。
「騎士より速く動けるわけがない。ファティマが、騎士の踏み込みを見てから割り込めるわけがない。つまり、今のはボクの踏み込みを予測しなきゃ絶対できねー芸当だ」
酒瓶の底が、石畳を軽く叩いた。
「カマしやがって、このファティマ」
バーシャは、初めて口を開いた。
「ヨーンさんには、触れさせません」
「へーーー?」
デコーズの顔が、嬉しそうに歪む。
「いいねぇ。壊れてるって話の人形が、随分はっきり喋るじゃない」
バーシャの顔色が、さらに悪くなる。
デコースは、もう見始めている。
バーシャの奥に眠っているものを。
だが、そこでデコースはさらに目を細めた。
「いや、違うな」
ぽつりと呟いた。
「貴様は、あのガキを助けるためだけにやったんじゃない」
バーシャの肩が、わずかに強張った。
デコースは、それを見て笑った。
「このボクがわからないと思ったか!」
声が跳ねる。
「滅多にない最強クラスの騎士との戦いを、その目と肌で憶えさせた。あのガキに、ボクちゃんの間合いを、踏み込みを、殺気を、首を落とされる瞬間を、腕一本で生き残る痛みを、全部刻み込ませやがった」
ヨーンは、薄れる意識の中でその声を聞いていた。
左腕はない。
痛みは遅れて、波のように来る。
それでも、首は繋がっている。
生きている。
「ガキより遅いはずのお前が、なぜ誰よりも速く動けたのか」
デコースは、楽しそうに言った。
「答えは簡単だ。攻撃ポイントの予測」
バーシャは黙っていた。
「高レベル騎士相手で一番重要なのは、速度じゃない。反応でもない。見てから動いた時点で遅い。どこから来るか、どこを殺しに来るか、どの瞬間に踏み込むか、それを先に読むことだ」
デコースの笑みが深くなる。
「貴様はそれを、あのガキに教えた」
バーシャの顔色は蒼白だった。
だが、目だけは逸らさない。
「ヨーンさんは、生きています」
「そうだねぇ」
デコースは楽しそうに頷いた。
「腕一本でね」
トローラは、そこで低く言った。
「デコース。お前、やっちまったな」
デコースが首を傾げる。
「? なにをだぁ?」
「今わかる」
その言葉が終わるより早く、バーシャが一歩前に出た。
ヨーンが、血の中から声を絞る。
「バーシャ……?」
バーシャはヨーンを見なかった。
見れば、止まる。
止まれば、すべてが崩れる。
だから彼女は、デコースだけを見た。
「騎士様……」
声は震えていなかった。
あまりにも静かだった。
「どうか、私をお連れ下さい……マスター」
ヨーンの目が見開かれた。
「!!」
デコースは、一瞬ぽかんとした。
それから、破裂するように笑った。
「ばぁーーかめーーー!!」
酒瓶を掲げ、子供のように身体を揺らす。
「やーだーよーん! 貴様らの魔性にとっ捕まるほど、ボクちゃん落ちぶれちゃいねぇーー!」
バーシャは動かない。
デコースの声だけが、広場に響く。
「そーやって、このガキを生き延びさせようって思ってねぇーか? あ? このボクがわからないと思ったか! ガキに腕一本で生き残る経験をくれてやって、ボクちゃんを教材にして、最後は自分を差し出す!」
デコースの笑みが、急に消えた。
「全て貴様の思惑通りってことだ」
空気が冷えた。
「やりすぎたな」
デコースの手が、見えない角度で動く。
「死ね」
トローラが踏み込もうとした。
だが、その前にバーシャが動いた。
彼女は自分のヘッドコンデンサへ手を伸ばした。
大ぶりな、壊れたファティマ・バーシャのものとして見えていたヘッドコンデンサ。
それを、外す。
かちり、と乾いた音がした。
外装が落ちる。
その下から、一回り小さなヘッドコンデンサが姿を現した。
広場の空気が止まった。
トローラは奥歯を噛んだ。
ヨーンは、痛みも忘れてそれを見ていた。
バーシャではない。
そこに立っていたのは、もうバーシャではなかった。
彼女は名乗った。
「我が名は、エスト」
その声は、広場の石畳に静かに落ちた。
「私と黒きMHが求めるは、ただ一人」
ヘッドコンデンサが淡く光る。
「黒騎士」
デコースの表情が変わった。
笑いではない。
怒りでもない。
飢えた獣が、目の前に最高の獲物を見つけた顔だった。
「その名……」
声が低くなる。
「その銘か……」
エストは静かにデコースを見ていた。
デコースは、ゆっくり笑い始めた。
「それは、お前と、その銘を欲しがる星団中の騎士たちを裏切ったに等しい」
酒瓶が、石畳へ落ちた。
割れなかった。
転がる音だけが響く。
「ボクをマスターと呼ぶ?」
デコースの声が震える。
歓喜で。
「その栄光を地に落とし、死神となるのか?」
サングラスの奥の目が、爛々と光っているように見えた。
「こりゃイカス……」
デコースは両腕を広げた。
「星団中の無能な騎士どもが妬み、悔しがる……ボクちゃん、ワクワクしてきた……」
エストは膝を折らなかった。
祈らなかった。
ただ、騎士を選ぶファティマとして立っていた。
デコースが笑う。
「来い!」
その一言で、登録線が走った。
エストのヘッドコンデンサが光る。
静かに。
決定的に。
「イエス! マスター!」
その声は、もうバーシャのものではなかった。
「ブラック・ナイト!」
ヨーンの顔が歪んだ。
「待って……」
血で濡れた右手が、石畳を掴む。
「待って! バーシャ!」
エストは振り返らない。
「行かないで……」
ヨーンの声が壊れる。
「痛いよ、バーシャ……」
左腕の痛みではなかった。
もちろん、腕も痛い。
焼けるように痛い。
だが、それよりも、胸の奥が裂けていた。
バーシャが遠い。
すぐそこにいるのに、もう届かない。
ヨーンが知っているバーシャは、そこにはいない。
トローラが、ヨーンの横に膝をついた。
声は低かった。
「ヨーン」
「トローラ……バーシャが……」
「エストのシーク・モードは停止した」
ヨーンの目が揺れる。
「何……それ……」
「お前が知ってるバーシャは、眠った」
「嘘だ」
「嘘じゃねぇ」
トローラは、ヨーンの出血を押さえながら言った。
「エストに切り替わった以上、バーシャであった間のことは覚えていない」
ヨーンの呼吸が乱れる。
「そんなの……嫌だ……」
「嫌でもだ」
トローラの声は痛かった。
言う方も痛い声だった。
「お前のバーシャに会いたいなら、デコースを倒せ」
ヨーンの目が、涙と痛みで濡れる。
「デコースを……」
「ああ」
トローラはデコースを見た。
そして、エストを見た。
「デコースを倒して、エストに次の黒騎士として選ばれるくらい強い騎士になれ」
ヨーンは、言葉を失った。
遠すぎる。
あまりにも遠すぎる。
さっきまで、自分はゴロツキ騎士を倒しただけで精一杯だった。
それなのに、今、目の前には本物の怪物がいる。
左腕を落とされ、バーシャを失い、その怪物を倒せと言われている。
トローラは続けた。
「残念だが、それしかない」
ヨーンは、エストを見た。
「バーシャ……」
エストは、デコースの隣へ歩いていく。
一度も振り返らない。
デコースは上機嫌だった。
「いいねぇ。いいねぇ! 黒騎士! ボクちゃんが黒騎士か!」
彼は振り返り、ヨーンを見た。
「坊や」
声が軽い。
「腕、治るといいねぇ」
ヨーンの目に、怒りが灯った。
痛みの奥で。
喪失の奥で。
初めて、明確な炎が灯った。
デコースはそれを見て、楽しそうに笑った。
「その目、悪くないよ」
トローラは、低く言った。
「またな、デコース」
デコースは笑った。
「怖い怖い」
外套を翻す。
エストがその後に続く。
黒騎士を選んだファティマとして。
死神として。
ヨーンのバーシャではなく、エストとして。
広場から二人の姿が消えていく。
ヨーンは叫ぼうとした。
だが、声が出なかった。
痛みと出血で、意識が沈み始めている。
それでも、右手だけは石畳を掴んでいた。
トローラが叫ぶ。
「シューシャ!」
「はい、マスター!」
「止血! ヨーンの左腕は?」
「回収済みです。冷却保存処理に入ります」
「よし。レスターに連絡。医者を呼べ。騎士用だ。普通の外科じゃ追いつかねぇ」
「了解しました」
シューシャが動く。
ヨーンの左腕は、すでに保存ケースへ収められていた。
切断面は綺麗すぎるほど綺麗だった。
デコースの斬撃。
狂乱の貴公子の刃。
ただ失われた腕ではない。
怪物に触れた証だった。
トローラはヨーンのそばへ膝をついた。
「ヨーン、聞こえるか」
ヨーンは、薄く目を開けた。
「バーシャ……」
「喋るな」
「痛い……」
「そりゃ痛ぇだろ。腕が一本落ちてる」
トローラは軽口を叩いた。
だが、その手は素早く出血点を押さえている。
「死ぬなよ。死んだら追えねぇぞ」
その時だった。
「おっさん!」
甲高い声が広場を裂いた。
桜子が、人垣を押しのけて飛び込んできた。
小柄な身体。
十代前半にしか見えない少女。
だが、その顔は完全にマイトの顔だった。
「そんな事は良いから、ヨーン君を運んで!」
トローラが顔を上げる。
「桜子?」
「手は私がくっつけるから、急ぐのよ!」
「急ぐほどの手術でもないだろう」
トローラは、保存ケースへ目をやった。
「切断面は綺麗だ。冷却も間に合ってる。ジョーカーの医療なら――」
「違う!」
桜子が怒鳴った。
「手じゃない!」
トローラの目が細くなる。
桜子はヨーンの顔を見た。
頬が腫れてきている。
唇の色が悪い。
皮膚の下に、嫌な色が広がり始めていた。
「身体の方を早く!」
桜子は膝をつき、ヨーンの腹部に手を当てる。
そして顔を歪めた。
「ストラト・ブレードを受けて内臓が破裂してる!内出血が酷い!」
トローラの表情が変わった。
腕ではない。
首を狙った刃を左腕で逸らした。
だが、衝撃は抜けきっていない。
ストラト・ブレードの余波が、少年の内部を壊している。
トローラはヨーンの顔を見た。
「おお」
いつもの調子で言う。
「顔が腫れてきたな。水死体みたいだぞ」
「笑ってる場合か、おっさん!」
桜子が本気で怒鳴った。
「早く担いで!」
「はいはい」
トローラはヨーンの身体を慎重に抱え上げた。
軽い。
軽すぎる。
ついこの前まで、小さいから絡まれるとふてくされて、食堂で芋を山盛り食っていた少年だ。
その少年が、今は血と内出血で重くなっている。
「シューシャ、腕は持て」
「はい」
「桜子、どこへ運ぶ」
「私が指定する処置室。騎士用の外科設備とファティマ・マイト用の調整器具がある場所。レスターの騎士スクールじゃ足りない」
「分かった」
「走れる?」
「誰に言ってる」
トローラはヨーンを抱え直した。
その瞬間、ヨーンがかすかに目を開けた。
「トローラ……」
「黙ってろ」
「バーシャ……行っちゃった……」
「後で追う」
「腕……」
「くっつく。たぶんな」
桜子が怒る。
「たぶんじゃない! くっつける!」
「だそうだ」
ヨーンの口元が、少しだけ動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
だが、すぐに意識が落ちた。
トローラの顔から、完全に軽口が消える。
「行くぞ」
シューシャが左腕の保存ケースを抱える。
桜子が先導する。
広場の人垣は、自然に割れた。
誰も声をかけない。
誰も止めない。
ヨーン・バインツェルは、左腕を失った。
バーシャも失った。
だが、まだ生きている。
ならば、終わりではない。
トローラは走り出した。
腕の中の少年を揺らさないように。
それでいて、一秒でも早く。
桜子が前を走りながら叫ぶ。
「こっち! 急いで!」
「分かってる!」
「遅い!」
「注文が多いな、最年少マイト!」
「患者を死なせたくないだけよ!」
「そいつは気が合うな!」
カステポーの広場に、血の跡が残る。
デコースは去った。
エストも去った。
だが、ヨーンはまだ死んでいない。
死なせないために、悪党とファティマと最年少マイトが走っていた。